第ニ話 畏怖から始まる異世界生活
気づけば俺は、海のような虚無に浮かんでいた。
命の終わりを受け入れかけたその瞬間、再び目を開けた先は、見たこともない森の中。
だが、最も恐ろしいのは――俺自身の姿だった。
人間でも、獣人でも、エルフでも、神でもない。
この世界で「産まれてはならない」存在として生を受けた俺は、禁忌を背負ったまま、もう一度生き直す。
それが、誰かを救うことになるとしても。たとえ、すべてを失うとしても――。
どれほど時間が過ぎただろう。
波間にただ揺られ、思考が溶けていく中で、不意に声が届いた。
「ごめんね……私たちのせいで、こんなことに……」
女性の、どこか後悔と悲しみが混じる声だった。
風が冷たく頬をなで、草が擦れる音と共に、世界の現実味が戻ってくる。
(な、なんだ?まさか俺は……地獄に落ちたのか?)
思考するのも面倒になった俺は、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
ゆっくりと目を開けると、そこは森の中だった。木漏れ日が木々の隙間から差し込み、俺の体を優しく照らしていた。
(……誰か、いるか?)
叫ぶつもりが声にならない。体に力を入れようとして、ようやく気付く。
まるでゼラチンの塊のように、力も骨もない。赤子。そう、俺は赤ん坊になっていた。
「だれかっ!」
その想いは声にならず、代わりに喉から絞り出されたのは、震えるような泣き声だった。
鳥たちが一斉に飛び立ち、周囲からは得体の知れない鳴き声や咆哮が響く。
(なんなんだここは!知らない生き物ばっかりじゃないかっ……!)
孤独、恐怖、混乱――泣きながら、叫びながら、ただ時間が過ぎた。
やがて喉が焼けつくように痛み、声も出なくなる。
(あぁ、これが俺の罰か……永遠の孤独を味わう、そんな地獄ってやつなのか……)
絶望に押し潰されそうになりながらも、ふと、心が静かになった。
その時だった。森の静寂を破るように、声が聞こえてきた。
「このあたりで何かすごい鳴き声が聞こえたんだが……って、おい!なんだ、こりゃ!」
中学生か高校生か俺より年下の男の子が、ボロボロの服を翻しながら、こちらに駆け寄ってきた。
驚きと動揺が入り混じった表情で、俺を抱き上げると、明らかに焦った様子でその場をぐるぐると回り始めた。
「と、とにかく……一旦連れて帰ろう!」
男は俺を抱え、全力で走り出した。
(な、なんなんだ……ここって地獄じゃないのか?)
助かったという安堵と、理解できない現実への不安で、俺はまた意識を手放した。
目を覚ました時、そこは中世風の木造の家だった。
目の前には俺を助けたあの男性。そしてその隣には、THE・大人の女性がいた。
彼女は俺を、まるで汚物でも見るような、鋭い目つきで見下ろしていた。
(なんでだよ……助かったんだろ?笑みを見せてもいいだろ……俺にはそういう趣味はないとはいわないぞ?)
男は笑顔で俺に近づいてくる。父親のような声で俺をあやしながら。
「あら〜、リオンちゃんどうちまちたか〜?」
その声音を聞いた女性は、眉間に深いしわを刻み、低い声で吐き捨てた。
「よくそんなことが言えるわね。……あなた、本気でこの子が人間の子に見えるの?」
(は?人間だろ、俺は。え?……え?)
混乱しながらも、自分の体に視線を落とす。
皮膚のあちこちに、宝石のような輝きを持つ石が、まるで突き出すように現れていた。
耳は尖り、化粧台の鏡に映る俺は明らかに異形。
だが、整った顔立ち、美しい金髪。
(……It's a beautiful~...でも、なんでだ?なんで揉めてんだ?)
――彼らの口論は、一週間にも及んだ。
その間、俺の世話をしてくれたのは、俺を拾った少し幼い見た目の男?
というか男の子なのか、まぁ名前は――アッシュ・ガルベルト。
かつては王国の戦士。今は辺境の村で唯一の警備兵らしい。
あの日、彼の隣にいた女性は、信じられないが妻のフェリシア・ガルベルト。
つまりあの幼い見た目をしたアッシュは俺の父親であの三十路の色気ムンムンな女性の夫ということになる。何とも羨ましい。
フェリシアは高圧的な態度でいつもアッシュに当たるが、その時のフェリシアの顔はどこか恍惚としたいやらしさを感じる。
クッ...本当に羨ましい。
...いや、偏見で見るのはよくないな。ここは異世界だ俺の常識が通じると思うことがそもそもおかしい。
話しに戻るが、彼らは長いこと子供に恵まれず、ようやく俺を拾ったのだという。
だがフェリシアは、俺の“異形”に恐怖し、悪魔の子と罵り、包丁を持って殺そうとまでしたという。
理由は、この国の掟にあった。
この世界には四つの国がある。
「王国」――<アル・ケマギア>俺たちが今いる人間の国。
「魔族の国」――<ブラドヴァーン>皮膚にできた赤色の宝石、獣の顔をした獣人たちの地。
「精霊の国」――<ティア=ヴぇリア>エルフたちが暮らす美しい森の国。
そして「神の国」――<ゼオ・ナディア>あらゆる種族を従える、力の象徴のような存在たちが暮らす聖域。
そのいずれの特徴も持つ俺の姿は、まさにこの世界では“禁忌”の象徴。
異種交配は法律で厳しく禁じられていた。肉体関係は黙認されても、子供を作ることは絶対の禁忌とされているのだ。
ましてや2種族ではなく4種族。過去に2種族交配でできた子供がいたが怪物となり街一つを崩壊して逃げ出したという事件があった。
(なるほどな……だから“異形”か)
そんな彼女を、アッシュは涙ながらに説得していた。
「彼を育てていることは、村のみんなには秘密にするから!」
家は村の端にあり、泣き声も届きにくい。ばれる可能性は低い――そう考えたのだろう。
そしてフェリシアは、アッシュがすべての責任を持つならと、渋々ながらも了承したのだった。
それから時が流れた。
アッ……いや、“父”からの愛情をたっぷりと受けた俺は、五歳になるまで誰にも見つかることなく、穏やかに過ごすことができていた。
俺が“異形”であることさえ忘れかけていた……いや、忘れようとしていたのかもしれない。
だが、隠し事というのは、往々にして“ばれるまでがセット”というやつなのかもしれない。
ある日、父が仕事に出かける際に弁当を忘れてしまった。
(……まだ出て1分も経ってないし、ちょっと呼び止めるだけなら……)
そう軽い気持ちで玄関のドアを開けたのが、全ての始まりだった。
ドアの向こうにいたのは、父の知人であろう老夫婦だった。
俺の姿を見るなり、彼らは驚きの声を上げることもなく、凍りついたような顔で固まった。
そして、すぐに声を荒げて父を問い詰め始めたのだ。
「お前、自分が何をしたのか分かっているのかっ!」
(あぁ……やっちまった)
目の前が暗くなるような感覚の中、俺は言葉を失い、ただその場に立ち尽くす。
いま、まさに選ぶべきではない選択肢を選んでしまったという後悔が胸を締めつける。
今後に待ち受ける“最悪”の出来事が、目の前でゆっくりと形を成していくようだった。
アッシュは必死に「森で拾っただけなんだ」と説明を繰り返していた。
だが、次第に彼らの声は耳に届かなくなり、代わりにキーンと響く耳鳴りが頭の中に響き渡った。
(やばい……酸素が足りない)
息が荒くなり、心臓が胸を突き破らんばかりに打ち続ける。
全身から力が抜け、ついには玄関にへたり込んでしまった。
それでも、三人のやりとりに耳を傾けることだけはやめなかった。
最終的に、老夫婦は「現状を見る限り問題はない」と判断し、
この出来事を他言しないことを父と約束してくれた。
(助かった……のか?)
けれど、その夜が本当の地獄の始まりだった。
その夜、フェリシアは父の頭を床にたたきつけ彼の小さな体を蹴り上げ、顔を踏みつけ、ボロボロになった彼の顔を馬乗りになりながら殴り続けた。
「だから、あれほど言ったじゃないっ!どうしてくれるのよ!?もしあいつを私が産んだって噂されたら、どう責任取るつもりなのよっ!」
(……これが“暴力”……?)
父は涙を血に滲ませながら、掠れた声で「ごめんなさい……」と何度も何度も繰り返していた。
その姿を見て、また耳鳴りが戻ってくる。
(初めて見た。こんな光景)
たしかに、フェリシアがサディスティックな性格であることは分かっていた。
熱い夜はいつもフェリシアが上だったし、アッシュのような少し幼い見た目の相手を言葉で責めることで満足していたのも見てきた。
けれど、これは……
(これは、もう“単なる暴力”じゃない。)
胃の中が飛び出そうだ……。
俺は戸惑いを隠せずにその場で震えていた。
するとフェリシアはアッシュから離れ、俺の方へと駆け寄ってきた。
「お前も……お前もなんで、そんなところに立ってるのよっ!!」
怒鳴りながら、俺の遥かに小さい身体めがけて蹴りを放った。
強烈な衝撃が腹を貫き、俺の身体は宙を舞う。
(ぐっ……)
口から飛び出したのは、血と吐瀉物が混ざり合った、どす黒いピンク色の液体。
そのまま壁に激突し、頭を強く打ちつけた俺は、床に崩れ落ちた。
朝、目を覚ました俺の目に飛び込んできたのは、奴隷のように手足を縛られ、冷たく変わり果てた父の姿だった。青黒い痣が体中に広がり、皮膚は裂け、鉄のような匂いが空気を重く支配する。
その金属臭が鼻腔を抜けた瞬間、まだ眠気が残っていた意識が現実に強制的に引き戻された。
――その時だった――
「うぷっ……」
胃の奥から、記憶の底にしまっていたような感覚がこみあげてくる。
「うぉえ……んぐぅぅぅ!」
手で口を押さえるも、どうしようもなかった。俺はその場で吐き出し、床を汚した。
「はぁ、はぁ、はぁあああ……」
呼吸はどんどん浅くなり、胸が締めつけられる。
体を丸めるようにうずくまり、ただ耐えるしかなかった。
頭がガンガンする。状況は理解している。目の前にあるのは、つい昨日まで俺に微笑みをくれていた父の、命を失った姿――。
「うぶっ! お、おえぇぇ……!」
望んでいないのに、また口からこみあげ、吐瀉物が喉を焼いた。
意識が遠のく。このまま心を閉ざせば、どれだけ楽か。逃げてしまいたい。でも――。
(俺は……ここでまた逃げるのか?)
あの世界で、何もできずに終わった人生。行動できなかった自分。
(こんなところで、終われるかよ……!)
震える足に手を添え、壁にすがるようにして立ち上がる。膝は小鹿のように震えている。けれど、それでも玄関を目指した。
ドアノブに手をかけた瞬間――
――ガチャッ――
扉が先に開き、顔をのぞかせたのは、昨日出会った老夫婦の夫だった。
俺は、この光景を見た彼に誤解されるかもしれないと恐れた。でも、声はしっかり出ていた。
「……た、助けて……」
擦れた声だったが、間違いなく届いた。
安堵したその瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
俺はそのまま、意識を手放した。