7
「千夏」
ぼくは彼女の両肩をつかんで呼びかけた。反応はない。うつろに目を見開いたまま、なすがままに揺れている。どうしたらいい? どこかに呼び出しボタンがあるのでは? ぼくはベッドの周囲を見まわした。
千夏の頭が枕に沈み、目が閉じられていく。
「寝たら、だめだ。起きるんだ。誰か――」
病室のドアが開き、四十代半ばの女性が現われた。
「彼女が目を覚ましました。目を開けたんです。看護師を呼んでください」
ぼくは強く訴えた。
千夏は再び眠りについていた。一度起きたのが嘘だったみたいに、最初の姿勢のまま眠りつづけている。ぼくは落胆した。
肩に手がかかった。さっきの女性が、悲しげな表情で立っていた。私服姿で腕にコートをかけている。誰かの見舞いに来たのだろう。
「本当なんです。彼女は目を開いて、ぼくを見たんです」
ぼくの話を信じたのかどうか、女性が静かにうなずく。
「三上さんですね。映画で共演した話は、娘から何度も聞きました」
「娘から――」
千夏――福島奈央のお母さんだ、と気づいた。その役を演じた女性と、映画のなかでやりとりをしていたけど、本当の母親に会うのは初めてだ。
どうしてぼくが三上だとわかったのだろう、と不思議に思い、ナースステーションで記帳したのを思い出した。それを見たのだろう。
「三上さんが来てくれて、娘は嬉しかったんですよ」
母親がそう言ってくれた。
千夏がぼくを見たという言葉を受け入れ、気遣ってくれたんだとわかった。
「娘さんのお見舞いになかなか来れなくて、すみませんでした」
言って、ぼくは頭を下げた。
「いいんですよ。わざわざ来ていただいて、本当にありがとうございます」
千夏の入院する病院は都内にある。大学の下宿先からより、ぼくの実家からのほうがずっと交通の便がいい。けれど、それが帰省するまで見舞いに来なかった理由じゃない。ぼくは自分が信じたくない現実から逃げていた。ぼくに笑い、話しかけてくれる、映像のなかの千夏にしがみついていたんだ。
柚子は、あのDVDがあるからぼくは立ち直れないと言った。
きっと、そうなんだろう。
『眠り姫』は、まだ赤星さんから録画してもらっていない。帰省する前に先輩のアパートに寄って頼んでみようかと迷った。けれどやめた。千夏の現在の状態をどう受け止めたらいいか、決めかねていたんだ。こうして彼女と会ったいまも、その答えは出ていなかった。
母親から、千夏の詳しい容態を聞いた。
外部の刺激に対する反応はまったくないけど、自発的な呼吸や循環、消化の機能は残っているという。いわゆる植物状態だ。自分から動いたり、相手に応答したりはしない。目を開けることならあるそうだ。
ぼくは病室に入ってはじめて、ほかの患者に目を向けた。
確かに寝ている人ばかりじゃない。薄目を開け、口を半開きにする中年がいる。かっと目を見開き、天井を凝視する老人がいる。おばさんが目を開けたまま、いびきをかいている。起きてはいても表情はない。千夏のように目を閉じているほうが、まだよかった。
「娘さんになにか変化があったら連絡してください」
ぼくは母親と電話番号を交換し、病室をあとにした。
病院を訪れたときは明るかったのに、外はすっかり暗くなっていた。ドライブウェイの先で、外灯に照らされた道路を車が走り抜けていく。街路樹の黒いシルエットの上で、星がひとつ輝いている。いままで止まっていた時間が、いっきに動きはじめたように感じた。
ぼくは、まだ受け入れられずにいる現実から顔をそむけると、足早に立ち去った。
新学期が始まり、今年初めての映画研究会の例会に、ぼくは出席した。新入部員は五人いて、部室でひとかたまりになっていた。入学式の日に、キャンパスの大通りにサークルのテントを張り、ぼくらで勧誘した新入生だ。
部員の自己紹介が始まった。まずは新しい部長になった高山美玲が挨拶をした。そのあと三回生、二回生と続いた。最後に新入部員が、名前と所属学部、学科、好きな映画や俳優などを語った。
部室の片隅に、デジタルビデオカメラをいじる赤星さんの姿があった。新入部員は彼の存在が気になるようで、ちらちらと目をやっていた。
赤星さんは、今年もオブザーバーとしてサークルに在籍することになった。髪は短くちぢれ、あから顔をして、目は細く、鼻は丸い。映研の主としての貫録は充分で、部員から密かに赤鬼先輩と呼ばれていた。
ひと通り紹介がすむと、やおら赤星さんが立ち上がった。
「今年もこうして、わがT大映画研究会で活動できる栄誉を、おれは嬉しく思う。部員のなかには、今年こそ卒業してこのサークルから去るのではと憂える者もいたらしいが、心配は無用だ。おれがいつづけるのはわが映研を愛するがゆえであり、この愛が枯れぬかぎり、おれはおまえたちを見守りつづけよう」
赤星さんが、細い目をほころばせた。
試験期間前に訪問したときの錯乱状態とはうってかわり、すがすがしい弁舌だった。魔物がおちたような爽やかな笑顔を浮かべていた。
「さっそくだが、今年の自主制作映画の台本があがった」
赤星さんが、カバンからコピー本の束を取り出して机に置いた。
去年の『眠り姫』を書いたのも赤星さんだった。その映画は、千夏役だった部員が昏睡から目覚めるまでは一般公開しない取り決めだ。けれど、いつまでも新作を発表しないわけにはいかなかった。
「台本をコピーしてきた。次回までに目を通しておいてくれ」
言うと、またビデオカメラをいじりだした。
部長の高山美玲が一冊を手に取る。それにならい、部員たちが一部ずつ取って、自分の席に戻っていく。ぼくも一冊もらった。
それはB5の紙にプリントされた20ページほどの冊子だった。タイトルは『見えない天使』で、赤星さんは相変わらずだなと思った。
『眠り姫』は封印され、今年の学園祭では新しい作品が上映される。ぼくは千夏との思い出を振り切り、新たな映画活動がはじめられるだろうか。病室で眠りつづける千夏を見たいま、あまり自信はなかった。
新学期が始まっても、赤星さんから『眠り姫』を録画してもらっていない。去年、ぼくがダビングしてもらいに訪れたことは忘れているのだろう。ぼくからも催促はしていない。そのDVDが自分にとって本当に必要なのかどうか、決めあぐねていた。
ふと視線を感じた。
振り返ると柚子と目が合った。彼女はすぐ台本に目を落とした。
つぎの例会で、台本の感想を言ったり、意見の交換をしたりした。昨夜、台本を読んで、『眠り姫』のときに出された批判が、『見えない天使』では改善されているのに気づいた。赤星さんはああ見えて、ちゃんと部員の意見を聞き入れているんだとわかり、感心した。
『眠り姫』は時間や場面の展開がめまぐるしかったけど、『見えない天使』では四分の三にシーンが減らされていた。それにキャンパス内のシーンが多すぎたのが、新作では森林公園など野外ロケが多く盛り込まれていた。
その内容はというと、容姿に自信がもてないヒロインと、目が不自由な青年とのラブストーリーだった。その青年から、外見より心の美しさが大切だと教えられ、新たな人生を歩みはじめるというものだ。大甘なロマンスで、変えない部分は変えないんだと、それはそれで感心した。
ヒロイン役には、部長の高山美玲が候補にあがった。
『眠り姫』では、千夏の書いた台本を取り下げるよう主張した、大西春香を演じていた。美玲の品のある容貌はカメラ映えし、そういう点では妥当な判断だとは思う。けれど、役どころは容姿に自信のない女性だ。もちろん撮影では、やぼったい眼鏡をかけたり、服装をしたりするのだろう。
ぼくと同じ違和感は赤星さんも抱いたようで、
「カメラテストをしてからにしよう」と決定を先送りした。
目の不自由な青年役には、法学部三年生の二階堂悠人が候補にあがった。『眠り姫』で甲斐晴彦を演じた学生で、カメラ写りのいい端正な顔立ちをしている。ちゃらい外見とはうらはらに真面目な男で、学部内トップの成績をほこり、将来は国際弁護士を目指しているそうだ。
「いや、ぼくは……」と悠人が難色を示した。
夏休みにアメリカでホームステイする予定だから今年は辞退したいという。
「他に誰か、いないのか」
赤星さんが、部室内を見まわした。
ぼくはそっと手を上げた。ぼくを知る部員は意外だったらしい。『眠り姫』のときは、主人公のイメージにぴったりだからと、赤星さんに半ば強制された。新作では自分から立候補した。
千夏との思い出がつまった『眠り姫』の世界から立ち直るには、新しい映画の制作に参加するしかない。一晩中、考えたうえでの結論だった。
「わかった。三上と高山とでカメラテストをしてみよう」
赤星さんが決定した。
「あの……」おずおずと柚子が立ち上がった。
「なにか? 相原さん」
司会をつとめていた美玲が、きつい声で尋ねた。
いえ、柚子は気勢をなくしたらしく、そのまま座った。隣でクラスメイトの里美が、なにやら話しかける。柚子は首を振っていた。
カメラテストに選ばれたシーンは、目の不自由な青年が、自分を手助けするヒロインにお礼を言う場面だ。本番では大学病院の中庭を借りて撮る予定だけど、仮に北校舎の出入口を使用することになった。
三段ある階段の降り口で、ぼくは美玲とともにスタンバイした。黒いサングラスをかけ、白い杖の代わりに傘を持っている。そんなぼくを気遣い、美玲がかたわらに寄り添っていた。
赤星さんがメガホンをとり、三回生がビデオカメラを構えている。残りの部員が見守るなか、赤星監督の合図で撮影が始まった。
ヒロインは自分の容姿に自信がない。青年は視覚に障害があるため、彼女はストレスを感じずに交際できた。そんなある日の場面だ。
ぼくはおぼつかない足取りで階段を降りはじめた。その腕を美玲がとり、歩行を助けている。最後の段でぼくはつまずき、二人はバランスを崩して地面に倒れる。美玲が先に立ち上がり、ぼくを助け起こした。
「ごめんなさい。わたしの注意が足りなかったんです」
「とんでもない。あなたの親切にはいつも感謝しています。あなたの顔が見れたらいいのに。ぼくの想像ではきっと素敵な女性なんだろうな」
言うと、美玲が顔をおおってあとずさる。
ぼくは、とまどった顔つきで立ち尽くす。
「わたし、あなたが想像するような素敵な女性ではありません」
「カット」
赤星監督の声が飛んだ。
ぼくは演技を止め、赤星さんのほうを向いた。
「高山さん。もっと自信なさそうにできないかな。ヒロインは自分の容貌を恥じている。きみの表情はいかにも、どうだ、という印象を与えるんだ」
美玲はうなずくものの、納得していない様子だ。
撮影が再開された。同じところでカットの声がかかる。撮り直しても、美玲の演技は変わらなかった。監督の苛立ちが伝わってきた。
撮影を中断し、カメラの液晶ディスプレイで再生してみた。部員の多くが違和感をもったようだ。美玲の表情は自信にあふれている。みにくいアヒルの子が、本当は美しい白鳥だと承知している、そんな演技だ。
撮り直しのたびに美玲は苛立ち、傲慢さが顔に表れてくるようだ。赤星監督が難しい顔つきで考え込んでいる。
その日の撮影は、そこから進まず終了した。みんなは部室に戻りはじめた。柚子があくびをかみころしている。なんだか眠そうだ。
「三上先輩、熱い視線を向けていますね」
声をかけてきたのは原田里美だった。
「そういうわけじゃない。寝不足なのかと思ったんだ」
「今年に入ってから、夜、眠れないそうです。授業中、よく居眠りしています。病院で睡眠薬を処方してもらっていると話してました」
――不眠に悩まされているんだ。
柚子は余計な心配をして、くよくよ考え込むところがある。布団に入っても、いろんな想いが浮かんでくるのだろう。千夏は昏睡状態で眠りつづけ、反対に柚子は眠れない。なんだか不思議な暗合だ。
部室に戻っても、赤星さんはビデオカメラのディスプレイをにらんでいる。美玲のキャスティングが、やはり気に入らないのだろう。ぼくの配役に関しては、とくに文句はないようだ。
周囲で部員がおしゃべりしている。美玲が、むっとした表情で机にひじをつく。窓ぎわの席で、柚子と里美が話し合う。
「高山さんをヒロインから外そうと思う」
ついに赤星監督が宣言した。
「どうしてですか。わたしのどこがいけないんです」
美玲がすぐさま食ってかかった。
「あんたのルックスが悪い。いや、顔はいい。だが、今回の映画のヒロインを演じるには、どうしてもリアリティに欠けてしまう」
監督の言い分はわかる。いくら美玲に野暮な扮装をさせても、役者の誰より見栄えがする。確かにミスキャストだ。だからといって――。
「わたしがいけないなら、ブスをキャスティングすればいいでしょ」
美玲がものすごい剣幕で言う。
そのとおりにすればいい、という理屈にはならないはずだ。
赤星監督が部室を見渡した。女子部員の誰もが視線をそらした。ヒロインだとはいえ、ブスという理由で選ばれたくないのだろう。
「わたしがやります」
柚子が立候補した。
部員の注目が集まった。美玲が鋭い目つきを向ける。赤星監督が細い目をこらしている。候補者の値踏みをしているのだろう。
柚子は地味な顔立ちで、スタイルもぱっとしない。じっくり観察すれば、いいところはある。美玲と比較すると、カメラ映えしないのは間違いない。もちろんヒロインの役柄は、自分の容姿に自信をもてない女性だ。
「おれのイメージにぴったりだ」
赤星監督がうなずいた。
「やったあ」
柚子が歓声をあげ、里美とともに喜び合う。
ヒロインの設定を考えると、どうなんだろう? 『眠り姫』で、引きこもりのイメージにぴったりだと赤星さんに配役され、ぼくは複雑な気持ちになった。柚子は心から喜んでいる様子だ。
「三上さん。いっしょに頑張りましょう」
ぼくに近づいて、柚子が言った。
がたりと椅子が音を立てた。美玲がぷいっと顔をそむけ、部室を出ていく。そのうしろ姿に、ぼくは胸騒ぎを感じた。
『眠り姫』では、千夏を電話で追い込んで過眠症におちいらせる役を演じた。その配役の勝気さは、美玲のもともとの性格でもある。なにか起こるのではないか、そんな不安がわきあがった。
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