ドッペルゲンガー・クラッシュ
「お前、誰やねん」という痛烈な問い。
ならば俺は、こう答えよう。
俺は、俺だ。
でも、そう言えるまでに――時間がかかった。
この物語を読んで、
誰かの中の“忘れかけていた自分”が、そっと目を覚ましますように。
――これは、“本当の自分”と出会い、殺し合い、そして赦すまでの物語。
0時を回った頃、街は静けさを取り戻し、夜風が頬を撫でていた。タワーマンションの隙間から覗く月は、どこか異様に見えた。まるで、誰かの瞳がこちらをじっと見つめているような……そんな夜だった。
「なんでこんなに疲れてんだろ、俺」
電車の窓に映った自分にぼやいた。
その顔は、どこか他人のようだった。目は笑っているが、口元は引きつり、額に浮かんだ汗は拭っても拭っても消えなかった。
自分を演じる日々。
「理想の社員」「明るい友人」「いい人」
そのどれもが、心を削り続けていた。
「もう、いい加減、やめたいな」
仕事もプライベートも、すべてが机の上に積まれた書類のように感じていた。
だが、今はそれすらも処理しなければならない。時間が足りない、余裕がない、すべてが時間に追われていた。
エレベーターの中でふと、背後に気配を感じた。
振り返ると、そこにはもう一人の“自分”がいた。
『やっと会えたな』
鏡に映るその顔は、数年前の自分だった。
何にも染まっていない頃、無鉄砲で、素直で、まっすぐで……でも、痛みに敏感だった自分。
『ずっと、俺のこと無視してたよな?』
その声に、身体が動かなかった。
言い訳すら出てこない。
『お前が捨てたのは、本物の声だ。あの日、黙って殻に籠もった瞬間、俺はお前の中で殺された』
「違う……そうしなきゃ、生きていけなかったんだよ」
『じゃあ、今は生きてるのか? “それ”で』
突きつけられた問いに、心臓が軋む。
――僕は、誰だ?
その夜から、夢に“彼”が現れるようになった。
彼は何も語らず、ただこちらを睨み続けていた。笑わず、泣かず、ただ静かに、怒っていた。
数日後、とうとう現実の中にまで現れ始めた。
オフィスの片隅。駅のホーム。トイレの鏡。
“彼”はどこにでも現れた。
『さあ、選べ。俺と向き合うか、このまま壊れるか』
耐えられなかった。
「もう、やめてくれ……!」
だが、その声は誰にも届かなかった。
同僚も、友人も、家族も……誰も、僕が崩れていくことに気づかなかった。
その日、また例の男が現れた。
鏡の前で髪を整えようとして、ふと目を向けると、またしても“彼”がそこにいた。今度は少し違った。表情がほんのわずかに変わっていた。彼は、今まで見せなかった冷笑を浮かべていた。
『お前は、あの日からずっと俺を見ないフリをしていた。』
声に嘲笑が混じる。まるでこちらが何かを隠していることを知っているかのように。
“彼”はいつも言葉少なだが、今日はやけに感情が込もっていた。
『お前が大事にしてきた「偽りの自分」も、もうすぐ終わりだ。』
その言葉が、何かを切り裂くように僕の心に突き刺さった。
「偽りの自分」――
それは、今の僕の全てを指している。周囲の期待に応えるために、無理に作り上げた姿。弱さを隠すために、完璧なフリをした自分。
だけど、そのすべてが“嘘”だと彼は言う。
『お前がずっと恐れてきたもの、向き合ってみろ。そしたら、もう苦しまなくて済む。』
その瞬間、僕の胸の中で何かがはじけた。
圧倒的な感情が湧き上がってきた。その感情は、苦しみであり、怒りであり、恐れであり、そして……期待でもあった。
『お前は、どこまで逃げ続けるつもりだ?』
その問いに答えるように、僕は静かに目を閉じた。
そして、心の中で叫んだ。
「もう、逃げたくない!」
その瞬間、身体が震えるのを感じた。まるで誰かに引き寄せられるように、視界が歪んでいく。
目を開けると、見知らぬ場所に立っていた。
荒れ果てたビル群の間に、異常な静寂が広がっていた。
『ここが、お前の本当の世界だ。』
僕は、今、何を見ているんだ?
それは現実なのか、それとも夢の中なのか。
『これが、俺の正体か……?』
その言葉が、僕の中で何度も繰り返された。
背後に、足音が聞こえる。
振り返ると、そこには無数の影が迫ってきていた。
影たちは、次々と僕に近づいてくる。それは、まるで僕の過去が具現化したかのようなものだった。
失敗や後悔、恐れ、そして逃げてきた自分。
『それでも、お前は前に進むつもりか?』
“彼”の声が響く。僕は足を止めることなく、目の前に迫る影たちを見つめた。
もう、逃げるわけにはいかない。
――この世界で何を選び、何を捨てるか、それが今、試されている。
視界が徐々に暗闇に沈んでいく中、俺はひとり、影たちに囲まれていた。
それぞれの影が、別々の顔をしていた――
一人は、大学時代の親友だった。
「お前って、ほんと無難に生きるよな」
そんな何気ない一言が、当時の俺にはナイフだった。
一人は、元恋人だった。
「何を考えてるか、さっぱりわからない」
そう言って去った背中が、今でも焼き付いている。
もう一人は――
俺自身だった。
歯を食いしばり、怒りを抑え、何かに縋るように笑っていた、過去の俺。
『全部、お前だ。』
目の前に立つ“もう一人の俺”が言った。
その目は、酷く冷たい。
『他人の期待を背負いすぎて、自分の声を捨てた。』
『無難に生きて、誰にも嫌われないようにして、でも、誰にも深く愛されなかった。』
『それが、お前の選んだ道だろ?』
――わかってる。
俺がずっと逃げていたのは、自分だったんだ。
「……違う」
ようやく声が出た。
たどたどしく、震えた声だった。
「俺は、俺なりに、精一杯やってきた。間違ってたかもしれない。でも――それでも、生きるためにはそうするしかなかったんだ!」
“もう一人の俺”は、静かに目を細めた。
『生きるためか……』
その声には、微かな憐れみと、怒りと、そして……理解が混じっていた。
『なら、今こそ選べ。』
その瞬間、周囲の影が一斉に溶けた。
俺と“彼”だけの、真っ白な空間が広がっていた。
『お前が今ここで俺を受け入れるなら――』
『お前は、自分を取り戻す。だが拒めば、また、嘘の人生を繰り返すことになる』
“受け入れる”――つまり、自分を赦すことだ。
弱かった自分、逃げた自分、偽った自分を。
長い沈黙の後、俺はゆっくりとうなずいた。
「……ようやく、会えたな」
“彼”が少しだけ、口角を上げた。
『おかえり』
次の瞬間、眩い閃光が視界を包んだ。
意識が途切れる直前、“彼”の声が脳裏に響いた。
『これからが、本当の人生だ』
目を覚ました時、窓の外には朝が差していた。
差し込む光は、いつもよりやけに眩しく、やけに優しかった。
夢だったのか?
それとも現実か?
けれど、胸の奥に刻まれた“重み”がそれを否定していた。
鏡をのぞく。
そこにいるのは、昨日までの自分と何一つ変わらない顔をした俺――
だが、もう目の奥が違っていた。
もう一人の自分と対峙したことで、俺は“本来の声”を取り戻した。
それは、強さなんかじゃない。
ただ、自分を誤魔化さないという静かな覚悟。
ドアを開けて、外に出る。
街はいつも通りに動いている。誰も、俺が“変わった”ことに気づかない。
それでいい。これは俺の中だけの革命だ。
職場に向かう道すがら、スマホが震えた。
開くと、あいつ――唯一、心を開きかけていた人間からのメッセージだった。
「昨日、大丈夫だった? なんか顔が怖かったから……心配してる。」
俺はしばらく画面を見つめていた。
そして、思わず笑ってしまった。
今までの俺なら、“何でもない”と返していた。
でも今日は――
「……今度、ちゃんと話したい。色々。」
たったそれだけの言葉が、心から自然に打てた。
歩道橋の上、通り過ぎる人々の喧騒の中で、俺はふと空を見上げた。
高層ビルの狭間に覗いた空が、水色だった。
まるで、あの“彼”の目のように。
そう――
俺は、俺を赦した。
偽りではなく、本物の声で、これから生きていく。
それがどれだけ不器用でも。
それがどれだけ人に嫌われたとしても。
自分の本心を裏切るよりは、遥かにマシだ。
『これからが、本当の人生だ』
彼の最後の言葉が、風の音に混じって耳元で揺れた。
俺は、静かに歩き出した。
誰でもない、自分自身の足で。