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「ジンくんもマリアちゃんもほんと自由人だよねー」
カフェテリアで買ったスタバのフラペチーノのパクリ商品みたいなカフェラテ・フラッペを飲みながら、アサコとアキナリは選択外国語のスペイン語の宿題に追われていた。
「この前も四人でご飯食べよって約束してたのに、マリアちゃん来なかったし」
「あれはバイト先の人が風邪引いたから急に代わってって頼まれたからだろ」
「そうなんだけどさー」
買ったときはかちかちに凍っていて、吸おうとすると舌が切れそうだったフラッペがほどよく溶け始めている。
「ジンくんもバイト終わりに飲み行ったーとかで、次の日寝坊すること多いし」
「バイトの人と遊ぼうと思うとそうなるもんなー」
五月から地元のレストランでバイトを始めたアキナリが、訳知り顔で言う。アサコだって同じころに書店で働き始めたけれど、バイト仲間と遊びに行こうなんて話がでたことは一度も無い。
「だけど毎回毎回余分にレジュメ取っとく私の身にもなってほしい」
「それはお互いさまじゃん」
アキナリが文法の問題集に目を落としたまま、アイスのソイラテに口を付ける。彼はアサコがジンやマリアの愚痴を言うと、執拗に庇う。アサコの味方をしてくれるどころか意見に同調してくれることは滅多にない。反対に誰かがアサコの陰口を言っているのを聞いたら、アキナリは庇ってくれるのだろうか。それとも友だちを悪く言うのなんてアサコぐらいで、その必要さえ無いのだろうか。
アサコと同じくらい英語が話せないアキナリは、彼なりにものすごく努力をしている。最初こそ恥ずかしそうにしていたものの今では授業中に積極的に発言をするし、わからないことは正直に聞く。そんな彼のことをクラスの英語ペラペラ組はちょっと出来が悪くてだからこそ可愛い弟的存在として温かく受け入れている。練習と称してマリアやジンと英語で話して、文法や発音を直されているところを見たこともある。
自分が劣っている部分を受け入れて、さらけ出すのって凄い。勇気のいることだ。アサコだったら絶対に隠してしまう。
「結構勉強見てもらってるしさ。ジンってあんなんだけどめっちゃ頭いいし。なんかムカつくけど」
「まあね……」
なんとかしてアキナリを自分の元へ取り戻したい。なんだか最近必死になっている。自分と同じレベルだと思っていた彼は、実際はもっともっと優れていた。どんどん遠くへ行ってしまう。
言葉に詰まってスペイン語の問題を解くふりをする。人称によって動詞がどんどん変わっていくからややこしい。しかも不規則系だとまったく予測不可能な形になったりする。全然集中できない。
「あ」
アキナリの短い声に釣られて顔を上げた。スマホを弄りながらその顔には優しい笑みが広がっていて、嫌な予感がした。
「マリアちゃん?」
現在系の文章を過去形に直しながら聞いてみた。
「え、ああ、うん」
生返事にシャーペンを投げたくなる衝動を必死で堪えた。せめてどうしてわかったのか、とかなんとか言ってもいいんじゃない。今アサコがどれだけ真剣で深刻な話をしたって、アキナリはマリアとの文章のやりとりに必死でこっちを見てくれさえしない。
気が付かないとでも思っているのだろうか。それともこれが世に言う女の勘ってやつなのだろうか。最近のアキナリを見ていれば誰だって嫌でも恋をしていることがわかる。例えアサコに恋愛経験が無かったとしても。相手が誰だかって言うことまで心の中が透けて見えるかのようにわかる。
アサコにはこれだけはっきりとアキナリのことがわかるのに、彼はアサコのことを何も知らない。何も気づかない。知ろうとさえ思っていないのかもしれない。
しかもなんでよりによってマリアなのだろう。だってアキナリとマリアとじゃ釣り合わないってことは本人だってわかっているはずなのに。本当にマリアって狡い。アサコが土日を丸々潰して必死に書き上げてもC+しか取れなかったレポートで、彼女は最高評価のA+を取っていた。アキナリはそれを凄いって褒めていたけれど、悔しくはないのだろうか。生まれ育った家庭の環境がたまたま良かっただけだ。アサコだってもしも海外へ赴任するような父親がいて、付いて行ったならこんな風に勉強に追われなくたって英語が話せたはずなのに。醜い嫉妬だとはわかっていても、どうしてもそう思ってしまう瞬間がある。
返信を打ち終えたアキナリがスペイン語のテキストと向き合いながら、ちらちらとスマートフォンを気にしている。はあ、と漏れたため息はわざとらしいくらいに大きな音がした。アキナリにも聞こえてしまったらしくて、マーカーを走らせていた手がぴたりと止まった。やばい。さすがに感じ悪すぎた。何を言われるかと身を固くしたけれど、アキナリは結局何も言わなかった。
それが却って悲しい気持ちにさせた。
胸のなかに黒い染みがじわじわと確実に広がっていく。なんか、こんな自分ってもう嫌だ。そう思ったら今度は目の奥がひりひりし始めた。慌ててテキストを閉じて文房具をそれぞれの場所に投げ込むようにして片づけていく。アキナリが顔を上げるのが気配で分かったけれど、それを目視で確認することはできそうになかった。自分の顔を、今は見られたくない。
「ごめん、今日部活の準備しないかんかったの忘れてた! 行ってくるね! じゃあね!」
それだけ言って返事も待たずにカフェテリアを出る。講義時間中だからかキャンパス内を歩いている人の姿は少ない。静かさに安心すると、堪えていた涙が滲んだ。
胸が痛むというよく聞くフレーズが比喩なんかではなくて、本当にズキズキとした痛みを感じることをアサコは人生で初めて知った。
こんなに苦しいのも生まれて初めてだ。こんなに誰かに嫉妬をすることも。こんなに自分のことを嫌いになることも。全部全部、アキナリのことを好きになって初めて経験することだった。初夏の緑入りの風に湿り気が混じり始めている。結局涙は零れなかった。




