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めっちゃ解りやすい! 般若心経

作者: てつお

まえがき

 般若心経の登場人物はくうの教えを語る観自在菩薩(観音菩薩)と教えを聞く舎利子の二人です。実際の舎利子はお釈迦様の十大弟子の中でも智慧第一と言われるほど聡明な方でした。しかし、この小説の中では入門したての初心者という設定で書きました。というのは、一を聞いて十を知るほどの聡明な聞き手に対して、観自在菩薩は多くを語らないと思われるからです。できるだけ懇切丁寧に語るには初心者という設定のほうが良いと考えました。


 くうについて、よく目にする説明は中観派と呼ばれる一派の縁起によるくうの説明です。あらゆるものは相互に依存し合っているから、独立不変の実体は無いという考え方です。この考え方は哲学的にくうを考えています。

 しかし、仏教の真髄はそういう哲学にあるのではなく、瞑想によって三昧と言われる集中が極まり、思考が完全に停止した状態で、無意識的な思考が作り出した「迷いの世界」から抜け出し、真理を直接体験することで悟りに至ることこそが本来の仏教なのです。本作品ではこのような本当の悟りに基づいてくうを説明しております。


 般若心経を理解するにはまず多くの人が当たり前のことだと思っている常識をひとまずわきに置いて、先入観をできるだけなくして読んでいただきたいのです。その常識とは例えば、私には体があって、その体の中に私の心があるとか、そして体の外には現実世界が広がっており、その現実世界には机・椅子・ペンといった物はそれぞれが分離してバラバラの状態で存在しているとか誰でもが当たり前だと思っている事です。

 なぜその常識的な先入観をひとまずわきに置くのか? 悟りとは天地がひっくり返るほどの驚愕の体験だからです。


 観自在菩薩かんじざいぼさつは悟りを開くために何年間も厳しい修行に明け暮れる毎日をすごしていました。そして、ある日ついに五蘊ごうんはみなくうであると悟られたのです。五蘊とは、色・受・想・行・識の五つのことです。色は形あるもの全てを意味しますが、五蘊という文脈で使われる場合は肉体のことです。受・想・行・識は精神活動の四つの段階のことです。つまり、受・想・行・識で精神活動の全てという意味です。そして肉体(色)と精神(受・想・行・識)ということは、つまり五蘊とは人間のことです。そして、くうとは実体ではないという意味です。

 観自在菩薩は、その悟りの智慧をもって多くの人々に一切の苦しみから開放される道を説かれたのでした。



 観自在菩薩がお釈迦様の多くの弟子の中の一人である舎利子しゃりしに話しかけられました。

「舎利子よ、今日は教義の中で一番重要な色即是空しきそくぜくうの真理について話をするのでよく聞きなさい」

「はい」と舎利子は返事をすると襟を正して聞いた。

「あなたは自分を肉体を持った人間だと思っているでしょう?」

「はい」と舎利子は答えた。口には出さなかったが、何でそんなあたりまえの事を言ってるんだろうと不思議に思った。

「しかし、悟りの世界では肉体はくうなのです」と観自在菩薩は言った。

くうとか、そんな難しいこと言われてもさっぱり解りませんよ」と舎利子は言った。

くうとは実体ではないという意味です。つまり、簡単に言うと私って本当はいなかったんだという事なんです」

「私がいないって? 真剣に聞いてるのに冗談とかまじで勘弁して下さいよ!」

「いや、いや、冗談なんかじゃなくて、にわかには信じがたい事かもしれんが、これが真理なのだよ」と観自在菩薩は言うと説明を続けた。「例えばこの絵を見て下さい」と言って観自在菩薩は壁に掛けられた一枚の絵を指で指し示した。そこには川沿いの民家の立ち並ぶ道を多くの人々が往来している活気ある街の様子が描かれた絵があった。その絵を指し示しながら、観自在菩薩は説明を続けた。「この絵は人々や家や道路や川がバラバラに存在しているわけではなくて、これで一つの絵である。そして、実際には人々や家や道路や川が存在しているわけではなく、ただいろが塗ってあるだけなのだ。実は現実の世界でもこれと同じで人や物が別々に存在しているわけではなく、全体で一つの世界であり、本当に目に見えているのはいろだけなのだ。そのいろを人間の思考が人や物であるとでっち上げているのだ」

「そんなバカな! でっち上げているなんて信じられるわけないよ」

「でっち上げという言葉が良くないなら、認識の間違いと言ってもいい。その認識の間違いが起こる原因は言葉にあるのだよ。物に名前を付けることでまわりの世界から切り取って、あたかも世界から独立して物がバラバラに存在するかのような錯覚をしているのだよ」

「あっ、だから言葉をできるだけ使わないように、瞑想して雑念や思考を起こさないように修行するのですね?」

「そのとおり」と観自在菩薩は答えると、更に説明を続けた。「受・想・行・識という四つの精神活動についても色(肉体)と同様にくうなのです。つまり妄想なのです」

「精神活動が妄想だったとは驚きだな。では、今ここで話を聞いたり、話たりしている私は肉体も精神も全て妄想だということですね?」

「そのとおり。舎利子が話を聞いたり、話をしたりしているのではなく、因と縁によって生じている、諸行無常の大いなる変化の一部なのだよ。例えるなら、大きな川の流れの中に出来た小さな泡のようなものが舎利子なのだよ。泡(舎利子)は川(世界)と一体だと解るだろ?」と観自在菩薩は答えた。

「はい、何となく解りかけてきました」

「泡(舎利子)は自分の意思で動いていると思い込んでいるが、実は川の流れに流されているだけなのだ」

「えっー! 私は自分の意思で動いていたのではないのですか?」

「そのとおり。精神活動を行っていたのは偽の自分であるエゴ(自我意識)だったのです。だから瞑想修行によってエゴをなくしていかなければならないのです」

「今まで自分だと思っていたのは偽の自分であるエゴだったんだ! でも、まだ実感がわかないというか、納得できないというか……」と舎利子は言った。

「赤ん坊が生まれた時は全く先入観がないのですが、『あなたは人間だ』『あなたの名前は舎利子だ』とまわりの人間が教えて洗脳するから舎利子という名前の人間だと思い込んでしまうのです」と観自在菩薩は説明した。

「では赤ん坊の方が私より悟りに近いということなのですか?」

「そのとおり」

「赤ん坊は好き勝手に泣いたりしてるのに?」

「好き勝手に泣いているようで、その泣くという行為はエゴから生じた行為ではない故に悟りに近いのだ。つまり赤ん坊の泣くという行為は因と縁によって自然に起こっている現象であり、良いとか悪いとか判断するべきではなくて、ありのままでよいのだ。そして、赤ん坊は一切の認識パターンをもっていないから、ありのままの世界を心に映しているのだ。この鏡のようにありのままを映す心が悟りの心なのだ。ところが舎利子は自分を人間であるとか肉体をもっているとか思い込みの世界を生きているから本来は鏡のようにあるがままを映すはずの心が思い込みの黒雲に覆われてしまって、ありのままが見えなくなっているのだ」

「今まで自分だと思っていたのはエゴだったなんて……。そして、いろいろな思い込みによって心が曇ってしまっていたなんて……。目からうろこが落ちる思いです」と舎利子は言うと更に続けた。「人には誰にでも仏性があると言うのは、赤ん坊の心が仏性なら、あるのが当たり前だったんですね」

「そのとおり」と観自在菩薩は言うと更に続けた。「舎利子よ、この世の全てはくうであるから、現象をありのままに観ると生じたり滅することなく、汚れたり清らかになったりせず、増えたり減ったりすることもありません。そのように見えていたのは全て妄想だったのです。エゴの作りだした認識パターンでものを見るからそう見えていただけなのです」

「そう言われても、頭では何となく解ってきたけど、いまいち実感が伴わないなー」

「例えば、牛は草を食べるときに、草が汚れているから草を洗ってから食べたいと思うでしょうか?」

「牛が草を洗うなんてありえないよ」

「そのとおり、牛にとって草が汚れることはないのです」

「それって牛がわかってないだけじゃないのですか?」

「確かに、人間から見ればそうだ。しかし、牛から見れば毎日食べてるこの草に何も問題はないのだよ」

「あっ、なんとなく解ってきた! 汚れたものと清らかなのもを区別する心、つまりエゴの作りだした認識パターンで草を見るから、草が汚れているように見えていただけなんだ」

「そのとおり」と観自在菩薩は答えると更に説明を続けた。「故に、この世はくうであるので、色(肉体)も、受・想・行・識(精神活動)も実体ではありません。 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根ろっこんは実体ではありません。色・声・香・味・触・法の六境ろっきょうも実体ではありません。つまり、眼界から意識界に至る十八界は全て実体ではないのです」

「目に見える世界から意識の世界まで全て実体ではなかったんだ」と舎利子は観自在菩薩の言葉をまとめて自らに納得させるようにつぶやいた。

「また、無明(真理を知らないという無知)が原因で老死に至る十二因縁もありません」

「十二因縁の教えも無ければ、年老いたり死ぬこともないんだ!」と舎利子は驚いて言った。

「肉体は実体ではないのだから年老いたり、死んだりするはずないのだよ。そのように見えていたのは無明が原因となり十二因縁によりエゴが作り出した妄想だったのだよ。生きているものと生きていないものを分別する心が生死があるかのような幻想を生むのだ」と観自在菩薩は答えると更に説明を続けた。「苦・集・滅・道の四聖諦の真理もありません。また、教えを知ることもなく、悟りを得ることもありません」

「この世界には何も無かったんだ」

「あれも無い、これも無いとは言ったが、何も無いとは言っておらんぞ。この世界には今この瞬間の体験の世界のみがあるのだよ」

「今この瞬間ということは、明日や昨日ではだめということですか?」

「そうだ。明日も昨日も妄想なのだよ。あるのは今だけなのだよ。今、今、今の連続なのだ」

「明日も昨日も妄想だったとは驚いたなー」

「今この瞬間の体験の世界と言っても、舎利子の思っている体験の世界とは違うぞ。舎利子と私を区別する以前の体験の世界、もっと言うと物と空間を区別する以前の全てが一つである体験の世界なのだ」

「物と空間を区別する心が、あたかも物が存在するかのような妄想を生んでいたのですね」

「そのとおり」と観自在菩薩は答えると、舎利子に質問をした。「今しかないのに時間があるという妄想にはまるとどうなるか解るか?」

「…………」舎利子は答えることができなかった。

「本来の私とは今この瞬間を体験している意識(思考と感情を含まない純粋な意識)にすぎないのだ。つまり、本当の私とは意識そのものであるということだ。注意点はここで意識というのは普通の人達が言う自分の心のような意識のことではなく、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった知覚そのものであるということだ。つまり、今舎利子が見ている人や物の世界が全て意識であるということだ。そしてその意識は瞬間的に生じて瞬間的に滅しているのだ。ところが、瞬間的に生じて瞬間的に滅している意識を時間の観念を持つことで前後をつなぎ合わせることであたかも人や物が実在し、あらゆる現象が実際に起きているという妄想が生じるのだ。更に、私というものがあたかも本当に在るかのような妄想も生じるのだ。つまり私がいるという妄想は言葉によって世界から切り取られて体を与えられ、時間によって命を与えられているのだよ。そして、私が実はいなかったという事に気付くと、全てが一つである今この瞬間に体験している世界こそが本来の自己であったと気付く境地に至るのだよ。それを悟りと言うのだよ」

「へー、悟りとはそういう意味だったのか」と舎利子は言うと更に続けた。「でも頭では解ったような気がしても、現実にここに私の体があるのに実体ではないと言われてもやっぱり納得しきれない気持ちもあります」

「それは体験した事実と思い込みをごちゃ混ぜにして認識しているからだ。別の言い方をすると体験した事実の世界に思い込みのベールを被せて認識しているようなものであり、それが原因で迷い(間違ったものの見方)が生じるのだ。では思い込みのベールを取り去って体験の事実だけを見てみよう。今この瞬間に舎利子が実際に体験している内容を全て言ってみよ」

「菩薩がいて、その後ろに壁があって、壁には絵が掛かっています。私が口を動かして話しています。私の話している声が聞こえます。私が立っている足の感覚が有ります。足の裏で床を感じています」

「口と足の感覚はあるようだが、体全体はどこにあるのだ?」

「えっ、そういえばさっきの瞬間には体全体は意識していませんでした」

「意識していなかったのではない。体全体は存在していなかったのだよ。今この瞬間に実際に意識している体験だけが事実なのだよ。意識していなければ、あるはずだという思いがあるだけで、今この瞬間に実際には存在していないのだ。つまり舎利子が体だと思っていたものは、過去に体験した断片的な体の感覚を寄せ集めたり、他人の体を参照したりして作り上げられたイメージであり、そのイメージは妄想なのだ。そして、作り上げられたイメージ通りの体が実際に体験されることはないのだ」

「そうだったんだ! よく釈尊が自分自身が何者なのかありのままによく見つめなさいとおっしゃっていたのはこういうことだったのですね?」

「そのとおり」と観自在菩薩は答えると次の説明に移った。「それと『足の裏で床を感じています』言ったが、その時舎利子は私の顔の方を向いていたから足元を見ていなかったのにどうして床を感じる事ができたのだ?」

「別に見ていなくても感じられるし」

「本当にそうか? 本当は足の裏の感覚だけがあって、頭の中で床を感じていると妄想していたのではないのか?」

「あっ! そう言われるとそんな気がします」

「今は説明の為に『足の裏の感覚』と言ったが、正しくはただ感覚があるだけだ。足と言った時点で足と足でないものを頭で考えて分けているからだ。そして、足の裏の感覚を感じるという体験は分割することはできないんだよ。それを足の裏と床に分割して(架空の)私が足の裏で床を感じていると考えるから妄想が生じるのだよ。それと同じように、私と舎利子が話していると思っているだろうが、話しているという体験も分割出来ないから私も舎利子も存在しないのだ。だから話す意思も無ければ話してもいないのだ。全ての現象は因と縁によってただ自然に起こっている現象なのだ。その自然に起こっている現象をエゴの視点で見ると私と舎利子が話しているように見えるのだよ。このエゴの視点のことを空即是色と言うのだ。そして、今この瞬間にはエゴが思っている体などないのに体験を分割した上に時間という妄想にとらわれるから体があるかのように思い込んでいただけなのだよ。つまり妄想なのだ」

「私の体は無くて、思考や感情もなくて、私はただ体験を観ている純粋な意識だけってことですか?」

「そのとおり。では全ての体験が起こる意識とはどこにあると思うか?」

「やっぱり頭の中かな」

「違う。体は妄想なのだから頭も当然妄想なのだ。では、もう一つ例題を示そう。舎利子よ耳を澄ませてみよ。小鳥の鳴く声が聞こえるだろう?」

「はい、遠くから小鳥の鳴き声が聞こえて来ます」

「その鳴き声は本当に遠くで鳴いているのか?」

「はい、遠くから聞こえて来ます」

「それは以前聞いた鳴き声と比較して音が小さいから遠くだと頭で考えているのではないのか?」

「そうかも」

「体験は今この瞬間にここで舎利子が体験しているのだから、今この瞬間にここでしか起こらないのだ。では、こことはどこだ?」

「わかりません」

「全ての体験は今この瞬間にここで舎利子が体験しているのだから、今この瞬間にここで舎利子が体験している全てが『ここ』なのだ」

「えっ、なんだかよく解らないな」

「つまり、小鳥の鳴き声そのものが『ここ』であり舎利子の意識であり本来の舎利子そのものなのだ」

「えっ、ますますこんがらがって解んないな」

「例えば、夜寝ている間に見る夢も意識だけで出来ているのと同じだと言えば解りやすいか?」

「夢が意識だけで出来てることは当たり前だけど……。てことは現実世界も夢も同じってことですか?」

「そのとおり。つまり、今この瞬間にここで起こっている体験だけが現実世界の全てであり、それは全て舎利子の意識だけで出来ているのだ。だから小鳥の鳴き声とその鳴き声を聞いている舎利子に分割してはいけないのだ。小鳥の鳴き声そのものが本来の舎利子なのだから。そして、今まで自分だと思い込んでいた肉体と心は本来の自己ではなく、妄想の体を持つ架空のエゴであることはもう解っただろう。つまり、分割できない一つの体験があるだけなのだ。そして、その体験には名前は無いのだ。故に分割できない体験を分割して名前を付けることで、体があるとか人間であるとか生きているといった思い込みが生じるのであるが、これらの思い込みは全て妄想なのだ。繰り返すが、体験している純粋な意識こそが本来の自己であり、世界の全てだという事に気付くことが悟りなのだ」

「では菩薩も私の意識だということですか?」

「そのとおり。わしが生きているように見えるだろうが、それは無意識的な思考が作り出した幻なのだ。真理の世界ではあらゆる現象は因と縁によって起こるのだ。因と縁によって起こるべきことだけが起きて、起こるべきでないことは絶対に起こらないのだ。つまり自由意志の否定だ。そして、これを無我と言うのだ」と言うと観自在菩薩は更に続けた。「もう解ったと思うが確認のためにもう一度聞こう。意識とは何だ?」

「今この瞬間に目の前にある世界の全てです」

「そのとおり」と観自在菩薩は答えた。

「この世に実体は何も無く、ただ全体だけがあり、川の流れのように全ての現象は因と縁によって自然に起こっているだけ。その川の流れのような現象を頭で考えて自分と他人に分けたり、生き物と生き物でないものに分けたりして人生劇場みたいなのを妄想してたんですね。つまり私はいないし、生や死さえも生き物と生き物でないものに分ける心が生み出した妄想だったんですね」

「ようやく解ったか。人生劇場ってのはうまいこと言ったな。そうなんだ、私なんかいないし、他の誰かもいないし、起こっている現象は誰のせいでもないんだ。そして、起こっている現象に良いとか悪いとかの価値判断もするべきではないのだ。判断する私がそもそもいないのだから。全てはただありのままに在るだけで何も問題は無かったのだ」

「問題だと考える私がそもそもいないからですね。ただ全体だけがあると解ったら菩薩がおっしゃった『生じたり滅することなく、汚れたり清らかになったりせず、増えたり減ったりすることもありません』という事も解りました。部分は無くて、全体しか無いならそんな事あるはずないし。ただ全体的な現象が起こっているだけなんですね?」

「そのとおり。ありのままに観るとはそういうことであり、それがくうなのだ」と答えると観自在菩薩は更に続けた。「本当にありのままに観るということが解ったか確認の為にもう一問出すとしよう。舎利子よ、歩いているときにまわりを見ると、まわりにある物が後ろに動いて行くように見えるが、それは本当に動いていると思うか?」

「まわりにある物が動くわけないないじゃないですか! 私が動いているから、まわりの物は本当は動いていないけど、あたかも動いているかのように見えるだけに決まってるじゃないですか」

「その『決まってるじゃないですか』がエゴの認識パターンだよ。それと、私はいないのではなかったのか?」

「あっ、そうだった。ということは…………。解りません。解ったつもりになっていたけど、やっぱりまだまだでしたね」

「まわりにある物を物だと思うから動くわけないと思い込んでしまうのだよ」

「そうだった。物は無かったんだ」

「自分のまわりに固定した実体の世界があり、その世界にはいろいろな物があるという固定観念が妄想を生むのだ。ありのままに観るということは物を物と思わず、固定した実体の世界があると思わず、視界の外にも世界が広がっていると思わないことだ」

「えっ、それってまわりの世界の見えている部分の外側は無いってことですか?」

「そのとおり」

「なんか信じられないなー」

「では聞くが、夢の世界に外側は在ると思うか?」

「夢の世界に外側なんかあるはずないですよ」

「そのとおり。夢の世界に外側が無いのと同じように体験の世界にも外側は無いのだ。実際に体験したことだけがこの体験の世界の全てなのだ」

「そう言えば夢の世界も体験の世界も同じようなものでしたね。意識だけしか無いっていうのはそういうことだったんですね」

「そのとおり。夢の世界も体験の世界も同じようなものであり、全ては心の中の出来事なのだ。そして、実際に体験したこと以外は何も無いのだ。見てもいない実在の世界があると妄想するから、動かない固定した世界があるという妄想が生まれるのだよ。つまり、まわりの景色が動くのを見るという体験をしたのなら、それは実際に動いているのだよ。それがありのままに観るということであり、諸行は無常であるということなのだ」

「諸行無常ってそういう意味だったんだ!」

「よく誤解されているが、本当はそういう意味なのだ。そして、その動いている全体は『今この瞬間』という生き物が生きているということなのだ。そして、『今この瞬間』という生き物こそが本来の自己なのだ」

「なるほど。そういうことだったのか。つまり私が生きているのではなくて、『今この瞬間』という全体が生きているのですね」

「そのとおり」

「本当は『今この瞬間』という全体が変化しているだけなのに、私が動いていると錯覚するから架空の私が存在するという妄想が生じるのですね」

「そのとおり。かなり解ってきたようだな。私は動いていないし、そもそも存在さえしていない。瞬間瞬間に変化する『今この瞬間』があるだけなんだ」と言うと観自在菩薩は更に続けた。「向こうの方に大勢の修行者達がいて、普通の人には大勢の命があるように見える。しかし、実際には大勢の命があるわけではなく、たった一つの命があるだけなのだ。それが『今この瞬間』が生きているということであり、この命こそが仏の命なのだ」

「えっ! そうだったんだ! 大勢が生きているわけではなかったんだ!」

「にわかには信じがたいかもしれんが、これが真理なのだ。大勢の人達がいるように見えるが、人や生き物という概念は思考が作り出した妄想であり、本当はただ『今この瞬間』があるだけなのだ。勘違いしてはいけないのは、大勢の人達は『今この瞬間』の部分ではないという事だ。『今この瞬間』は分割する事はできないのだ。何故なら、『今この瞬間』こそが本当の舎利子そのものだから。そして、あらゆる現象は因と縁によって生じては滅していくように見えるが、自分が全体そのものであると悟ったら、生じることも滅することもないのだ」

「自分は肉体ではなくて、全体であるなら、滅するなんてことあるはずないですね」

「そのとおり。これからは歩く瞑想をする場合は、ありのままに観て、躍動する仏の命をしっかりと感じながら行うように。そうしていれば、いずれ本当に仏の命を感じられるようになるであろう」

「はい。わかりました」

「ありのままに観るということが本当にできるようになると、それはもう悟りの境地であり、心に障りがなく、心に障りがないから、恐怖を感じず、一切の迷いから離れて、安らぎの極致へと至るのだよ。三世の仏さまも、このような智慧によって、完全なる悟りを開かれたのだ」

「私なんて元からいなかったんだから、元々一切の苦しみなんてあるはずが無かったんだ! もう、くよくよ悩んだりする必要はないんだ! ってことですね!」と舎利子は言った。

「そのとおり。悟りの世界に行けば、死ぬ事もないし、苦しい事もない。もう何も悩む必要もないのだよ。しかし、悟りの世界に行くにはこのようなことを頭で理解しても何にもならないのだ。実際に『くう』や『無我』を体験する必要があるのだ。この体験のことを見性体験というのだ。見性体験に至る方法は坐禅や瞑想をするのが一番だ。心の中のおしゃべりをやめて心をからっぽにするのがいいということだよ。今まで嫌な事や心配事が黒雲のように心に湧いて出て曇り空のようだった心が、心をからっぽにすると、からっと晴れ渡って雲一つない青空のようにすがすがしい心になれるのだよ。では最後に、心をからっぽにして、苦しみのない悟りの世界に行く為の瞑想用の呪文を教えよう」と観自在菩薩は言うと続けて呪文を唱えた。「ギャーテイ ギャーテイ ハーラーギャーテイ ハラソウギャーテイ ボージーソワカー」

「その呪文はどういう意味なのですか?」と舎利子は尋ねた。

「呪文の意味を考えるとエゴが働くので、意味を考えてはいけないのだよ。ただ、この上なくありがたい呪文だと思い、意味を考えずに無心になって繰り返し繰り返し唱えなさい。言葉の意味よりも、無心に唱えることが重要なのです」

 舎利子は合掌して精神統一すると早速呪文を唱えだした。「ギャーテイ ギャーテイ ハーラーギャーテイ ハラソウギャーテイ ボージーソワカー」

 舎利子は何度も何度も唱えているうちに、自分が唱えているという感覚がなくなるほど没頭して──つまり無心(無我の境地)になって──唱えました。


あとがき

 目の前の世界が夢のような意識の世界だなんてそんなばかな! って思われたことでしょう。ここでちょっと考えてみて下さい。脳は直接外を見ることが出来ますか? 答えは、脳は視神経から伝達された電気信号を元に3Dの映像を再現しています。これは夜寝ているときに見ている夢と同じ原理で見ているのです。もちろん夢は視神経からの電気信号ではなく、潜在意識を材料に作られるのですが、見る原理としては同じなのです。つまり、般若心経で語られている真理とは、自分の外に広がっていると思っていた世界は本当は心の中にあって、その世界の中の私は本当の自己ではなかったんだという事なのです。つまり、夢の世界の登場人物が実体であるはずないですから、私は本当はいないのです。ここでいう私とは普段私たちが自分だと思っているエゴの事であり、本来の自己(ほとけ)のことではありません。この私がいないということを仏教用語で諸法無我といいます。禅宗では無我の境地とも言います。

 でも、あまりにも常識とかけ離れすぎていて、にわかには信じ難いですよね。そういう方は「くう」を体験してみるのが一番です。そうです、「くう」は体験できるのです。「くう」を体験する方法については拙作小説「色即是空」(http://ncode.syosetu.com/n8482cu/)で詳しく書いています。


般若心経の全文及び読み方、現代語訳(直訳)は下記URLをご参照下さい。

http://zen468.blog.fc2.com/blog-entry-40.html


坐禅や瞑想を実際にやってみたい方は下記URLをご参照下さい。

http://zen468.blog.fc2.com/blog-entry-32.html



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[良い点] 「認識の間違いが起こる原因は言葉にあるのだよ。物に名前を付けることでまわりの世界から切り取って、あたかも世界から独立して物がバラバラに存在するかのような錯覚をしているのだよ」この言葉は賛同…
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