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ぼく、三上伸幸は英米文学科の二年生で、映画では主役の上条真一を演じていた。蒼井千夏を演じたのは、仏文二年生の福島奈央だ。
『眠り姫』の脚本、監督は、工学科四年生の赤星太一が担当した。留年を繰り返す赤星さんは、映研の主のような存在だ。在籍何年なのかは現役部員の誰も知らなかった。
ロケは、撮影の利便性を考え、大学の校舎やキャンパス、部員のアパートを中心に行なった。授業風景など大学生活の様子は、大学の許可を得て、実際のものを撮らせてもらった。登場人物の設定は映研部員のまま、ふだんの部活の雰囲気を生かして撮影したので、リアリティのある映像になったと思う。
ぼくが映研に入ったのは二年生になったときで、友人の紹介だった。主人公のイメージにぴったりだからと、赤星さんに抜擢された。そのへんの経緯は、実は映画のなかの設定と同じなんだ。
映研の部室で千夏と出会ったぼくは、彼女に心を惹かれた。ぼくが映画出演を決めたのも、千夏と共演できるというのが大きかった。
彼女の本名は福島奈央だけど、入部してすぐ撮影が始まり、ぼくは上条真一になり、彼女は蒼井千夏になった。だから本名を呼び合った時間より役名でいるほうが長く、ぼくにとって彼女は蒼井千夏なんだ。
映画のなかで真一は、最初は千夏に反発を感じながらも、しだいに恋におちていく。その心理の過程は、ぼくは――というナレーションを多用して語られる。それは、ぼくの千夏に対する気持ちともシンクロしていた。いつしか演技は本気の想いへと変わった。
実際の福島奈央は、映画の千夏のように過眠症にはかかっていない。ぼくのキスで目覚めることもない。現実はハッピーエンドにはならなかった。
『眠り姫』が上映される予定だった学園祭の3日前、大学の近くを流れる川は台風の影響で増水していた。川に落ちた子供を助けようとして、千夏は急流にのまれた。目撃者の通報で救助隊が駆けつけ、幸い子供の命は助かったけれど、千夏は昏睡状態におちいった。
千夏を演じた部員が危険な状態にあるのに上映するのはどうかと、『眠り姫』は学園祭で披露されずに終わった。
それから二ヵ月近くがたつ。季節は秋から冬へと移り変わろうとしているけど、千夏の時間は止まったまま、彼女はいまも病院で眠りつづけている。
ぼくの日常から千夏がいなくなって初めて、彼女がかけがえのない存在だったと痛切に感じた。千夏を残して世界が動いているのが耐えられなかった。だからぼくは、彼女との思い出のなかにとどまろうと決めた。
赤星さんから『眠り姫』をDVDに録画してもらい、その世界に閉じこもった。ぼくは大学に行かず、1日の多くをテレビの前で過ごした。まるで配役の上条真一が、ぼくに乗り移ったようだ。
いまも自分のアパートで『眠り姫』を見ていた。映画のなかでは、相変わらず千夏がぼくに笑いかけてくれる。予測できない事態も、どんでんがえしもない。安心して見ていられる。ぼくの心が壊れることだってないんだ。
リモコンのボタンを押し、画面が早戻しされる。
カーテンの隙間から朝日がもれ、斜めに横切って室内を照らしている。また1日が始まった。外の世界では人々が新しい日々を開始している。ぼくの時間は千夏とともに止まって動かない。同じ日常が、ただ繰り返されるだけ――。
ぼくの心に悲しみが戻ってきた。胸がつまって息苦しくなる。呼吸しようとすると、ため息となって出ていった。
「三上さーん」
窓を叩く音がした。こつこつと、しつこく叩かれる。
本名で呼ばれるのは久しぶりだ。映画の人物になりきっていたので、すぐには反応できなかった。――待てよ。
ここは三階だぞ、といぶかった。
カーテンで半分おおわれた窓の、光のあふれる面が叩かれている。
「三上さーん」
聞き覚えのない女の声だ。
声はしだいにかぼそく、窓を叩く音も弱まっている。ガラスの外側に、白い手の平が打ちつけられていた。
手だけの幽霊が五本の指で壁を這い上がり、三階の窓を叩いている。そんなイメージが浮かんだ。朝っぱらから幽霊だなんて――。
ぺたり、と手の平がガラス面に押しつけられた。その手がガラスを撫でる動きをはじめる。ぼくはぎょっとなった。立ち上がって窓辺に寄ると、やおら鍵を外して窓を横に引き開けた。
怪しい手が空振りして窓枠をつかむ。すると手が二本になり、両手でしっかりと枠をつかんだ。ぼくは外に顔を突き出した。ハシゴに上った女がそこから背伸びして、ぼくの部屋の窓に手を伸ばしていた。
「降りられなくなりました」
二十歳くらいの小柄な女が、ぼくを見上げて訴えた。
髪をショートカットにし、前髪を眉の上で切りそろえている。両目の間隔が狭く、鼻のまわりにそばかすが散っている。赤紫のダウンジャケットに、臙脂のキュロットスカートだ。なんとなく見覚えがあった。
「映画研究会一回生の相原柚子です」
彼女がそう名乗った。
思い出した。ほとんど話したことはないけど、サークルの一員だった。けれど柚子は、いったいどういうつもりなんだ。
「ぼくの部屋の窓でなにをしている」
「裏庭の物置にハシゴが立てかけてあったから、それを使って上ってきたら降りられなくなりました。三上さん、どうしたらいい?」
相原柚子が尋ねる。
「上ってきたんだろ。その逆をすればいいじゃないか」
「上るときは前が見えたけど、降りるときはうしろが見えないから、怖いんです」
「降りられないなら上って来るなよ。なにしに来たんだ」
「三上さんが部活に出てこないから、赤星先輩に様子を見るよう言われたんです。『おれは来週の試験で絶体絶命だ。ゆず、おまえが行け』って、だから」
柚子がそう説明した。
「だったら玄関から訪問しろよ。まるで、どろぼうじゃないか」
「ドアベルは押しました。何度、鳴らしても応答がないから、三上さんになにかあったんじゃないかって、心配になって窓からのぞいたんです」
――そうだ。ベルは鳴っていた。聞こえてはいたけど、ぼくは映画の世界に没頭していて、BGMのように聞き流していたんだ。
「寒くなってきました。三上さん、なんとかして」
柚子が、がちがちと歯を鳴らす。
「わかったよ。もう少し窓枠までよじ登れない?」
「やってみます」
言うと柚子が爪先で立ち、ハシゴからぐっと伸びあがる。ぼくは窓から身を乗り出し、柚子の両脇を抱えた。
「せーの、で思いきりジャンプして」
ぼくは、そう指示を出し、柚子の頭がうなずいた。彼女の髪が、ぼくの耳に触れる。シャンプーの香りがして、朝から洗ったんだと気づいた。
「それじゃあいくよ、せーの。あいたっ」
柚子の頭突きがぼくの耳に決まり、二人はバックドロップするみたいに部屋に転がり込んだ。外では梯子の倒れる音が響く。
けれど見事な頭突きだった。耳がじんじんする。
「痛い」と柚子が起き上がる。立ち上がったぼくを非難した。
被害者は、ぼくのほうだよ。
「このとおり無事に生きているから、帰って赤星さんにそう伝えておいてくれよ」
ぼくは玄関を指さした。柚子がスニーカーをはいたままなのに気づいた。靴、と指摘すると、柚子がスニーカーを脱ぎながら、あれ、とテレビに映っているタイトルに気づいたようだ。
「そうだよ。自主制作映画の『眠り姫』を見ていたんだ」
「三上さんと福島奈央さんが主演した作品ですね」
「蒼井千夏だ」
ぼくはつい、声を荒げていた。
福島奈央は病院で昏睡状態にある。ぼくの世界の彼女は蒼井千夏なんだ。
「ごめんなさい」と柚子があっさり謝った。
ぼくが、『蒼井千夏』と役名で呼んだ気持ちを理解してくれたのだろう。
ぼくらは向かい合って座り、黙り込んだ。うつむいた柚子は、ひどく落ち込んでいるみたいだ。福島奈央の名前を出したせいで、ぼくの気持ちを害したと思ったのかもしれない。
「ごめん。つい感情的になった」
「このDVDは、三上さんと蒼井千夏さんとの思い出の映画ですからね。わたしと蒼井先輩との思い出の作品でもあるって、知っていました?」
「えっ?」とぼくは訊き返した。
「覚えてないんですか。わたしもエキストラで出演しているんですよ」
「そうだっけ?」
ぼくはこの映画を何十回となく見ている。柚子が映っていたと、まったく気づかなかった。きっと監督の赤星さんが、群衆として新入部員をかきあつめたなかにいたのだろう。もともと柚子は目立たない部員で、エキストラで混ざっていても、ぼくの目を引かなかったのかもしれない。
「ビデオを見てもいいですか?」
ぼくの返事を待たず、柚子が床にあったリモコンをとった。テレビの映像が早送りされる。自分の出ているシーンを探しているのだろう。
相原柚子は文学部の一年生で、今年の新入部員だ。ぼくは二年生で学年は上だけど、入部したのは今年で、だから映画研究会では同じ一回生だ。
柚子の横顔を見ているうち、ぼくは新歓コンパでの彼女を思い出した。
居酒屋に部員が集まり、最初は適当に座って乾杯した。飲み会が進むにつれ勝手に席を移動しだし、気づくと、そばに新入部員の柚子がいた。ぼくに横顔を向け、一心にケータイを操作している。ぼくからは声をかけず、柚子から話しかけてくることもなかった。
柚子とはサークルで半年以上も顔を合わしているけど、ほとんど会話していなかった。面と向かって、これだけ話したのは今日が初めてだ。今までの半年間を合わせたより、はるかに交わした言葉が多かった。
「あった。わたし、ここに出ているの」
映像は大学の並木道のシーンで止まっていた。
ぼくは、はっとした。
上条真一と蒼井千夏がキスをした場面だ。本当にしたわけじゃないけど、彼女の顔がぐっと近づいたときだ。ぼくの心臓は震えた。
「キスシーンは関係ありません。わたしはここです」
柚子の指先を追うと、並木のあいだに立つ映研部員たちのなかで、ひとり、両手で顔をおおっている女がいる。それが柚子だという。顔が隠れているから、本人だとはっきり確認できない。
ぼくは柚子の手からリモコンをもらい、再生をはじめた。すぐにカットが変わり、ぼくと千夏がズームアップされる。
「これだけ?」とぼくは訊いた。
柚子は、「これだけ」と答える。それじゃあ気づかないよ。
「どうして、顔をおおっているの」
「コンタクトレンズにゴミが入ったんです」
言うと、柚子がテレビ画面に目を戻した。
このあと映画では、千夏と晴彦の仲を疑った真一が、彼女の秘密を暴露する。そのショックから千夏は傾眠期におちいる。真一のキスによって目覚める――現実的にはどうかな? という大甘なラストになる。
シナリオを書いた赤星さんは、天然パーマの髪を短く刈りこみ、細い目にだんご鼻、おまけに赤ら顔で、部員からは密かに赤鬼先輩と呼ばれている。そのくせ酒は一滴も飲めない。飲み会ではいつもウーロン茶だ。
そんな赤星さんは、顔に似合わずロマンチストなんだ。
ぼくはまた思い出の世界にひたりこんだ。千夏とのキャンパスライフがよみがえる。切なさがこみあげ、身体の内側が熱くなる。柚子と黙って映像を見た。ラストで千夏の笑顔が大写しされ――。
ぼくはリモコンでビデオを停止させた。
「このDVDは、ぼくの命のつぎに大切なものなんだ」
そう言って、柚子の様子をうかがった。
テレビが消されても、柚子はそのままの姿勢だった。彼女も千夏を偲んでくれているのだろう。そう思うと親近感を覚えた。
「インスタントだけど、コーヒーをいれるよ」
ぼくは台所に向かった。
戸棚からコーヒーのビンを取り出し、クリームと砂糖を用意する。
コーヒーの粉をカップに入れていると、リビングから物音がした。台所からのぞくと、柚子の姿がなかった。DVDプレイヤーのトレーが空いている。そこに入っていたディスクが消えていた。
廊下の先の玄関では、柚子が靴をはきながら振り返っている。なんだか慌てた様子で、うしろ手になにかを隠している。
「コーヒーはいいです。赤星先輩には三上さんが無事だったと伝えておきますから」
柚子が逃げるようにドアを開ける。
「ぼくのDVDを持っているんじゃないか?」
柚子は答えず、廊下を走り去っていく。
ぼくはすぐさま窓からのぞいた。ほどなくアパートの出入口から柚子が出てきた。両手をダウンジャケットのポケットに入れている。
「DVDを返せ。勝手に持っていくなよ」
ぼくは声をはりあげた。
「これは借ります。ちゃんと返しますから、部室に取りに来てください」
柚子がそう言い、アパートの角を曲がって見えなくなった。
ハシゴを使って窓から侵入し、すきを見て、大切なDVDを奪うなんて、まるで泥棒じゃないか。――いや、本当に泥棒だ。
窓の下では、大家のじいさんがやって来て、ハシゴを拾い上げている。ぎょろりと目が合い、ぼくは部屋に引っ込んだ。窓辺に、へなへなと膝をつく。
いったい柚子はどういうつもりなんだ?
答えは部活に復帰すればわかるのだろう。けれど、なにもかもおっくうだ。千夏のいないリアルな世界に戻りたくない。映画にひたっていたい。ビデオのなかでなら元気な千夏に会える。
それも、奪われてしまった。
ぼくの胸はからっぽだ。さっきまで騒がしかったぶん、ひとりでいる部屋がいっそう空しく感じられる。ディスクのコピーをとっておけばよかった。けれど、ぼくの思い出を盗む極悪人がいるとは、想像さえしなかった。
続




