何だったんだろう、あのときのわたしは
夢を見ていた。目覚めたときに、すごく懐かしいと感じる夢だった。
その夢の中では、わたしはまだ小学校に入りたての小さな子どもで、家の鍵を失くしてひどく焦っていた。これはよく見る夢のパターンの一つで、わたしは親にしかられることを思って泣きそうになっている。実際のわたしが家の鍵を失くしたことなんてない。五、六歳の頃から自分の身を守ろうと必死で、そのおかげで年の割には用心深い子だったと思う。
夢にはシキトが出てきて、彼もまだ小学生だった。久しぶりに見た幼年期の彼は、色が白いところは変わらないけれど、いまよりずっと不健康そうな感じだった。同級生の中でも群を抜いて細く小柄だったっけ。よくもまあ立派に成長したものだ、と親のような気持ちで目を細めたくなる。
夢の中のわたしは、シキトに一緒に鍵を探して欲しいと縋っている。シキトは「しょうがねえなあ、来いよ」と言ってわたしを自分の家に連れていった。そして、シキトの部屋で鍵を二人で探しているという、夢にありがちなよく分からない展開。
結局、結末を待たずにわたしが目覚めてしまったせいで、本当に彼の部屋に鍵があったのかは定かではない。でも彼の部屋にいるわたしはとてもほっとしていた。鍵はまだ見つかっていないのに、シキトが一緒に探してくれているだけで安心しているのだ。
久しぶりに見た彼の部屋はがらんとしていた。机の上の金魚鉢がその部屋にある唯一の装飾品で、その中にはまるまると太った一匹の金魚がいた。もしかすると、あの金魚がわたしの鍵を食べてしまったのかもしれないな……。
その夢から覚めたとき、やっぱりわたしにとってシキトは大事な存在なんだと気付いた。彼の部屋で鍵を探していたときのあの安心感。あの感じは他の誰からも得られないだろうし、いまではシキト本人からも得ることはできない。
でも、このままシキトと疎遠になることは悲しい。そう思った。
ただ、どう距離を取るべきかが分からない。
ベッドに体を横たえて再び目をつむったものの、眠る気にもなれず起き上がる。そして、壁時計が午前六時半を指したとき、いてもたってもいられなくなって部屋を飛び出した。そのまま昨日任務が行われた公園へ向かって足早に歩く。
岩のステージの上には人影があった。
もちろん、わたしはその人がここにいることを知っていたから来たのだ。さすがに当てもなく彷徨うほど取り乱してはいない。
ステージの上の人物は傘を開いて「雲読み」をしている。わたしはそれが終わるのを遠くからひっそりと見守った。雲払いの任務が終わったばかりでも、次に雨が降るときのためにカナミズチームは動きを止めない。
雲読みが終わると同時に、わたしはステージへと近づいた。
こちらを見た三口カズキは声を出さずに口を開いた。
「どうしたの?」。ゆっくりした口の動きと、漏れる息の音でなんとかそう読み取る。
「カズキ君、おはよう。ちょっとはなしがあるんだけど、いいかな?」
三口カズキは白いシャツに深緑色のスラックスという落ち着いた格好をしていて、自分の容姿を客観的に分析しているなと感じた。とても似合っている。傘の色も夕陽みたいで悪くない。
彼と話すのは初めてで、少し緊張する。
何より彼の言っていることが分かるか心配だ。
カズキは眼鏡の奥の目を細めると、「座ろう」と言いたげにステージへ続く石の段を指し示した。わたしたちは並んで座る。朝の公園は、五月の空気を纏う木々に囲まれていて気持ちがいい。何かが目の前を横切ったと思ったら、真っ白なモンシロチョウだった。
「こんな、朝の、早くに、おれに、何の用?」
カズキはじっとわたしの方を見ながら、口の形だけで言う。ゆっくりと、大きな動きで。多分、わたしが真似をしてもこんなにはっきり言葉を伝えることなんてできないだろう。わたしは単刀直入に要点を切り出した。
「最近、シキトと仲良くできなくて、そのことを相談しに来たの」
「へえ、」
「こんなことで急に来ちゃってごめんね。なんだかいてもたってもいられなくて」
「全然、いいよ。続けて」
カズキは頷く。
「別にわたしたちは付き合ってるわけでも何でもなくて、ただの幼なじみなんだ。でも、昔みたいにすごく仲がいい友達に戻れない。言葉にするとそれだけ。だけど、なんだかもどかしくて」
カズキはわたしの言葉にくすくすと笑った。何がおかしいのかと思ったけれど、こちらが不快になるような笑い方ではなかった。その中には優しさが含まれていた。
「それは、シキトが、ミナミさんの、こと、好きだから」
「シキトが、わたしのことを、好き?」
念のために繰り返すと、カズキはまたしても頷いた。
「そう。本当の、意味で、ね」
「本当の意味?」
「一番、好きな、女子、ってこと」
「一番好きな女子」
ついついカズキの言葉を繰り返す。どうも音になっていないと頭に入ってこない。そして自分で口にして初めてその意味が咀嚼される。
一番好きな女子、か。
「ミナミさんは、シキト、好き、じゃないの?」
「分からない」
「そうなんだ」
「わたし、過去にあったシキトとの大切なできごとを忘れてしまってるみたいなんだ。それを思い出せば分かるのかな。ああ、でもどうして思い出せないんだろう。いっそシキトに教えてもらおうかな」
そう言うと、カズキは急に早口で何かを言った。分からなかったわたしは「え?」と彼に尋ねる。すると彼はそんな自分の様子を改めるように、一言一句はっきりとわたしに伝えた。
「そうすると、他の、知りたく、ない、ことまで、思い出して、しまう、かもしれないよ」
「え、どういうこと?」
カズキの目が泳ぎ、視線がよそへ向く。彼の口元が見えなくなって不安になったけど、すぐにまたこちらを向いた。きっと彼は「人に顔をそむけちゃいけない」という考えが身に染みているのだろう。
「とにかく、シキトは、君の、ことが、好きで、距離、の、取り方、が、分からない、だけさ」
「距離の取り方」
「そう。君も、そうなら、いまより、もっと、近付いたり、遠ざかったり、するのはどう?」
「近付いたり、遠ざかったり……」
「そうすれば、適度な、距離が、分かるかもよ」
「うん……そうだね」
「おれが、言えるのは、それくらい」
「なんだか、カズキ君には説得力があって、その通りにしようって思える」
「そうかな」
「気持ちが落ち着いたよ。ありがとう」
「何を、偉そうに、って、殴られ、ても、おかしくないけど」
カズキは微笑んで腕を振り上げるジェスチャーをとる。そして何を思ったか、その手をそのままわたしの頭に伸ばしてくる。
手。
手が……。
突然、目の前が真っ暗になって、気付くと自分でも驚くくらい大声で叫んでいた。
その声で我に返る。カズキは唖然として、雷に打たれた様な顔でこちらを見ている。わたしは自分に何が起きたかさっぱり分からなかった。
ただ、なぜかぞっとした。怖いと思った。
「蝶が、止まって、いたから……」
カズキは申し訳なさそうに手を引っ込める。
彼の手をけがらわしいもののように扱ってしまった自分が不思議で、そしてすごく申し訳ない。
どうしてだろう?
ちょっと前にシュウイチに同じことをされたときはなんともなかったし、そもそも怯えるような行為じゃないのに。
「ごめんなさい。あれ、わたしどうしたんだろう……。そんな、嫌とかは思ってなかったんだけど」
「いいよ。こっちこそ、突然、ごめんね」
わたしの苦しすぎる言い訳に、気にしたそぶりも見せずに微笑むカズキ。それからわたしたちは冷たい石段から立ちあがって公園を後にした。寮に着くまでの間、特に会話もなかった。わたしの頭の中ではその間中ずっと、カズキに手を伸ばされたさっきのシーンがぐるぐる回っていた。
何だったんだろう、あのときのわたしは。
カズキに情緒不安定な人だと思われただろう。




