声無しの願望
◆失声症(しっせいしょう、Aphonia)
主としてストレスや心的外傷などによる心因性の原因から、声を発することができなくなった状態。一見同じような「発声器官に問題はないのに、ある時を境に喋ることができなくなった」状態でも、脳の言語野への物理的な障害により語彙記憶や言語の意味理解などに困難をきたした「失語症」とは異なる。
臨床心理方面では、場面失語という用語をも使う。(親しい人とは話すのに、ふつうの人とは話せないなど)ラテン語の日本語訳が、学派によっては定着していない可能性がある。
夢を見たかった。
大富豪になるとか、特別な能力を授かるとか、そういう“目立つ欲望”ではない。
何処にでもある、一般人が思う願望。
学生が片思いしている相手にしたいと思う、青春ならではの願い。
窓際に座る君を見つける度に募る思い。
“君と話がしたい”
医者でも神様でも誰でもいい、叶えてくれないか。
“失声症”の俺の、この小さく淡い希望を。
―――
キーンコーンカーン…
ワイワイ
ガヤガヤ
「(あーうるせぇ)」
放課後の教室は騒がしくて居心地が悪い。
掃除当番じゃなければいち早くおさらばしたい地獄の場所。
ペチャクチャ喋ってる暇があるなら手を動かせよ。
教師も役立たない。
キィ…バタン
掃除をさっさと終わらせ、まだ人が屯っている廊下や階段を早足で抜ける。
もう大方片付いた。
後は知らん。
ポケットに両手を突っ込んで黙々と歩く。
「ねぇ、あれって久我じゃない?」
「あーホントだ。相変わらずの無愛想で」
「なーんも喋らねぇし、気持ち悪い」
「何時見ても怒ってるもんな」
ヒソヒソ
クスクス
ゲラゲラ
ワハハハ
「…」
陰口を叩く奴らギロッと睨むと、楽しそうにまたクスクスクスクス気味の悪い声を出す。
男子も女子も、まるで見世物小屋のピエロのように俺を指差して笑いやがる。
何がそんなに可笑しいのかわからない。
意味不明。
学校なんか嫌いだ。
教師も生徒も全員全部大嫌いだ。
ガコッ!
腸が煮えくりかえすほどムカついたので、近場にあったゴミ箱を蹴飛ばした。
中に入っていたゴミが散乱するが知ったことではない。
「久我のご乱心~」
「…」
ブン!
まだ何かほざいている男子にプラスチックのゴミ箱を投げ飛ばし、悲鳴や怒鳴り声を背にまた歩いた。
俺が短気なのをわかってての言動だろ。
なら、汚い言葉を考える頭にゴミを被るくらいの覚悟はしとけよ。
けど、ゴミ箱被った姿はお似合いだったぜ。
ざまあみろ。
タンタンタン
最後の階段をリズム良く降りる。
影を射す、ひんやりとした場所まで移動した。
学校の端、人気の少ない所にある図書室。
静かなココは俺のお気に入りだ。
誰も俺を傷つけない。
沢山の本と優しい人間しかいない。
ガラッ
古びた木の扉を開けると図書室独特の臭いが鼻を擽る。
嗅ぎ慣れたこの湿った空気が好きで、此処に来たんだと実感してほっとする。
「いらっしゃい久我君」
カウンターに座る司書の渡貫先生が笑顔で迎えてくれ、それにペコリと頭を下げる。
うん、声をかけて出迎えてくれるっていうのは気持ち良い。
憩いの場所。
借りた本を渡して、定位置の席に鞄や防寒具を置いて場所取り完了。
後は適当に本を持ってきて、閉館ギリギリまで居座る。
…っと、その前に。
「…?」
キョロキョロと少し狭い図書室内を見回す。
可笑しいな、見当たらない。
この時間にはとっくにいるはずなのに。
もう何処の教室も掃除は終わってるだろう。
辺りには顔馴染みの本好きと渡貫先生しかいない。
何時も座っている窓際に彼女はいない。
一体何処にいるのだろうか?
今日はもう帰ってしまったのか?
それなら少しだけ気分が下がる。
視線が合った渡貫先生がニコニコしてた。
平和な人だな。
「…」
本棚の奥にいるかもしれない。
本を探すフリをして彼女を探そうと、室内の三分の二を占める本棚の林に侵入した。
途中で題名が気に入った本を手に取り、どんどんどんどん奥に向かう。
日の当たらない場所は昼間なのに薄暗く、難しい内容ばかり揃っていてあまり踏み入らない。
けれど埃が被っていないのは、渡貫先生と図書委員がこまめに掃除や手入れをしているからだろう。
空気は悪くない。
カタン
本をしまう独特の音に気づき、そちらにそっと顔を覗かせる。
「…」
分厚い本を黙読している彼女、片平がいた。
暗闇でも映えるスラリとした立ち姿に、ドキンと心臓が高鳴る感覚。
ドキドキして顔が少し熱くなる。
やっと見つけた。
今日は何を読んでいるのだろうか。
きっと難しい本だろう。
けど、気になる。
こんな所で見つめてたら変人に思われないだろうか。
気づかれたくない。
でも、気づかれたい。
こっち見ないかな。
見たらどうしようか。
手を振る?
友達でもないのに不自然だ。
会釈する?
してどうなる。
近づく?
心臓が破裂して死ぬ。
「…」
要するに、きっかけをつくりたい。
片平と話すきっかけを。
…よし、後であの本は借りて家で読もう。
理解できなくてもいい。
少しでも片平に近づきたい。
片平の瞳に一秒でも長く映りたいんだ。
神様仏様、俺に話しかける勇気をください。
誰でもいい、少し強めに俺の背中を押してくれ。
一歩を踏み出す機会を与えてくれ。
―――
それから三日後。
生憎、今日は月に三回あるリハビリのため、図書室には寄らずそのまま病院に直行。
とても憂鬱である。
片平には会えないし、嫌いなリハビリだし、担当の畔先生は怖いし。
正直行きたくない。
図書室にずっといたい。
「…」
大学病院の前でハァと大きな溜め息を零す。
此処まで来た。
『教室か病院どちらがマシ?』と聞かれれば『教室』と即答できる自信がある。
それくらい苦手だ。
渋々病院のロビーに足を運び、受付の看護士さんに手続きしてからドサッとソファに座る。
早く終わらせたいが、畔先生なら今日もとことんやるんだろうな。
老若男女様々な人間がいる中、子供の声と患者を呼ぶアナウンスの音しかしない静かな空間。
話し声も耳障りにならない。
気持ちが落ち着く。
図書室と同じくらい安心する。
「…」
リハビリ前に精神統一しよう。
怒って掴みかかったら倍返しで殴られる。
あの人手加減ないからめちゃくちゃ痛い。
『短気をヤメロ』と言われても簡単に直るモノではない。
まあ、今回も蹴られるか殴られるか、平手で壁に叩きつけられるか。
鼻血が出ないことを望む。
カツ、カツ、
目を閉じて自分の名前を待っていると、だんだんこちらに近づく足音。
ハッキリとわかる。
革靴やローファーのような音。
社会人か高校生か。
同じ学校の奴だったら睨むか。
カツン
それが隣で止まり、横目でジロリと相手を確認した。
…が、すぐにそれを後悔した。
前屈みで俺の様子を伺う女性が、荷物を置いた席を指差し質問する。
「隣に座っていい?」
緩くウェーブした黒髪をシュシュでサイドに結んだ片平が立っていた。
長めの前髪を指先で持ち上げ、薄化粧した綺麗な顔が露になる。
普段無表情なだけに、不思議そうに小首を傾げるちょっとした変化が新鮮で、実はこれが初めて見る表情。
「!!?」
ボボボボ
片平だと自覚した瞬間、頭、顔、耳、最後に全身が真っ赤に茹で揚がった。
瞳孔が最大限に見開き、パクパクと形にならない言葉が口から漏れる。
「…!!」
な、何で片平が此処に!?
病気なのか!?
俺の頭が夢遊病か!!?
ワケわからん!!
白昼夢!!??
ピッタリ当てはまる!!
どうした俺キャラ可笑しいぞ!!!!
え、それより夢ってなんか虚しいなオイ!!!
なら覚めるなよ!!
醒めるなよ!!!
そうじゃなくて!!
片平が喋りかけた!!?
俺に!?
俺に!!??
接点無かったよな!!?
悲しいくらい無いよな!!!?
無いんだよ!!!!
「…」
やっぱ夢…だよな。
俺が魅せた幻と幻聴。
きっとソファに座ってそのまま寝たんだ。
そうだそうだ。
もうそれしかない。
にしても顔近かったな。
ハッキリ見えたな。
遠目だったから前髪で隠れてたけど、綺麗な顔だったな。
いや、可愛いのか。
いっそ両方で。
しかも、さっき片平の目に映れた。
念願の夢が叶った。
めっちゃ幸せ。
凄く嬉しい。
幸福な気分のまま、永眠したい。
俺よ、醒めるな。
トン
「勝手に座るね」
膝の上に荷物を置かれ、隣に片平が座る。
え?
まさかの夢続行?
パァン!
「…」
頬を平手打ちしてみた。
思いっきり叩いた。
痛くない、はずなのにジンジン熱を持ち始めた。
…痛い。
涙目で腫れた頬を抑えていると、そっと冷たいものが添えられた。
「久我君って馬鹿だね。私の手、冷たいから使って」
冷たいものが俺の手を離し、代わりに熱い頬を冷やしてくれる。
片平の手が、俺に触れてる。
片平の目が、俺を見ている。
俺に、俺を、俺が…
ボン!
許容を越えた現実に俺の意識はシャットダウン。
カクンと体を横に倒して気絶する。
神様仏様天使様、まだ心の準備ができていないのに、一気に願いが叶いすぎました。
どうか、目が覚めたら今度は一つずつお願いします。
後、突然はヤメテクダサイ。
これはガチで。
せっかくの夢を強制終了させちまうから。
マジで勿体無い。
「…とんじゃった」
俺の頭が片平の膝の上に乗った、所謂膝枕なのに意識がなければ味わうこともできない。
残念過ぎる、俺。
―――
朝、学校に向かう生徒の群れの中を歩く。
まだ冬の寒さからネックウォーマーと手袋、コートが手放せない。
顔に吹き付ける冷風。
ポケットのカイロがとても温かい。
ポン
「おはよう」
「?」
背中を軽く叩かれ、寝起き不機嫌な顔で相手にガンをつける。
そこには笑顔の渡貫先生。
優しい笑みは相手をほっとさせ、先ほどのことに対して少し罪悪感が芽生える。
「…」
顔を背け、ペコッと会釈すると渡貫先生はそのまま隣に並んだ。
明るい声が心地よく、スッと耳に入る。
「今日も冷えるねー。久我君も片平さんも、風邪には気を付けてよ」
「…」
「はい」
マフラーを口元まで上げながらこちらに顔を向けて言った。
優しい人だ。
人に心配されるって、嬉しい。
じんわりと胸に広がる温度に感動。
コクリと頷いて返事をする。
「……?」
あれ?
さっき別の声がしなかったか?
渡貫先生、『片平さん』って言わなかったか?
さっきから隣を誰かが歩いてないか?
ふと丸まっていた背を上げ右を見ると、息が止まった。
「!!?」
「おはよう」
何でもない風に平然と挨拶をする片平が、いた。
ッボン!
灰色のコート可愛いな、とか思ってしまう余裕なんか無くて、寒かった顔が一瞬で真っ赤に燃え上がった。
後ろで渡貫先生の楽しそうに笑う声が遠くに聞こえ、また昨日の病院のように意識が薄れていく。
また夢か。
幸せな夢だなオイ。
―いや、昨日は現実だった。
目覚めると病院のベッドで、畔先生がジト目で見詰めていた。
あの恐怖、トラウマ。
二度と忘れはしない。
「!」
もう二の舞は踏まない。そう決めた。
ダン!
ギッ、と奥歯を噛み締め、一目散に駆け出した。
走る理由は自分でもわからないが、とにかくこの状況から逃げたかった。
片平があまりにも近すぎる。
肩が触れる距離って何だ!?
俺のハートがパンクしてしまう。
殺す気か!!
人目も気にせず、ただひらすら人混みの中を走り抜けた。
熱い!!!
「あーあ、久我君行っちゃいましたね。片平さん、どうしますか?」
片手をかざし、猛スピードで激走する久我を眺める。
先ほどとは違った丁寧な口調で隣を歩く片平にかけ、それから少しだけ間が空く。
何かを考えるように俯く片平をじっと待つ。
そろっと相手の様子を伺うように見上げられた視線に、渡貫は得意の笑顔で緊張を解す。
「先ずは久我君に話を聞いてもらう。詩律の“力”と畔先生の頼みを説明して理解してもらう。
…くろ君、手伝ってくれる?」
「ええ、勿論」
不安そうに下げられた眉。
何を心配しているのか、と渡貫は呆れた。
温かい大きな手の平でクシャリと黒髪を撫でた。
ワシャワシャするとせっかく結んだ髪がボサボサになるが、片平は文句の一つも言わない。
渡貫と比べればまだまだ子供だが、感受性が高い片平の“力”と性格は大人も引けをとらない凄いものだ。
だから、片平が“音”に潰れないよう自分がしっかりせねば、と笑顔の裏で気を引き締める。
まだ物言いたげな片平の手を優しく取り、そのまま繋いで歩く。
「片平さんの手助けをするよう院長に依頼され、自ら選んでこの場所にいるのですから。遠慮なく頼ってください」
「…無理はしないでね」
「ありがとう。その言葉だけで、私は何でもやれそうです」
キュと力を込めて握った細い手に、返事代わりにポンポンと手の甲を叩いた。
伏せた睫毛は何も言わず、足は人の波に乗るように動く。
慣れた頭の痛みを黙って受け入れる片平の頭を引き寄せ、安心させるようにまたポンポンと叩いた。
長編のキャラの数年後を描いた作品です。
主人公が純情乙女ですみません笑
また、久我君が詩律に惚れた話は機会があれば書きたいです。
きっと乙女ワールド全開でしょうけど。
ありがとうございました。