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ビデオライフ  作者: 佐久間ユウ
第2部 三上伸幸
5/10

 ぼく、三上伸幸(みかみのぶゆき)は英米文学科の二年生で、映画では主役の上条真一を演じていた。蒼井千夏を演じたのは、仏文二年生の福島奈央(ふくしまなお)だ。

 『眠り姫』の脚本、監督は、工学科四年生の赤星太一が担当した。留年を繰り返す赤星さんは、映研の主のような存在だ。在籍何年なのかは現役部員の誰も知らなかった。

 ロケは、撮影の利便性を考え、大学の校舎やキャンパス、部員のアパートを中心に行なった。授業風景など大学生活の様子は、大学の許可を得て、実際のものを撮らせてもらった。登場人物の設定は映研部員のまま、ふだんの部活の雰囲気を生かして撮影したので、リアリティのある映像になったと思う。

 ぼくが映研に入ったのは二年生になったときで、友人の紹介だった。主人公のイメージにぴったりだからと、赤星さんに抜擢された。そのへんの経緯は、実は映画のなかの設定と同じなんだ。

 映研の部室で千夏と出会ったぼくは、彼女に心を惹かれた。ぼくが映画出演を決めたのも、千夏と共演できるというのが大きかった。

 彼女の本名は福島奈央だけど、入部してすぐ撮影が始まり、ぼくは上条真一になり、彼女は蒼井千夏になった。だから本名を呼び合った時間より役名でいるほうが長く、ぼくにとって彼女は蒼井千夏なんだ。

 映画のなかで真一は、最初は千夏に反発を感じながらも、しだいに恋におちていく。その心理の過程は、ぼくは――というナレーションを多用して語られる。それは、ぼくの千夏に対する気持ちともシンクロしていた。いつしか演技は本気の想いへと変わった。

 実際の福島奈央は、映画の千夏のように過眠症にはかかっていない。ぼくのキスで目覚めることもない。現実はハッピーエンドにはならなかった。

 『眠り姫』が上映される予定だった学園祭の3日前、大学の近くを流れる川は台風の影響で増水していた。川に落ちた子供を助けようとして、千夏は急流にのまれた。目撃者の通報で救助隊が駆けつけ、幸い子供の命は助かったけれど、千夏は昏睡状態におちいった。

 千夏を演じた部員が危険な状態にあるのに上映するのはどうかと、『眠り姫』は学園祭で披露されずに終わった。

 それから二ヵ月近くがたつ。季節は秋から冬へと移り変わろうとしているけど、千夏の時間は止まったまま、彼女はいまも病院で眠りつづけている。

 ぼくの日常から千夏がいなくなって初めて、彼女がかけがえのない存在だったと痛切に感じた。千夏を残して世界が動いているのが耐えられなかった。だからぼくは、彼女との思い出のなかにとどまろうと決めた。

 赤星さんから『眠り姫』をDVDに録画してもらい、その世界に閉じこもった。ぼくは大学に行かず、1日の多くをテレビの前で過ごした。まるで配役の上条真一が、ぼくに乗り移ったようだ。

 いまも自分のアパートで『眠り姫』を見ていた。映画のなかでは、相変わらず千夏がぼくに笑いかけてくれる。予測できない事態も、どんでんがえしもない。安心して見ていられる。ぼくの心が壊れることだってないんだ。

 リモコンのボタンを押し、画面が早戻しされる。

 カーテンの隙間から朝日がもれ、斜めに横切って室内を照らしている。また1日が始まった。外の世界では人々が新しい日々を開始している。ぼくの時間は千夏とともに止まって動かない。同じ日常が、ただ繰り返されるだけ――。

 ぼくの心に悲しみが戻ってきた。胸がつまって息苦しくなる。呼吸しようとすると、ため息となって出ていった。

「三上さーん」

 窓を叩く音がした。こつこつと、しつこく叩かれる。

 本名で呼ばれるのは久しぶりだ。映画の人物になりきっていたので、すぐには反応できなかった。――待てよ。

 ここは三階だぞ、といぶかった。

 カーテンで半分おおわれた窓の、光のあふれる面が叩かれている。

「三上さーん」

 聞き覚えのない女の声だ。

 声はしだいにかぼそく、窓を叩く音も弱まっている。ガラスの外側に、白い手の平が打ちつけられていた。

 手だけの幽霊が五本の指で壁を這い上がり、三階の窓を叩いている。そんなイメージが浮かんだ。朝っぱらから幽霊だなんて――。

 ぺたり、と手の平がガラス面に押しつけられた。その手がガラスを撫でる動きをはじめる。ぼくはぎょっとなった。立ち上がって窓辺に寄ると、やおら鍵を外して窓を横に引き開けた。

 怪しい手が空振りして窓枠をつかむ。すると手が二本になり、両手でしっかりと枠をつかんだ。ぼくは外に顔を突き出した。ハシゴに上った女がそこから背伸びして、ぼくの部屋の窓に手を伸ばしていた。

「降りられなくなりました」

 二十歳くらいの小柄な女が、ぼくを見上げて訴えた。

 髪をショートカットにし、前髪を眉の上で切りそろえている。両目の間隔が狭く、鼻のまわりにそばかすが散っている。赤紫のダウンジャケットに、臙脂のキュロットスカートだ。なんとなく見覚えがあった。

「映画研究会一回生の相原柚子(あいはらゆず)です」

 彼女がそう名乗った。

 思い出した。ほとんど話したことはないけど、サークルの一員だった。けれど柚子は、いったいどういうつもりなんだ。

「ぼくの部屋の窓でなにをしている」

「裏庭の物置にハシゴが立てかけてあったから、それを使って上ってきたら降りられなくなりました。三上さん、どうしたらいい?」

 相原柚子が尋ねる。

「上ってきたんだろ。その逆をすればいいじゃないか」

「上るときは前が見えたけど、降りるときはうしろが見えないから、怖いんです」

「降りられないなら上って来るなよ。なにしに来たんだ」

「三上さんが部活に出てこないから、赤星先輩に様子を見るよう言われたんです。『おれは来週の試験で絶体絶命だ。ゆず、おまえが行け』って、だから」

 柚子がそう説明した。

「だったら玄関から訪問しろよ。まるで、どろぼうじゃないか」

「ドアベルは押しました。何度、鳴らしても応答がないから、三上さんになにかあったんじゃないかって、心配になって窓からのぞいたんです」

 ――そうだ。ベルは鳴っていた。聞こえてはいたけど、ぼくは映画の世界に没頭していて、BGMのように聞き流していたんだ。

「寒くなってきました。三上さん、なんとかして」

 柚子が、がちがちと歯を鳴らす。

「わかったよ。もう少し窓枠までよじ登れない?」

「やってみます」

 言うと柚子が爪先で立ち、ハシゴからぐっと伸びあがる。ぼくは窓から身を乗り出し、柚子の両脇を抱えた。

「せーの、で思いきりジャンプして」

 ぼくは、そう指示を出し、柚子の頭がうなずいた。彼女の髪が、ぼくの耳に触れる。シャンプーの香りがして、朝から洗ったんだと気づいた。

「それじゃあいくよ、せーの。あいたっ」

 柚子の頭突きがぼくの耳に決まり、二人はバックドロップするみたいに部屋に転がり込んだ。外では梯子の倒れる音が響く。

 けれど見事な頭突きだった。耳がじんじんする。

「痛い」と柚子が起き上がる。立ち上がったぼくを非難した。

 被害者は、ぼくのほうだよ。

「このとおり無事に生きているから、帰って赤星さんにそう伝えておいてくれよ」

 ぼくは玄関を指さした。柚子がスニーカーをはいたままなのに気づいた。靴、と指摘すると、柚子がスニーカーを脱ぎながら、あれ、とテレビに映っているタイトルに気づいたようだ。

「そうだよ。自主制作映画の『眠り姫』を見ていたんだ」

「三上さんと福島奈央さんが主演した作品ですね」

「蒼井千夏だ」

 ぼくはつい、声を荒げていた。

 福島奈央は病院で昏睡状態にある。ぼくの世界の彼女は蒼井千夏なんだ。

「ごめんなさい」と柚子があっさり謝った。

 ぼくが、『蒼井千夏』と役名で呼んだ気持ちを理解してくれたのだろう。

 ぼくらは向かい合って座り、黙り込んだ。うつむいた柚子は、ひどく落ち込んでいるみたいだ。福島奈央の名前を出したせいで、ぼくの気持ちを害したと思ったのかもしれない。

「ごめん。つい感情的になった」

「このDVDは、三上さんと蒼井千夏さんとの思い出の映画ですからね。わたしと蒼井先輩との思い出の作品でもあるって、知っていました?」

「えっ?」とぼくは訊き返した。

「覚えてないんですか。わたしもエキストラで出演しているんですよ」

「そうだっけ?」

 ぼくはこの映画を何十回となく見ている。柚子が映っていたと、まったく気づかなかった。きっと監督の赤星さんが、群衆として新入部員をかきあつめたなかにいたのだろう。もともと柚子は目立たない部員で、エキストラで混ざっていても、ぼくの目を引かなかったのかもしれない。

「ビデオを見てもいいですか?」

 ぼくの返事を待たず、柚子が床にあったリモコンをとった。テレビの映像が早送りされる。自分の出ているシーンを探しているのだろう。

 相原柚子は文学部の一年生で、今年の新入部員だ。ぼくは二年生で学年は上だけど、入部したのは今年で、だから映画研究会では同じ一回生だ。

 柚子の横顔を見ているうち、ぼくは新歓コンパでの彼女を思い出した。

 居酒屋に部員が集まり、最初は適当に座って乾杯した。飲み会が進むにつれ勝手に席を移動しだし、気づくと、そばに新入部員の柚子がいた。ぼくに横顔を向け、一心にケータイを操作している。ぼくからは声をかけず、柚子から話しかけてくることもなかった。

 柚子とはサークルで半年以上も顔を合わしているけど、ほとんど会話していなかった。面と向かって、これだけ話したのは今日が初めてだ。今までの半年間を合わせたより、はるかに交わした言葉が多かった。

「あった。わたし、ここに出ているの」

 映像は大学の並木道のシーンで止まっていた。

 ぼくは、はっとした。

 上条真一と蒼井千夏がキスをした場面だ。本当にしたわけじゃないけど、彼女の顔がぐっと近づいたときだ。ぼくの心臓は震えた。

「キスシーンは関係ありません。わたしはここです」

 柚子の指先を追うと、並木のあいだに立つ映研部員たちのなかで、ひとり、両手で顔をおおっている女がいる。それが柚子だという。顔が隠れているから、本人だとはっきり確認できない。

 ぼくは柚子の手からリモコンをもらい、再生をはじめた。すぐにカットが変わり、ぼくと千夏がズームアップされる。

「これだけ?」とぼくは訊いた。

 柚子は、「これだけ」と答える。それじゃあ気づかないよ。

「どうして、顔をおおっているの」

「コンタクトレンズにゴミが入ったんです」

 言うと、柚子がテレビ画面に目を戻した。

 このあと映画では、千夏と晴彦の仲を疑った真一が、彼女の秘密を暴露する。そのショックから千夏は傾眠期におちいる。真一のキスによって目覚める――現実的にはどうかな? という大甘なラストになる。

 シナリオを書いた赤星さんは、天然パーマの髪を短く刈りこみ、細い目にだんご鼻、おまけに赤ら顔で、部員からは密かに赤鬼先輩と呼ばれている。そのくせ酒は一滴も飲めない。飲み会ではいつもウーロン茶だ。

 そんな赤星さんは、顔に似合わずロマンチストなんだ。

 ぼくはまた思い出の世界にひたりこんだ。千夏とのキャンパスライフがよみがえる。切なさがこみあげ、身体の内側が熱くなる。柚子と黙って映像を見た。ラストで千夏の笑顔が大写しされ――。

 ぼくはリモコンでビデオを停止させた。

「このDVDは、ぼくの命のつぎに大切なものなんだ」

 そう言って、柚子の様子をうかがった。

 テレビが消されても、柚子はそのままの姿勢だった。彼女も千夏を偲んでくれているのだろう。そう思うと親近感を覚えた。

「インスタントだけど、コーヒーをいれるよ」

 ぼくは台所に向かった。

 戸棚からコーヒーのビンを取り出し、クリームと砂糖を用意する。

 コーヒーの粉をカップに入れていると、リビングから物音がした。台所からのぞくと、柚子の姿がなかった。DVDプレイヤーのトレーが空いている。そこに入っていたディスクが消えていた。

 廊下の先の玄関では、柚子が靴をはきながら振り返っている。なんだか慌てた様子で、うしろ手になにかを隠している。

「コーヒーはいいです。赤星先輩には三上さんが無事だったと伝えておきますから」

 柚子が逃げるようにドアを開ける。

「ぼくのDVDを持っているんじゃないか?」

 柚子は答えず、廊下を走り去っていく。

 ぼくはすぐさま窓からのぞいた。ほどなくアパートの出入口から柚子が出てきた。両手をダウンジャケットのポケットに入れている。

「DVDを返せ。勝手に持っていくなよ」

 ぼくは声をはりあげた。

「これは借ります。ちゃんと返しますから、部室に取りに来てください」

 柚子がそう言い、アパートの角を曲がって見えなくなった。

 ハシゴを使って窓から侵入し、すきを見て、大切なDVDを奪うなんて、まるで泥棒じゃないか。――いや、本当に泥棒だ。

 窓の下では、大家のじいさんがやって来て、ハシゴを拾い上げている。ぎょろりと目が合い、ぼくは部屋に引っ込んだ。窓辺に、へなへなと膝をつく。

 いったい柚子はどういうつもりなんだ?

 答えは部活に復帰すればわかるのだろう。けれど、なにもかもおっくうだ。千夏のいないリアルな世界に戻りたくない。映画にひたっていたい。ビデオのなかでなら元気な千夏に会える。

 それも、奪われてしまった。

 ぼくの胸はからっぽだ。さっきまで騒がしかったぶん、ひとりでいる部屋がいっそう空しく感じられる。ディスクのコピーをとっておけばよかった。けれど、ぼくの思い出を盗む極悪人がいるとは、想像さえしなかった。



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