2話『喋る鼠』
「ニャー」
「は?」
え……
しばらくの沈黙と混乱の後、額に水が垂れる。
情報量が多すぎて処理に時間がかかるが、水滴のおかげで少し冷静になる事ができた。
なんとか状況を整理する。まず、広場にいたはずの自分は何故か洞窟にいて目の前に一匹の黒猫。そして、尻の感覚からして冷たい岩の上に座っているのだと思う。
──冗談だろ。
自分の置かれた状況があまりにも異常で、逆に冷静さを保てている。
急に人がテレポートだなんて聞いたことがない。洞窟の空気が重く粘っこくて気持ち悪い。
それで、目の前にいる黒猫は自分のことが心配で、慰めにでも来ているのだろうか?
──少しでも気持ちを落ち着かせようと、黒猫の頭に手を乗せた。
それが大きな間違いだった。
「────痛えぇぇぇぇ!?」
バキッ、という音とともに手に加えられた衝撃に、思わず後ろへ飛び跳ねる。手の甲には目を背けたくなるような深い傷が二つ、鮮血とともに強烈に自己主張していた。
血の滴る右手から目を移すと、目の前には黒い怪物が立っている。恐らく自分の二倍程あるであろう身長に加え、大きな双牙は赤く染まっている。
恐怖で足がすくむ。右手は使い物にならないし、走ってもすぐに追いつかれるだろう。
いわゆる絶体絶命だ。
「助けてくれええええええ!」
必死に擦り切れた声を上げる。しかし、帰ってきたのは反響する自分の声だけ。
ジリジリと怪物が迫ってくる。見ていないので分からないが、このまま下がっていたらいずれ壁にぶつかるだろう。
なんとか逃げる方法があるはず。
逃げないと。
怖い。
死ぬ。
嫌だ死にたくない。
止まってくれ。
「うっ」
壁だ。想定よりよっぽど狭い。神様は考える時間すらくれなかった。
「頼む。何でもするから。神様でもなんでもいいから助けて。お願いします……」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で最後の命乞いをした。しかし、返ってきたのは反響する自分の声だけ。
それを見た怪物は嘲り笑うような顔で丸太のような腕を振り上げる。
俺は悟った。この怪物から逃れられる術など無いのだと。引き伸ばされた時間の中で全細胞が警告音を鳴らしている。
しかし、俺は右手の痛みすら忘れて怪物に突撃した。
それに何の意味も無いことは分かっている。だけど、だけどなんか嫌だったんだ。こんな終わり方なんて。
「オーア」
洞窟が揺れる程の衝撃とともに怪物の上半身を透明な物体が消し飛ばした。
文字通りに。
訳分からん状況に訳わからん出来事が混ざって頭の中のキャパシティは余裕で限界を迎えた。
「痺れたぜ白髪の少年。化け猫に突っ込むなんてな……って手真っ赤じゃねぇか!?見せろよ!?」
目の前にはお伽話にでも出てきそうな、小さくて鼠耳を生やし、黒のローブと羽根の付いた帽子を身に纏った、いかにもな生物が立っている。
「喋る鼠ってどんな冗談だよ……でも敵意は無さそうだ……な」
俺はは張りつめていた緊張の糸が切れたのか、直近で二回目となる深い眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
「気がついたかよ」
目を覚ますと目の前に喋る鼠が座っていた。
「──右手」
痛みが無い。手の甲にあった筈の傷は綺麗さっぱり無くなっていた。
「凄いだろ?俺様が作った軟膏を塗れば、どんな傷でもたちまち治るってもんよ。まあ一時的に傷と痛みを塞いでるだけだがな……
しかし、お前さん危なかったな。最後に踏み込まなきゃ俺は閉じ込められたままで、お前さんは奴の爪でバラバラになってたぜ」
彼が指指すところを見ると、地面が横一列だけ不自然に窪んでいる。
「俺は頼まれてここに閉じ込められてたのさ。白髪の奴が何年か後にここに来るから助けてやってくれってな。
しかし、俺を解く仕掛けが地面の一部を踏むだなんてな。危うく死ぬところだぜほんと……それともそれすらも見越して?怖え怖え」
またしても思考がフリーズする俺をよそに、喋る鼠は言葉を繋ぐ。
「俺の名はジーラ。喋る鼠なんて名前じゃねえぜ」
ジーラはウィンクしながら言った。
心を見透かされたような気がして心臓の鼓動が速くなる。
「──ラピス。僕の名前はラピス。さっきは助けてくれてありがとう……」
「おっ、素直じゃねえかラピス。嫌いじゃねぇ」
ジーラは逆立ちしながら答えた。
そして、「それと、」とジーラが付け加える。
「あと、これからはタメ口で頼むぜ! 敬語だと俺が喋りづらいからな!」
「分かっ、た? これでいい?」
それにジーラは大きく頷いて返事を返した。
◇ ◇ ◇
ジーラと打ち解けた?俺は、言う通りに洞窟を進んでいく。
道中瓦礫で道が塞がっていたこともあったが、オーアという謎の詠唱とともに吹き飛ばしていったので何ら問題は無かった。
「ん、オーアか?」
ジーラは知識の少ない自分でも分かるように、簡単にまとめてくれた。
「オーアは鉱石を打ち出す魔術だぜ。頭の中でイメージして、魔力を練って打ち出す。昔の魔術だから今使ってる奴は少ないだろうぜ」
息を呑んで話を聞く俺の態度を気に入ったのか、ジーラは愉快そうにこう告げた。
「お前だって頑張れば使えるようになれるんだぜ?こんど教えてやるよ」
思ってもいない提案だった。同じような状況になったとき、身を守る手段が無ければ何も出来ない。
先のこともあり、この提案を拒否するなんて回答は頭に浮かばなかった。
「よし、どちらにしてもこの洞窟を出てからだな。お前ちょっと手出せよ」
急な要求に目を丸くする。この状況で手を出すとはどういう事だ?
「考え過ぎだ。契約だぜ契約。これからいつでも呼び出せるよう、俺と繋がるってことだぜ」
──契約?
とたんに雲行きが怪しくなる。
そういえば本で読んだことがある。甘い言葉に乗せられて契約を結んだら代償で……
「構えるなって!対等な契約だぜ!
──嘘はつかねぇよ。俺はお前を気に入った。だから友達になろうぜ。」
ジーラが拳を出す。
助けられて、ここまで言われてしまったら人は断る術を持たないだろう。
「──分かった!」
拳と拳が触れた瞬間二人の体が柔らかい光に包まれる。周りの音が消え去り、二人だけの空間が広がっていた。
「契約成立だ。これから仲良くしていこうぜ」
「こちらこそ、ジーラ。よろしく!」
ローブを纏ったファンタジーチックな鼠と白髪の少年は、洞窟の中で拳を合わせて笑い合った。
◇ ◇ ◇
あの契約以降、二人で数十分洞窟を彷徨った。
ジメジメとした空気と獣臭が酷いことを除けば案外快適に進めている。
周りに先のような怪物の気配も無いし、話を挟めるタイミングも出来たので、光と声についてジーラに何か知っていることがないか聞いてみることにした。
「ジーラ一つ聞きたいことがあるんだけど良いか?」
「おっ?いいぜ。なんでも言いな白髪」
ジーラは片手を振りながらおどけて答える。どうやら俺の呼び名は白髪に固定されてしまったようだ。
◇ ◇ ◇
ジーラに事の一部始終を伝えた。
蒼い光とともに意識を失ったことや声が聞こえたこと。そしてその声が頭から離れないことも。
ジーラは少し考える素振りを見せたあと、俺の胸に指を指しながら話し始めた。
「選ばれたんだぜ蒼に。流灯の事をどう聞かされてんのか知らねぇが、あれは選定の儀でもあんだぜ?
正しく言りゃぁお前は『蒼の素質』を持っていて、試練に挑戦する権利を得た状態だ。声については情報が少なくて分かりかねるが後々分かるだろうよ」
流灯が儀式?試練?それよりもジーラがなんでここまで知っているのかにも疑問が湧いてくる。
勿論全部何言ってるのか分からない。
「……丁寧に教えてくれるのは嬉しいけど、なんでここまで知ってるんだ?」
「数百歳超えてんだぜこれでも。意外だろ?」
「────」
かなりの年上だったことに驚きを隠せない俺をよそにジーラは続ける。
「聞きたいことは聞けたかよ?そろそろ半分ぐらいだぜ」
気がつくと洞窟の中腹付近まで歩を進めていた。
◇ ◇ ◇
開けた場所が見えてくるとジーラが少し小走りになる。何事かとジーラに問うとさっきよりも真剣な面持ちで回答が返ってくる。
「近いところで誰か襲われてるぜ。──急ぐぞ」
ジーラが手を握ってきた。
「──身体が軽い?」
手を握られた途端身体が重力から解放される。
「説明は後だ!早くしないと置いていく!」
ジーラはそう言い残し、軽くなった身体で地面を強く蹴り、とんでもないスピードで奥へ飛び去ってしまった。
「嘘ぉ………………俺も行かないと」
動揺する心を落ち着かせながら、自分もジーラの真似をしてみる。
「えーっと……地面を強く蹴って前へ……
!?ぐふっ──」
両足に力を込めて地面を蹴る。しかし、俺はジーラのようにはいかず、見事に方向を間違って冷たい壁と口付けを交わすことになった。
「怪我はねぇか嬢ちゃん?」
ジーラは縮こまった少女と魔物の間に滑り込み、流れるような動きで敵を蹴り飛ばした。
「──ありがとうございます」
少女は艶のあるふわりとした黒髪で、透き通った青のグラデーションがかかったワンピースを身に纏っていた。その左手には小さな杖が握られている。
「それは良かった。連れはいるか?」
「それが……」
話を遮るように後ろから声が響く。
「カトレア嬢お離れください!」
「──おっ!?」
ジーラは顔の横を通り抜ける風を感じながら身体を大きく捻った。
洞窟の奥で壁が崩れる音が聞こえる。
「初っ端から無詠唱かよ!?」
「──警戒度更新。要無力化」
片手に細剣を持つ若い紳士がジーラへ歩みを進める。
「覚悟」
そう言い残すと紳士は脱力し、爆発的に加速する。
ジーラはサイドへ飛ぶ体勢を整えるが、紳士はそれを読んでいたかのようにジーラの着地点を侵略する。
「しっ!」
洗練された動きで細剣を振り上げる。
ジーラは飛ぶモーションの途中であったため、無理な体勢での迎撃を余儀なくされた。
「速いけど見えるぜ」
腰から素早く二つの短剣を取り出し、身体を捻って横に受け流しにかかる。
刹那、鋼と鋼がぶつかる甲高い音が洞窟内に響き渡る。
まず力比べを制したのはジーラだった。
剣を弾かれ体勢を崩した紳士は、ジーラの刺突を後ろに飛びながら剣の側面で受ける。
それでも至近距離からの大きな衝撃は逃がしきれない。
「アヴァランチ」
紳士の左手からジーラへ向けて大質量の大雪崩が放出される。
「アイスバウンド!」
それに対抗するようにジーラから放たれた氷壁が雪崩を包み込む。雪崩の勢いが少し緩んだ。
その一瞬でジーラはバネのように横へ回避行動をとる。
「俺は悪い魔物じゃないぜ!」
ジーラの訴えを無視し、紳士は氷壁に向けて左手で照準を合わせる。
「アイシクル」
雪崩を留めている氷壁目掛けて氷柱が突き刺さった。
氷壁が決壊する。
雪崩の勢いが戻った今、洞窟という閉鎖空間の中でジーラの位置からでは直撃を免れることは不可能だ。
瞬間ジーラの目の色が変わる。
逃げ切れないと分かった途端、瞬時に踵を返して雪崩の正面に飛躍する。
「──グラン・オーア」
空中でジーラから詠唱とともに不可視の結晶が三発発射される。三発の結晶は寸分の狂いもなく雪崩を貫通し、内側から爆ぜる。
「──!」
紳士は危険を感じ取り即座にバックステップでその場を離れる。
「それで正解だぜ」
紳士のさっきまでいた所が拡散した結晶片で表面を削がれる。
「くっ…」
着地の瞬間、紳士がグラついた。恐らくジーラとの戦闘で魔力を大きく消費したことや、洞窟内で長時間戦闘を続けていたからだろう。
「──待って!!」
後ろから甲高い声が響く。
「──その方は危険じゃない。私のことを助けてくれたから」
息を切らしたカトレアが、二人に言葉を投げかける。
「じーー……」
「なんと……私はなんたる無礼を……」
恐らくカトレアの執事だと思われる人物は動揺しながら臨戦態勢を解く。
「何があったんだこれ……」
「勘違いが引き起こした事故だぜ事故」
ジーラに問う。
ちなみに俺はというと、身体が軽くなる?魔法による効果で少しの力を入れるだけで壁に激突するようになってしまったので、四つん這いで地面を這ってきたところだ。
途中でコツを掴み、前方向に優しく地面を蹴ることで素早く移動出来ることを知った所からはスムーズに移動できたので、前で走る少女に追いつく事ができた。
「──先程の事もあり申し上げづらいのですが、お二方は洞窟の瓦解については知っていますか?」
「いや知らないぜ。それと何の関係が?」
ジーラが頭の後ろで腕を組みながら問う。
「……洞窟の瓦解により市民数十人が閉じ込められてしまい、今は上の段層で保護されているのです。なので私は早く上に戻らねばなりません」
「なるほどな。歩きながらもう少し聞かせてくれねぇかその話。ラピス達もそれで良いか?」
俺とカトレアは頷いた。
「よし、急ぎ足で行くか!」
二人が追加されたラピス一行は、まだ洞窟に取り残されている人達やその捜索隊を目指して洞窟を駆け上がっていく。
『洞窟の中で』終──
ジーラ
読んでいただきありがとうございます!
良かったら次話もよろしくお願いします!
ジーラの身長はラピスの三分の二程度で、体を覆う毛は白く、紺色のマフラーを巻いています。
カトレアは黒髪ショートで、身長は160cm程度。ラピスは150cmです。
追記 ジーラの挿絵を追加しました。ですが、まだ確定ではないので変える可能性があります。