第五十七回 歯と文字
全身が歯形だらけというサメがいた。その傷痕は戦いの跡だ。彼女は近海でも最強のサメだった。
戦いの果てに、他のサメは殺し尽くした。交尾のために近付くオスすら殺す。彼女の種族は胎生だが、産まれてきた子すら、腹から出てきた瞬間に食い殺した。絶対に他のサメの存在を許さない。もしかすると彼女は狂っていたのかもしれない。
果たして、もはや近寄ってくるサメすらいなくなっていた。彼女はまさに暴君だ。しかしその結果として皮肉にも、彼女のいる海は豊かな命に溢れていた。なぜならサメという天敵が一匹しかいないからだ。わずかな徴税のみを支払えば、繁栄が約束される。近海はおおむね平和だった。
その領域に入る若いサメがいた。背には長く一文字の傷痕がある。若いサメは暴君を倒そうとする挑戦者だった。
戦いは熾烈を極める。
彼女は覇者だ。簡単に負けはしない。だが挑戦者は若さゆえの、機敏さに溢れていた。どれだけ傷つけても泳ぎが衰えない。それにも増して執念が凄まじい。どんな痛みを与えても、退こうとしない。圧倒的な闘争心。彼女は挑戦者に自分以上の狂気を見出していた。
やがて彼女が先に疲れる。暴君にも老いが来ていたのだ。その隙に挑戦者の致命的な一撃が打ち込まれた。暴君はもはや動けない。身は海底に沈んで行き、意識も薄れる。
とうとう玉座を譲り渡す時が来たのだ。
だが薄れる意識の中で彼女は思い出していた。そういえば一匹だけ、噛み殺し損ねた我が子がいたはずだ。そして悟る。あの挑戦者の背に刻まれた、長い傷痕。あれは自分の歯形に違いない。
子サメに刻まれた傷痕が、成長するにつれて残り、長大なものになったのだ。
サメは母の胎内で、先に生まれた者がまだ孵化していない兄弟の卵を食って育つ。そして今度は母である自分をも食い殺して、あの子は生き残るのだ。サメとして生まれ、こんな愉快なことはない。
戦いによって、今や我が子も自分のように傷だらけになっていた。暴君の死は、すぐ周辺の海にいるサメどもが嗅ぎ付けるだろう。平和だった海は再び血に染まる。その激闘を潜り抜けて、あの子はさらに全身を傷だらけになるはずだ。新たな暴君として相応しい姿になるまで。
我が魂、我が狂気は受け継がれたのだ。彼女は安心の中に死んでいった。