第五十四回 ヒフと書物
私はビブリオマニア[書物収集狂]だ。それも単なる稀覯書が目的ではない。いわゆる、魔道書と呼ばれる類の本を集めている。
魔道書には人知を越えた深宇宙の謎が記されているという。ゆえに人間が読めば最低でも正気を失うか。ともすれば命を失い、魂は永劫の苦しみに囚われることになる……らしい。
らしい、というのは分からないからだ。私は自分で集めた魔道書を読んだことはない。なぜなら私はビブリオマニア。私にとって書物とは読むためにあるのではない。本棚に並べられた姿を眺めることで、今まさに叡知の縮図が掌中にあると確信する。書物とは、その瞬間のためにあるのだ。
ある日のこと。私はとある魔道書の噂を聞く。魔道書の名はネクロノミコン。その表紙には人間の皮が使われているという。魔道書の中でも最も忌まわしく、究極的な狂気な内容に満ちているという一冊だ。
ビブリオマニアの間では当然のように知られている有名な、だが誰も目にしたことすらない。存在すら疑われている、まさに伝説の魔道書であった。
その、ネクロノミコンを所有している人物がいるという。
私は熱狂した。是非ともネクロノミコンを我が蔵書に加えたい。きっと、ネクロノミコンを加えた瞬間にこそ、我が本棚は完成するに違いない。
だから私は所有者を探した。探して、幾度も幾度もネクロノミコンを譲ってくれるよう頼み込んだ。どうやら所有者は金銭の通用する相手ではないらしい。ならばと足繁く通い、誠意を見せた。
斯くして根負けしたのか。今夜、私はネクロノミコンを所有する人物と引き合わされることになったのだ。
目隠しされたまま馬車に揺られ、更に建物の中を地下へと歩き。気付くと私は邪教の館にいた。壁は生け贄の血で汚れ、床には得体の知れぬ紋様が描かれている。冒涜的に歪んだ祭壇には、直視するだけで吐き気のするような邪神像が鎮座していた。
その前にはローブの人物がひとり。深くフードを被っていて、表情も見えない。
「ネクロノミコンを御所望とは、あなたですかな?」
男か女か、若いか老いているのかも分からない声。だが間違いない。ネクロノミコンの所有者とはこの人物だ。
私は興奮しがちにまくし立てた。
「はい! 譲ってくれるのならば、いくらでも金銭を支払いましょう。金銭が問題ではないというのなら、どんなことでもします。どうか私にネクロノミコンを譲ってくれないでしょうか」
「ならば……こちらにいらしてください」
その瞬間。いつの間にいたのか。私は背後から誰かに肩を取り押さえられ、祭壇に引き倒された。ものすごい怪力で、抵抗すらできない。しまった、ネクロノミコンをダシにした罠か。私は邪教の生け贄として殺されてしまうのか。
すると、さっきの人物が私の顔を覗き込んだ。
「そう恐れずとも宜しい……ネクロノミコンは約束通りにお譲りしますよ。あなた自身へね」
フードが落ちて、表情が露わになる。彼は……いや、彼というより「それ」の顔には、びっしりと入れ墨が施されてあった。入れ墨は、外宇宙で語られるおぞましい文字の形をしている。その入れ墨が、蟲の群れのように一斉に蠢きだしたのを見て、私の意識は途絶えた。
こうして日記に記していても恐ろしい。
気付くと私は屋敷に戻っていた。だが鏡を見て、再び気を失うことになる。今こそ私は理解した。ネクロノミコンとは、人間の皮でできた表紙の本ではない。生きた人間の皮に直接記された奇形の文字群こそが、ネクロノミコンだったのだ。
その意味で「彼」は親切だったといえよう。ネクロノミコンを入手して、私は狂喜すらした。
だが恐ろしいのは、この後だ。
私はビブリオマニアである。内容が危険だと知っていれば、わざわざ蔵書を読むことはない。しかしヒフに刻まれた文字は、肉へ食い込み、血へ浸透し、私の脳髄へ直接語りかけてくる。鏡を見て、自らの姿を「読む」までもない。耳を塞いでも、嫌でも私はネクロノミコンを読み続けなければならないのだ。
遙かな彼方より誘う声がする。いつまでも抵抗はできない。いつか私はこの世から消えてなくなるだろう。
だから、この日記を読んでいる人に頼みがある。
私が消えた跡に、なめし皮の本が一冊残されているはずだ。その書物を、本棚のどこでも構わないから収めてくれないか。斯くして我が本棚は完成するだろう。自分自身で本棚の完成を見届けられないのは残念だがね。
だが完全なる本棚の一冊になると思えば、ビブリオマニアの最期としては悪くない。