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『シェークスピア論』のある日になると、ぼくはいつもの最前列に座り、千夏が出席するのを待った。三日ほど安静にしていれば治る、と母親は言った。ぼくはその言葉に期待していた。
講義の開始時間が迫り、教室は学生でうまっていく。ぼくは何度も背後をうかがった。彼女の座る席はいつも決まっているんだから、そこで待とうかとも思った。けれど、まだそこまでする勇気はなかった。
千夏が教室に入ってきたのは、授業の開始間際だった。机のあいだを抜ける千夏と、目顔で挨拶を交わす。ぼくは心が満たされるのを感じた。病み上がりという様子はなく、いつもどおりの彼女だったので、ほっと安堵した。
「千夏」
うしろの席の端で、甲斐晴彦が立ち上がった。
いつのまに紛れ込んだのか、ぼくは気づかなかった。きっと後方の出入口から入ったのだろう。
晴彦が千夏の席まで来て、無理やり隣に座った。二人で密かに話し合っている。千夏の顔つきが変わった。慌ただしく立ち上がると、晴彦と連れ立って教室を出ていこうとする。
ぼくは、あとを追おうとした。
前方のドアからM教授が入ってきた。退出する千夏と晴彦に、厳しい表情を向ける。ぼくは浮かした腰を、また下ろした。気持ちがくじけていた。
ぼくは講義に集中できなくなった。M教授の声が、ぼくの頭を通り抜けていく。
千夏たちはなにを話していたんだろう。二人はどこにいったのか。いくつもの疑問がわきあがり、ぼくは動揺した。
二時間の講義を終えて、その日はアパートに帰った。
胸のもやもやは消えない。千夏に電話しようにも、自宅の番号しか知らない。わざわざ電話して尋ねるほどのことだろうか。こだわっているのはぼくだけで、たわいのない相談をしていただけかもしれない。
夜の六時過ぎに、千夏の自宅に電話をかけた。
以前、午後八時半にかけたら、千夏はすでに寝ていた。そのときは体調が悪かったんだろうが、今回は夕食前の時間帯にかけてみた。
コール音が続いて、留守録の音声に切り替わった。
「ピーッと鳴りましたら、ご用件をお話しください」
講義をさぼって晴彦とどこに行ったの? なんの話をしたの?
ぼくは伝言を残さずに通話を終えた。サークルの活動日に、千夏に尋ねればいい、と考え直した。
そういえば昨日、講義の前に晴彦と教室を出て行ったけど、どうしたの?
そう何気なく訊けばいいんだ。
翌日、ぼくは映画研究会の始まる時間より早く、部室に向かった。晴彦のいないとき千夏に会い、彼女にぼくの疑問を尋ねるつもりだ。
教室では、部長が自前のビデオカメラを点検していた。他の部員はまだ来ていなかった。今日は最初のシーンを撮影する予定だ。ロケは部員の下宿でする。みんなが集まったら移動しよう、と部長は言った。
「――おれさ、こんど千夏とデートするんだ」
廊下から、ちゃらい声が聞こえてきた。
晴彦が部室に入って来る。ぼくと目が合うと、ウィンクした。
どこかで待ち合わせたらしく、晴彦は男子部員といっしょだった。ドライブするから車を貸してくれ。レンタルする金ないんだよね。そんな話をしている。
ぼくは耳をふさぎたかった。
「サンキュ」と肩を叩かれた。
「あんたには礼を言わないとな。おかげで千夏とデートの約束ができたよ」
晴彦がにやけた顔つきで言う。
ぼくのおかげ?
晴彦の言葉の意味がわからなかった。
「こんどの日曜に千夏とドライブするんだ。朝の10時に校門で待ち合わせた。海を見に行こうかなって計画しているんだけど、よかったら、あんたも来ないか」
「行くわけないだろ」
ぼくは言葉を投げつけていた。席を立ち、教室を出た。
どういうつもりで晴彦がぼくまで誘ったのか理解できない。千夏と二人でデートなんだろ。ぼくが断るのを見越していたんだろうか? ぼくの反応を見るつもりだったのかもしれない――。
ぼくは口惜しさを噛みしめた。
校舎の外に出るスロープを降りたところで、千夏と鉢合わせた。口を開こうとする彼女を無視して、すれ違う。
認めたくない『現実』から、ぼくは退場した。
校門まで来て、部長から電話があった。撮影を始めるから部室に戻ってくれという。ぼくは急用ができたのでと断った。とても千夏と演技する気にはならなかった。部長は、きょうは他のシーンを撮る、と渋しぶ了承した。来週は大丈夫だろうなと念を押され、通話を終えた。
「たぶん」
と切れた携帯につぶやき、ポケットにしまった。
ぼくは下宿に戻りながら、さっきすれ違ったときの千夏の様子を思い起こした。ふだんと変わったところはなく、いつも通りの態度だった。
もっとも、好意を抱かれていると思ったのはぼくのひとりよがりで、彼女は悪びれる必要はないんだ。ぼくが映画のキャストにうってつけだったから、声をかけただけなのだろう。それでキスなんてするかな? ぼくは、千夏のなりすましを指摘した。文字どおり口止めだったのかもしれない。
ぼくの頭は答えの出ない疑問でいっぱいになった。
晴彦とつきあっているの?
そう千夏に尋ねればすむはずだ。けれど真実を知るのが、とてもつもなく怖かった。
その夜、ひさしぶりにSNSにアクセスした。見ず知らずの人との表面的なやりとりは気が楽だ。文章で書かれている内容だけが真実だ。相手の真意や思惑を気にする必要はない。ぼくが傷つく心配だってないんだ。
晴彦が、千夏とデートすると話していた日曜日になった。
目覚めると、窓から陽射しがもれていた。ぼくは机に突っ伏して寝ていたようだ。起きた拍子に手がマウスに触れる。パソコンのスリープが解除され、SNSの画面が現われた。ディスプレイの時刻は午前9時過ぎだった。千夏と晴彦のデートの約束は10時だ。
晴彦の言葉をうのみにするのはバカげている、と思った。あんなちゃらい男の言うことなんて信用できるもんか。千夏とつきあっていなくても、平気でそうだと言いふらせる男だ。ぼくの千夏への気持ちを見抜き、ぼくをからかって、みんなの笑いものにするつもりに違いない。
ぼくは机から立ち上がった。確かめてやろうと決めた。
アパートから大学まで10分ほどだ。ぼくは手早く身支度を整えると、部屋を出た。すでに9時50分になっていた。千夏たちはもういないかもしれない。それならそれでもいい、とあきらめてもいた。
校門の見える交差点に来ると、千夏が塀の前で携帯電話を確認していた。苛立った表情で、ときおり道路をうかがっている。明らかに人待ち顔だ。その相手が晴彦だとは限らない、と自分に言い聞かせた。
ぼくは自販機の陰にまわって様子をうかがった。
待ち合わせの相手はなかなか現れない。ぼくは通行人に不信がられないよう携帯の道ナビゲーションを確認するふりをした。
約束の時間から15分が過ぎて、校門に近い路肩に真赤なセダンが止まった。降り立ったのは、派手なアロハに短パン、ビーチサンダルをはいた晴彦だ。サングラスを額に上げて、気取った態度で千夏に近づく。
ぼくは落胆のあまり、身体の力が抜けた。
千夏の表情はすぐれない。晴彦から誘っておいて遅刻するんだから、当然だ。晴彦に気おくれした様子はなく、気軽に千夏に話しかけている。
二人が赤いセダンに乗り込む。車が交差点を右折して反対車線を走り抜ける。ぼくはその場に突っ立ち、車の後部バンパーを見送るだけだった。
警笛が鳴り響いた。車の窓から右腕が出て振られる。
誰に挨拶したんだろう、といぶかり、バックミラーに自分の姿が映ったんだと気づいた。ぼくは屈辱のあまり、身体がかっと熱くなった。
アパートに戻ると、ぼくは失意のあまり自室に閉じこもった。頭に浮かぶのは嫌な想像ばかりだ。
カーステレオからは晴彦セレクションのラブソングが流れているだろう。海岸線に沿って走る車窓から、青い空と大海原が広がる。潮の匂いのするビーチサイドカフェで食事をとる。靴を脱いだ素足で砂浜を踏む。波打ち際ではしゃぎ、水平線に沈む夕日を眺める。そのあと二人は……。
ぼくの心は嫉妬でかきむしられた。
千夏に会わなければ、こんな辛い思いをしないですんだ。千夏が、ぼくに声をかけてくれなければよかったのに。映画研究会に誘ってくれなけばよかった。どうしてぼくにキスなんかしたんだ。
ぼくは絨毯に身を投げ出した。
晴彦は、ぼくが交差点で偵察していたと千夏に話しているだろうか? それだけは千夏に知られたくなかった。彼女に嫉妬し、晴彦との関係を探ろうとしたなんて――。
ぼくは恥ずかしさのあまり、身体を震わせた。
午後5時を過ぎると、さすがに空腹を感じた。朝からなにも食べていなかった。胸が悲しみで沈んでいても、腹が減るのが不思議だった。外食する気は起らない。冷凍食品で間に合わせることにした。
夜9時まで待ち、千夏の自宅にかけようと決意した。晴彦は明日の一限から授業がある。そろそろデートを終え、二人は帰宅しているだろう。もし戻っていなかったら、千夏に晴彦との関係を問いただそう。このままだと悪い想像が暴走し、頭がおかしくなってしまう。
呼び出し音が続いている。
「蒼井です」
出たのは、またもや母親だった。
「映画研究会の上条です。千夏さんはご在宅でしょうか」
「娘はおりますが……」
母親の言葉に、ぼくは少しだけ安堵した。それにしても歯切れが悪い。
「では、代わってもらえないでしょうか」
「ごめんなさい。千夏は寝ているんです」
そんなバカな――。
ぼくは怒りがこみあげてきた。
9時に就寝して悪いわけじゃない。デートで、はしゃぎすぎて疲れたのか。それとも体調をくずしたか。いずれにしろ信じられない。ぼくと話したくないから、電話に出られない口実にしているんだ。そう疑った。
「大切な話があるんです。千夏さんを起こしてもらえませんか」
厚かましい願いだとは思いながらも、ぼくはそう言わずにいられなかった。
「無理に目覚めさせてもいいんですが、たぶん、まともにお話できないと思います。伝言でしたら、わたしが承っておきますから」
「もういいです」
電話を切り、携帯を床に投げつけた。
ぼくをバカにするな。オーロラ姫を気取るのもいい加減にしろ。映画になんて出演するもんか――。
ぼくはあふれる涙をこらえた。
映画の主人公は引きこもりだ。千夏はぼくにぴったりの役だと推薦し、監督である部長も太鼓判を押した。二人の眼鏡は正しかったよ。ぼくには引きこもりの才能があるんだ。映画では『眠り病』にかかったオーロラ姫と出会い、主人公は立ち直る。現実のぼくは、そうなりそうになかった。
ぼくには、不特定多数とのゆるいつながりがぴったりだ。誰かと親しくなれば、それだけ深く傷つく。こんな辛い気持ちはうんざりだ。ぼくはネットのなかに閉じこもろう。そう決めると気楽になれた。なんのことはない、もとどおりの自分に戻っただけだ。
サークルを続けて休むと、部長から電話がかかってきた。
「体調がすぐれないので、しばらく休ませてください」
ぼくは嘘をついた。
「なんだ、おまえもか」
部長の苦りきった声が返ってきた。
千夏も体調を崩して部活に出ていないという。ぼくの心は揺れた。千夏は本当に調子が悪くて寝込んでいたのでは? けれど、それを確かめる気力はなかった。
「主演の二人がそろって病気じゃ、撮影がまるで進まん」
部長のぼやきに、
「すみません」と謝って通話を終えた。
それからぼくは、アパートと大学を行き来する毎日を繰り返した。来月から上期のテスト期間が始まる。ぼくは千夏の存在を頭から追いやり、試験勉強に集中しようと努めた。
『シェークスピア論』のテストを翌日に控えた夜、自室で勉強をしていると千夏から電話があった。
「身体の具合はどうなの? クラスの人に訊いたら、ずっと休んでいるんだって。きみは主演なのよ。早く直してくれないと撮影が進まないじゃない」
千夏の声は少し苛ついていた。
「ぼくはいま寝ているんだ」
ぶっきらぼうに言い、電話を切った。
いつ自宅にかけても『寝ている』千夏へのあてつけだ。
ぼくはすぐ自分の言葉を後悔した。それでも、かけなおそうとは思わなかった。千夏からのリダイヤルもなかった。
『シェークスピア論』の時間が憂鬱になった。けれど、テストを受けるため出席しないわけにはいかない。なりすましの千夏に試験は関係ないけど、彼女が出ていたらと気が重くなった。
翌朝は寝過ごした。慌てて身支度をし、アパートを出た。夏の陽射しが容赦なく照りつけてくる。キャンパスの並木道では、ケヤキの葉むらで光がぎらついていた。
試験開始時間ぎりぎりに教室に入ると、ぼくの定位置に千夏が座っていた。その表情は険しい。ぼくはしかたなく、千夏の隣に自分の荷物を置いた。
教室は学生でうまり、友人と話したり、ノートを見返したりしている。教授はまだ来ていなかった。
「どうしてサークルに出てこないのよ」
千夏が、ぼくをとがめた。
「先週は具合が悪くて寝ていたんだ。これからは試験勉強で忙しくなる。ぼくには卒業単位が必要なんだ。千夏には関係ないだろうけどね」
ぼくは強く言い、顔をそむけた。
「きみは主演なのよ。部活に出てくれないと、肝心なシーンが撮れないじゃない。病気だったなんて嘘でしょ。また自分の世界に閉じこもったのよ。同じクラスの人に訊いたら、いるんだかいないんだかわからないって。なんのために大学に通っているのよ。役作りのつもり? 引きこもりは映画の役だけにしてよね」
千夏の指摘に、ぼくはかっとなった。
「千夏は、この大学に受からなかったんだろ。学生気分を味わいたいんだか、どうだか知らないけど、なりすましが偉そうに言うな」
つい大声で口走っていた。
ぼくの暴露に、千夏はショックを受けたようだ。
そのとき教壇の前に、M教授が立っているのに気づいた。ぼくらは学生の注目の的になっていた。
「どうして、そんなことを言うの」
千夏の瞳に涙がにじむ。トートバッグを肩にかけると、手で顔をおおい、ぼくのそばを通り抜ける。静まり返った教室を足早に出ていった。
続




