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ようやく辿り着いたファミリーマートで花火のセットを買ったときには、もう日付が変わろうとしていた。しばらく気にしていなかったスマホにはジンとアサコからの着信とメッセージが大量に残っていた。
「連絡しとくべきだったね」
アキも同じだったようで、二人で顔を見合わせて笑った。
それからなんとなく真っ直ぐジンの部屋に戻る気になれなくて、反対方向に歩いた。あの黒い川が近づいてくる。
柵に凭れ掛かっても、水が流れる音が聞こえない。街灯の光が水面にちらちら輝く。誰もいなくて静かで、あたしは目を閉じた。風が髪を乱す。秋の香りがするような気がして、急に泣き出しそうになって、時よ止まれ、と口の中で唱えた。
目を開けても景色は変わらない。黒い川は流れて、隣にはアキがいる。時間は進んでいる。沈黙が却って感情をかき乱した。左手にあるシルバーリングがこの川に沈んでいくところを想像する。そうしなければ一生自由なんて手に入らないような気がした。
「ここって花火禁止かな」
思考に縛りあげられてしまう前に、呟いた。
「んー、ダメそう。家とかマンションとかも近いし」
「ちょっとぐらいならバレなさそうじゃない? 騒がなければさ」
「まあ線香花火ぐらいだったらいけるかな」
「線香花火いいね。やろうよ」
コンビニからここまでずっとアキが持っていたビニール袋を引っ手繰って、花火セットを取り出した。しゃがみ込んで、包装をピリピリと破って線香花火の束を取り出す。同じように座って視線を合わせてきたアキにその束の半分を渡した。
「でも火、無いよ」
アキのことばが静寂に響いた。そして一瞬遅れて、お腹の底から笑いが込み上げてきた。声を上げて笑って、目じりには涙が滲んだ。二人分の笑い声が重なる。アキもあたしも煙草を吸わないから常日頃ライターを持ち歩いているわけじゃない。どうして花火を買うのと合わせてチャッカマンでもライターでもマッチでも買わなかったのだろう。あれだけ花火がやりたくて意地になっていたはずなのに、余りにも自分が間抜け過ぎて笑いが止まらなかった。
「ほんと馬鹿じゃん、あたしたち」
「なんで気づかなかったんだろうね」
一通り笑って、冷静になって自分の持ち物を確認したけれど、デニムのポケットにアイフォンを突っ込んで長財布を手に持ってきただけだ。火を付けられそうなものは、やっぱり持っていない。急に力が抜けて、柵に背を預けて舗装された道に腰を下ろした。このまま朝が来るのを待ちたい気分。誰にも邪魔をされない夜の中にいたい。
アキは何も言わずにあたしがバラバラにした花火をまとめてビニール袋に放り込んだ。この花火に火を付けられるのは、一体いつになるのだろう。アキが隣に腰を下ろす。
このまま眠ってしまえたら最高かもしれない。瞼を下ろした。
「ねえ、マリア」
いつも柔らかなアキの声が、僅かに強張っている。
「ん?」
目を瞑ったまま返事をした。しばらく無音になる。聞き直すべきか迷っていると、アキが息を吸う音だけが聞こえた。
「僕さ、マリアのこと、すきなんだよね」
凭れていた柵が老朽化して突然崩れたみたいだった。身体が真っ逆さまに真っ黒な水流に落ちていくよう。あたしが何も言えずにいる間にもアキのことばは続く。
「マリアにすきなひとって言うか……、付き合ってるひとがいるかもしれないってことは気づいてたけど、でも初めて会ったときから僕はマリアのことがすきで、これだけは伝えておきたかったから。……ごめん
」
どうして、アキ。こんなにも良い人が、あたしのことをすきになってしまったのだろう。消え入りそうなほど弱弱しい声で呟かれた「ごめん」が、鋭さを持って胸を引き裂いていくのを感じた。俯くアキに思わず手を伸ばしかけて、止めた。左手の中指に鈍く光るリング。これさえ捨ててしまえば。だけどこれを捨てたところで、あたしはアキの恋人にはなってあげられないことを誰よりも一番深く理解している。
「……ごめんね、アキ」
絞りだした自分の声が震えていて腹が立った。どうして自分が傷ついたような声が出るのだろう。
「いい、大丈夫だよ、マリア。言いたかっただけだから」
アキはそうやってすべてを自分の落ち度にしようとする。
「違う、違うの。アキ」
こんなに居心地のいい空間をくれる友人を失いたくはなかった。告白を拒絶したからと言って、関係が壊れるとは思わなかったけれど、アキが想いを伝えてくれた、その覚悟に自分も報いなければいけない。アキの男性にしては細い手首を掴んだ。
「あたしの目を見て」
逃げ惑うように揺れた視線が真っ直ぐに向けられる。冷汗が滲む。怖くないわけがない。ことばを奪おうとする恐怖心を振り払うように鋭く息を吐いて、口を開く。
「あたしはアキのこと、凄く大切な友だちだと思ってる。一緒にいて凄く楽だし、今日だってあたしのこんなワガママに付き合ってくれるし。……すきだって言ってくれるのは純粋に嬉しい。だけど告白は……、受けれなくて」
「うん」
腹を括ったアキの目が真っ直ぐすぎて、今度はこっちが逃げたくなる。
「でもそれはアキだからダメっていうわけじゃなくて……、なんて言えばいいのかな」
できるだけ誤魔化しの利く表現を探そうとして、結局見つかったのは最もストレートなことばだけだった。
「あたし、……レズビアンなんだよね」
静寂が濃さを増して、二人の間の空気が重量を持って圧し掛かってくる。勝手に溢れようとする涙を飲み込んだ。「だからアキがダメなんじゃなくて、あたしがダメなの。男の人を、恋愛対象として見れなくて」この人なら受け入れてくれるという自信があるから打ち明けられるけれど、だからこそ拒絶されたときにはきっと立ち直れなくなる。




