第四十五回 好意と商人
天下にその人ありと謳われた、大工の棟梁・安兵衛親分。ところが嫁さん、目をかけていた弟子と駆け落ちしやがった。しかも有り金ごっそり盗んで、はいドロン。他の弟子たちも給金が払われねぇのならと、一家は散り散りに。残されたのは娘のおミツただひとり。
かけた情けが徒となる。人情紙吹雪。まさしく情けは人のためならず。
ドンドンドンドン。長屋の戸を今日も叩く音。
「安兵衛さんヨォ。居るのは分かってんだい。失礼するよ」
入ってきたのは、借金取りのガラが悪いチンピラ。長屋の奥じゃあ、安兵衛さんと娘のおミツちゃんが青い顔をして座っている。
「やいやい、借金の返済は今日までだぜ。百両、きっちり耳を揃えて払ってもらおうじゃねえか」
「とは申しましても、この通り米びつすら空っぽという始末でして……」
かつての大名人・安兵衛さんも、この様ともなれば声に気迫もない。大工の組を失って、手元に残るは借金だらけ。ところが、こうも落ちぶれれば他の大工も相手にしてくれない。
仕事もなく、借金を返す手だてもなく、安兵衛親子。途方に暮れていた。
「だったら娘を吉原にでも売っ払わせてもらおうか。夜鷹でも何でもして、稼いでもらうぜ」
チンピラ、ぐいとおミツの手を引っ張る。
「あーれー、助けてお父っつぁん」
「娘だけは、娘だけはどうかお助けを」
危うし安兵衛親子。そこで「ちょっと待ちな!」と長屋の戸を開けて、誰かが入ってきた。見ると小粋な若旦那。
「話は聞かせてもらったよ。借金は百両だってな。きっちりオイラが払ってやる。その代わり、もう二度とココには来るんじゃねえぞ!」
啖呵を切ると、懐から小判を土間へ放り投げた。チンピラもこれには堪らず、小判を拾い集め、ひぃふぅみぃと勘定すると、頭を下げながら退散した。
もっと驚いたのは安兵衛親子だ。
「どこの誰かは存じませんが、御慈悲をありがとうございます」
「どこの誰と存じぬとはひどいなあ。
その昔、両親を失って江戸に出たは良いが、右も左も分からぬこのオイラ。一宿一飯を与えてくれた上。立派な商人になるんだよと、大店の丁稚奉公を紹介してくれたじゃあありませんか。
この目元の泣きぼくろ。憶えはないかい。小僧だった本吉だよ」
云われれば、確かに見覚えがある。
「お前、あん時の小僧かい。また立派な旦那になって」
「おかげでオイラも一生懸命に奉公し、暖簾分け。さあ今こそ棟梁に恩返しをと思ったら、大恩人が困っているじゃあありませんか。押っ取り刀で駆けつけたんですよ。娘さんを助けられて良かった良かった」
情けは人のためならず。親切にすれば恩となって返ってくるもんだ。安兵衛は涙の溢れる目頭を押さえた。
「アッシなんかのために百両なんてぇ大金をポンと恵んでくれるたあ。世の中も捨てたもんじゃあねえなあ」
「えっ? あの百両は別に差し上げたわけじゃあありやせんぜ。親方にゃあ、後日きっちり百両を頂きたいと存じておりますが」
「ちょっと待て。オイラはお前さんの恩人じゃあなかったのかい」
「いえいえ。親方はオイラに、立派な商人になれと申しました。商人にとって銭は血肉のようなもの。タダというわけには参りません」
おやおや、どうにも話の雲行きが怪しくなってきた。すると本吉が取り出したる帳面をば開いて、安兵衛に見せる。
「今度、京都で寺の大がかりな普請がありましてな。ところが大工名工たちが丁度、他の仕事で出払って、腕のあるヤツがいやしない。
そこで白羽の矢を親方に立てたってえ寸法ですよ。どうですかい。親方ほどの名人が腕を腐らせるのも勿体ない。若い衆ならこちらで揃えましょう。
恩人に失礼とは存じております。そこを踏まえて、百両でこの仕事、受けては頂けはないでしょうか?」
とソコで見せた本吉、男一代の大土下座。安兵衛、開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。だが呵々大笑して、膝を叩いた。
「一切仔細承知した。この仕事、受けさせてもらいましょう。にしても、あの時の小僧が確かに、立派な商人になったもんだなあ」
「オット、そうだ。材木はウチの問屋からお願いしますよ」
全く、情けは人のためならず。




