最終回
一週間が過ぎた。
ぼくはずっとアパートの部屋に閉じこもっていた。何回か部員が様子を見にきたけど、ドアは開けなかった。だから新作の『見えない天使』がどうなったかはわからない。ぼくの役を誰かが引きつぎ、撮影を続けているのだろう。あれから柚子とは、会いも連絡もとっていなかった。
ぼくはその間、繰り返し『眠り姫』を見ていた。
10ヵ月たっても、映画のなかの千夏は少しも変わっていなかった。あのころのように笑い、ぼくにちょっかいをだし、怒って、泣いた。映画のラストシーンで、ぼくは千夏にキスする。その情景が病院で眠る千夏と重なった。じんわり胸が熱くなり、目じりがにじみだす。
それがいまでは心地いい。悲しみがぼくを浸し、おぼれさせる。
「三上せんぱーい」
――柚子。
ぼくは、はっとなった。
いや、この能天気な声は違う。ピンコンピンコンとリズミカルかつ執拗にドアベルが鳴る。鳴り止みそうになかった。これほど、うるさいのは――。
ドアを開けると、予想どおり原田里美だ。
「やっぱりいた。ねえ。三上先輩と柚子、どうしちゃったんですか」
いきなり里美が訊いてきた。
ぼくとのことを、柚子は里美に話していないらしい。ぼくは、「ちょっとね」と言葉をにごし、柚子を傷つけた経緯は言わなかった。
「三上先輩は撮影に来なくなっちゃうし、柚子は出演をやめたいって言いだすし、赤星先輩がきれちゃって、新作の撮影はあれからちっとも進んでいないんです」
「ごめん。ぼくの都合なんだ」
「復旧業者に出してあった映像なんですけど、だめだったらしいです」
「そうなんだ。ゲリラロケまでして撮影したのにね」
映研のビデオカメラは美玲が壊していた。そのデーターの復旧を業者に頼んであった。ぼくが演じた映像が使いものにならなくても、誰かがぼくに代わって撮影は続行される。だめでも関係なかった。
「それを知って、柚子、がっくりきちゃったみたいなんです。ひどく落ち込んで、ずっと変なんですよ。ぼんやりしているというか、うわの空というか」
ぼくと共演した映像がよほど大切だったんだ――。
ビデオカメラが壊れたとき、「また撮りなおせばいい」と柚子を慰めた。けれど、ぼくは退部する。その可能性だってないんだ。だから録画データーの回復に、柚子は望みをかけていたのだろう。
「また夜、眠れなくなったって言ってました」
「柚子が? そういえば不眠症だったらしいね」
「映画の撮影をしているときは眠れたみたいなんです。それがまた寝つけなくなって、睡眠薬を飲みはじめたそうです。昼間でも眠そうにしています」
「それじゃあ、あまり薬は効いていないみたいだね」
去年から不眠に悩み、睡眠薬を処方してもらっている、と里美から聞いていた。
「たまには柚子を元気づけてやれよ。がんばれ、先輩」
里美が言い、どんと胸を突かれた。
「それが明日から帰省するつもりなんだ。夏休みの残りはずっと実家で過ごす」
下宿にいても『眠り姫』を見ているだけだ。大学の近くにいるよりも、そこから離れた実家にいるほうが、気が楽になるだろう。一週間以上、自室に閉じこもりながら、何度も考えたことだった。
「その前に、柚子のアパートを訪ねてあげたら」
「わかった。そうするよ」と言って、里美を玄関から追い出した。
柚子を訪問する気はなかった。
翌日は、ひどい雨になった。雨が風に流される音が、下宿の部屋にいても聞こえてくる。ときおり窓ガラスが激しく雨粒に打たれる。帰省の準備はしたけれど、気分が滅入り、夕方までぐずぐずしていた。
午後5時に小降りになり、ぼくはようやくアパートを出た。
駅に着くと構内は人で混雑していた。ふだんはこんなに混んでいない。利用客はみんな困ったような顔で、電光掲示板を見つめている。
「大雨によって崖崩れが発生しました。上下線とも不通になっており、復旧のめどはたっておりません。お急ぎのお客さまにはご迷惑を……」
駅のアナウンスが流れた。
なんだよ……。ぼくは担いでいた荷物を足もとに下ろした。帰省する気持ちは急速にうせた。別に今日、帰らなくたっていいんだ――。
そう思い、駅舎を出た。
下宿への帰り道、明日が映画撮影の予定日にあたっていたのを思い出した。撮影がとどこおっているのは、ぼくの責任だ。制作状況がどうなっているのか気になる。みんなに退部の挨拶もしていない。部長の高山美玲がいれば退部届を出そう。それから帰省したほうがすっきりする、と考え直した。
撮影は午後1時半からだけど、ぼくは早めに部室に向かった。
教室には赤星さんしかいなかった。ぼくの顔を見ると、無愛想に、「よう」とだけ挨拶した。いつもいじっているビデオカメラはなく、手持ちぶさたに見えた。
「おまえ、昨日、実家に帰るはずじゃなかったのか」
赤星さんが声をかけてきた。
「帰れなかったんです。誰から聞いたんですか」
「相原柚子が言っていた」
柚子が? 昨日、里美は、ぼくの部屋に寄ったあと柚子のアパートにも行ったのか、電話したのだろう。それでぼくが帰省する話をしたに違いない。
「おまえが撮影に来なくなってから、映画制作は完全にストップしている」
「すみません」
ぼくの代役をたてて、撮影を続けているわけじゃないらしい。
「もう一度、映画に出演してみる気はないか」
「えっ」とぼくは訊き返した。
「業者に復旧を頼んであったデーターな、回復に成功したんだ。カメラのほうは直らなかったけどな。あのシーンを使って撮影をつづければ、まだ学園祭に間に合うかもしれん」
「修復できたんですか。だめだったと聞きました」
「誰から聞いたんだ」
「原田里美ですけど、里美が誰から聞いたのかは知りません」
「部長の高山じゃないか。復旧した映像の入ったディスクを業者から受け取ったのはあいつなんだ。今はパソコンに取り込んである」
美玲が受け取った――。ぼくは、はっとなった。
美玲はデーターの回復を知っていた。それにもかかわらず柚子と里美にだめだったと報告したのなら、嘘をついたんだ。
美玲は、主演から外されたのが不満だったのだろう。だからわざとビデオカメラを池に落としたのではないか。だとしたら業者からあずかったディスクを素直に映研に返すだろうか。なくしたとも言えたはずだ。いや、そんな事態が続けば美玲が疑われる。そこでぼくが出演を断ったのを知ったのだろう。ぼくの代役をたてれば、復旧されたシーンはもう必要ないんだ。
里美が誰からその話を聞いたのか、確かめる必要があるけど、ぼくの推測は間違っていないはずだ。
そのとき美玲が部室に入ってきた。
「どうして柚子に、録画データーの修復に失敗したと言ったんだ」
ぼくは美玲にかまをかけてみた。
美玲はうろたえた様子で、
「あとで、喜ばせるつもりだったのよ。柚子を……相原さんを、ちょっとからかっただけなんだから。そうしたら絶望したみたいにがっくりしちゃって、冗談だと言いだせなくなったのよ」
――やっぱり、そうだ。
ぼくは携帯を取り出し、柚子に電話した。コール音が続き、『ただいま電話に出ることができません』と応答した。
「相原柚子なら」赤星さんが口をそえた。「昼前に、おれの下宿に来たぞ。映研のビデオカメラを借りたいというんだ。撮影は止まっているから、貸してやった」
「なにを撮る、とは言ってませんでしたか」
ぼくは勢い込んで訊いた。
「さあな。あいつはなにも言っていなかった。あのビデオカメラはおれの命のつぎに大切なものだ。粗末に扱うんじゃないぞ、と念をおしておいた。そうだ。おまえが実家から戻ってきたら渡してくれ、と手紙を預かっていた」
「いま、それは?」
「ちょうどよかった。ビデオカメラを相原に貸したあと、おれは昼飯に出かけるところで、途中まであいつといっしょに歩いた。そのとき手紙を渡されたんで、ズボンのバックポケットに突っ込んであった」
言うと、赤星さんがポケットから封書を取り出した。
ぼくはすぐさま開いて読んだ。
『一生の記念にこのビデオをのこします。映像のなかだけでも、わたしを見ていてください。わたしの想いが叶う可能性は、永遠にないのだから』
――柚子。
ぼくは手紙を握りしめると、部室を飛びだしていた。
以前、『眠り姫』のDVDをぼくに捨てさせるため、柚子が川に飛び込もうとした経緯がある。柚子の行動は極端に走る傾向があった。
手紙の文面は遺書ともとれる。柚子が睡眠薬を処方してもらっているのを思い出した。このところ柚子は眠そうにしている、と里美は言っていた。すると薬が効かなくなったんじゃなく、飲んでいないのでは? 柚子は薬をためていたんじゃないか。現在の睡眠薬はどれほど飲んでも死ねない、と聞いたことがある。ぼくの杞憂だろうか。胸騒ぎが高まる一方だ。
――柚子はなにを撮るつもりなんだ。
残暑は厳しく、昼下がりの陽射しが照りつけてくる。ぼくは汗でびっしょりになりながらも、柚子のもとへと急いだ。
アパートにつくと外階段を上がり、外廊下を通って、柚子の部屋の前まで行った。ドアノブを握って、一息つく。カギはかかっていた。大家さんに開けてもらおうかと考えたけど、どこに住んでいるか知らない。
ぼくは階段を降りて表にまわった。
柚子の部屋は二階の角だ。ベランダでガラス戸の内側のカーテンが揺れる。戸が完全に閉まっていないのだろう。
ぼくがアパートに閉じこもったとき、それを心配した柚子が、ハシゴを使ってぼくの部屋に侵入したのを思い出した。こんどはぼくの番だ。
すばやくあたりをうかがう。角を曲がって宅配バイクが現われた。ぼくはとっさに、アパートの前の自販機で、飲み物を選ぶふりをした。バイクをやりすごしたあと、柚子の部屋のベランダを見上げた。
どうやって……?
自動販売機だ。思いつくと、ぼくはすぐさま行動に移った。飲み物の取り出し口に足をかけ、自販機の上によじのぼる。そこから飛びつくと、ベランダの手すりに手が届いた。懸垂で身体を持ち上げ、ベランダに足をかける。ぼくは手すりを乗り越え、その内側に降りた。
思ったとおり、ガラス戸に鍵はかかっていなかった。なかに入ると、女性の部屋らしく整然と片付いていた。柚子の姿はなかった。
ぼくは廊下に出た。明かりがもれているのはバスルームのようだ。ぴちゃり、と水音がして、ぼくの胸が激しく動悸した。
不安とともに廊下を進み、脱衣所をのぞきこんだ。
最初に目についたのは、踏み台に乗ったビデオカメラだ。バスルームの扉が開け放たれ、カメラのレンズはそのなかに向けられている。パジャマ姿の柚子が、浴室のタイルに横ずわりして、バスタブのへりにすがりついていた。その左手がバスタブの内側に垂れ、なかの水を赤く染めている。
ビデオカメラがその様子を撮影していた。
ぼくはすぐに柚子の身体を引き起こし、左手を水中から出した。タオルを見つけ、それで手首をきつく縛って止血した。柚子の唇は紫色になり、顔は真っ白だった。かすかに寝息が聞こえる。ひとまずは大丈夫だ。
「柚子、目を覚ますんだ」
そう言ってゆさぶるけど、柚子は力なく頭を揺らすだけだ。ぐっすり眠り込んでいる。睡眠薬を飲んでいるのかもしれない。どれだけ飲んだんだろうか。死なないまでも、身体に害はあるはずだ。
「柚子。柚子」
ぼくは激しくゆさぶった。
まったく抵抗がなく、眠りつづけている。まるで眠り姫のよう――。昏睡状態の千夏の姿が浮かんだ。千夏はいくら起こそうとしても目覚めることはなかった。彼女は脳死した。もう永遠に目を覚まさないんだ。
ふいに激しい焦燥にかられた。
ぼくは柚子をバスタブにもたせかけると、シャワーを取った。コックをひねり、冷水を柚子の頭から浴びせる。
「起きろ、柚子。目を覚ますんだ。お願いだから目を開けてくれ」
ノズルを置き、強く呼びかけた。
「どうしてこんなまねをした。自殺をはかってそれを録画すれば、ぼくが見ると思ったのか。昏睡状態の千夏を悲しみ、ぼくが『眠り姫』にはまりこんだように、そんな思い出のビデオをのこしたかったのかよ」
柚子は答えない。目覚めるは様子はまるでなかった。
――そうだ。早く救急車を呼ばないと。
ぼくは携帯電話を取り出し、ダイアルした。住所を告げ、柚子の状態を説明して通話を終えた。
このとき、脱衣所のカメラが回りつづけているのに気づいた。
『……わたしの想いが叶う可能性は、永遠にないのだから』
柚子の手紙の文面が浮かんだ。
「そんなことあるもんか」
やたらに腹がたってきた。こんな映像なんか――。
ぼくは脱衣所に戻ると、カメラを手にして思いきり床に叩きつけた。カバーが外れ、レンズが割れる。大きな音がしたけど、柚子はバスタブの縁に頭をもたせかけたまま、眠りつづけている。
永遠にないだなんて、そんなことあるもんか。映画のストーリーは変わらないけど、現実の世界は違う。ぼくらは将来を変えられる。可能性がなくなるなんて、それこそあり得ないんだ。
ぼくは柚子のもとに戻った。
「だから生きてくれよ。死んでしまったら、それでお終いじゃないか。生きているかぎり、どんな可能性だってあり得る。だから死なないでくれ」
ぼくは、柚子の身体をぎゅっと抱きしめた。
その命をつなぎとめようと抱きしめ続けた。
十月に入り、キャンパスのケヤキ並木が色づきはじめた。朝はだいぶ冷え込むけれど、空気のさわやかな秋晴れが続いた。ぼくらの映研は、二年連続で学園祭に自主制作映画を出品できなかった。他大学のサークルから、あの赤星太一がどうしたんだ? と不思議がられた。
壊れたビデオカメラを返したとき、ぼくは赤星さんの制裁を覚悟した。けれど先輩は怒りもせず、そうか、とだけ言って受け取った。柚子が自殺をはかったいきさつは話さなかったけど、誰かから聞いていたのだろう。
例会が終わり、赤星さんはやり残した仕事がある、と部室にひとり残った。
部員たちと校舎の外に出ると、雨が降っていた。ぼくは部室にカサを忘れて来たのに気づいた。みんなには先にいつもの定食屋に行ってもらい、ぼくはカサを取りに戻った。教室の入口で、ぎくりと足が止まった。壊れたビデオカメラを手に、赤星さんがしょんぼり座っていた。
その細い目から涙がこぼれた。
みんなと定食屋で合流したころには土砂降りの雨になっていた。ぼくはカサを取りに行けなくて、ずぶ濡れになった。
柚子は無事に退院した。飲んだ睡眠薬はいつもの三倍で、胃洗浄するほどではなかったらしい。柚子によると、確実に眠れるだけ使用したそうだ。リストカットするのに必要以上の薬はいらない、とあとで気づいた。
千夏はまだ眠りつづけている。家族は臓器提供を承諾しなかったから、脳死判定は行なわれていない。法律上、生きているとも死んでいるとも決まらない、あいまいな状態のままだ。人工呼吸器を外さない限り、千夏の心肺は活動しつづける。けれど二度と目を覚ますことはないんだ。
ぼくが千夏のためにできるのは、彼女がこの世に生きていたのを忘れないことだ。ぼくといっしょに笑ったり、泣いたり、怒ったりした千夏は、いまもぼくの心のなかで生きつづけている。
――だから、それでいいんだ。
デッキから『眠り姫』のディスクを取り出し、ケースにしまった。窓から朝の陽射しがあふれている。ぼくは自分の部屋でテレビの前に座っていた。
映画のストーリーと違って、これからの人生でなにが起こるかは決められていない。悲しいこと、辛いこと、くじけそうになることだってあるだろう。けれど、それ以上に楽しいことだってあるはずだ。
未来はわからないからこそ素晴らしい。
「三上さーん」
窓の外から柚子が呼んでいる。
子供じゃないんだから、かんべんして欲しいよ。これから午前の授業に出る。早く出ていかないと、またハシゴで登って、降りられなくなるかもしれない。柚子がDVDを盗んで逃げたあと、大家さんに叱られたんだよな。ぼくは講義の準備をしたカバンを取り、急いで玄関に向かった。
力強くドアを開ける。
『眠り姫』の世界から、こんどこそぼくは現実に向かって歩きはじめた。
了




