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ビデオライフ  作者: 佐久間ユウ
第2部 三上伸幸
9/10

9

 翌日も太陽は猛威をふるい、高い空からぎらついた陽射しを乱反射させている。午後1時、ぼくは制汗スプレーをたっぷりかけ、アパートを出た。部室で集まりがあり、今後の撮影について話し合う予定だ。

 昨日、撮影したデータが復旧できるかどうかはわからない。撮りなおす場合の時間を考え、オープニング以外のシーンは夏休み中に撮り終えたかった。大学が始まったら、すぐ編集作業にかかる。撮影スケジュールを急ピッチで進めないと、10月の学園祭に間に合わない恐れがあった。

 午後1時半にサークルが始まった。帰省している部員もいて、部室に集まったのは十数名だった。そのなかには相原柚子(あいはらゆず)とその友人の原田里美(はらださとみ)もいる。部長の高山美玲(たかやまみれい)の姿はなかった。

「まずはこの暑いさなか、集まってくれた有志に感謝する」

 赤星さんのスピーチから始まった。

「熱病の発生、そしてわが部のカメラの破損、と災難があいついだ。学園祭までに新作は間に合うのか、と憂慮する部員も多いだろう。だが、おれは決してあきらめない。かならずやクランクアップさせると誓おう」

 いったん言葉をきり、赤星さんが部員を見渡す。

「そこでこのデジタルビデオカメラだ」

 と、いつも大切にいじっているカメラを取り出した。その表面をなでる赤星さんの指は、まるで自分の子供を慈しむかのようだ。先輩に子供はいないけれど。

「このカメラは、おれの命のつぎに大事なものだと言ってもいい。それを新作の撮影のため、わが映研に寄贈しようと思う」

 おおっ、と部員から声があがった。

「主に自主制作映画の撮影に使用するが、個人的に貸し出しも行なう。ただし、粗末に扱ったり、傷をつけたり、壊したりしたら、それなりの制裁をくわえる。そのつもりでいてくれ」

 言うと、赤星さんの細い目が座った。

 そんな脅しをかけられたら、誰も借りられないよ――。赤星さんの制裁を想像して、ぼくはぞっとなった。

 今日は映画のラストシーンを撮る、と赤星さんが続けた。頼み込んだかいがあり、午後3時から30分だけ、大学病院の病室をロケに使わせてもらえることになったという。3時まで時間があるので、みんなで台本の最終チェックを行なった。ぼくは柚子と読み合わせをした。

 『見えない天使』のラストシーンはこうなる。

 ヒロインは青年との仲がうまくいき、幸せな日々を送っていた。そんなある日、青年の目の手術が決まった。成功すれば視力が回復する。自分の顔を見られたらきっと嫌われる、いままでの幸せが失われる、とヒロインは悩む。そんな辛い思いをするくらいなら別れたほうがいい、と思いつめるんだ。そこでアメリカに留学するという嘘の手紙を青年に渡すことにした。

 そんな病室での場面だ。

 青年の目に巻かれた包帯が、看護師の手で解かれる。彼がぼんやりと病室を見まわし、その目がヒロインをとらえる。彼女はマスクをしていて、風邪をひいているふりで、声をごまかそうとするんだ。

 自分はヒロインの友人だと嘘をつき、

『あなたへ、手紙を託されました』と封筒を差し出す。

 けれど青年は手紙ではなく、ヒロインの手をつかむ。封筒が床に落ちる。青年は彼女の手をぎゅっと握りながら、

『この手だ。この手がぼくを助けてくれた。想像どおり素敵な人でよかった』

 と言い、二人は結ばれてハッピーエンドになる。

「――休憩しようか」

 ラストまで読みあげると、ぼくは台本を置いた。

 机を挟んで、柚子が、ふう、と大きく息を吐く。

「ずいぶん気を張っていたんだね。ジュースをおごるよ。なにがいい」

 柚子の注文を聞き、ぼくは立ち上がった。一階のホールに降り、自販機の並ぶコーナーに向かう。そのとき携帯電話が鳴った。

「もしもし。あっ」

 千夏――福島奈央の母親からだ。

「わたし、もうどうしたらいいんだか。娘が脳死したかもしれないんです」

「――えっ」

 その言葉に、ぼくは気が遠くなりそうになった。

 ぼくは撮影をほっぽりだし、すぐに千夏の眠る病院に向かった。千夏が脳死したかもしれないなんて、信じたくなかった。

 駅に向かう途中で何度も携帯が鳴ったけど、発信者を見て無視した。ぼくの頭は千夏の心配でいっぱいで、気持ちに余裕なんてなかった。眠り姫は、いずれ目を覚ます。けれど死んだら二度と目覚めはしないんだ。

 電話であれこれ言われるのは面倒なので、赤星さんにはメールで事情を伝えた。先輩からは、わかった、とだけ返信があった。

 電車を乗り継いで、病院に着いたのは午後の6時過ぎだった。

 あたりはまだ明るく、病棟の窓に照明が点きはじめていた。ぼくは入院棟専用の出入口からなかに入った。係員に尋ねると、千夏は別の病室に移ったという。ぼくはそちらに急いだ。

 病室に飛び込むと、室内にいた人の注目が集まった。

 医師と看護師、そして千夏――福島奈央の母親がベッドの近くに立っている。母親はずいぶん面やつれして見えた。担当医の表情は厳しかった。

 千夏は、冬に見舞いに来たときと変わらず、安らかな寝顔をしていた。彼女の周囲だけ時間が止まっていたかのようだ。前と違うのは人工呼吸器をつけられていることだ。つまり自発呼吸はしていない――。

「娘さんの状態は」

 ぼくは口を開いた。

 その問いが引き金になり、母親が両手で顔をおおい、わっと泣きだした。それを看護師の女性がなだめにかかる。ぼくは担当医に質問を向けたが、医師は首を振るだけでなにも教えてくれなかった。

 担当医と看護師が病室を出ていった。ぼくと千夏とその母親の三人きりになった。ようやく落ち着いたらしく、母親が娘の病状を話してくれた。

 千夏は脳死のあらゆる症状を示していて、限りなくそれに近い状態だという。脳死とは脳機能の不可逆的停止で、もとに戻る可能性がないということだ。人工呼吸器を外せば心肺は停止し、それから十数分で、脳機能は停止する。器械によって、かろうじて生かされている状態だ。

「それで脳死と決まったんですか」

 ぼくは訊き、母親が首を振った。

 それを決めるには脳死判定をする必要があるという。その判定は、遺体から臓器を提供する場合にしか行なわれない。提供者が法的に死んでいると証明されなければ、臓器の摘出ができないからだ。だから臨床的に脳死らしいというのが、いまの千夏の状態なんだそうだ。

 これだけ詳しく知っているんだから、きっと担当医からすでに臓器提供の話を持ちかけられていたのだろう。けれど、

「娘さんの臓器を提供するなんて……」

 ぼくはそれ以上、言葉を続けられなかった。

 母親が目を伏せ、静かに首を振った。

 とりあえずは千夏の死が決定される事態はなくなり、ぼくは安堵した。千夏の死を決めるのは、その家族だ。家族が認めなければ千夏は生きつづける。眠り姫が長い眠りについても、ぼくは彼女を起こすと約束した。死んでしまったら、その約束を果たせないじゃないか。

 ぼくはベッドに近づき、千夏の上にかがんだ。人工呼吸器ごしに彼女の寝顔がのぞく。本当に寝ているみたいで、脳死したなんて思えなかった。前髪がまぶたにかかっている。ぼくはそっと髪をはらう。指にふれた千夏の額は、ほんのり暖かかった。ぼくの胸に熱いものがこみあげてきた。

「三上」

 名前を呼ばれて振り返った。

 赤星さんがドア口に立っていた。その背後に映研の部員もいるようだ。ちらりと柚子の顔がのぞく。ぼくがメールを送ったあと、みんなで駆けつけたのだろう。

 赤星さんが病室に入ってきた。

「で、どうなんだ。福島奈央の様子は?」

「彼女は……」

 魔女の呪いで深い眠りについているけど、いつかは……。

 千夏が、きわめて脳死に近い状態にある事実が重くのしかかる。それを言葉にしたら、本当に彼女の死が決まってしまうようで恐ろしい。

 ――そんなの、ぼくの口から言えるわけないじゃないか。

 思わず嗚咽がもれた。膝の力が抜けていく。ぼくは顔をそむけると、たまらずベッドの上に突っ伏し、ふとんに顔を押しつけた。目頭が熱く、とめどもなく涙があふれてくる。

 ぼくの様子から悟ったのだろう、先輩は問いを繰り返さなかった。

 午後7時になり、面会時間は終了した。ぼくらは一団となって駅に向かった。10数名いるわりに帰りの道は静かだった。

 大学の最寄り駅に向かう電車は、いまの時間にしては混んでいた。同じ車両のあちこちにばらけて乗車した。あるものはつり革につかまり、あるものは空いた座席に座る。ぼくはドアによりかかっていた。

 電車が停まってドアが開いた。何人かが降り、新しい客が乗車する。会社帰りの人、部活を終えた学生、荷物を背負う登山者、様々な人が同じ電車で揺れていた。みんなそれぞれの人生を営んでいる。ぼくは大学生活を続け、明日からはまた撮影が始まる。千夏をひとり、遠く、あの病室に残して――。

 電車が大きく揺れた。

 ぼくはとっさに鉄棒につかまった。隣の席に柚子が座っていた。二人の目は合い、そしてまた離れる。どちらからも話しかけはしなかった。

 一年前のぼくらに戻ったようだ。サークルの例会や飲み会で、ふと気づくと、柚子がそばにいた。携帯をいじったり、友人と話したりしていたから、ぼくは彼女に声をかけなかった。柚子からも話しかけてこなかった。

 このまま一年前の二人に戻ってしまうのだろうか?

 ぼくをもとの世界に引きずり込もうと、千夏が腕を伸ばしてきたようだ。そしてぼくは、その手にからめとられる。

 つぎのサークルの集まりには早めに行った。部長の高山美玲はいまだ出てこないので、赤星さんがその役を務めていた。ぼくは退部届を出した。

「もっと落ち着いてからにしろ」

 と赤星さんは受け取ってくれなかった。

 ぼくは新作映画の主演を断った。とても演技に身が入りそうにない。赤星さんは、そうか、とだけ言った。とくに引きとめられなかったので、気は楽だった。

 映画の撮影はほとんど進んでいない。ぼくが主演をつとめなくたって影響はないはずだ。壊れたビデオカメラは、復旧業者に渡したままだ。そのメモリーが回復するかどうかなんて、もうどうでもよかった。

「きょうはそれだけを言いにきたんです」

 ぼくは出入口に向かった。退部届は部長の美玲に渡せばいい。

「待て」

 赤星さんが呼び止めた。

 鞄からDVDのケースを取り出し、ぼくに放った。ケースの表面にラベルが貼られ、極太のマジックで『眠り姫』と書かれてあった。

「コピーしてくれって、頼まれていたからな」

 ぶっきらぼうに赤星さんが言う。

 覚えていてくれたんだ、とぼくは意外だった。

 赤星さんに礼を言い、ぼくは部室をあとにした。千夏があんな状態になったから、それでコピーしてくれたのだろうか。まるで千夏の形見じゃないか――。そう思うと、DVDを持つ指に力がこもった。

 校舎の外に出るスロープで、柚子とすれ違った。

「三上さん、どうしたんですか」

「ちょっとトイレ」

 ぼくは、ケースを持っているほうの手を上げようとして、すぐ別の手を振った。柚子の視線がケースへと動く。ぼくは足早にスロープを降りた。トイレは2階の廊下にもある。柚子は少し不思議そうな表情をしていた。

 グラウンドの金網の前で、吹奏楽部が演奏している。学園祭に向けて練習しているのだろう。映研では新作映画を発表する予定だ。ぼくには関係ないけれど。

「三上さん」

 キャンパスの並木道を歩いていると、柚子の声が追いかけてきた。

 ぼくはかまわず歩きつづける。足を速めも、止めもしなかった。ぼくに言いたいことがあるなら、聞くつもりだ。その答えは決まっていた。

「三上さん、待ってください」

 柚子が追いついた。

「赤星先輩から聞きました。映画の出演を断ったそうですね。どうしてですか」

 柚子が荒い息のまま訊いた。

「退部するつもりなんだ。もう撮影には参加しない」

「だから、どうしてですか。いまは新作を撮りおえるのに、せいいっぱいだって。今年こそは学園祭に出品するんだって。そう言ってたじゃないですか」

「そのつもりはないよ。気持ちが変わったんだ」

 そっけなく言い、ぼくは踵を返した。

「まだ理由を答えていませんよ」

 柚子がぼくの腕をつかんだ。

 その弾みでDVDのケースが足もとに転がった。ラベルの『眠り姫』があらわになる。柚子は、はっと息をのんだようだ。ぼくの腕をつかんだまま、じっと視線を落としている。

「福島奈央が、その理由なんですね」

 柚子が静かに言った。まるでぼくをとがめるようだ。

「蒼井千夏だ。放っておいてくれよ。どうして、ぼくにかまうんだ」

 強く言い、柚子の手を振り払った。

「だって好きだから。わたし、一年生のころからずっと三上先輩が好きだったんですよ。そんな先輩が、あの映画の世界に閉じこもるのが、見ていられなかった。もっとわたしのほうを見て欲しかった。現実の福島先輩は、もう戻ってこないんですよ」

 もうやめてくれ。それ以上は言わないでくれ。

 ぼくは耳をふさぎたかった。

「彼女が蒼井千夏に戻る可能性はないんです。でも、わたしの三上さんに対する気持ちに、少しでも可能性があるなら……」

「あるもんか」

 ぼくは声を叩きつけた。

 柚子の唇がわななき、瞳がうるみだす。

「柚子の気持ちを受け入れる可能性なんて、あるもんか。これからもずっと、永遠にだ。だから、もうぼくにはかまわないでくれ」

 乱暴に言うと、ぼくはDVDを拾って歩きだした。

 一度も振り返らなかった。柚子が泣いているのがわかっていたから。柚子がこらえる涙を、ぼくの背中は痛いほど感じていた。

 ぼくは足早にキャンパスから――現実世界から立ち去った。



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