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千夏は、静まり返った教室を出ていった。
教授は黙ったままテスト用紙の束を列ごとに配りはじめる。なにごともなかったように試験が開始された。
ぼくは名前を答案用紙に記入しながら、自分の行為を後悔していた。教授はなにも言わなかったけど、千夏がここの学生ではないと、すぐに知れ渡るだろう。調べさえすれば簡単にわかる事実なんだ。そうなったら千夏は、いままで通りうちの学生になりすませなくなる。
千夏の涙がちらついて頭を離れない。テストはさんざんだった。
教室から、陽射しの照りつけるキャンパスに出た。学食は混んでいるだろう。誰とも顔を合わせたくない。昼食は自宅でとろうと決めた。
「よう、おれたちと飯でも食おうぜ」
ちゃらい声がかかった。
予想どおり、晴彦だ。映研の男子部員といっしょだった。
一番、会いたくない相手だ。ぼくが『シェークスピア論』をとっているのを知っていて、待ち伏せていたに違いない。逃げるのも癪で、ぼくはその場で待ちかまえた。晴彦が連れと大またに近づいてくる。
「千夏とのデートの首尾を語ろうと思ってさ」
そんな話なんか聞きたくもない――。
ぼくは二人に背中を向けようとした。
「あの千夏がよくおまえの誘いを受けたよな」
連れの男が晴彦に言った。
「タネを明かすと、おれは千夏の秘密を知っているんだ。それをだしにデートを承知させたわけ。どんな秘密かは教えない。おまえは悪用するかもしれないからな」
晴彦が、しれっとした顔で話している。
ぼくは、はっとした。千夏のなりすましのことだ。
サークルのみんなは、千夏が英文科のぼくと同じクラスだと思っていた。そのぼくが、千夏と北欧文学科の『あおいちなつ』とを間違えた。その話を聞き、晴彦は千夏の在籍を疑ったのではないか。あとは学生課で調べればわかる。それをネタに彼女とのデートを強要した。
ぼくはそんな晴彦を責められない。結局、千夏の秘密を暴いたのは、このぼくなんだから――。
「千夏のやつ、失礼するんだぜ」
晴彦が、ぼくに話しかけてきた。
「失礼する?」ぼくは問い返した。
「千夏とカフェに入ったんだよ。おれが盛り上がって話していると、あいつ、急に眠りだしたんだ。デート中に信じられないだろ。居眠りじゃなく、本当の熟睡なんだ。無理やり起こすと、不機嫌な顔で怒りだすんだぜ。デートどころじゃなくなって、眠り姫を馬車でお城まで送ってやったよ」
ネオンのついたお城だ? 違うよ。千夏の自宅だって――。
晴彦たちはしゃべり続けている。失礼する、というわりに晴彦の口調は陽気で、デートの不首尾を気にしている様子はなかった。
そんな二人を残して、ぼくは大学の図書館に向かった。
千夏が、メンタルクリニックの診察券を持っていたのが気になった。ぼくの頭に浮かんだのは、『睡眠障害』という病名だ。
図書館の貸し出しカウンターの横に、パソコンが四台並んでいる。空いているパソコンの前に座り、『睡眠障害』を検索した。
睡眠障害には様々な種類があった。大きく不眠症と過眠症にわかれる。眠れないのは関係ない。過眠症の主な症状は、日中に急激な眠気に襲われるというものだ。千夏のデート中の熟睡がこれにあたる。10分から20分ほどで目覚め、そのあと気分はすっきりする。
違う。千夏はずっと眠りつづけていたという。
ぼくの目が止まったのは、反復性過眠症の項目だった。その症状は1日に18時間以上も眠りつづけるというものだ。――これだ。
ぼくはそのページを読み進めた。長時間の強い眠気が生じる時期を傾眠期といい、これが3日から3週間続いたあと、自然に回復し、ふだんと変わらない生活に戻る。そんな症状が反復されるのだという。
千夏はよくサークル活動を休むそうだ。ずっと出てこない期間もある、と部長が言っていたのを思い出した。
千夏は反復性過眠症を患っているのではないか。
もちろん、ぼくの勝手な想像にすぎない。病名は本人に訊けばわかるだろう。ぼくは彼女を裏切った。電話をかけるなんて、とてもできなかった。
千夏の母親から電話があったのは、試験期間も終わりに近いころだった。ぼくは最後のテストにそなえて自宅で勉強をしていた。
「千夏が寝てばかりいるんです。このさい、本当のことを話したほうがいいと」
母親の口から、千夏の反復性過眠症を確認できた。傾眠期が2週間も続いて、いまも彼女は眠りつづけているという。
電話の質問に応じてくれた母親によると、千夏が睡眠障害を起こしはじめたのは高校三年になったときからだという。受験勉強をはじめてすぐ、強い眠気に襲われるようになった。最初は勉強の疲れが出たのかと母親は思ったが、1日に18時間も寝つづけると、さすがにおかしいと感じて、病院を訪れた。娘が反復性過眠症であると診断された。
傾眠期は3日から、ひどいときには3週間にもおよんだと話す。学校は休みがちになり、受験勉強どころではなくなった。高校だけはなんとか卒業させてもらったが、進学はあきらめざるをえなかったという。
『わたし、この大学を希望していたの。だけど入学できなかった。それで大学生気分だけでも味わいたくて』
千夏がそう言っていたのを思い出した。
うちの大学に入れていたとしても、傾眠期が3週間にもおよんだら、まともな学生生活は送れないだろう。学年ごとの最低単位を維持して、卒業に必要な単位を取るなんて、とても無理な話だ。
だから普通に生活できるときだけ、大学生になりすましていた。もちろん、もぐりこめる授業はたくさんの学生が集まるものに限られる。それでも好きな講義を受けたり、学友と交流したり、サークルに参加したりしたかったのだろう。
過眠症の原因はわかっていないそうだ。ストレスも関係があるらしい。千夏の秘密をぼくが暴いたのが原因で、傾眠期におちいったのかもしれない。
ぼくは後悔にさいなまれた。
「千夏はこんな状態ですから、映画の撮影は難しいんじゃないでしょうか」
母親の口調からすると、娘のなりすましは知らないようだ。きっと大学とは別の映画サークルに所属していると思っているのだろう。
「監督に伝えておきます」
ぼくは電話を切った。
千夏の書いたストーリーを思い描いてみる。
ヒロインのオーロラ姫は、睡眠時間が日ごと長くなる『眠り病』にかかっている。だから起きていられる時間を大切にしたかった。
これは千夏自身が患う、反復性過眠症をモチーフにした脚本だとわかる。
主人公は引きこもりで、SNSの世界に閉じこもっている。一晩中、掲示板やチャットサイトに入り浸り、日中は大学に出ても寝てばかりいる。そんな主人公を、オーロラ姫は立ち直らせようとするんだ。
かつてのぼくにそっくりだと、あらためて感じた。
千夏は、ぼくが主人公のイメージにぴったりだと言っていた。彼女のなかで、映画のストーリーとぼくの大学生活とが一致したのだろう。傾眠期には1日の大半を寝ている千夏だから、ぼくが起きている時間を無為に過ごすのを見過ごせなかったに違いない。
だから『シェークスピア論』の講義のあと、ぼくに声をかけてきた。
千夏から映画研究会に誘われて、いままでのつまらない毎日が華やいだものに変わった。人とかかわるのが楽しいと思えるようになった。
そんなぼくを、彼女はどう思っていただろうか。
並木道でのキスシーンが頭によみがえる。千夏がぼくにキスしたのは、文字通り口を封じるためだったとは思いたくない。ぼくに好意をもっていたから、そんなぼくを気にかけ、声をかけてくれたと思いたい。
その真意は、本人に尋ねてみないとわからないけれど。
千夏が脚本を書いた映画の撮影は進んでいなかった。主演のぼくらがいつも揃わないのだから、それも当然だ。千夏がうちの学生じゃないと知れたとき、彼女のサークルでの処遇はどうなるのだろうか。
ぼくは部長に電話をかけてみた。
「蒼井千夏さんのことなんですが……」
と言いかけて言葉につまった。どう切り出そうかと迷った。
「うちの学生じゃなかったんだろ」
部長から言われて、ぼくは驚いた。
「知っていたんですか」
「二回生の大西春香から聞いた」
ぼくは、はっとした。
春香は、どちらが書いた脚本を映像化するかで千夏と争った学生だ。自分の脚本が選ばれなかったのを、快く思っていなかったようだ。
ぼくが千夏のなりすましをあばいたとき、春香の友人が居合わせ、その友人からぼくの暴露を知ったのかもしれない。
「おれは、うちの大学に在籍していなくてもサークル活動は認めると言った。それでも春香は、撮影するシナリオは変更すべきだと言い張るんだ」
大学対抗の映画コンクールに、うちの学生じゃない人の脚本を作品化して出すのはおかしい、自分の脚本を採用してほしい、と主張したという。
「春香は、電話で千夏にも言いつのったらしい。それでもらちがあかず、こんどは直接、おれに言ってきた」
「それで、どうするつもりなんですか」
「撮影はほとんど進んでいないから、シナリオの変更は可能だが、いまさらどうかとは思う。もう一度みんなで話し合うつもりだ」
ぼくは電話を切った。心に動揺が広がった。
千夏の物語が映像化されるかどうかはわからない。それでも、うちの学生になりすませなくなり、自分のシナリオを取り下げるよう迫られた。そのストレスで傾眠期におちいったに違いない。
映画のラストで、オーロラ姫は昏睡状態になる。主人公の口づけによって、彼女は目を覚ますんだ。
ぼくは千夏を目覚めさせないといけない。そして自分の裏切りを謝るべきだ。たとえ彼女が許してくれなくても、そうしなければだめなんだ。
千夏の住所は、部長がアドレスノートを見せてくれたとき控えてあった。いまは午後5時過ぎで、ここから彼女の自宅までは1時間もかからない。
ぼくは強い衝動につき動かれされ、アパートを出た。
空はまだ明るく、むんと暑かった。ぼくは学生街を抜けて線路沿いの坂道を上がる。警報機の音が聞こえ、遮断機が下りはじめる。ぼくは踏切をわたると、ホームに上がって、閉まりかけた扉から電車に乗り込んだ。
扉によりかかり、荒い息を静めた。汗ばんだ背中にシャツがはりつき、気持ちが悪い。携帯電話を開き、もう一度、千夏の住所を確認した。
最寄り駅で降りると、地図板を見て、おおよその位置を頭に入れた。目指す千夏の自宅は、住宅街のなかの一戸建てだった。
ぼくは玄関の前に立ち、ためらった。
時刻は午後6時半をまわっていた。夕食が始まるころあいだろう。訪問するには間の悪い時間だ。
ぼくはドアホンを押した。
ほどなくして、インターホンから千夏の母親の声が流れてきた。
ぼくは映画サークルの上条だと名乗り、さっきの電話で千夏さんの病気を知り、心配になって訪問したと説明した。
「ごめんなさいね。千夏は熟睡していて、無理に起こさないと目覚めないんですよ」
母親の声は、面会をしぶっているようだ。
「千夏さんの様子がどうしても知りたいんです。会わせてくれませんか」
ぼくはインターホンで声を強めた。
熟睡している女性を見たいだなんて、失礼なお願いをしているとは思った。けれど、ぜがひでも千夏を起こし、自分の気持ちを伝えたかった。
ドアが開いた。のぞかせた母親の表情は浮かない。
「娘の病気を打ち明けた以上、実際の状態を知ってもらったほうがいいですね」
母親がそう言い、ぼくを家に上げてくれた。
千夏の部屋は四畳半で、ベッドや机やタンスなどでほとんどうまっていた。千夏が愛用している香水がほのかに香る。ベッドぎわの窓から、夕日の残照が差し込んでいた。
千夏は枕に頭をうずめ、タオルケットをかけて、まっすぐ横たわっていた。とてもきれいな寝相だった。ぼくには、永遠に眠りつづけているように見えた。まるでオーロラ姫だ。そう思うと、ぼくは胸が痛んだ。
「こうなると娘は1日に18時間も眠りつづけます」
母親によると、傾眠期がいつ起こるかはわからず、それを防ぐ方法もないという。
電話が鳴った。母親が失礼します、と廊下に消える。
ぼくは千夏とふたりきりになった。
廊下から、母親が電話で話す声が聞こえる。ぼくはベッドの近くまで寄り、両膝をついてかがみこんだ。千夏が静かに寝息をたてている。
『わたしが永遠の眠りについたら、キスで起こしてくれる?』
『約束よ。かならずオーロラ姫を目覚めさせてね』
彼女の言葉がよみがえる。
ぼくは千夏の唇にそっと顔を寄せた。無防備に寝ている女性に口づけするなんて、とてもできない。ぼくはベッドについた手で、自分の身体を起こした。
千夏の腕が上がり、ぼくの手を引きとめる。
ぼくは、はっとした。嬉しくなり、千夏の唇に自分の唇を合わせた。ぼくはやがて静かに顔を離した。千夏の瞳が開く。その顔が笑った。
「わたしを目覚めさせてくれて、ありがとう」
千夏が見つめてくる。
「ごめん。ぼくはきみを――」
音声が途絶えて千夏の笑顔が大写しとなり――テレビの画面は静止した。
* * *
ぼくはリモコンの一時停止ボタンから指を離した。
映画研究会の自主制作映画『眠り姫』はここでハッピーエンドとなり、エンドロールが始まる。映画では、ぼくの口づけで千夏は目覚める。現実の彼女は、いまも昏睡状態のまま眠りつづけていた。
第一部 了




