第六十一回 猿も木から落ちる
この不景気。やっとの思いで就職した、小さな町工場。そこには周囲から名人と呼ばれる人がいた。
「イッさーん、鉄板の穴空け。全部終わりましたー」
「だったら、こっち来て隣で手伝え」
「ウッス」
イッさんと呼ばれている、少々口汚い、油にまみれた初老のオッサン。彼こそ名人と呼ばれている男だ。だが俺は未だにイッさんのどこが名人なのか。その凄さは知らなかった。
だってこんな仕事。手順を慣れれば誰でも出来るようなものだし。名人とはいってもせいぜいが、少しだけ成功率が高い程度だと思っていたのだ。
「オイ。手元、気をつけろよ」
どうやら俺は集中できていなかったらしい。機械を使う仕事だ。指の一本も切り落とされては堪らない。俺は気を改める。
とその瞬間。イッさんの方が失敗した。甲高い音を立てて、機械のブレードが割れる。材料の鉄板も廃棄するしかないくらいに歪んだ。イッさんは慌てて機械の電源を止める。俺もフォローしなくてはと、機械の電源を止めた。
「大丈夫っすか、イッさん」
「おう。怪我はない。だけど……アッチャー。ブレードも鋼材もお釈迦だな。交換だわ」
機械を修理するイッさんを手伝いながら、俺はふと思ったことが口に出てしまった。
「イッさんも失敗することがあるんすね。ははっ。まさに猿も木から落ちるだ」
しまった。目上の人間に対して偉そうな口を聞いてしまった。怒られるかもしれない。ところが身構えても、イッさんからは何の反応もない。どうやら何かに集中していて、聞いてなかったらしい。
ホッと安心した俺に、イッさんは振り向くと、さきほどの失敗した鋼材を凝視している。なにやら様子がおかしい。
「どうしたんすか、イッさん」
「見てみろ、鋼材のココ。色が変わっているだろ」
指さされた箇所を見てみたが、何のことかサッパリ分からない。いわれれば確かに、うっすらと線のようなものが微妙にある……気もするが。俺には油汚れとの判別ができない。
「どうやら製材ん時に温度が変わったか、混ざりモンがあったんだな。ココだけ硬度が変わってんだよ。だからブレードが折れちまったのか。お前も同じ失敗しないよう、良~く見ておけよ」
すみません。だから俺では参考になりそうな気がしません。そもそも俺だったら舌打ちのひとつもしてから、淡々と片付けて終わりだろう。
「これだから、この仕事は奥が深いよな~」
楽しそうに呟きながら、手を動かし続けるイッさんを見て。俺は彼が名人と呼ばれるゆえんを実感していた。
木から落ちようとも、やはり猿は猿。名人も確かに失敗することがある。だが失敗してからの仕事が名人だったということか。
気分転換に、ことわざから短編を作ってみました。