第九十三回 妖怪と天井
真夜中、布団に入っての寝入り端。男は仰向けになって何気なく視線を泳がせていると、隅の天井板が少しずれていることに気付いた。
ところが翌朝になると、どこにも天井板のずれなど見あたらない。それどころか、押しても引いても、天井板はびくとも動かなかった。どうやら男が就寝する際にだけ、天井板が動いているらしい。
隙間は日に日に大きくなってゆく。遂には隙間の向こうに覗く暗闇から、何者かの視線を感じるようになった。間違いない。得体の知れぬ何者かが天井の向こうにいるのだ。
男は子供の頃、田舎の祖母が住む古い家に泊まった際のことを思い出していた。あの時も、天井の向こうにいる何者かが、自分をじっと覗き込んでいたのに気付いたのだ。
恐ろしくなって翌朝、祖母に泣きついたところ。祖母は教えてくれた。それは天井下とか天井吊るしという、もののけの類だよ。出会っても決して、長く目を合わせてはならないからね。知らぬ振りをして、やり過ごすんだ。さもないと天井下に攫われてしまうよ。
天井とは、此岸である屋内と、彼岸である屋外との境界に存在する。いわば、あの世とこの世との橋渡しだ。ゆえに時々、この世ならぬ存在が棲み着くことがあるという。
間違いない。これこそ妖怪・天井下の仕業だ。男は確信した。ところが男は剛胆な性根があった。子供の頃こそ祖母に泣きついたものの。今度こそ負けてなるものかと考えてしまう。
やがて天井の隙間から、もののけがニュッと頭を部屋の中に突き出すようになった。日に日に、もののけは男へ近付いてくる。
巣穴から這い出る蛇のように、ずるぅり、ずるぅりと。天井から長い胴体ごと乗りだし、手を伸ばそうとする。もののけの手は一直線に、男の首へ向かっていた。これはもう、もののけめ、自分を縊り殺す気だ。
だが男も意地になり逃げようとしない。とうとう、もののけの指先が男の首筋に触れる直前にまで来てしまった。
このままでは言い伝え通り、自分は天井下に攫われてしまうのではないか。流石に不安になってきた男であったが、ここに来ても逃げようとしない。逆に反撃しようという発想に至った。
自ら天井裏に乗り込み、もののけと対峙してやろうと決めたのだ。
別の部屋から天井裏に入り、自分の寝室に向かう。天井裏は薄暗く、蜘蛛の巣と綿埃に難儀しながら、恐る恐るしか歩けない。途中で大黒柱の陰から、例のもののけが現れ、襲いかかってくるのではないか。不安になりながらも、やっとの思いで寝室の上にまで着いた。
確か、もののけが現れたのは、この辺りだったな。男は隅の天井板を調べてみると、あれだけ部屋の方から動かそうとしても動かなかった板が、いとも簡単に持ち上がった。
不思議なこともあるものだ。男は不意に、天井の穴から部屋の中を覗いてみた。すると誰か他の人がいる。男性だ。見覚えのある顔をしているな。それにしても誰なのか。
その部屋にいる誰かは踏み台に乗り、梁から吊した縄を輪にして、首にかけていた。そうして上を向くと、男と目が会う。そこで気付く。「誰か」とは、男自身だった。
もののけは最後に嫌らしく笑うと、遂に首根っこを捕まえた男に告げる。
「天井下から、つぅるした」
「やっ、やめてくれ!」
もののけが足下の踏み台を蹴り飛ばすと同時に、天井板は閉じて、男は闇に取り残された。
次の日、男が首吊り自殺をして死んでいるのを、家人が発見した。
確かに最近は悩みでもあったのか。眠れぬ日々が続いていたようだが。まさか、あの剛胆な人が自殺するとは信じられない。人々は男の死を悼んだ。
警察の取り調べでも、死因は首吊りによる頸椎の損傷によるものだと分かる。しかし首には縄の跡ではなく、なぜか手のような跡がついていた。だが片手で、大の大人を、例えば天井から持ち上げるなど不可能な話である。結局、男は自殺であるということで決着がついたのだった。