第二十五回 櫛と初めて
盆が来て、集団就職に行っていた若衆が次々と帰郷する。その日の晩、庄屋の屋敷で馳走が皆に振る舞われることとなった。
宴もたけなわ。与吉は酔っぱらいが騒ぐ中を抜け、用を足し酒席に戻ろうとした途中。暗い廊下に立つ、ある人影に気付いた。
「一人前の男の顔になったじゃねえか、与吉」
それは幼なじみの娘、トメだった。
「おめぇは、相も変わらず女らしくねえがな。そんなんで嫁の行き手はあんのか?」
「うるせ」
与吉は照れ隠しにトメをからかう。久しぶりに会ったトメはすっかり子供っぽさが抜け、女らしい匂いを放ちつつあった。与吉の心臓が早鐘を打ちだす。だがトメは構いなく、与吉の腕や胸板をぺたぺたと触ってみる。
「すっかり逞しくなったな」
「京でも一番の細工師に弟子入りして、毎日親方に小突かれてっからな。もう大分、腕も上がったぞ……おっ、そうだ」
とそこで思い出したことがあって、与吉は懐から取り出した包みを、トメに手渡した。
「おめぇのお父から頼まれてたんだ。開けてみろ」
おずおずと開いた、布包みの中にあったのは漆塗りの黒地に金模様の櫛だった。
「オイラが親方に許されて作った、最初の櫛だぞ。どうだ」
「すげえ……これ本当に与吉が作ったのか? もう立派な名人じゃねえか」
「コイツはオヤジさんの、おめえにもっと女らしくしろってな、きっと戒めなんだろうな。ははは」
与吉も褒められて悪い気はしない。有頂天になって胸が熱くなる。
「なあトメ、オイラが独り立ちしたら、おめえオイラの……」
「与吉!」
そこまで言いかけて、与吉は続く言葉を止められた。櫛を贈られて嬉しいはずの、トメの表情が不思議なことに、涙を堪えているように見える。
「与吉よ、この櫛をオラに挿してくれねえか?」
「お、おう」
戸惑いながら、与吉は自信作でトメを飾ってやることにした。すると丁度、頭を胸に抱くようなかたちとなる。伝わる体温。髪の香り。だがトメの表情は見えない。そのまま、トメは伝えた。
「隣村の議員さんに、嫁が早死にしちまったドラ息子がいたろ?」
「確か、そんなのもいたっけな」
「オラな、今度そいつんトコへ嫁入りする話が来たんだ」
崖に突き落とされるような感覚。櫛を持つ手が震える。
「お母も病気がちだしな。まだ小さな弟妹が四人もいるし。庄屋さんも良い話だって喜んでくれてるだよ」
「だけんども……」
だけど続く言葉が見つからない。ただ、まだ半人前に過ぎない自分には何も出来ないまま、トメの髪を飾る作業だけが終わった。
「できたぞ」
胸からトメの体重がふわりと浮く。次の瞬間、トメは不意討ちのように与吉へ口づけをした。唇と唇が触れ合っただけの、しかし互いにとって生まれて初めての接吻。
何が起こったか分からず混乱する与吉に対して、トメは顔を真っ赤にして笑った。ああ、トメの黒髪を、金模様の櫛は美しく映え立てている。
「与吉の初めて、確かに貰ったぞ。これだけあれば、もうオラはどこ行ったって大丈夫だからな」
猫のように自分から離れた、トメの手を握ろうとする。ところが宴席から「おーい、与吉はどこ行ったー!」と自分を呼ぶ声がした。仕方なく「へーい、今!」と振り返って返事をする。その間にトメは廊下の夜陰に消えていた。
それっきり、与吉が村に帰郷することはなく。ふたりが今生で再会することはなかった。