夏かしい季節
東京から電車を乗り継いで約3時間
僕が、制服に袖を通すまで過ごした町に帰ってきた。
電車の扉が開くと、汐風の香りが僕の全身を包んだ。
ただいま
都会の空気に慣れきった僕にとって、この日差しはあまりにも眩しすぎる。
何もない駅を降りる。
少し歩いただけで僕のシャツは汗ばみ始めた。
涼めるところに行きたいな。
早速、都会で染み付いた甘ったれが顔を出す。
ダラダラと海に向かって坂道を下っていく。
昔は少し有名な観光地だったのだ、海に近づけば何か店もあるだろう。
もはや汗が髪を滴り始めた頃、小さな喫茶店を見つける。
海が見える、静かな喫茶店だ。
店に入ると、数十年前から時間が止まったような店内が僕を迎える。
あのポスター、何年前の物なんだろう?
知らない女優が僕にニコりと笑いかけていた。
いらっしゃい
店主がぶっきらぼうに呟く。
アイスコーヒーをひとつ
店主に釣られて、僕もぶっきらぼうに返した。
コーヒーを待ちながら海を眺めていると、後ろから肩を叩かれる
ねぇ、この町の人じゃないよね?
珍しいー!何しに来たの?
後ろから女の子が声をかけてきた。
特別美人な訳ではないが、夏休みがそのまま女の子になったみたいに明るく笑うその子は、なんだか僕には眩し過ぎた。
故郷なんだ、一応ね。
答えたけど目を合わせられない。
別に、女の子に慣れてない訳じゃないけど。
そーなんだ!
じゃあ、これからおうち帰るの?
いーや、もう家は無いんだ。
帰るのもすごく久しぶり。
だから、ただいまを言う相手すらいないんだ。
なのに帰ってきたの?
じゃあ、これから私に言ってよ!
ただいまって!
ありがとう、気遣ってくれたんだね。
何気ない会話を交わしていると、店主がコーヒーを持って来る。
うちの子がすまんね、田舎なもんで夏休みなのに遊ぶ相手もいないんだ。
この町も過疎ってきててね、駅前見たでしょ?
もう廃れて行くだけの運命なのさ
ま、海だけは綺麗だから楽しんでってよ。
僕もこの町出身で…と言いかけてやめた。
寂しそうな店主の背中を見て、廃れていくこの町から離れた自分が、なんだか恥ずかしく思えてしまったから。
海行くの?
一緒にいこーよ!
女の子が再び声をかけてきた。
ずいぶん積極的だな、と思う反面、嬉しさは隠せない。
ボーイミーツガールなんて柄じゃないが、故郷に残した時間が動き出したみたいで、忘れていた感情を思い出す。
この感情の名前は、なんだっけか。
ありがとう、せっかくだからお願いしてもいいかな。
僕の、久方ぶりの夏休みが始まった。
街並みは変わっても、この空と海は変わらない蒼を浮かべている。
少女は日差しの方へ駆け出す。
追いかける僕は、息が上がって苦しさを感じていた。
水着、持ってきてないな。
僕が海に入るか迷っているうちに、君はTシャツのまま海に飛び込んだ。
これが若さか。
釣られて僕も飛び込んだ
僕が都会でかかえていた楔のようなつっかえが、波と共に流されて行く。
最後に海に入ったのは、何年前のことだろうか。
砂浜を競争して、カフェでお昼ご飯を食べて、大きな岩から海に飛び込む。
時間を忘れて遊ぶ2人。
小さい頃、こんなふうによく遊んでたっけ。
ちょうど、君ぐらいの歳の頃だったかな。
幸せな時間は、夏の日のアイスクリームのように一瞬で溶けていった。
あー、楽しかった。
今日はありがとう、お兄さんのおかげで楽しかったよ!
こちらこそ、ありがとう。
もう暗くなるから帰りな。
あんなに一緒遊んだはずなのに、また君の目を見れずぶっきらぼうに返す。
初恋でもないはずなのに、僕はこんなに初心だったのか?
なんだな帰るのもったいないな、
あ、最後に歌を歌ってこうよ!
私歌手を目指してるんだ。
女の子が目を輝かせる。
いいね、僕も実はミュージシャンの端くれなんだ。
全然売れてないんだけどね。
それっぽく演奏するよ。
バックパックの中から、小さな折り畳みギターを取り出す。
こんなものを持ち運んでいたから駅前で大汗を流す羽目になったと言われればそれまでだが、僕に取ってはこれは宝物であり、体の一部だ。
え!すごい!!
ねぇねぇ、私夏空って曲が好きなの!
演奏できる?
驚いた、それは10年ほど前に流行った僕の好きな歌だった。
古い歌を知ってるね、僕もこの歌好きなんだ。
もちろん弾けるよ。
茜色の海辺で、2人だけのライブが始まった。
演奏が終わると、僕の目には信じられない量の涙が流れていた。
止めようとしても、とめどなく涙は頬を伝う。
え、どうしたの大丈夫?!
何か嫌なことでもあった?
君が心配そうに僕を見つめる
大丈夫。
自分でもわからないんだ、なんでこの曲が好きなのか、なんでこんなに涙が溢れるのか。
素敵な歌声だったよ、ありがとう。
涙を拭い、笑いかける。
多分、かなり無理した笑顔になってる。
えへへ!ありがとう!
素敵な歌手になれるかな?
もちろん、大きくなったら僕と一緒に演奏しよう。
ほんと?!
絶対だよ!約束だよ!?
もちろん、約束するよ。
今度は心からの笑顔で応える。
ぐしょ濡れになっていた髪と心は、いつのまにか乾いていた。
すっかり空は暗くなってしまっていたので、君とカフェに向かう。
歩きながら、僕の心は少しづつ思い出して行く。
東京にいた頃の自分を。
2021年の夏、僕らのバンドはメジャーデビューを果たした。
ミュージシャンになりたくてガムシャラに頑張っていたはずなのに、僕の心は虚しさに染まっていた。
何か、大事なことを忘れている気がする。
僕は、制服に袖を通すまでの記憶が一部欠けている。
11年前の夏まで海辺の田舎町で過ごしていたことは覚えているのだが、そのあとから数ヶ月ほど、バッサリと切り取られたように記憶がないのだ。
その記憶を取り戻すために、僕は故郷へ足を運んだのだ
カフェの前にたどり着く。
道は間違えていないはずだ。
しかし、目の前にあったのは木屑になり荒れ果てた廃墟だった。
隣を見ると君の姿は無くて、海辺を見渡すと、駅より低い場所の建物は全て崩壊していた。
ああ、そうか、そうだった。
僕は、なんでこんな大事なことを。
2011年3月11日
僕の故郷は波に飲まれて消えた。
東京に引っ越してすぐ、あの町は記憶と共に失われてしまったのだ。
あの子は、僕の初恋の相手。
この海辺の町で共に過ごした、たった2人の同級生。
引っ越す前の最後の夏に、君と夏空をあの海辺で歌って、そこで約束したんだ。
一緒にミュージシャンになろうって、僕がギターで、君がボーカル。
約束だけが、抜け落ちた僕の魂に刻まれ、抜け殻のようにギターを奏でたのだ。
もう、隣で歌う君はいないのに。
再び海辺に歩みを進める。
色んなことを思い出した。
太陽のように笑う君と過ごした日々。
テレビで故郷が波に飲まれる姿を見て、絶叫したあの日。
犠牲者リストに君の名前を見つけて、僕の記憶はそこで途切れた。
夜の波に足をつける。
このまま歩き続ければ、きっと僕は君の元へ帰れる。
膝まで海に浸かった時、後ろから肩を叩かれる。
おかえり。
君の声が聞こえた気がした。
ただいま。