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ビデオライフ  作者: 佐久間ユウ
第2部 三上伸幸
6/10

 ぼくは、二ヵ月ぶりに映画研究会に出てみる気になった。自主制作映画の『眠り姫』は公開されずに終わり、新作を撮影する予定はない。サークルに参加しても映画の話をするだけで、ぼくの足はいつしか遠ざかっていた。千夏がいない、という事実を意識するのが耐えられなかった。

 大学の門をくぐったのは午後六時過ぎだった。キャンパスの並木道では、ケヤキが茶色く色づき、その向こうを陸上部がランニングする。ぼくは枯れ葉を踏んで、部室のある北校舎に向かった。

 二階の廊下に出ると、部員の笑い声が聞こえてきた。その陽気さは、ぼくの気分とはそぐわない。一瞬、ためらい、そうっと教室をのぞいた。

 十数人の男女が集まり、なにか映画の話をしている。知らないキャラクターが出てくるので、ぼくが閉じこもっている間に封切られた新作なのだろう。とくにサークル活動をするでもなく、おしゃべりしているようだ。赤星さんの姿はなく、試験にそなえて下宿で猛勉強しているに違いない。

「あれ」と文学部二年の高山美玲(たかやまみれい)が気づいた。まわりの部員もこちらを見た。

 まるで幽霊を見たような視線が集中する。ぼくはこのところひとりで過ごしてきたので、みんなから注目されると気おくれがする。その場で引き返したくなった。

「やっと出てきたのね。二ヵ月も授業を休んで大丈夫なの。ノート貸そうか。でも部活に顔を出してくれて安心した。先週、封切られたばかりの映画なんだけど、三上くんは見たかな?」

 美玲が近づいてくる。

「いや」と言い、ぼくは教室を見まわした。誰かを探していると察したらしく、

「どうしたのよ。赤星さんなら、試験がやばくて、当分、出られないんだって」

相原柚子(あいはらゆず)は、今日はいないの?」

 ぼくは訊いた。

「あの子は来ていないわ。ちょっと原田さん」

 美玲が一年生の原田里美(はらださとみ)に、

「相原さんとクラスが同じだったよね。彼女はどうしたの」

「授業にも出ていませんでした」

 里美は柚子とメールのやりとりをしたという。どこか高いところに登ったせいで、北風にあたって風邪をひき、下宿で寝込んでいるそうだ。

 いったいどこに登ったのかしらね、と美玲はあきれたようだ。

「で、相原さんになんの用?」

 こんどはぼくに言葉を投げた。

「柚子に大切なDVDをぬす……、貸していて、それを返してもらいたいんだ」

 ふうん、と美玲は興味がないらしい。

「今日はそれだけだから」

 なかにいた三回生が口を開きかけたので、ぼくはすぐさま退散した。部室のドア口に立っただけで、結局、一歩も入らずに終わった。

 ぼくがサークルに出なくなった理由は千夏にあると、誰もが察しているはずなのに、誰も彼女の名前を出さなかった。ぼくに気をつかったのだろうか? 千夏は昏睡状態なんだと、誰かの口から聞かされるのはごめんだ。だから自分から先に逃げ出した。ぼくは千夏との思い出のなかで生きよう、そう決めたんだから――。

 けれど肝心のDVDがない。ぼくはそれを柚子から取り返すため、サークルに出た。柚子は風邪で休んでいるという。彼女を訪問しようにも自宅がわからない。部室に戻って誰かに柚子の住まいを訊こう、と踵を返す。

 原田里美と鉢合わせた。里美は携帯電話をいじっていた。互いにハッと顔を見合わせる。彼女は柚子のクラスメイトだと、美玲が言っていた。

「柚子の住んでいるとこ、知らないかな。見舞いがてら家を訪ねて、柚子に貸したDVDを返してもらえるかどうか確かめたいんだ」

 ぼくは用件を説明した。

 里美の顔に、ははあ、という表情が浮かぶ。

「電話してみますね」と携帯を操作しだした。

「あっ、柚子。三上先輩がどうしてもDVDを返してもらいたいって。だめ? アフリカ睡眠病にかかっていて、こじらせると昏睡状態におちいり、ついには死にいたる。感染力が強く、電話感染するほどだから会えない」

 里美が電話を切り、

「だ、そうです」

「アフリカ睡眠病って、なんの話?」

 怪訝に思い、ぼくは尋ねた。

「映画の話じゃないですか。柚子の家なら教えてあげます」

 柚子の住むアパートは、赤茶色の外壁の三階建てだった。柚子の部屋だという二階の角は、窓に赤いカーテンがかかっている。ぼくらはエレベーターで二階に上がり、廊下の一番奥のドアまで行った。

 里美がチャイムを押す。何度押しても応答はなかった。

「三上先輩が来たよ。わざわざDVDを返してもらいに来たんだよ」

 里美がドアを何度も叩く。

「薬を飲んで寝ているんじゃないかな。それで気づかないんだよ。よくなればサークルに出てくる。きょうのところは出直そう」

 ぼくはあきらめ、里美とアパートを出た。

「ところで、なんのDVDですか」と里美が尋ねた。

 ぼくが『眠り姫』だと答えると、

「それなら赤星先輩にコピーしてもらえばいいのに」

 里美が不思議そうな顔をする。

「そうなんだけど、赤星さんは試験で絶体絶命だそうだから」

 言うと、ふうん、と里美がぼくを見つめる。

「気を落とさず、がんばれよ。三上先輩」

 里美がため口になり、ぼくの背中を、どん、と叩いて、歩きだした。

 じゃあね、と手を振る里美を見送りながら、彼女はぼくが訪問した目的を勘違いしているんじゃないか、といぶかった。

 その足でぼくは赤星さんの下宿に向かった。

 柚子のアパートからは、土手沿いの道を進み、川を渡って10分ほどの距離だ。ぼくは橋のたもとで立ち止まった。

 二ヵ月前、この川は増水し、千夏を吞み込んだ――。

 ふいに感情がこみあげ、ぼくは駆け足で橋を渡りきった。

 コンビニで録画用のDVDを買い、赤星さんの住むアパートを訪れた。古びた灰色の建物の外階段を上がり、部屋の前に立つ。ブザーを押してしばらくすると、ドアホンから、いらついた声が答えた。

 ぼくは『眠り姫』をコピーさせて欲しい、と来意を告げた。

「おまえは地獄からおれをさらいに来た悪魔か。おれの卒業をさまたげようたって、そうはいかないぞ。悪魔の囁きになど耳を貸すものか」

 だめだ。試験に追いつめられるあまり、錯乱している。

「人間の三上です。お忙しいところ、まことに恐縮ですが……」

「黙れ。邪悪な悪魔め。そっこく退散しろ」

 ドアの横の窓が細目に開き、白いものが浴びせかけられる。ぼくは慌てて退いた。ぴしゃりと窓が閉じられた。肩にかかった粒をなめると、塩だ。

 試験が終わるまでは無理そうだ――。

 ぼくは退散を決めた。

 それにしても赤星さんは何年、大学に在籍しているんだろう。映画を愛するあまり、うちの映研にとどまっている、という噂をОBから聞いた。いまだに卒業する気があるのを知って、ぼくは驚きだった。

 赤星さんのアパートをあとにして帰途についた。

 いまは11月で期間外試験が一部始まっている。赤星さんの試験がいくつあるかは知らないけど、12月の試験期間が終わるまでは待てない。やはり柚子からDVDを返してもらおう。数日中には授業に出てくるはずだ。

 橋にさしかかって、ぼくはハッとした。

 柚子らしき女性が欄干にひじをついて川を見つめている。

 ぼくはそっと近づいた。白いニット帽とマフラーを身につけ、赤紫のダウンジャケットにジーンズだった。間違いなく柚子だ。川面を凝視していて、ぼくに気づいた様子はなかった。

 柚子がダウンのポケットから、透明の四角いケースを取り出す。あれは『眠り姫』のディスクでは? それを欄干の平らな面に置き、考え込みはじめた。

 ふいに柚子がケースを取り上げ、腕を振り上げる。

 ぼくは、はっとした。川に投げ捨てるつもりじゃないか――。

 柚子は思いとどまったらしい。欄干の上にケースを載せると、手すりから離れた。踵を返し、歩きだそうとして、そばに迫ったぼくに気づいた。

「そのDVDはぼくの……」

「これがあるから、三上さんは立ち直れないの」

 ――やっぱり、『眠り姫』のDVDだ。

 柚子が欄干に向いた。ぼくはすぐさま飛びかかり、柚子の身体を押さえこむ。手すりの上には、ディスクが乗ったままだ。

 とっさにぼくは片手を伸ばす。すると柚子がぼくの腕をすり抜けた。

「そのDVDに触らないで」

 強く言い、柚子が向かい側の欄干に向かう。その手すりにまたがり、乗り越えだした。ぼくには彼女の行動が理解できない。

「なにをするつもりだ」

「三上さんがそのDVDを拾ったら、川に飛び込みます」

 欄干の川側のへりに立ち、手すりに両手をかけて、柚子が言った。

 ぼくは、ちらりとディスクに目をやり、柚子のほうへ歩きだす。

「来ないで」

 柚子が声を荒げ、ぼくは足を止めた。

「それは捨ててしまったほうがいいの。そうじゃないと、いつまでも『眠り姫』の世界から抜け出せないよ。だから自分の手でそのディスクを川に投げて。そうしなかったら、ここから飛び降りるから」

「やめろ」

 たまらず突進した。その勢いに驚いたのか、柚子が身体をこわばらせる。ぼくの手が欄干にかかったとたん、柚子が足をすべらした。とっさに彼女の両腕をつかむ。ぼくは手すりから上体を乗り出し、柚子を両手にぶら下げた。彼女を支えるのが精一杯で、身動きできなくなった。

 ぼくを見上げる柚子が、目を見開いている。その下を流れる川に、千夏はのまれたんだ。柚子のダウンジャケットが風をはらんでふくらんだ。

 ぼくは渾身の力をこめる。腕が震えてくる。もう限界だ。

「兄さん。おれの助けが必要か」

 背後から声がした。とても振り返ってはいられない。

「見ればわかるじゃないか。誰でもいいから手伝ってよ」

 柚子のダウンジャケットの袖がずるりと動いた。上着が脱げだしたんだ。それを止めようにも、もう指に力が入らない。

「あっ」と2本の太い腕が伸びてきて、柚子の片手をつかんだ。

 ぼくの脇に、男が大きな身体を寄せている。

「おれは彼女の左手を支える。あんたは右手を頼む」

 うなずいて、ぼくは両手で柚子の腕をつかんだ。

「兄さん。残っている力をふりしぼれ。せーの、で引き上げるぞ」

 大男の合図で、ぼくはありったけの力をこめた。するとそれを上回る力で、柚子の身体が持ち上がり、その上半身が欄干の上にのる。その勢いで、ぼくはうしろに転がり、尻もちをついた。

 手すりにしがみついた柚子が、荒い息をついている。再び飛び降りようとする気配はなかった。ぼくはひとまずは安堵した。

 近くにオートバイが停められていて、助っ人はバイク便の配達人らしい。その男とぼくに支えられ、柚子は橋の上に降り立った。

「なにがあったか知らないが、彼女を追いつめるんじゃないぞ」

 男は片目をつぶって見せると、バイクにまたがり、じゃあ、と走り去った。その姿を、ぼくは柚子と見送った。ぼくのほうが叱られた。

「冗談でも自殺のまねごとなんて、もう二度とするな」

 ぼくは柚子をきつく諭した。

「ごめんなさい」

 柚子がうつむいて言った。

 ニット帽が脱げ、前髪が目をおおい、うつむいた表情は暗かった。声には反省がうかがえた。柚子がどれだけ本気で川に飛び込もうとしたかは判断できない。けれど、ぼくのためにした行為なのはわかった。

「もういいよ。アパートに戻ろう。風邪をこじらせるよ」

 カラスの鳴き声がした。

 向かい側の欄干で、カラスが『眠り姫』の入ったケースをつついている。あっ、とぼくは思わず足を踏み出した。ケースが縁からこぼれ、視界から消える。カラスが一声鳴いて飛び立った。

「ごめんなさい」

 柚子が繰り返す。

「いいよ」と言うと、柚子の表情が少し和んだようだ。

 『眠り姫』のDVDだったら、また赤星さんにコピーしてもらえばいいんだから――。

 ぼくは柚子を自宅に送って、自分のアパートに戻った。

 柚子がぼくを心配し、立ち直らせようとしてくれたのは理解できる。その行動は極端に走る傾向がありそうだ。柚子がそこまでしたのはなぜだろう。さすがに勘の鈍いぼくも、彼女の想いに気づきはじめた。けれど今のままでは、とてもその気持ちに答えられない。まずは現実を直視することだ。冬休みに入ったら千夏を見舞いに行こう、そう決めた。

 年末は実家に帰省し、家族とともに年を越した。

 期末試験はさんざんの成績だったけど、進級はできそうだ。三年生になるとゼミが始まる。卒論のテーマはシェークスピアにする予定だ。三年のいまごろ、ぼくは就職活動を始めているだろう。卒業すればもう社会人だ。ぼくの人生はいやおうなしに進行していく。

 千夏との思い出を置き去りにして――。

 千夏の眠る関東南病院を訪れたのは、二月に入った昼下がりだった。

 ぼくは薄く積もった雪を踏み、ドライブウェイに沿って進んだ。総合病院のエントランスを抜けて待合室に入る。受付で、蒼井千夏さんの病室はどこですか? と尋ねそうになり、はっと口ごもった。彼女の本名は福島奈央だった。今でもぼくは、その名前に馴染めずにいた。

 四階の神経科の病室を教えられた。ぼくはエレベーターに乗った。千夏の見舞いに来るのはこれが初めてだ。彼女が昏睡状態だという事実から、ぼくはずっと目をそらしてきた。千夏は四か月間ずっと眠りつづけている。映画ではぼくのキスで目覚めるけど、実際にそんなまねをする気はなかった。

 ナースセンターで記帳すると、廊下を進んで、福島奈央と記されたドアの前に立った。その名前に、やはり現実感はわいてこなかった。

 そこは六人部屋で左右に三台ずつベッドが並び、似たような状態の患者が横たわっていた。しんと静まり返り、誰も身動きひとつしない。ぼくがドアを開けたとたん、一時停止ボタンが押されたみたいだ。

 一番奥の窓際に、福島奈央――蒼井千夏の姿を認めた。

 窓を通した光が、斜めに千夏の顔を横切っている。とてもきれいな寝姿だった。彼女が自発的に動くことはないから、床ずれを起こさないように、看護師が定期的に寝相を変えているのだろう。

「千夏」

 ぼくは上からかがみこんだ。

 彼女は微動だにせず、その表情も変わらない。

 映画では、キスをためらう主人公の手に千夏の指が伸びてくる。ぼくはうながされるように彼女と唇を合わせる。その瞳が開き、ありがとう――そう言って、ぼくに微笑みかける。それが映画のラストシーンだ。

 千夏のまつ毛が震え、ぼくは、はっとなった。

 ためらいがちに彼女の目蓋が開き、瞳が向けられる。眼差しはぼんやりと、ぼくを認識している様子はない。けれど目は開いていた。

 眠り姫が、長い眠りから目覚めたんだ。



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