エタった自作小説に入ったら、主人公が刀を持って催促しに来た
「書くのか、書かないのか。どちらだ?」
午前二時。真っ白なWordの画面を前にぼんやりしていた私の耳元で、突然、男の声がした。
驚いて手が跳ねる。最近、徹夜しすぎているせいに違いない。連載中の『偏執皇帝の囚愛』は、もう十二日も更新できていない。このまま一文字も書けなければ、幻聴くらい聞こえてもおかしくない気がしてきた。
ところが、直後にズボンの裾を何かに強く引っ張られた。
「何っ?!」
目の前のパソコンが急激に熱を帯び、画面の中央に真っ黒な亀裂が走った。そこから青白い手が伸びてくる。
続いて、長い黒髪の男が上半身を画面から乗り出した。華麗な黒い皇帝の礼装は、あちこちが墨で汚れている。
私はその顔を見た瞬間、息を呑んだ。
九条蓮司。
私が自分の手で書いた、この物語の主人公だった。
蓮司は恐ろしいほど暗い目で私を見据えた。
「お前が余の結末を書かぬというのなら――」
彼の手が私の手首をつかむ。
「中へ来い」
「残りは、余たち自身で演じればいい」
「待って――」
1
最後まで言う暇もなかった。凄まじい力に引かれ、私はそのまま画面の中へ吸い込まれた。
視界が真っ白になる。体から重力が消え、まるで高速で回り続ける洗濯機の中に放り込まれたように、暗闇と白い光の間を何度も転がった。
そして――。
「ドンッ!」
背中から冷たい床へ叩きつけられた。
全身の骨がばらばらになったのではないかと思うほど痛い。私は床の上で丸まり、滲んだ涙をこらえながら顔を上げた。
「目が覚めたか?」
頭上から男の声が落ちてくる。
私は痛みに耐えながら顔を上げ、そのまま息を止めた。
ここは、私のマンションではない。
高い梁は薄暗い天井へ溶け込むように伸び、周囲には濃い色の帳が垂れている。床には冷たい黒木が敷き詰められ、自宅に染みついていたコーヒーやカップ麺の匂いの代わりに、濃厚な墨の香りが漂っていた。
私はこの場所を知っている。
白鷺宮。
私自身が設定した、月華帝国皇帝の寝宮だ。
そして目の前にいるのは、気まぐれで執着心が強く、最後には狂気へ堕ちる若き皇帝。
九条蓮司。
想像していたよりもずっと背が高い。黒い礼装は墨に染まり、充血した目の奥には剥き出しの怒りが宿っていた。右手には細身の太刀が握られ、その切っ先から黒い墨が一滴ずつ床へ落ちていく。
ぽたり。
ぽたり。
そのたびに背筋が冷たくなった。
「あなた……誰?」
我ながら馬鹿な質問だと思う。
けれど、本気で恐怖に支配されると、人間は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまうらしい。
蓮司がゆっくり笑った。
「余が誰だと?」
「それを、お前が余に問うのか?」
太刀を引きずりながら、一歩ずつこちらへ近づいてくる。刃が床を擦り、不快な金属音を響かせた。
「余は第30話に閉じ込められ、来る日も来る日も、決して訪れぬ結末を待ち続けていた九条蓮司だ」
私は床に手をつき、必死に後ずさった。
「違うの! 聞いて、誤解だから! ただ、その……書けなくなっただけなの!」
蓮司の足が止まる。
「書けなくなった?」
低く繰り返した声には、笑いなど一欠片もなかった。
「随分と便利な言葉だな」
彼は私を見下ろす。
「余の婚礼の夜で、お前は筆を止めた」
「余の皇后が、この刀で命を落とそうとしているところで、お前は筆を止めた」
「余を最も苦しい瞬間に置き去りにしておきながら、今さら『書けなかっただけ』だと?」
何も言い返せなかった。
蓮司も返事など期待していなかったらしい。
深紅の布が顔に投げつけられる。
慌てて取り払うと、それは婚礼用の衣装だった。血を思わせるほど濃い赤の生地に、金糸で白鷺が刺繍されている。息を呑むほど美しいのに、裾にはまだ乾いていない黒い墨がこびりついていた。
「着ろ」
「え?」
「第30話だ」
蓮司は冷たい目で私を見る。
「婚礼の夜。そこでお前は筆を止めた」
「ゆえに今から、お前自身が続きを演じろ」
頭の中が真っ白になった。
「嫌!」
私は衣装を押し返した。
「私は小説の皇后じゃない! 作者なの!」
最後の切り札にすがるように叫ぶ。
「九条蓮司、ちゃんと分かってる? あなたを作ったのは私よ! 顔も、身分も、子供時代も、性格も、全部私が書いたの!」
「こんなことしていいわけないでしょう!」
「今すぐ元の世界に帰して!」
「作者?」
まるで途方もなく滑稽な話を聞いたように、蓮司が笑う。
次の瞬間には手首をつかまれていた。掌は異様なほど熱く、その手に付着していた黒い墨が私の皮膚へ染みついていく。
鋭い光が走った。
「うっ……!」
太刀が右肩を貫いた。
ところが、想像していた激痛は来なかった。代わりに、パソコンがフリーズしたときのような痺れが全身を駆け抜ける。
さらに恐ろしいことに――血が出ない。
傷口から溢れたのは、点滅する黒い文字化けだった。
「な……」
肩を見つめていると、蓮司の手が首にかかり、私はそのまま持ち上げられた。
息ができない。
「この世界では――」
彼の顔がすぐ目の前まで近づく。墨色の瞳に、怯えきった私の顔が映っていた。
「神は余だ」
「お前は、言うことを聞かぬ原稿の素材にすぎない」
手足から力が抜けていく。
ようやく理解した。
ここは、もう私の世界ではない。
作者という肩書きなど、この場所では何の盾にもならない。
死にたくなかった。
私は抵抗をやめ、必死に彼の腕を叩いた。酸欠で勝手に涙が溢れてくる。
数秒後、蓮司はようやく手を放した。
床へ崩れ落ち、首を押さえながら激しく咳き込む。
「さて」
蓮司が私を見下ろした。
「今度こそ、着る気になったか?」
もう逆らえるはずがなかった。
私は這うようにして婚礼衣装を拾い上げ、震える手で身につける。
満足したらしい蓮司は、再び刀を持ち上げた。冷たい刀身が顎に触れる。
「泣け」
「え?」
「泣けと言った」
蓮司は淡々と告げる。
「原稿にはこうある。『皇后は追い詰められ、瞳に涙を浮かべながらも、儚げな美しさを見せた』」
刃先が肌をわずかに裂く。
やはり血は流れず、文字化けだけが零れた。
もう耐えられなかった。
私はとうとう声を上げて泣いた。
怖かったからだけではない。
パソコンの前で面白半分に書き散らしてきた過激な展開が、今度は一つ残らず自分の身に返ってきている。
これはきっと、報いなのだ。
2
墨でまだらに汚れた婚礼衣装のまま、私は九条蓮司に寝台へ放り投げられた。
柔らかい寝具なのに、雪の中から取り出したばかりのように冷たい。墨の匂いも濃すぎて気分が悪くなり、私は隅に縮こまって胸元を強く握った。
ところが、蓮司はすぐには近づいてこなかった。
誰もいない寝台の脇へ向き直ると、それまでとは別人のような優しい微笑みを浮かべた。
「皇后」
「ようやくその衣をまとい、余のもとへ嫁ぐ気になったのだな」
ぞくりとした。
先ほどまでの冷酷な声とはまるで違う。そこには、私が想像したこともないほど深い愛情と執着が混じっていた。
彼の視線を追い、私は心臓が縮む思いをした。
寝台のそばに、いつの間にか誰かが立っている。
いや。
人ではない。
人形だった。
私とまったく同じ深紅の婚礼衣装を身につけ、長い髪を背中へ垂らしたまま、こちらに背を向けている。
「なぜ何も言わぬ?」
蓮司は人形を見つめた。
「恥ずかしいのか?」
「それとも……いまだ余を恨んでいるのか?」
私は両手で口を押さえた。
この場面には覚えがある。
第30話で、皇后を手に入れられなかった蓮司が精神的に追い詰められ、婚礼の夜に幻を見る展開を書いた。存在しない皇后と会話を続けるのだ。
けれど、人形なんて書いた覚えはない。
その疑問に答えるかのように、人形が動いた。
ぎこちない動きで、少しずつこちらを振り向く。
顔が見えた瞬間、私は悲鳴を上げた。
「きゃああっ!」
目がない。
鼻もない。
口もない。
顔全体が、つるりとした真っ白な平面だった。
その中央で、黒いカーソルだけが点滅している。
まだ一文字も入力されていないWordの白紙ページそのものだ。
蓮司は私の悲鳴など聞こえていないようだった。
空白の顔をじっと見つめ、先ほどまでの愛情を消す。
「役立たずめ」
太刀が抜かれた。
人形の首が宙を飛ぶ。
顔のない頭は絨毯の上を転がり、私の足元で止まった。首を失った体はそのまま倒れ、私の上へ覆いかぶさる。
切断された首から出てきたのは、血ではなかった。
大量の文章が噴き出した。
【彼女は微笑んだ。その瞳には星の光が宿っているようだった】
【彼女は真珠のような涙をこぼした】
【彼女は言った。あなたが憎い】
【そして彼女は振り返らずに去った】
私は呆然とした。
全部、私が書いては消し、消しては書き直した没原稿だった。
叫びながら人形を押しのけようとする。
しかし蓮司は寝台へ歩み寄ると、文字を吐き続ける人形の横へ私を押さえつけた。
「分かったか?」
耳元に冷たい笑い声が落ちる。
「お前はこの女の目を書かなかった。口も書かなかった。最後にどんな表情をしていたのかすら決めなかった」
「だから、こいつには何もない」
指先が涙を拭う。
仕草だけなら、恋人にでも触れるように優しい。
けれど、口から出てくる言葉はひどく冷たかった。
「お前がこいつに完成した顔を与えなかったというのなら――」
「これからは、お前の顔を使えばいい」
私は必死に暴れた。
「九条蓮司、正気なの?!」
「これはただの小説よ!」
「あなたたちは全部、作り物でしょう!」
蓮司の笑みが消える。
「作り物?」
彼は突然、寝宮の天井を指差した。
つられて見上げる。
そして固まった。
白鷺宮の屋根が消えている。
代わりに空を覆っていたのは、巨大なWordのツールバーだった。
【ファイル】
【編集】
【表示】
【挿入】
見慣れすぎたメニューが空中に並んでいる。
その中央では、赤い削除アイコンがゆっくり点滅していた。
背後から蓮司の声がする。
「見えるか?」
「お前が演じないなら――」
「余があれを押す」
「そのときは、この世界も、ここにいる者も、お前も。すべて削除される」
体が動かなくなった。
脅しではない。
ここはそもそも、私の文書ファイルから生まれた世界なのだ。
本当にすべてを消せるのかもしれない。
「やる」
私は必死に頷いた。
「演じるから!」
ようやく蓮司が手を放した。
息をつく暇もなく、今度は小さな卓から杯を取り、私へ差し出す。
中の液体は不気味な深緑色で、表面から泡まで立っていた。
「今度は何……?」
「第31話だ」
蓮司の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「婚礼の夜、皇后は余を暗殺しようとして失敗する」
「余は皇后に毒杯を与える」
「そして恨みを抱いたまま死ぬ」
彼は少し間を置いた。
「その後、死に戻る」
私は杯を見つめたまま、完全に心が折れた。
これも私が書いた展開だ。
無理やり死に戻り編へ突入させるため、深く考えもせず用意した毒杯。
今度は――私が飲む番らしい。
3
深緑色の毒杯を両手で持ちながら、私はこぼしそうなほど震えていた。
細かな泡が絶えず浮かび、濃い墨の匂いが鼻を突く。必死で記憶を探り、この場面に何か逃げ道になる設定を入れていなかったか思い出そうとした。
死にたくない。
この世界で一度死んだあと、現実に戻れる保証などどこにもない。
そこで、忘れていた一つの設定が頭に浮かんだ。
刺客だ。
そうだ。
物語を複雑に見せるため、皇后が毒を飲む直前に正体不明の刺客が白鷺宮へ乱入する展開を用意した。処刑を中断させ、その後の陰謀編への伏線にもする予定だった。
刺客が来るまで時間を稼げばいい。
私は背筋を伸ばし、自分が書いた気丈なヒロインを必死に演じた。
「九条蓮司」
「たかが毒杯一つで、私が屈するとでも思ったの?」
蓮司がわずかに眉を上げる。
私は震えを隠し、できる限り堂々と言った。
「たとえ今日ここで死んでも、怨霊になってあなたを許さない!」
台詞は完璧だった。
少なくとも原稿どおりだ。
窓へ何度も視線を送りながら待つ。
来て。
早く来て。
三秒。
五秒。
十秒。
外は静まり返っている。
刺客どころか、鳥一羽飛んでこない。
蓮司の忍耐も尽きたらしい。
「台詞は悪くない」
私の顎をつかむ。
「だが、余はもう待たぬ」
口をこじ開けられ、毒を一気に流し込まれた。
喉から胃まで焼けるような感覚が走り、思わず涙が出る。
刺客は?!
私が設定した刺客はどこにいるの?!
そこで、とんでもなく重要なことを思い出した。
あの展開……。
プロットにしか書いていない。
本文には、まだ一文字も入れていなかった。
終わった。
目を閉じ、死を覚悟する。
ところが十数秒経っても、喉に強烈な墨の味が残るだけで、何も起こらなかった。
「げほっ!」
黒い墨を大量に吐き出す。
淡い金色の寝具に墨が飛び散った。
それだけだった。
私は死んでいない。
むしろ体が妙に軽い。
手を見ると、指先が半透明になっている。
蓮司も怪訝そうに私と空の杯を交互に見た。
「論理エラーか?」
その言葉で、一つの答えが浮かんだ。
バグ。
そうだ。
この小説は未完だ。
現実世界から強制的に入り込んだ作者である私は、この物語の登場人物として登録されていない。身分も、HPも、明確な死亡条件も設定されていない。
つまり私は――定義されていないバグだ。
恐怖が一気に薄れた。
死なない。
痛みは感じる。
傷もつく。
けれど、この世界には私を「死亡」と判定するルールそのものが存在しない。
それなら、殺される心配だけはない。
急に強気になった私は蓮司を押しのけ、寝台から飛び降りた。
「分かった?」
腰に手を当てる。
「私はこの世界に死亡判定そのものがないバグなの!」
「痛くすることはできても、私を殺すことはできない!」
押された蓮司が半歩下がる。
怒るかと思った。
ところが、彼は笑った。
その笑顔を見て、嫌な予感がする。
「殺せぬ?」
「それは……実に都合がいい」
私の勢いが一気に萎んだ。
「死に戻りの手間も省ける」
「どうせ死なぬのなら――」
「ゆっくり試せるな」
蓮司が指を鳴らす。
「パチン」
寝宮の四方から黒と赤の鎖が飛び出した。
気づいたときには手首と足首へ絡みつき、私の体を宙へ吊り上げている。
「きゃっ!」
身動きできない。
しかも鎖の表面には、真っ赤な文字がびっしり浮かんでいた。
【投稿規約違反のため非公開】
【過度な残酷描写を含むため公開不可】
【年齢制限対象の表現を含むため自動非表示】
私は目の前が暗くなった。
これ全部、以前私が書いて投稿サイトのチェックに引っかかった文章だ。
それが今、現実の鎖になって私を拘束している。
鎖が皮膚へ食い込み、傷から赤いエラーコードが漏れ出した。
「な……何する気?」
蓮司がゆっくり歩み寄る。
冷たい指が頬をなぞった。
「処刑のくだりにバグがあるのなら」
耳元へ顔を寄せる。
「飛ばせばいい」
「婚礼の夜、その次の場面へ進むぞ」
4
「公開不可」の文字で覆われた鎖に、私は寝台へ固定されていた。
適当に着せた婚礼衣装はすっかり乱れ、私は胸元を必死に押さえる。一方の蓮司は黒い外衣をゆっくり解き、まるで既に決められた筋書きを実行しているかのようだった。
衣が開いたところで、胸元に小さな朱色の文字があることに気づく。
【作者専用】
私はその文字を見つめた。
こんな設定、いつ作ったの?
作者である私自身が覚えていない。
蓮司は私の反応など気にも留めず、奇妙な筆を取り出した。穂先は雪のように白く柔らかいのに、軸は冷たい骨のように見える。
筆に墨を含ませ、私の鎖骨へそっと触れた。
冷たさに体が震える。
「ここは」
蓮司の声が低くなる。
「原稿ではどう書く?」
「『雪のように白い肌』か?」
「それとも、『涙を浮かべながらも、瞳には強い意志が宿っていた』か?」
頭に血が上った。
「変態!」
「九条蓮司、あんた本当にどうしようもない変態よ!」
蓮司が小さく笑う。
「よい罵り方だ」
「お前が書いたヒロインの性格にも合っている」
私は歯を食いしばった。
「無理やり物語を最後まで演じさせたって何も変わらない」
「私はあなたの望みどおりに好きになったりしない」
「絶対に屈服しないから!」
蓮司の瞳がわずかに揺れる。
そして、筆が止まった。
私は目を閉じた。
この先に書いた最悪の展開から、もう逃げられないと思った。
けれど、何も起こらなかった。
しばらくして、蓮司は筆を私の手へ握らせた。
熱い掌が、私の手を包む。
そのまま私の手を動かし、寝具の上へゆっくり文字を書いた。
――助けて。
私は目を見開いた。
あれほど狂気に染まっていた蓮司の目から、赤い光がすべて消えている。
残っていたのは澄んだ瞳と、今にも壊れそうな疲労だけだった。
「この場面は……」
掠れた声で言う。
「痛すぎる」
「書き換えてくれ」
「頼む」
「これを……変えてくれ」
私は動けなかった。
ようやく理解する。
蓮司は、これらの行為を望んで楽しんでいたわけではない。
彼自身も設定に支配されている。
物語が走り始めれば、私が書いた狂気の皇帝へ強制的に戻され、書かれた残酷な行為を繰り返さなければならない。
彼は、そんな自分になりたくないのだ。
創造主である私に助けを求めている。
胸の奥が痛んだ。
もしかしたら、協力できる。
物語を書き換える方法さえ見つければ、彼も自分も救えるかもしれない。
そう伝えようとした、そのときだった。
蓮司の体が固まった。
瞳から澄んだ光が消え、再び赤い狂気が広がる。
「ビリッ――」
婚礼衣装が引き裂かれた。
気づけば再び寝台へ押し倒されている。
「余を騙せると思うな!」
枕元から短刀を抜き、切っ先を心臓へ押し当てた。
もう一方の手で空中に触れる。
景色が変わった。
白鷺宮の梁も屏風も寝台も、目の前の蓮司の顔さえ、無数のデータと文字列へ分解されていく。
世界の最下層。
本来、目に見えるはずのない構造そのものが露出した。
蓮司が私を見る。
「二つから選べ」
「一つ。原稿どおり、この場面を最後まで演じる」
「二つ」
短刀がさらに沈む。
皮膚が裂け、黒いコードが滲む。
「今ここでお前の心臓を開く」
「そして、そこに余の名があるか確かめる」
血の気が引いた。
蓮司が数え始める。
「三」
私は周囲を流れるコードを必死に追った。
「二――」
待って。
あった。
無数のデータの中に、一つだけまだ編集可能な呼び出し命令がある。
「一」
5
刃が皮膚へ食い込んだ痛みで、逆に頭が冴えた。
生きる。
それ以外、何も考えられない。
先ほどまで理解不能だったデータ列が、急に読める文章へ変わって頭の中へ流れ込んできた。結果など考えている暇はなく、私は召喚コマンドだけを狙った。
「待って!」
意識を一点へ集中させる。
そして強制的に書き換えた。
【/summon meteor_large 白鷺宮】
蓮司の動きが止まる。
「何を書き換えた?」
異常に気づいたらしい。
しかし遅かった。
直後、白鷺宮全体を揺らす轟音が鳴り響いた。
「ドォォォンッ!!」
屋根が外側から一気に破壊される。
見上げると、とんでもなく巨大な隕石が落ちてきていた。
しかもテクスチャの読み込みに失敗している。輪郭は四角いモザイクだらけで、後ろには昔のゲームみたいな安っぽいピクセル炎がくっついている。
「……」
隕石は正確に寝台を目指して落下した。
凄まじい衝撃で寝宮の大半が瓦礫に変わる。
私を縛っていた規約違反の鎖も砕けた。
痛みなど気にしていられない。瓦礫の中から這い出し、そのまま逃げようとした。
背後で低い笑い声がする。
蓮司は生きていた。
「お前……」
瓦礫の中からゆっくり起き上がる。
「世界そのものに、即席でパッチを当てたのか?」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
説明などしている暇はない。
私は一目散に走った。
宮殿は完全なパニック状態だった。
不自然にしか動かなかった女官や侍従、近衛兵たちまで逃げ惑っている。落ちた瓦礫に触れただけで「ザザッ」と文字化けになって消える者もいれば、テクスチャ異常で顔のパーツがあちこちへ跳び続ける者もいる。
宮門まで全力で走った。
外に出られればいい。
このマップさえ離れれば、現実へ戻る方法が見つかるかもしれない。
朱色の門へ手を伸ばす。
手が、そのまますり抜けた。
門ではない。
目に見えない壁だ。
半透明のシステムウィンドウが現れた。
【現在のストーリー進行度:5%未満】
【現在のマップから退出できません】
見えない壁。
「冗談じゃない!」
何度も殴る。
背後からゆっくり足音が近づいてきた。
コツ。
コツ。
コツ。
背中が強張る。
振り返ると、煙の中から九条蓮司が太刀を手に歩いてきた。
黒い皇帝の礼装はぼろぼろで、顔にも灰がついているのに、本人はほぼ無傷。
何より腹立たしいのは――髪の一本すら乱れていないことだった。
後ろには近衛兵もいる。彼らの顔は完全に表示が壊れ、目や鼻、口の位置をモザイクが行き来していた。
蓮司が笑う。
「まだ逃げるか?」
「この物語そのものが、余の牢獄だ」
「同時に、お前の下書きでもある」
「水城澪。どこへ逃げるつもりだ?」
周囲を見る。
壁も屋根も木々も点滅し、輪郭が少しずつ透け始めていた。
隕石で助かったのは確かだ。
けれどその代わり、未完成だった世界にさらに大きな傷を入れてしまった。
世界が崩壊している。
そして私は――ここから出られない。
6
前には見えない壁。
後ろからは太刀を持った九条蓮司が近づいてくる。
完全に追い詰められた。
そのとき、廃宮の脇に雑草で隠れた古井戸があることに気づいた。
忘れかけていた設定が蘇る。
あれはマップ上のバグだ。
昔、場面移動のテスト用に作った入口で、地下にある無縁墓地へ直接移動できるよう設定した。
消すのを忘れていたのだ。
蓮司の足音が近づく。
井戸の底がどうなっているか考える余裕はない。
私は走り、井戸の縁を越えて飛び込んだ。
再び重力が消える。
暗闇の中を落ち続け――。
「ぐちゃっ」
冷たく湿った泥の中へ落ちた。
腐敗臭と生臭さが鼻を突き、吐きそうになる。
ここが無縁墓地だ。
泥に手をついて起き上がろうとしたとき、足首に冷たい感触が走った。
土の下から伸びた手が、私をつかんでいる。
体が硬直した。
暗闇で赤い目が一つ光る。
二つ目。
三つ目。
そして、次々に。
墓や泥、割れた墓石の隙間から人影が這い出してくる。
どの体も何かが欠けていた。
上半身しかない者。
顔がない者。
名前さえ設定されず、ぼんやりした輪郭しか持たない者。
古い甲冑姿の武将が、両腕だけで泥の上を這ってきた。腰から下が存在しない。
「作者……」
空洞の眼窩が私を向く。
「俺の戦は、まだ終わっていない」
「なぜ……続きを書かなかった?」
華やかな宮廷衣装をまとった、顔のない女がそばへ漂ってくる。
「作者」
「私はまだ名前すらもらっていない」
「欲しかった結末にも辿り着けなかった」
「なぜ私を捨てたの?」
向こうでは、片脚を失った若い侍従が泥の上を這っていた。
「まだ復讐してない……」
「どうして続きを書いてくれなかったの?」
私は何も言えなかった。
彼らは全員、昔の私が数行だけ書き、面白くないからと没フォルダへ放り込んだ登場人物たちだ。
一話だけ登場した者もいる。
名前すら与えなかった者もいる。
一行の設定だけで終わった者もいる。
私にとっては、捨てた数行にすぎなかった。
でも彼らにとって――その数行こそが、人生のすべてだった。
初めて、本当の罪悪感が胸に沈んだ。
「食え!」
暗闇のどこかから声が上がった。
「作者を食え!」
「こいつを取り込めば、俺たちも結末を手に入れられる!」
「作者の一部になれば、俺たちは完成できる!」
墓地全体が騒然となった。
黒い怨念が四方から押し寄せ、無数の冷たい手が私の体へ伸びる。
息ができない。
腕が壊れたデータのように点滅し始めた。
体そのものを分解されている。
意識が消えかけた、その瞬間。
「キィン――!」
眩しい銀色の斬撃が上空から落ちた。
私を覆っていた黒い霧が真っ二つに裂ける。
九条蓮司が上から降り立ち、私の前へ立った。
太刀を横に構える。
皇帝としての圧倒的な威圧感が周囲へ広がり、没キャラクターたちが悲鳴を上げた。
蓮司は一言だけ告げた。
「失せろ」
一帯が静まり返った。
怨霊たちは悔しそうに唸りながらも、やがて黒い霧となり、墓の中へ戻っていく。
最後の霧を斬り払った蓮司は、私に背を向けたまま言った。
「こいつは余の獲物だ」
「お前たちのような没原稿に触れさせるつもりはない」
私は泥の上に座り込んだまま、安心するべきなのか、さらに怖がるべきなのか分からなかった。
蓮司が振り返る。
「見たか?」
「お前が放置したものだ」
「結局、片づけるのは余らしい」
7
墓地に静けさが戻った。
蓮司は泥の中から私を引き上げ、比較的きれいな墓石の上へ座らせる。再び物語を演じさせられると思い、反射的に身を守った。
けれど、彼は何もしなかった。
少し離れた場所に腰を下ろし、荒れ果てた墓地を眺めている。
長い沈黙のあと、蓮司が口を開いた。
「なぜ、続きを書かなかった?」
「え?」
「聞いている」
こちらを見ないまま言う。
「なぜ余たちを途中で置き去りにした?」
私は俯いた。
理由は、現実世界ではあまりにもありふれていて、今ここで言うには馬鹿馬鹿しいほどだった。
「……PVが全然伸びなかったの」
「読んでくれる人もほとんどいなくて」
「管理画面を開いても、数字が全然動かなかった」
口に出しているうちに恥ずかしくなってくる。
「書けば書くほど、自分の小説がつまらなく思えてきて……」
「それで、もう書きたくなくなった」
蓮司が勢いよく振り返った。
「読まれなかった?」
肩をつかまれ、強く引き寄せられる。
「たったそれだけで?!」
ほとんど咆哮だった。
「読者がいなかったというだけで、余は永遠にここへ閉じ込められねばならなかったのか?!」
「お前が筆を止めてから、余が何を経験したか知っているか!」
瞳が赤く染まっていく。
「現実で一日が過ぎるたびに、この世界は最初へ戻る」
「余は、お前が書いた幼少期をもう一度経験する」
母の死。
兄弟による暗殺。
宮廷で受けた侮辱。
何度も絶望へ追い込まれる少年時代。
即位。
疑心。
狂気。
そして再び最初から。
「一万回だ」
蓮司は歯を食いしばった。
「同じ死を」
「同じ苦痛を」
「何度も、何度も」
「結末もないまま」
「お前が、そこで筆を止めたからだ」
私は何も言えなくなった。
昔の私はパソコンの前で簡単に考えていた。
もう少し悲惨な過去にしよう。
ここでもっと傷つければ、読者が引き込まれるかもしれない。
けれど今、私が書いた痛みを実際に経験し続けた本人が目の前にいる。
もしかすると――傷つけていたのは私のほうだった。
「蓮司……」
ためらいながら手を伸ばす。
指先が彼の頬へ触れた。
今度は、すり抜けない。
冷たいのに、確かに人の肌だった。
蓮司の体がわずかに強張る。
彼は私の手をつかみ、そのまま自分の頬へ押しつけた。
「余を哀れに思うのなら」
声が低くなる。
「残りの人生で償え」
なぜか周囲の文字化けが、突然ピンク色のハートへ変わった。
私は無言になった。
この世界の演出を作ったのは誰?
……私だった。
蓮司の顔がゆっくり近づく。
心臓が速くなる。
理性では分かっている。
この男は少し前まで、私の心臓を刀で切り開こうとしていた。
なのに、その瞳を見ていると、なぜか目を閉じてしまった。
肩に鋭い痛みが走る。
「痛っ!」
目を開ける。
蓮司が私の肩を思いきり噛んでいた。
ゆっくり口を離し、唇についた黒い墨を舐め取る。
そして笑う。
「騙されたな」
「同情を引くための芝居だ」
「随分古い手なのに、簡単に引っかかったものだ」
腹が立って、危うく頬を叩きそうになった。
けれど彼が目を逸らしたとき、その瞳に一瞬だけ浮かんだものを私は見逃さなかった。
戸惑い。
そして、私を傷つけたことへの後悔。
この人。
本当は演技なんだ。
8
それを指摘しようとした瞬間、頭上の空が裂けた。
「ザザザッ――」
耳障りな電子音が世界全体へ響く。
無縁墓地から色が消え、すべてが白黒のノイズ画面へ変わった。
巨大な赤い警告ウィンドウが落ちてくる。
【警告:メインストーリーが長時間停止しています】
【世界の初期化を開始します】
【残り時間:10:00】
私と蓮司は同時に顔を上げた。
システム音が消えるのと同時に、足元の地面が一枚ずつ割れ始める。
その下に土はない。
底なしのデータ空間だけだ。
墓の中へ逃げた没キャラクターたちは、悲鳴を上げる間もなく墓地ごと落下し、跡形もなく消えた。
蓮司の顔色が変わる。
「くそっ」
今まで見たことのない焦りだった。
彼は私を抱き上げる。
「行くぞ!」
崩壊する世界を全力で駆ける。
背後では丘も墓石も森も、一つずつ消えていく。遠くの白鷺宮まで分解され始めていた。
「書け!」
落下してくるデータ片を避けながら、蓮司が叫ぶ。
「何でもいい!」
「物語を動かせ!」
私は仮想キーボードを呼び出し、震える指で必死に文章を入力した。
【九条蓮司は新たな政を行い、帝国全土に安定をもたらした】
【各地の領主は中央政府に従い、月華帝国はかつてない繁栄を迎えた】
【人々は穏やかな暮らしを取り戻し、帝国の財政も豊かになった】
【そして長い平和の時代が訪れた】
思いつく限りの幸せな結末を詰め込んだ。
それでも駄目だった。
空の初期化ゲージは進み続ける。
「なぜ止まらぬ!」
蓮司が叫ぶ。
システム表示を見て、ようやく分かった。
「葛藤がないから」
「何?」
「こんなの、無理やり終わらせてるだけ!」
「前振りもない。クライマックスもない。登場人物自身も何も乗り越えてない!」
「システムがこれを結末として認めてくれない!」
蓮司の足が止まる。
前方にはもう道がなかった。
残っているのは、崩れ続ける小さな足場だけ。
その先には巨大なデータの闇が広がっている。
蓮司は私を地面へ下ろし、迫ってくる初期化の境界を見た。
そして、これまでにないほど真剣な目を向けてくる。
「ならば、最高潮を書け」
「何を?」
蓮司が深く息を吸う。
「余の死だ」
意味を理解するのに数秒かかった。
彼は小さく笑う。
「主人公が死ねば、物語は終わる」
「正式な結末さえ成立すれば、この世界は『未完成作品』ではなく、完成済みの物語として保存される」
「そうなれば初期化も止まる」
仮想キーボードを握る手が震えた。
自分で作った人を、自分の文章で殺す?
数時間前なら、登場人物はただの文字だと思えたかもしれない。
けれど今は違う。
九条蓮司はここにいる。
怒る。
怖がる。
嘘をつく。
そして没キャラクターに襲われた私を助けに来た。
もう、ただの「キャラクター」ではない。
そんな彼を、どうやって私の手で殺せというのだろう。
9
初期化は世界の大半を飲み込んでいた。
最後に残された足場にも亀裂が走る。
「早く書け!」
蓮司が私の手をつかみ、仮想キーボードへ押しつけた。
そのまま一文字ずつ入力させる。
【九条蓮司、自刃――】
「嫌!」
私は慌てて文字を消した。
いつの間にか涙が落ちていた。
「書かない!」
「だったら一緒に消えればいい!」
蓮司が激昂する。
「水城澪、正気か!」
「余が死ねば、この世界だけでも保存できる!」
「お前も生きられる!」
「このままでは二人とも消えるのだぞ!」
私は動きを止めた。
彼が死のうとしている理由を、ようやく理解した。
私を生かすためだ。
空のカウントダウンが最後の十秒に入る。
【10】
【9】
【8】
顔を上げる。
蓮司が私を見ていた。
ずっと危険で、執着に満ち、狂気を宿していたその目が、今は驚くほど穏やかだった。
世界が崩れる音が遠ざかっていくような気がした。
頭の中には、一つの疑問しか残っていない。
どうして?
私が作った人が、どうしてシステムに決められた結末どおり死ななければならない?
どうして主人公を犠牲にしなければ「完結」と認められない?
そんなルール、知るもんか。
私は蓮司を押しのけ、両手をキーボードへ走らせた。
「九条蓮司は死んだ」とは書かなかった。
代わりに――。
【九条蓮司は死ななかった】
【彼は偽りの世界そのものを引き裂き、自分を生み出した作者の手をつかんだ】
【そして二人は、現実世界へ帰った】
システムが激しく点滅する。
【ERROR!】
【重大な論理エラー!】
【入力された展開は現在の世界設定と矛盾しています!】
【直ちに修正してください!】
警告を見ているうちに腹が立ってきた。
「何が修正よ!」
「作者は私!」
「私がこれで終わりって言ったら、これが結末なの!」
目を閉じ、世界の最深部に意識を集中する。
元の終了条件はこうだった。
【主人公死亡=メインストーリー終了】
削除する。
そして書き換えた。
【主人公が世界境界を突破=メインストーリー終了】
【現実世界への侵入成功=新ストーリー開始】
システムが耳をつんざく警報を鳴らす。
空に浮かんでいたWordのツールバーもノイズ画面も警告ウィンドウも、同時に砕け散った。
破片は消えなかった。
空中で組み直され、一枚の映像になっていく。
私は息を呑んだ。
自分のマンションだ。
テーブルにはコンビニ弁当の容器、空になった缶コーヒー、散らばった原稿用紙、それに数体のフィギュア。
パソコンもついたまま。
あそこは――現実だ。
10
白い光が二人を飲み込んだ。
またあの浮遊感がやってくる。
そして――。
「ドンッ!」
私はマンションのカーペットへ落下した。
よかったことは、今回はお尻から落ちたこと。
悪かったことは、まだ起き上がる前に百八十センチを超える男まで上から落ちてきたことだ。
「九条蓮司……重い、どいて……」
どうにか目を開ける。
パソコンから薄い煙が出ている。
Word文書は最後の文章で止まり、画面中央には静かに表示されていた。
【保存しました】
本当に戻ってきた。
喜ぶ暇もなく、蓮司は起き上がって見知らぬ部屋を警戒し始めた。
テレビ。
冷蔵庫。
エアコン。
フロアライト。
そして――部屋の隅を勝手に掃除しているロボット掃除機。
機械はそのまま蓮司へ近づいてきた。
「障害物を検知しました。ルートを再設定します」
蓮司の瞳が鋭くなる。
「妖か」
嫌な予感がした。
「待って!」
遅かった。
刀が光る。
買って一か月も経っていないロボット掃除機が、真っ二つになった。
火花が飛び、黒煙が上がる。
私は壊れた機械を見つめた。
胸まで真っ二つにされた気分だった。
「私のロボット掃除機!!」
「六万円したのよ!」
「まだ買ったばっかりなのに!」
考えるより先に蓮司へ飛びつき、脚を抱える。
「もう斬らないで!」
「ここにあるもの全部、お金かかってるんだから!」
「これ以上壊されたら、来月のカード請求どうするのよ!」
蓮司の体が固まる。
私を見下ろしたあと、ゆっくり窓の外へ目を向けた。
深夜の星見市は、まだ明るい。
高層ビル。
絶えず走る車。
遠くにはコンビニの白い看板が光っている。
蓮司の目に、本物の戸惑いが浮かんだ。
その顔を見て、私も一つのことに気づいた。
待って。
ここ、私の世界じゃない。
さっきまで彼は皇帝だった。
でも今は――戸籍も住民票も、当然マイナンバーだって持っていない。
急に強気になり、脚から手を離して立ち上がる。
「九条蓮司」
「言っておくけど」
「ここは現代社会よ」
「物を壊したら弁償」
「人を傷つけたら警察に捕まる」
「前の世界で皇帝だったとか、誰も気にしてくれないんだからね」
蓮司の目が細くなる。
気づけば冷たい刀が首に当てられていた。
「余の国では」
一語ずつ区切るように言う。
「余こそが法だ」
膝から力が抜けた。
その場に正座する勢いで座り込む。
「さすが陛下! おっしゃるとおりです!」
蓮司が無言で私を見る。
私は再び彼の脚へしがみついた。
「こちらへ来られたばかりで、お腹も空いていらっしゃいますよね?」
「その……」
「何かデリバリーでも頼みましょうか?」
11
その後、私は思い知った。
異世界からやってきた偏執皇帝を現代社会へ適応させるのは、百万文字の長編小説を書くより難しい。
蓮司はマンション内のほぼすべてを敵視した。
テレビには人間が封印されていると思い、トイレは人を飲み込む装置だと疑い、エレベーターについては「人間を別階へ運ぶ移動式の牢獄」と結論づけた。
初めてフードデリバリーの配達員が来たときなど、玄関の陰で刀を握り、ヘルメットを被ってピザを持った青年を「敵国の密偵」だと思い込んでいた。
一晩かけて、ようやく三つのことだけ納得させた。
テレビは人を殺さない。
トイレも人を食べない。
冷蔵庫の中に死体も入っていない。
スマートフォンについては、しばらく触ったあと、自分なりに理解したらしい。
「遠く離れた者と話す術具のようなものか」
もう訂正する気力もなかった。
さらに困ったのが服だった。
蓮司が着ていた皇帝の礼装は、世界を越えたときにかなり傷んでいる。
かといって、私の服ではサイズが合わない。
クローゼットを全部ひっくり返し、昔イベント用に買った特大サイズのピンク色柴犬ルームウェアを見つけた。
その結果。
月華帝国最高権力者である皇帝陛下が今、ピンク色の柴犬パジャマを着て、殺気のこもった顔で私のソファに座っている。
手にはコーラ。
ストローの先は噛み潰されていた。
キッチンの入口からしばらく眺めているうちに、とうとう我慢できなくなった。
「ぷっ……」
冷たい視線が飛んでくる。
私はすぐ顔を逸らした。
「何でもない」
蓮司はコーラを置く。
「パソコンを開け」
「何するの?」
「原稿だ」
「余に見せろ」
嫌な予感がした。
結局、その日の午後はずっと蓮司の横へ座らされ、『偏執皇帝の囚愛』の第1話から第30話まで読み直すことになった。
読み進めるほど、蓮司の顔が険しくなる。
「この台詞」
「余ならば、このような愚かなことは言わぬ」
「直せ」
黙って修正する。
「この女は誰だ?」
「脇役の女の子」
「消せ」
「なんで?」
「気に入らぬ」
私は無言で削除した。
さらに少し読み進める。
蓮司の眉間の皺が深くなった。
「『皇后を見つめる彼の瞳には、三割の冷たさ、三割の嘲り、四割の無関心が混じっていた』?」
蓮司が私を見る。
「人間の目は十分割できるものなのか?」
答えられなかった。
若かったの。
ちょっと格好いいと思って書いただけなの。
蓮司が画面を指差す。
「書き直せ」
とうとう私も限界になった。
「九条蓮司!」
「この小説、書いてるのはあなた? 私?!」
「余は主人公だ」
「だから何よ!」
「お前が余を書くのなら」
当然のように言う。
「本人の意見を聞くべきであろう」
言い争いはどんどん激しくなった。
どちらが先に手を出したのかは分からない。
気づいたときには、私は蓮司にソファへ押し倒されていた。
両腕を私の体の左右につき、逃げ道を塞ぐ。
「今はもう、原稿どおりに演じる必要もない」
声が低くなった。
「ならば、余自身が決めたいこともある」
心臓が跳ねる。
黒い墨はない。
物語からの強制もない。
赤いシステム警告もない。
ここにいるのは、ただの九条蓮司だった。
彼の顔がゆっくり近づく。
呼吸まで乱れてくる。
唇が触れる寸前――。
「ブゥン――」
パソコンが強い赤い光を放った。
二人同時に振り返る。
Word文書が自動で開き、真っ赤な文字が一行ずつ表示された。
【警告】
【主要キャラクターが世界から離脱しています】
【旧ストーリーのルールに重大な異常が発生しました】
【強制帰還処理を開始します】
血の気が引いた。
そこで初めて、重大なことを思い出した。
私はあの世界で「物語の終了条件」を書き換えただけだ。
九条蓮司というキャラクターデータそのものは、まだ『偏執皇帝の囚愛』という旧ファイルに紐づいたままだった。
物語からは抜け出せても、所有先までは変わっていない。
パソコンの画面から暴風が吹き出した。
机の上の原稿や空の菓子袋、クッションが宙へ巻き上げられる。
巨大な力が蓮司の体をつかんだ。
「何だ――」
立っている暇すら与えられず、画面へ引き寄せられる。
「嫌だ!」
蓮司がソファの木製肘掛けへしがみついた。
木が軋む。
「余は戻らぬ!」
その声には、今まで聞いたことのない恐怖があった。
「あそこには繰り返ししかない」
「暗闇しかない!」
「蓮司!」
両脚が透明になり始めている。
私は考える前に彼へ飛びつき、腰へ両腕を回した。
引っ張る力は凄まじく、二人の体を引き裂きそうだった。
蓮司の半身が宙へ浮く。
画面の奥では――一度崩壊したはずの世界が、再び入口を開いていた。
12
吸引力はさらに強くなった。
部屋の物が次々とパソコンへ飛んでいく。
机の紙。
椅子。
棚に並べていたフィギュアまで、一体ずつ吸い込まれる。
「私の限定フィギュア!」
本気で泣きたくなった。
けれど、今はそれどころではない。
私は両腕で蓮司を抱きしめ続けた。
それでも彼の体は、少しずつ画面へ引き込まれる。
腕はもう力が入らないほど震えていた。
「放せ」
風にかき消されそうな声がした。
「え?」
「水城澪」
蓮司がこちらを見る。
「余を放せ」
「このままでは、お前まで連れていかれる」
彼は、自分からソファをつかんでいた手を離した。
何をするつもりか、すぐ分かった。
一人で戻る気だ。
「嫌!」
私はさらに強く抱きしめた。
「あなたは私が書いたの!」
「私の物語の主人公なの!」
「私が許さない限り、誰にも連れていかせない!」
作者。
そう。
私は作者だ。
そこで方法を思いついた。
片腕で蓮司を抱いたまま、もう片方の手を机へ伸ばす。
どうにかマウスをつかんだ。
カーソルをデスクトップの原稿ファイルへ移す。
『偏執皇帝の囚愛』
右クリック。
削除。
完全に削除。
「消えて!」
迷わず押した。
しかし、システムウィンドウが表示される。
【警告:現在ファイルを使用中です】
【削除できません】
「なんで今だけ消せないのよ!」
蓮司はもう体の大半を画面へ吸い込まれていた。
現実側に残っているのは上半身だけだ。
焦りで汗が噴き出す。
駄目。
旧ファイルが消せないなら――新しいものを作るしかない。
物語を変えることができるなら。
キャラクターだって、古い物語と一緒に消える必要なんてない。
私はデスクトップで新規Word文書を作った。
そして名前をつける。
『私と偏執皇帝の現代同居生活』
次に旧ファイルの最深部にあるキャラクターデータを強制的に呼び出した。
びっしり並ぶ文字列の中から、【九条蓮司】を表すコードをすべて選択する。
そして――。
Ctrl+X。
切り取り。
旧文書が激しく点滅した。
蓮司の体も大きく揺れる。
「水城澪、何をしている?!」
「引っ越し!」
私は歯を食いしばり、新しい文書へ切り替える。
Ctrl+V。
貼り付け。
「ザザザザッ――!」
画面が激しく明滅した。
風はさらに強くなり、グラフィックボードが焼けそうな焦げた匂いまで漂ってくる。
そして突然――すべての吸引力が消えた。
蓮司の体が画面の縁から落ちる。
私はまだ腰を抱いたままだ。
当然、結果は一つしかない。
「ドンッ!」
二人そろって床へ転がった。
部屋に静けさが戻る。
周囲はひどい有様だった。
カーペットに寝転んだまましばらく息を整え、それからパソコンへ顔を向ける。
旧文書『偏執皇帝の囚愛』は残っている。
けれど、その中から九条蓮司に関するメインキャラクターデータだけが完全に消えていた。
新しく作った文書では、カーソルが静かに点滅している。
そこには三行だけ表示されていた。
【九条蓮司】
【男】
【現住所:作者・水城澪宅】
思わず笑ってしまった。
これでやっと。
今度こそ、誰にも彼を連れていかれない。
蓮司はまだ私の上に乗ったままだった。
すぐに起きることもなく、頬を胸元へ寄せている。
まるで、私の心音を確かめているみたいだった。
しばらくして、ゆっくり顔を上げる。
「水城澪」
「何?」
「新しい物語のプロットだが」
耳元へ顔を寄せ、声を落とす。
「今度は余が決めてもよいのではないか?」
その目を見ながら、頭が痛くなってきた。
現実へ来ても、どうしてこの男はこんなに面倒なのだろう。
とはいえ、ここまで散々な目に遭ったあとだ。
もう言い争う元気も残っていなかった。
「分かった」
「好きにして」
蓮司の瞳に笑みが浮かぶ。
私は何気なく付け加えた。
「今夜は、あなたが書きたいように書けばいいんじゃない?」
その直後。
パソコンが「ピコン」と鳴った。
二人同時に振り返る。
新しい文書のカーソルが勝手に動き始めた。
一行のシステムメッセージが現れる。
【投稿規約に抵触する表現を検出しました】
【公開できません】
部屋が三秒ほど静まり返った。
私は蓮司を見る。
蓮司も私を見る。
とうとう笑いを堪えられなくなった。
「どうやら――」
「あなたの新しいプロットも、私と大して変わらないみたいね」
蓮司が目を細めた。
そのまま手を伸ばし、パソコンを閉じる。
「ならば書かぬ」
「え?」
もう一度、私を見る。
口元がゆっくり上がった。
「先に暮らす」
窓の外では、星見市の明かりがまだ消えていなかった。
深夜のコンビニ看板が静かに輝き、遠くから時折、車が走り過ぎる音が聞こえる。
パソコンも完全に静かになった。
新しく作った文書は、既に自動保存されている。
今度は――カウントダウンもない。
初期化もない。
そして二人の結末を、勝手に決める者もいない。
物語は、まだ始まったばかりだった。




