第七十三回 盲目と色彩
彼は語った。自分にしか見えない色彩があると。彼は高名な絵描きだ。だが生まれつき視力を持たない。その彼が描くのは、抽象画ということになるのだろうか。キャンパスに描かれた色とりどりの幾何学模様は、配色の妙によって誰もが魅了された。と同時に、盲目の人間が見る色彩とはどのようなものかと、人々は不思議がった。
ここに売れない絵描きがいる。彼も昔は売れっ子として名を馳せた。だが時代に取り残され、自分の描きたいモチーフも見失い。もはや誰も彼の名前など憶えていない。ずっと皆の求める絵を描いてきたのに。なぜだ。彼は苦悩していた。
そんなある日。売れない絵描きは、盲目の絵描きの作品を見て衝撃を受けた。どうすれば、あのような素晴らしい絵が描けるのだろう? どうやら、盲目の者しか見えない色彩というものがあるらしいが。その色の秘密さえ分かれば、きっと自分も再び売れっ子になれるに違いない。
そこで売れない絵描きは、盲目の絵描きに教えを請うことにした。
「あなたのように素晴らしい絵を描けるようになりたいのです。どうすれば良いのでしょうか?」
売れない絵描きは、盲目の絵描きへ単刀直入に質問する。すると盲目の絵描きは丁寧に答えた。
「見たまま、ありのままを描いているだけですが」
「見たまま、といってもあなたは視覚を持っていないではないですか」
「内部閃光といって、人は瞼を閉じている時でもチラチラと光の見えることがあるでしょう。わたしはその光を描いているのですよ」
「では、その内部閃光に素晴らしい絵を描くための秘密が?」
「いいえ。わたしの見える光が特別というわけでもないでしょうね」
売れない絵描きはがっかりした。
「なんだ。皆と同じか」
「それはおかしい」
途端、盲目の絵描きは反論した。
「空は青く、郵便ポストは赤い、とはいっても。同じものを見たって、誰にも同じ赤なハズはない。皆と同じように見える色なんてあるはずがないでしょう。絵描きとは心象を描くものではなかったのですか?」
絵描きとは自分の心の中に描いた心象を描くもの。絵描きならば誰でも最初に習うはずの、基本中の基本だ。
売れない絵描きはそこで改めて自分が、自分の心象をなにひとつ持っていないことに気付く。
「だからわたしは、この瞼に映る光彩だけでも美しいと感じているから充分に満たされているのさ」
と笑う、盲目の絵描き。
空は青く、郵便ポストは赤い。そう決まっているから、決まったように絵を描いてきた。皆が求めているからと、自分では何も求めようとしなかった。
売れない絵描きは自分こそ、自分の眼でなにも見ようとしなかった、本当の盲目だったのだと恥じた。
津久ヶ原シャログくんからのお題リクエスト。三連発の二発目になります。