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蒼井千夏の診察券を持った彼女は、いったい誰なんだ?
ぼくは図書館に引き返して考え込んだ。
蒼井千夏が他の学年に在籍は、ありうるのだろうか? なくはないと思う。では、どうして二年生の授業に出ていたのか? 彼女は自分の素性を隠していたように思える。オーロラ姫だなんて、ぼくに名前を隠していたふしもある。学生課で調べればわかるはずだけど、ぼくの結論は出ていた。
蒼井千夏はうちの学生になりすましている。
その理由は、考えてもわからなかった。
映画研究会は午後6時からで、まだ20分ほど間があった。千夏はサークルの一員で、自主制作映画の台本を書いた。ぼくに出演して欲しいと言った。彼女の真意は、直接本人に会って訊けばわかるだろう。
映画研究会の部室のある北校舎に着いたときには、うかつにも6時をまわっていた。そうっとなかをのぞくと、机を一か所にまとめて、十数人の男女が台本を手に座っている。本読みをしているらしく、セリフが教室のなかを飛び交っていた。
千夏が最初にぼくに気づいた。その表情が明るくなり、「上条くん」と呼ぶ。彼女を追及しようという気持ちは、急速になえた。
千夏が部員たちに、ぼくを映画の主役にどうか、と紹介した。映画は初めてだけど、演劇の経験はあると推薦する。舞台で化石化した失態は省略してくれた。
部員たちの視線がぼくに集中する。身体が熱くなり、心臓が脈打ち、足が震えてきた。みんなでぼくを、引きこもりで友人を作れない登場人物としてふさわしいかどうか、と値踏みしているんだ。
「おれのイメージにぴったりだ」
監督を務める部長が了解した。部員のあいだで口ぐちに賛同の声があがる。ぼくは合格したらしい。役柄を考えると、やっぱり、あまり嬉しくない。
「ちょうどよかった。きみも本読みに加わってよ」
千夏が誘った。ぼくは千夏の隣に座ると、台本をのぞきこんだ。いままでは主人公とオーロラ姫の両方のセリフを、彼女が読んでいたという。
ぼくのために最初のシーンから本読みが再開された。
部員がとくに演技をしている様子はなく、わりと棒読みだった。ぼくは国語の授業で教科書を読むのが得意だった。すらすらとつかえずに朗読できる。そのなかでセリフがあるとつい感情が入ってしまい、よく生徒に笑われた。
台本のストーリーが進むと、興がのってきたのか、部員のセリフにも熱が入った。ぼくはしだいに作品世界にのめりこんだ。
ふわりと柔らかい髪の感触が頬をかすめる。
思いがけず千夏の顔が迫っていて、ぼくはたじろいだ。舌がもつれてセリフをとちってしまい、失笑をかった。かえって緊張が緩み、その場の雰囲気がなごんだ。
そのとき鋭い視線を感じた。
はす向かいに座っている男だ。一重の切れ上がった目が冷たく、茶色く染めた髪をうなじまで伸ばし、ピアスをしている。二枚目役をやったら似合いそうだ。隣の部員になにか冗談を言って、軽い笑い声をあげた。
部長が少し休憩しようと言い、雑談が始まった。
互いのセリフに対する感想やつっこみ、映画のシーンや構成に関する意見などを話し合った。ぼくに気をつかって声をかけてくれる先輩もいて、ひさしぶりに生の会話を楽しめた。
人間のコミュニケーションは言葉だけでなく、その多くを相手の視線や表情、仕草や態度などに負っているという。メールでは文字や絵文字でやりとりをする。『うれしい』と打たれていれば、そうなんだと受け入れるしかない。けれど直接会話をすると、言葉の意味以上の情報が伝わる。ぼくを新入部員として暖かく迎えてくれているのがわかり、明るい気持ちになれた。
「やっぱりリアリティがないと思うんですよね」
部員の一人が机に両手をついて立ち上がった。上品そうな顔立ちの女学生で、目つきに勝気な性格が表われている。彼女はさらに続けた。
「そもそも『眠り病』なんて存在しません。その病にかかったヒロインの苦しみがまるで伝わってこないんです。オーロラ姫という名前も幼稚すぎます」
ぼくは、隣で千夏が緊張するのを感じた。
その女学生の指摘は、ぼくがあらすじを聞いたときの感想と同じものだった。
「自分の台本が選ばれなかったからって、悪く言わないで」
千夏がむきになり、緊張感が教室全体に広がった。
「そんなんじゃなくて」
「まあ、待て」と部長が止めた。「映像化する台本はすでに決定している。いまさら変更したら、秋の大学対抗映画コンクールに間に合わなくなる。内容に不満があるなら、良くするためにみんなで話し合おう」
女学生が座った。納得はしていない様子だ。
彼女は大西春香といい、文学部の二年生だとあとで知った。どうやら千夏と春香はともにシナリオを書き、千夏のものが採用されたらしい。
本読みを再開したが、なんだか気のないものになった。ついさっきの争いが影響していた。物語は盛り上がらないハッピーエンドを迎えた。
「終電がなくなるから」
千夏が席を立った。
教室の時計は7時45分を指している。部活は8時までだ。千夏はずいぶん遠い自宅から通っているのだろう。いや、彼女はこの大学の学生じゃない。サークルの仲間といっしょに帰りたくないのではないか?
ぼくは部長に、次回、正式に入部届けを出すと伝え、千夏のあとを追った。ここは彼女に対する自分の推理を確かめるチャンスだ。
北校舎側面のスロープを降りて外に出た。外灯に照らされて、並木道を歩く千夏のうしろ姿に追いついた。ぼくは彼女を呼び止めながら走り寄った。
「ごめん。わたし、急ぐから」
千夏はあきらかにぼくとの話を避けていた。
「学生課で調べたんだ。きみはこの大学の学生じゃないんだろ」
立ち去りかけた千夏が振り返る。
「そうよ。わたしはオーロラ姫。悪い魔女に呪いをかけられ、起きている時間がしだいに短くなり、ついには永遠の眠りについてしまうの」
「違う。映画の話じゃない」
ぼくは千夏に迫った。
「わたしの書いた脚本は『眠れる森の美女』からインスピレーションを得たの。ディズニー映画なんだけど、知っている?」
千夏が、ぼくの追及を無視して訊いてくる。
「ずいぶん昔にテレビ放送で見た。オーロラ姫の誕生を祝うパーティが開かれ、たくさんの客が城に呼ばれた。けれどマレフィセントという魔女は招待されず、それに腹をたて、呪いでオーロラ姫を永遠の眠りにつかせる。姫を目覚めさせるには、彼女を心から愛する恋人にキスしてもらうしかない」
そんな話だった。いや、あらすじなんてどうでもいい。
「なりすましの話をしているんだ」
ぼくは強く言った。
「わたし、この大学を希望していたの。だけど入学できなかった。それで大学生気分だけでも味わいたくて」
千夏がぼくに近づいた。真剣な眼差しを向けてくる。
「いつまでもなりすまして……」
ふいにぼくの口は封じられた。
ぼくはたじろぎ、千夏に両肩をおさえられたまま突っ立っていた。彼女の前髪が額を斜めに流れ、その下で瞳が閉じられている。
千夏が目を開け、一歩退いた。
「わたしが永遠の眠りについたら、キスで起こしてくれる?」
ぼくはうなずいた。
文字通り口止めされた。ぼくが千夏のなりすましが知れ渡れば、大学に出入するのはまだしも、講義には参加できなくなるだろう。けれどぼくは、千夏と同じ大学でキャンパスライフを送りたいと望んだ。
「約束よ。かならずオーロラ姫を目覚めさせてね」
宵闇に口笛の音が響いた。
並木ごしに十人ほどの学生がかたまっている。映画研究会の部員がちょうど帰るところだった。ぼくらは外灯の近くにいて、はっきり見られていたに違いない。見ていられなかったのか、女子の一人が両手で顔をおおっている。教室でぼくに鋭い目を向けた優男が、唇に手をあてている。冷やかしたのはきっとあいつだろう。
「ごめん」
千夏が囁き、ぼくを思いきり突き飛ばした。
ふいをくらって、地面に尻もちをつく。並木道を走る千夏の後ろ姿を見送りながら、無理やりぼくがキスしたように見えたんじゃ、とそれが心配になった。
部員たちが近づいてくる。
ぼくはきまりが悪くなり、足早にその場を立ち去った。
翌日は午前中に一時限あるだけだった。授業を終え、廊下を歩きながら、ぼくは千夏の姿を求めていた。キャンパスを購買部に向かいながら、学生食堂で昼食をとりながら、彼女の姿を探した。
もちろん千夏はここの学生じゃない。まぎれこめるのは、多くの学生が集まる講義に限られるだろう。キャンパスで偶然出会える可能性だって低い。それでもどこからか、ぼくの名前が呼びかけられるのを期待していた。
学食を出ると、文学部の校舎の前で、映研にいた優男が女学生と立ち話をしていた。相手の女が振り返る。ぼくは、あっと思った。
――あおいちなつ。
彼女がぼくに気づき、こっちを指さした。男の冷たい目と合う。ぼくは気づかないふりで顔をそむけると、校舎のなかに入った。
ぼくを指さして、なんの話をしたのだろう。蒼井千夏を探して、北欧文学科の教室に出向いたことではないか? あまりいい気分はしなかった。
「待てよ。きのう部活に来ていただろ」
軽薄そうな声が追いかけてきた。
ぼくは逃げるわけにもいかず、振り返った。
「おれは二回生の甲斐晴彦。あんたは確か……?」
と訊かれ、ぼくは上条真一だと名乗った。
「さっきの女も、あおいちなつっていうんだ。あんた、映研の蒼井千夏と勘違いしたんだって。千夏と同じクラスじゃなかったのかよ」
ぼくはどう返答しようかと迷い、
「クラスは違う。同じ授業を選択しているんだ」と答えた。
ふうん、と晴彦は考え込んでいるようだ。
千夏が受けている講義名を訊かれた。隠す理由が思いつかず、『シェークスピア論』だと教えた。晴彦は、「サンキュ」と言い、立ち去りかけた。
「あんた、見かけによらず、やるよな」
晴彦の言葉に、ぼくはなんのことだろうと訝った。
「サークルの帰り道、千夏にキスしていただろ。ふられたみたいだけどな」
遠目にそう見えたんだ。
ぼくは違うと否定し、「自主制作映画の脚本にキスシーンもあったよね。その予行演習だったんだ」と言い訳した。
男は、ふうん、と軽薄そうな笑みを浮かべる。
「あんた、映研に入部するんだろ。部活で会おうぜ」
晴彦がそう言って、背中を向けた。
ぼくは、サークル活動が憂鬱になった。部活に出れば千夏と会える。けれど彼女と晴彦とが顔を合わせたら、なにかが起こりそうで不安だった。
翌週、ぼくは複雑な心境で映画研究会に出た。
部室に足を踏み入れたとたん、はやしたてられた。集まった部員のなかから、晴彦が手をあげる。並木道での千夏とのキスシーンだ、と気づいた。ぼくは映画の予行演習だったで通した。千夏はまだ来ていなかった。
部長によると、つぎの例会から最初のシーンを撮影するという。その日は、みんなで台本の最終調整をした。その台本を書いた本人はなかなか現われない。先週、千夏と言い争った大西春香も来ていなかった。ぼくは教室の出入口が気になり、何度も目をやった。
部活の終わる時間になった。千夏は姿を見せず、晴彦とはなにも起こらなかった。ぼくは、ほっとすると同時に、やっぱり寂しかった。
帰りぎわ、部長に入部届けを渡すと、「蒼井はどうした」と訊かれた。
台本の調整はしたものの、それを書いた本人に変更点を確認させたいらしい。 部長によると、千夏はよくサークル活動を休むそうだ。ときにはずっと出てこない期間もあるという。
サークルのみんなは先に校舎の外に出ていて、部長とふたりきりだった。ぼくは思いついて、
「蒼井さんは風邪で寝込んでいるみたいです」と嘘をつき、「彼女の様子を見に行きたいので、連絡先を教えてくれませんか」と頼んだ。
「おまえ、知らないのか」
部長は意外だったらしい。ぼくは千夏の紹介で入部したので、文学部の同じクラスだと思っていたのだろう。
部長は鞄からノートを取り出し、千夏の住所と電話番号を見せてくれた。住んでいる場所はわりと近かった。最寄り駅は電車で30分ほどだ。いまから訪問するのはどうかと、あとで電話してみることにした。
映研のみんなと校門まで来ると、ぼくは忘れ物をしたと言い、キャンパスに戻った。校舎の陰で、千夏の自宅の番号にかけた。呼び出し音が続く。
「蒼井ですけれど」
答えたのは千夏の声じゃなかった。母親なのかもしれない。
「ぼくは映画研究会の上条です。千夏さんが今日、映画の撮影に来なかったので、どうしたのかと電話しました」
「ごめんなさいね。千夏はいま寝ていて、ご迷惑をおかけしました」
寝ている? いまは夜の8時過ぎだ。子供じゃあるまいし、眠るにはまだ早い。本当に風邪だったのだろうか。
「体調をくずされているんですか」
ぼくは訊いた。
「3日ほど睡眠をとれば、もとに戻るはずなんですけれど」
母親の返答は歯切れが悪い。
千夏が診察券を持っていたのを思い出した。持病があるのかもしれない。そうだとしても、プライベートな内容なので、病名までは訊けなかった。
ぼくは電話を切った。病気ならしかたない。回復するのを待とう。来週のクランクインまでには間に合うだろう。
ぼくは携帯電話をしまった。強い風が吹き、空をおおうクスノキの葉むらを騒がす。葉のすきまから、月明かりがか細くもれていた。
続




