闇と静寂と彼しかそこには存在しない
悪夢の任務を終えてから二日経った。
幸いにも、次の任務の日取りはまだ決まっていない。
日中は暑さすら感じる、うららかな空気が漂うこの季節。示し合わせたように空はどこまでも晴れ渡っていた。授業中に黒板から窓外へ目を転じれば、ついこの間毒の雨が降ったというのに、人々は軽やかに往来を行き来していた。この世界はおれの存在に関係なく回ってる。そんな世の真理に触れて、ため息をあくびでごまかす昼下がり。
でも、雨はあれで終わりというけじゃない。
おれたちが命をかける時はまたすぐにやってくる。
その時の訪れを知るために、カナミズチームは交代制で一日三回、雲読みを行うことをルールとしていた。それはカナミズチームだけってわけじゃなく、頻度に多少の差こそあれ他のチームも同じことをしてる。一日三回というのは多い方らしいけど、すぐそこの公園でやるから他チームほど大変ではない。任務場所が遠いチームは時間をかけて担当地区まで出向かなくちゃいけないから大儀そうだ。
授業という一日の労働を終えて部屋に戻っても、今日はなんだか落ち着かない気持ちだった。そう、今夜は初めての雲読み当番。最初のうちは、おれたち二年は三年生と一緒にすることになっていたから、シキトさんと一緒に行う。
ユキオミはどこかへ遊びに行ったらしく、夕陽が傾く時刻になっても寮の部屋は静かなままだった。奴に借りた漫画を寝転がって読んでいたものの、心の底からストーリーを楽しめなくて、気が付くとただぼんやりと橙色の夕陽を眺めていた。静かに漫画を読める機会なんて滅多にないのに。
あの初任務の日、おれの中で何かが弾けてしまったみたいだった。
気が付くとぼんやりと余計なことを考えている。
だけどその原因は任務だけじゃないのかもしれない。
二年に進級してから同じクラスになった生徒が、二人いなくなった。
つまり雲払いの任務でおれよりもっと「失敗」したのだ。
そのことについて、ごく少数の女子たちはときおり話し込んでるみたいだけど、先生や大半のクラスメイトは二人を始めからいなかったものとして扱った。まるで彼らが、何かの手違いで数日間クラスに紛れ込んだ闖入者だったかのように。
そう振る舞うことで、必死に何かを守ろうとしているようだった。
そして、おれもそんな大勢の一人。
夕陽が完全に沈み、辺りが闇に落ちた頃に傘を持って部屋を出た。
外に出て、日中あれほど暖かかったのに、思いのほか空気が冷たいことに驚く。シャツ一枚で夜道を歩き始めたおれは、羽織る物を取りに戻ろうかと束の間考え、結局やめた。任務に失敗した上遅れるなんてさすがに避けたい。
公園に着くと、ステージを照らす薄ぼんやりした灯りの下で、シキトさんがおれを待っていた。他に人影は無く、闇と静寂と彼しかそこには存在しない。白いトレンチコートを着、白い傘を片手に空を眺めるシキトさんは、女なら誰もが夢中になるような凛とした色気があった。おれが女だとしても、おれじゃなく彼を好きになると思う。それでも、おれは誰かに好いて欲しいと思ってる。
「今晩は」
おれがそう言い近づくと、シキトさんはこちらを見て「寒そう」と一言漏らした。
「暑がり?」
「いえ、時間ぎりぎりだったから、上着を取りに戻る時間無くて」
「別にちょっとくらい遅れてもいいのに」
「先輩を待たせるわけにはいきませんよ」
「別にいいのに。そんな神経質に見えた?」
「白が好きな人って、神経質な感じがしますよ」
「正直だな。しかもすごく偏ってる」
シキトさんはふっと笑った。ステージの真ん中で向き合った彼は、意外にもなんだか楽しそうだった。ユキオミをあしらっているときの冷たい言動ばかりが先行していたけど、どうやらそのイメージは修正する必要がありそうだ。
「それに白がすごく好きってわけでもないから。ハルヤは傘の色、どうやって決めたの」
おれはユキオミにした説明を繰り返した。おれは緑で兄さんは赤の話。するとシキトさんは睫毛をしばたいた。
「本当にシュウイチの弟なんだ。似てない」
「それなら嬉しいです。ああなりたくないですもん」
「傘師としては優秀だけど、あいつ」
「そりゃ、おれは傘師としては未熟だし、そこは見習う必要ありですけど……」
「まだ気にしてるんだ。この前のこと」
シキトさんは唇を吊りあげておれを見る。くよくよしてる内心をずばり突かれたおれは、ついため息交じりに本音を吐き出す。
「そりゃ気にもします。あとちょっとで死ぬとこだったし、他の二年と違って役立たずだし。それにクラスメイトだってもう二人もいなくなったんですよ。雲払いで死んだんだ」
シキトさんは笑みの余韻を残したまま沈黙した。
おれも続ける言葉を思いつけなくて黙る。
言わなきゃよかった。
こんなこと、シキトさんに言ってもしょうがないし、おれが女々しく愚痴ってたなんて誰かに告げ口されても嫌だ。
たとえばミナミさんとかに。
シキトさんはおれの言葉を振り払うようにポンと傘を広げた。闇の中で大きく開いた白い傘。確かにそれは、おれの言葉でよどんだ空気をさっぱりと払うような効果があった。
「始めるか、雲読み」
「……はい」
おれも傘を広げた。そう、たとえ気が落ち込んでも、おれには傘師としての義務がある。




