02
お互いの呼び方を確認したところで外国人講師が入って来た。CDプレイヤーや本をどさっと机に置いて、上着を脱ぐ。
そして教室をぐるっと見渡した。
「Hi, everyone」
静まり返った室内に陽気な声が響き渡る。すると教室のあちこちから同じようにHiという声が上がる。アキナリは口を開くだけで、音を出すことはできなかった。
「Why are you guys so quiet? Come on, Let’s enjoy the class together」
スラスラと流れて行く英語を聞いて、アキナリはジンと話したことで薄れていた不安が蘇ってくるのを感じた。どうやら担当の男性講師はイギリス人らしい。これまでずっと抑揚の強いアメリカ英語に馴染んできたアキナリにとって平坦なイギリス英語は聞きとりづらく、苦手意識があった。
「First of all, let me introduce myself」
そうして講師の自己紹介が始まった。名前はライアン。四十八歳で奥さんは日本人。娘が二人いて高校生と中学生で、趣味はサーフィンらしい。そしてやっぱり出身はイギリスだった。
「Okay, then…」
なんとなく予想はしていたけれど、次は学生がそれぞれ自己紹介をすることになった。しかもその場ではなくて、わざわざ前まで出て行かなければならないらしい。
初対面の人に話しかけることはできても、大勢の前で話すことは苦手だ。そのうえ英語で話さなければならない。アキナリが得意なのはあくまでもお受験英語で、リーディングとリスニングだけなのだ。
ライアンからみて右側の列の一番席の学生から順番に話すことになった。最初の女の子はえー、と言いながらもホワイトボードの前に立つと流暢な英語で話し始めた。父親の仕事の都合で中学時代をニューヨークで過ごしたらしい。
その次の女の子はオーストラリア人と日本人のハーフだった。
さらに次の男の子は高校時代に一年間バンクーバーに留学していて、年齢が一つ上だ。
噂には聞いていたけれどAクラスのほとんどが帰国子女かハーフだった。
そしてジンが席を立って歩いていく。
クラス中の視線を受けてもジンは顔色一つ変えない。本当に溜息が出そうなほどクールだった。しかも英語の発音も綺麗だ。彼自身は特に留学経験があるわけでも外国の血が混ざっているわけでもないらしいが、それだけ話せるのならアキナリと同類とは言えない。
「Thank you」
クールすぎるセンキューを残して、拍手を浴びながらジンが席に戻ってくる。心なしか胃痛がする。
たかが三十人。されど三十人。足が震える。
「ハ、Hi…I’m Akinari Kitajima. I’m major in British and American studies…」
それだけ言って頭が真っ白になった。痛いほどの沈黙が針どころか刃となって身体中に突き刺さってくる。顔に血が集まってきて、汗が流れる。恥ずかしくてジンのほうを向くことさえできなかった。
「Okay, Akinari. What do you do in your free time? What’s your hobby?」
ライアンが助け船を出してくれる。
「I like reading books and watching movies」
自分の発音の悪さと、話を広げられるほど英語力が無いことにますます恥ずかしさを覚える。だけどセンキューと言って終わらせることもできずに、ただ自分の爪先を見つめて立ちつくすしか無かった。
「I like movies too. What movie have you watched recently?」
教室の後ろのほうから質問が飛んできた。それもまた流れるような発音で、女声だった。
「I watched Butterfly effect」
「Oh that’s my favorite one!」
ライアンもバタフライ・エフェクトを知っていたらしい。あれは名作だと褒めている。アキナリに質問をした女学生もあの切なさが堪らないと言って、視聴したことが無いという学生に対して見るべきだと勧めている。彼女のおかげでその場は最低限以上に盛り上がった。
「Thank you」
たどたどしい自分の話を聞いてくれたクラスメイト全員に対してももちろんそうだが、何より救いの手を差し伸べてくれた彼女に向けて言い、足早に席へと戻った。横を通る時ジンに口だけを動かしておつかれ、と言われた。
そして自己紹介は続いていく。もう一人アキナリと同程度の発音の女の子がいただけで、しかも彼女は話すことをしっかり考えてきていたらしく詰まらずに話せていたし、あとは全員日本語と同じかそれ以上に英語を話せる人ばかりだった。
そして最後の学生の順番が回ってくる。
彼女の背で茶と黒が混ざった自然な色の長い髪が揺れる。ホワイトボードの前でくるりとこちらを向くと、髪を掻きあげて右耳に掛けた。
「Hi, I’m Maria Watarase. Just call me Maria please」
それはさっきアキナリに質問を投げかけた、その声だった。
少し日焼けした肌にぱちりと大きな瞳。身体のラインが出る服装をしているところも、どこか日本人離れして見える。そしてどこからどう見ても美人だった。それも作られたり取り繕ったりしたものではなく、内側から自然に滲みでるような芯の強さを感じさせる美だった。
彼女に後光が差しているように見えた。天使か女神がそこにいるかのようだ。アキナリは目を奪われて離せなかった。
恋愛経験は少ないけれど、それでもこれが一目惚れだということに気づくまで、そう時間は掛からなかった。
マリアはときどき挟まれるライアンのコメントや質問にも自然に答えつつ、最期ははにかみながらセンクスと言って自己紹介を終えた。照れたように笑いながら席に戻っていく。既に仲良くなっていたのか周りの女子や男子からおつかれ、と声を掛けられていた。
これまでの十八年間の人生で、彼女みたいな人には出会ったことが無い。作り物では無い美しさを初めて実感した。