18.黒夜の雷《ティアマットスクリーム》
平山の村にある、唯一の酒場『天使の息吹亭』。
村でもっとも人の往来が多い大通りを挟み、その酒場の向かいにある建物――そこにある一室は本来、辺境の地であるこの平山の村に来ることのない賓客を迎えるための部屋であった。
夜も更けきり、『天使の息吹亭』の前にわずかに残っていた最後の人影も消え去り、人々がすっかり寝静まった時分に真っ暗だった部屋に明かりが灯される。
「いやー、悪かったね。こんな夜遅くに押しかけたうえに部屋まで用意してもらって」
部屋を一瞥し、鮮やかな赤い髪をポリポリとかきながら急遽部屋を用意してくれたことへの謝辞を述べるカイト。
その視線の先――部屋の入口でかしこまって立つ男はにこやかに微笑む。
「いえ、あの”戦神”の頼みとあらば断わる理由がありませんから」
「その名前、本当の戦”神”に失礼だからやめてほしいんだよね」
体の正面で両手を組み、深々とお辞儀をする男にカイトは苦い笑みを見せる。
しかし、男のほうは表情を変える様子もなく、”戦神”と称えられている男の来訪を喜んでいた。
「いえいえ。数々の戦場でのご活躍はこの平山の村にも届いています。それらを聞いたものであれば、誰だってあなたを”戦神”と呼ぶでしょう。それでは私はこれで――」
「そう言ってくれるのはありがたいんだけどね。俺、その呼び名好きじゃないんだよね……」
部屋の鍵を今夜の賓客に預け、再び丁寧にお辞儀をして去っていく男。その背中があった場所――パタンと閉じられたドアを眺め、カイトはポツリと呟く。
誰に宛てたわけでもない言葉が部屋を寂しく漂い――そして静かに消えるはずだった。
「そうやんなぁ、カイトちゃんに”戦神”っちゅう名前は似合わんよなぁ」
閉じられていたドアがキィ、と音を立てて開かれる。
満面の笑みで部屋に入ってきた招かれざる男の姿に、誰に聞いてほしかったわけでもない言葉を聞かれてしまったことに、カイトは眉をひそめた。
「……来たのか、バカ神」
「バカ神とは相変わらず失礼やなぁ。これでも一応きみの”ご主人様”なんやけど」
「言ってろ」
「つれないなぁ――」
ニコニコと笑みを浮かべながら、カイトの悪態にやれやれとため息を吐く男。
クイッと頭を向けて入口のドアを示唆するカイトに言葉を返しながら、静かにその扉を閉める。
バカ神と貶すカイトに、その不敬ぶりに怒ったそぶりを見せる男。
「僕はこれでもきみのことを心配してるんだよ?」
「お前が心配してるのは俺じゃなくて、俺の力、だろ?」
「酷いなぁ。僕ぁ本当にきみのことを心配しているのに。まあ、確かに――」
言葉を交わしながら、棚に収まっている酒瓶とグラスを取り、テーブルに並べていく。
時に荒々しく声を大きくし、時にひそひそと声を小さくし、室外の様子を窺う二人。
「――”魔物を狩る悪魔”、”鮮血の剣士”、”一人ぼっちの戦争屋”……ああ、”敵も味方も滅ぼすもの”なんてのもあったな。そんなきみが後れをとるとは思ってないけどさ。うっかり加減を誤って、村を消し飛ばしたりしてないか……僕は心配なんだよ」
「俺は今、お前のその言葉でお前ごとこの村を消し飛ばしてしまわないか心配だよ」
最後通告と言わんばかりに脅迫めいた言葉を残し、思慮の時間としてわずかな沈黙を作る二人。
ややあって、室外の様子――自分たちの話を盗み聞いている者がいないことに変化がないことを確認すると、カイトと男は席に着いた。
「勘弁してよ。そんなことしたらこの酒が飲めないでしょうが。ここの酒は……うーん、相変わらずいい香りだな。見ての通り、香りよし、味よしの隠れた名酒なんだから」
バカ神と呼ばれた男が酒瓶に入っている液体を二つのグラスに注ぐ。
茶色く濁った液体からたちこめるにおいにカイトは思わず鼻をつまんだ。
「うぇ……! 相変わらずひでー臭いだな。こんな酒をうまいって言って飲むのは世界広しと言えどもお前くらいだぞ、ティアマット」
「へんっ! そんなこと言うならお前の分も僕がもろたるわっ!」
「そんな酒、誰もとらないっての……」
その独特なにおいに顔をそむけたカイトをよそに、ティアマットと呼ばれたバカ神はグイッと、グラスの酒を一飲みにする。
自分の物だと言わんばかりに、まるで水を飲むような勢いで酒を飲みだすティアマットに、カイトは大きくため息を吐き捨てた。
ティアマットの飲み干し、無造作に置かれていく酒瓶たち。
一つ、また一つと瓶が置かれるたびに、カイトは胸の内で行っている算用の数字を更新していく。
(こりゃ、マルキウルフはパーになるかな……)
急遽用意してもらった部屋への謝礼、そしてティアマットが現在進行形で増やしていっている――部屋に備え付けられていた酒の代金。それらを合わせていかほどの支払いになるのか、その金額を算出してはカイトは頭を痛くしていた。
「ウィッヒ……で、だ。わざわざ平山の村まで来た甲斐はあったんか?」
「ん? ああ、まあね」
棚にあった酒瓶の半分ほどを空にし、ティアマットがようやく口を開く。
これでようやくお金の勘定をしなくて済むと、カイトはその心中でホッとため息をついた。
「なかなか面白そうな子だったぞ。あいつ……山田太郎」
「山田太郎? なんだその村に一人くらいいそうな平凡な名前は」
あまりにも特徴のなさすぎる名前にティアマットの表情が歪む。
そんな彼をよそに、カイトは床に転がる空き瓶たちを拾い集め、一ヵ所へ集めていく。
「なんでも自分の名前がわからないんだとさ。それで、名前がないのも不便だからって、とりあえずそう名乗ることにしたようだ」
「名前がないねえ……それはなかなか面白いことを言うね」
ニヤリとした笑みを浮かべ、再び酒瓶に伸ばそうとするティアマットの腕をカイトが掴む。
声こそ出さないものの、いい加減にしろ、と言わんばかりに力いっぱいに握る手と、無言のままニッコリと笑うカイトに、ティアマットの手が力を失い、だらりと垂れる。
「とりあえず、あいつと同じような”元々この世界にいなかったような人間”に話を聞いてみればと言っておいた」
「ふーん……だったら行き先は洛桜というわけか」
「そういうこと。あいつには”神の使徒”になってもらって、洛桜までには自分の身は自分で守れる程度には戦えるようになってもらうつもりさ」
「近々このゾンヌの国で起きるって噂の”戦い”に彼を参加させるつもりか……本当にカイトちゃんは人が悪いというかなんというか……」
やれやれと呆れるティアマット。そんな彼の姿にカイトは鼻で笑う。
その仕草が本心からでないことを知っているがゆえに、何を言うわけでもなく、ただ鼻で笑った。
「ところでカイトちゃんよ」
「なんだ?」
「もう一杯飲んでええかな?」
「その腕、握りつぶしてやろうか?」
酒場のウエイトレスが来客に酒をねだるように、愛想を良くして笑顔をつくるティアマット。
その要望にカイトは満面の笑みとゴキゴキと関節を鳴らして応えた。
時はまだ人はおろか草木も眠る、音無しの夜。
そんな静穏な黒夜に雷鳴のような叫び声がこだましたことは人々の記憶に深く刻まれた。
はじめての方、はじめまして。そうでない方、ご無沙汰しております。氷雪うさぎと申します。この度は本作品をお読みいただき、ありがとうございます。
今回で十八話。本来は酒好きのティアマットが”戦神”の称をもつカイトさんにすりつぶされ……いえ、握りつぶされる閑話休題のパートにしよう思ったのですが、本編ばりに量が多くなりました。
次回より再び本編がスタートします。日の出を受け、『おはよう世界』と新たな一日を迎える山田太郎君とティアマット。
それぞれ別の意味で眠れぬ一夜を過ごしていますが、どのように話が進んでいくのか……。
次回も楽しみにお待ちいただければ無上の喜びです。
氷雪うさぎ