♯2 さすらい錬金術師、旅仲間を増やす。
夜の闇の中、ノアは男の手当てを続けていた。手元を照らすのは小さなオイルランプだけで、月光も森の木々の下までは届かない。男を谷底で拾ってから、もうかれこれ二時間ほどが経っていた。
ノアが再び傷跡の様子を確かめようとした時、男が身をよじった。
「う、うぅ……」
「あ、目が覚めましたか?」
男が呻きながら瞼を開く。ぼんやりと、まだ精気の感じられない瞳で自分の体を眺めている。そしてかすれた声を絞り出した。
「……嬢ちゃんが手当てしてくれたのか」
「はい。かなり危険な状態だったので、強力な薬品を使ってしまったんですが……」
ノアがそう答えると、男は頭の上に疑問符を浮かべた。ノアの発した“薬品”という言葉が気になるのだろう。
「私はノアといいます、こうみえても錬金術師です」
「ああ……俺はエルタランだ。助かったよ」
エルタランと名乗った男性は、礼を言いながら得心したようにうなずいた。
そしてどうやら、自分のことはしっかり覚えているようだ。前後不覚や記憶喪失も考慮していたが、その心配は杞憂だった。
「オレにも感謝しろヨ、小僧。俺がお前にのっかってた岩をどかしテ、ここまで運んでやったんだからナ」
どこからか聞こえた声に、エルタランが辺りを見回す。しかし、彼にはその声の主らしき存在は見つけられなかった。
「ここダ!」
よく見れば、ノアの頭の上でカエルが跳ねていた。カエルの表情など人間に分かるはずもないが、心なし怒りで眼尻が吊り上がっているような気がする。
「カ、カエル?」
「オレの名はナヴィ、おぼえておくんだナ」
ナヴィが尊大な態度で腕を組んだ。器用に後ろ脚だけで立っているカエルの姿は、エルタランには曲芸のように見えた。それを頭に載せているノアも、曲芸師のような恰好をしている。
「ナヴィは錬金生物なんです。気難しいところはあるけど、良い子ですよ」
「錬金術ってのはこんなのも作れるのか……」
こんなのとはなんダ! とナヴィが抗議した。
エルタランが生まれ育った国では魔法の類はあまり奨励されなかった。武道を重んじる国では魔法使いなどむしろ軟弱者の烙印を押され、蔑みの対象だったのだ。だからこうして錬金術師に会うのも、錬金術の産物を見るのも彼にとっては初めてのことだった。
「リューアにいけばきっと驚きますよ。あそこは錬金術の聖地ですから」
ナヴィに向けられるエルタランの好奇の視線を見て、ノアはそう言った。
ノアの言う通り、リューアに行けば錬金生物は珍しいものではない。しかし、ナヴィほどの知性を持つ個体はそう多くはないというのも確かだ。大抵は主の指示にのみ従う傀儡でしかない。
ナヴィを錬成したのはノアの師であり、一人旅をするノアの身を案じた師が預けていてくれているのだ。
「私たちはリューアの出身なのですが、エルタランさんはどこのご出身ですか?」
ノアがカチャカチャとお茶の準備をしながら、エルタランに話しかける。
「シラという……もう滅んだ国さ。あとエルタで良い、エルタランって言いにくいからな」
そう言って、エルタランがむくりと体を起こした。もう動いたりしても平気な程度には回復したようだ。臨死を経験したというのに、肉体はともかく精神的に参ってしまうようなこともないらしい。
「シラ……たしか騎士の国だったナ。滅んだのは十年くらい前だったカ」
ノアはその国のことを知らなかったが、ナヴィは知っているらしい。こうみえてもナヴィはかなり長い年月を生きているのだ。少なくともノアよりはずっと。
「そう、俺はシラの騎士だったんだ。でも国のやり方についていけなくなって騎士団を抜けた。簡単に言えば脱走兵さ」
エルタランは自嘲するように語る。
かつて欲に目がくらんだシラの王は、隣国ローレライの財宝を狙い奇襲を計画した。結果として計画は失敗したのだが、誇りと矜持を重んじる騎士団からの反発は大きく、その後シラは内部から崩壊していった。そんな時代、エルタランは革命軍の一人だったのだ。
革命は成功し、今は革命軍の指導者を筆頭に共和制の国へと生まれ変わった母国だったが、エルタランは新たな国に残る気にはなれなかった。理由はどうあれ、かつて旧体制を支えていた身が残ることが、新生した国にとって良いことだとは思えなかったのだ。
木に寄り掛かるエルタランに、ノアがカップを差し出す。薄緑の液体から湯気が立ち上っていた。
「東国でとれる茶葉から淹れた薬湯です。温まりますし、痛みも引くはずです」
ノアが心配するほど、エルタランは痛みを我慢していたりはしなかったのだが、ありがたく受け取る。少し冷ましてから口に含むと、爽やかな苦みが広がった。エルタランはホッと一息ついて、カップを両手で持つノアに目をやった。
「お嬢ちゃんたちはどこに向かってるんだ?」
「ヴァイスランドという国です。そこに住んでらっしゃる師匠の友人に会いに行くんです」
エルタランの質問にノアが答えた。
老体の師に代わって、師の友人に会いに行く。それがノアの旅の目的だった。友人さんがどんな人かは分からないが、「向こうはお前のことを知っているから、とりあえず行ってこい」というのが師の言葉だった。その言葉を最後に、ノアはアトリエを放り出されて、今ここに至るというわけである。
ノアの言葉を聞いて、エルタランが顔をしかめる。
「かなり遠いな……」
エルタランが見たところ、ノアはまだ十五歳ほど。奇妙なカエルが一緒とはいえ、大陸の北端ヴァイスランドを一人で目指すにはあまりに幼い。
「よし……俺が案内してやる。死にぞこないが役に立つかは分からんが、盾代わりにはなるさ」
「え? 良いんですか?」
エルタランの突然の申し出に、ノアは意外そうに眼をパチクリさせた。
「礼もしたいし、元々あてもなく腐らせてた身だからな」
命を救われた礼にそれぐらいはしようと思う。それにいくら自分が助けた相手とはいえ、素性の知れない男の言葉を信じるような少女だ。このままではきっとトラブルに巻き込まれてしまうだろう。
「ムム……ノアに手を出したら焼き殺すからナ」
ナヴィが物騒なことを言って威嚇している。
ノアとしては、エルタランの申し出は思ってもないものだった。旅の案内をしてもらえることはもちろん、話し相手が増えることも嬉しい。ナヴィとは小さい頃からの友達なので、会話に新鮮味がないのだった。
ナヴィの方もなんだかんだと言いながら異論はなさそうだ。ノアと師匠以外の人間とはまともに会話もしないナヴィが、エルタランにはなぜかなついているし。本人は絶対にそれを認めようとはしないだろうけど。
「それでは……お願いします。エルタさん」
ノアがぺこっと頭を下げる。若草色の帽子の上で、ナヴィが振り落とされそうになっていた。
こうして、二人と一匹の旅が始まったのだった。