第六十四通 「君が好きだ」
安奈を追うのを忘れ、その場に立ち尽す。胸が痛み苦しく、視界は霞んでくる。涙が目からこぼれそうになるが、それを必死に堪える。すると、安奈の声が遠くから聞こえてきた。
「マ〜サ〜。どうかした〜」
僕はこぼれそうになった涙を拭って、顔を上げ安奈の方に向かい軽く手を振りながら叫ぶ。
「何でもないよ〜。今、行くから」
この時、僕の中である決心が着いていた。初詣で引いたおみくじに書いてあった時期。それが、この日なんだと僕は悟った。安奈の方に向って僕は駆け出す。心臓はバクバクと鼓動をたてる。それは、走っているからなのか、不安からなのか分からないが、安奈に近付くに連れてその鼓動は大きくなっていく。
「ハァ…ハァ……」
「大丈夫? 無理するからだよ」
息を切らせ芝生に寝転ぶ僕に、横に座った安奈が優しくそう言う。寝転ぶ僕の視界には、綺麗な桜と、その隙間から見える青い空が移っていた。桜はゆっくりと風に吹かれながら、花びらを散らしていく。
「綺麗だね」
「うん……」
安奈の言葉に自然と口が開く。そして、激しく鼓動をたてていた心臓も、いつの間にか落ち着きを取り戻している。風は優しく僕と安奈の間を流れ、桜の花びらが僕と安奈の側にゆっくりと落ちてくる。
重い体をゆっくりと起こすと、安奈が心配そうに声を掛けた。
「無理しないで、休んでた方がいいよ」
「うん。もう、大丈夫だよ」
僕はそう言って、ゆっくりと笑みを浮べる。安奈もそれに対して、微笑み返しゆっくりと桜を見上げた。
その後、何秒か沈黙が続く。それが、僕には何十分にも感じた。まるで時が止まったかの様な感じだ。堅く塞がった口。開こうとすればするほど、口は開こうとしない。まだ、僕には勇気が足りないのか、どうしても声を出す事が出来ない。
楽しかった安奈との思い出が、口を開いた瞬間に終る気がした。迷いが僕を更に苦しめ、胸がまた苦しくなる。
そんな僕の手の平に、数枚の桜の花びらが落ちてきた。いや、僕には降りてきたように感じた。それが、僕に勇気をくれたのかも知れない。堅く閉ざされた口を僕はゆっくり開く。
「安奈……」
「なに?」
僕の声に安奈が優しく答える。
「実は……伝えたい事があるんだ……」
「伝えたい事?」
安奈は少し首を傾げ、顎に右手の人差し指を当てる。
僕の頭の中で整理されていた、安奈への言葉はいつの間にか真っ白になって消えていた。だから、シンプルにこう言うしかなかった。
「君が好きだ」