第七十九回 男と最終兵器
オイラが弾次さんの助手になってから一年になる。お茶くみだけは、すっかり上手くなった。
「弾次さん。お茶が入ったっす」
「すまねえなヤス」
その時になって、不意に気付いたのだ。
「弾次さんって……そういや、笑ったトコを見たことないっすね」
「バッカヤロウ。ダンディな男ってのはヘラヘラと、軽々しく笑うもんじゃねえんだよ」
チンピラどもにボコられているのを助けられて以来、オイラは弾次さんの押しかけ助手となった。
山戸弾次さんは私立探偵である。といっても来る仕事は荒事ばかり。世間様の陽が当たらない、裏道横道じゃあ、ちったあ知れた名だ。
いつもパリッとしたスーツを身に纏い。外出する際はトレンチコートを羽織って、フェルト帽を目深にかぶる。下手なドサンピンなら姿を見ただけで逃げ出す。まさにダンディを体現したかのような、男の中の男だ。
そんなある日のこと。
暴力団・火興組が扱っているヤクのルートを潰してくれと依頼を受ける。そこでオイラは勇んで、バイニンの尾行を引き受けた。が、下手をコイちまったらしい。尾行はバレていたのだ。
バイニンの仲間に背後から殴られて失神。頭からバケツで水をぶっかけられて気付いたら、どこかビルの一室にいた。
手足はきつくロープで縛られている。抜け出せそうにない。もちろん動けそうにもない。部屋に窓はなく薄暗い。照明は裸電球がひとつ、吊されているのみ。ビール瓶といったゴミが散らかされて汚い部屋だ。
中にいるのは、ガラの悪い荒くれ男どもがざっと十人。手には鉄パイプやドスを持ち、中には拳銃を持つ者もひとりいる。
絶体絶命。
そこへドアノブが回り、入ってきた男。
「おーう、死んでねえか、ヤスー?」
「だっ、弾次さん。なんでココに!?」
途端オイラはチンピラのひとりに「人質は黙ってろ!」と殴られ、銃口をこめかみに当てられる。
「よぉぉし、弾次。大人しくしてろよ。人質がどうなっても知らねえぞ」
なるほど。火興組はよっぽど弾次さんが恐いらしい。だからオイラを使って取引しようって寸法か。そのために呼び出したのだ。
いや、それ以前の問題として。エモノ持った荒くれが、この人数だ。さすがの弾次さんといえど、敵いっこない。もう駄目だ。
そう思った瞬間。オイラは見る。
「ヘッ」
弾次さんは不敵に笑っていた。
「テメエ、何がおかしい!」
動揺するチンピラども。その隙を狙って、弾次さんは足下に転がったビール瓶を蹴り上げた。ビール瓶は裸電球に命中、木っ端微塵に砕く。部屋は真っ暗になった。
「チャカは撃つな! 同士討ちになるぞ」
チンピラはそう指示するのが精一杯だった。暗闇の中を鈍い音が立て続けに響く。その音もしなくなった時。唐突に灯りが点いた。
それは弾次さんの点けたライターの火だ。
「どうやら、まだ生きてるようだな」
男どもは全員、弾次さんの強烈な拳骨を食らったのだろう。とっくに地べたをはいつくばっていた。
後で聞いた話、弾次さんは部屋の中にいた人間の立ち位置を確認してから、明かりを消したらしい。だから暗闇の中でも立ち回りができたのだ。
「ありがとうございます」
オイラはロープを解いてもらい、助け起こされる。あああ、自分が情けない。
だが、それ以上に気になることがあった。
「弾次さん、訊いて良いっすか」
「何だ」
「どうして、あんな状況で弾次さんは笑っていたんすか。普段はクスリとも笑わないのに」
「バッカヤロウ」
すると弾次さんはニカッと笑う。
「ダンディな男ってのは、ピンチの時にこそ笑うモンなんだよ。笑顔は男にとって、最後の武器なのさ」