いつか毒が抜けるまで
これはあなたの物語。
この国で生きるということ。
女に産まれるということ。
毒親の元に産まれるということ。
ジメジメとした暗い部屋で天井を見つめる女がひとり。
暗がりを見つめる瞳は瞬きもせず、光も写さずただ無表情に涙だけを排出している。
水浸しの目元とは対照的に、半開きの唇はカサカサに乾き、時おり呼吸音が聞こえるのみである。
傍らには1日1回就寝時服用と書かれた睡眠薬の袋が数袋落ちている。
『どうしてこうなっちゃったんだろう』
気持ちを押し殺し続けた結果だった、としか言いようがない。
いや、むしろここまで生きてきたことを彼女は褒められるべきではないか。
彼女は自分の人生を思い返していた。
リノは共働きの両親と祖父母、弟と妹の7人家族の長女として生きてきた。
大人たちは口を揃えて「お前は本当に手の掛からない良い子だった」と昔話をする。
歩けるようになるのが早かった、トイレもすぐにひとりで出来るようになった、誰にでも挨拶をするから褒められた、田舎なのに標準語で喋るから近所では都会から来たお嬢様じゃないかと噂されるほどだった、と。
本人にそんな記憶はない。
気が付けば弟がいた。
母がいなかった。
なぜ母が消えたのか分からないまま、突然父から厳しくされるようになった。
それまで母がやっていたであろう着替えの用意や洗濯物の片づけを自分でするよう命じられた。
時には言う事を聞かないからと父に抱えられ、家の外の真っ暗な闇の中に置き去りにされそうになった。
闇へと運ばれる途中に何度も泣いて謝った。
泣きすぎて、謝りすぎて、何に対して謝っているのか、なぜ怒られているのかも全く分からなかった。
それは弟も同じだった。
祖父母は笑って見ていた。
ぼんやりとだがそんな生活をしていた時期があったことをリノの脳は記憶していた。
幼稚園の頃の一番はっきりとした記憶は入院していた母が帰ってきた日のこと。
その日は土曜日で、珍しく父が幼稚園に迎えに来た。
母が帰ってきたと聞き、リノと弟は拙い足取りで走って帰った。
玄関を開けると微笑んでこちらを見る母よりも、その手元に目が釘付けになった。
赤ちゃんがいた。
妹ができたのだ。
当時はその時の感情を表現する語彙を持ち合わせていなかったが、今のリノは「ショックだった」と言葉短に語るだろう。
「ショックだった」の一言には、妹に母をとられたという気持ちや、母に裏切られたという気持ちだけでなく、母がいない間に父から厳しくされたことや、これから先は自分よりも弟、弟よりも妹が家族に優先されるんだという無意識が含まれていた。
幼いながらもこれから先の人生でリノ自身がないがしろにされることを察したのかもしれない。
そんな記憶はあれど、その頃はまだ物心が着いたと表現するにはあまりに世界はあやふやで、夢の中にいるようで、思考はハッキリとはしていなかった。
もっと意識がはっきりしてくる頃には「お姉ちゃんでしょ」と弟や妹のために我慢を強いられた。
弟に殴られた。
殴り返した。
親はリノを殴った。
お姉ちゃんだから弟の暴力くらい我慢しろと。
妹に転校してしまった友達からもらったキーホルダーを盗まれた。
取り戻した。
妹が泣いた。
親はキーホルダーくらい妹に譲れと怒った。
空手が習いたいと言った。
女の子だから空手なんてダメだとダンス教室に行かされた。
手芸にハマった。
やっぱり女の子ねと親に言われた。
「お姉ちゃんだから」
「女の子だから」
人生で何度この言葉を言われるのだろうか。
小学生になったリノにとって最も憂鬱なのは夕方だった。
夕方の子供向け番組が始まるともうすぐ親が仕事を終えて帰ってくるんだと絶望した。
日常的に暴力を振るわれることこそなかったが、リノは親に対して恐怖心を抱いていた。
一緒にいることに居心地の悪さを感じていた。
リノにとって親とは自分を否定する存在であった。
小学校に入学して最初の頃は、リノも夕飯の席でその日の出来事や友達の話をしていた。
しかし、何かにつけて親は苦言を呈した。
「そんなことしちゃダメ」
「お友達を呼び捨てにしちゃダメ」
「愚痴なんて言っちゃダメ」
そうは言われても学校では皆互いに名前を呼び捨てし合うのが当たり前だったし、毎日いいことばかりではない。
リノが学校での出来事を親に話さなくなるのに時間はかからなかった。
門限を破ったり、友達と公区外にこっそり出かけたことがばれたとき、リノは殴られたり土下座をさせられた。
弟が友達と公区外へ出かけても親は怒らなかった。
男の子だから冒険がしたくなっちゃうのは仕方がない、と。
妹が友達の愚痴をこぼしても親は怒らなかった。
学校には嫌な友達だっているししょうがない、と。
そうしたことが積み重なるとリノは弟や妹が憎らしくなった。
毎晩布団の中で弟と妹の死を願っていた。
どうしようもなく憎らしくなった日には、夜中に寝ている弟や妹の鼻と口を塞いで「窒息死しそうになったら人間は目を覚ますのだろうか」と実験的に二人を死なせるシミュレーションをした。
呼吸が苦しくなるとどちらも首をひねって手から逃れた。
眠ったままでも呼吸が苦しくなると人間は勝手に身体が動くものらしい。
本気で塞いだら起きるだろうからと実験は中止した。
一方で一番楽しかったのは学校だった。
リノはいじめられていた。
上履きを隠されても、教科書を砂場に埋められても、ランドセルをカッターで切られても、男子に殴られても、学校は楽しかった。
いじめが苦にならないほど勉強ができたからだ。
運動もできた。
ピアノも弾けた。
書道でも硬筆でも図画工作でも賞をもらうのはリノにとって当たり前だった。
どんなテストもいつも100点だった。
100点さえとっていれば先生は褒めてくれるし、リノをいじめる児童を怒ってくれた。
唯一楽しいと思っていた小学校生活を壊したのは6年生になったときの担任教師だった。
40代の男性教師は女児に性的な興奮を覚える人間だった。
気に入らない女子と男子は過剰なほど怒鳴りつけ、その一方で気に入った女子は何をしても怒らずチャンスさえあれば身体に触り、体育の着替えを覗いたし、自分の股間を擦り付けた。
リノにとって唯一人生の味方だと思えていた「先生」という存在はこの性犯罪者のせいで消え去った。
ある日の全校集会で一つ上の学年の子が中学受験に合格し、遠くの寮制の中学へ入学したという話を聞いた。
これだ、とリノは思った。
寮に入れば親と一緒に生活せずに済むのだ。
リノは家に帰って早速両親に中学受験がしたいと話した。
両親は喜んで賛成した。
地元の中学は評判が悪く素行の悪い生徒で溢れていたため、親に反対する理由などなかった。
受験する中学に通っている生徒の親は医者や大学教授、知事など社会的地位のある人ばかりだったため尚のこと。
問題なく合格し、リノは親元を離れて生活することに成功した。
これで自由だと喜んだのも束の間、寮での生活はリノの想像を超えて厳しかった。
毎朝6時半に点呼をとられ、班に分かれて7時まで掃除。
遅刻した者はカミナリおやじとの呼び名がふさわしい寮の管理人から怒鳴られ、罰則が与えられる。
部活に入らない者は学校が終わるとすぐに帰寮を命じられ、遊びに行くことは禁じられた。
寮への娯楽物の持ち込みも禁じられており、留守中に無断で管理人が部屋をチェックし、漫画やゲーム機、携帯電話などは没収された。
夜は20時から22時まで見張られながら勉強をしなくてはならず、その前後の空き時間で洗濯や学校の準備を済ませる必要があった。
リノを含む中学1年生たちの多くは、それまで21時には寝るようしつけられており睡眠不足を訴えていた。
そしてこの寮では毎週末実家への帰省が義務付けられていた。
寮で吹雪の日に外の掃除をさせられたとき、リノはその話を愚痴として母にしてみた。
母はリノの気持ちを尊重はしてくれないが、過保護であったため雪の中我が子が震えながら掃除させられたと聞けば、さすがに寮に対して怒ってくれるんじゃないかと期待したのだ。
だが、返ってきたのは「あんたはそういう風に物事をネガティブに取られるからダメなのよ」という言葉だった。
リノは小学生の頃、愚痴が許されなかったのを思い出した。
決して母の前でネガティブな発言をしてはいけないのだ。
少女漫画の主人公よろしく、あらゆる出来事をポジティブに捉えなければ母の理想の子にはなれないのだ。
それが引き金になったのかはもう分からない。
もっと前からだったかもしれない。
リノは家族の前で一切笑わなくなった。
リノの数少ない趣味はインターネットとゲームだった。
チャットで知らない誰かとおしゃべりをしたり、おもしろフラッシュを見たり、ホームページを作ったり、ポケモンをするのが好きだった。
しかし母はいい顔をしなかった。
パソコンの前にいてもゲームをしていても決まって怒られた。
そしていつも母の怒りは飛び火し父への怒りと変わった。
「パソコンなんて買い与えるから!」
「ゲームなんて買い与えるから!」
父はいつも何も言い返さなかった。
黙って母の怒りが収まるのを待った。
だからといって父がリノの味方になることもなかった。
趣味も怒られるし、家の中にいるのは居心地が悪いのでリノは出歩くようになった。
よく遊んでいた小学校や公園や神社を散歩した。
そんな生活に慣れてきた頃、今度は母から出歩かないよう怒られた。
「あんたのせいで母さんはいじめられてるのよ!」
リノが中学受験をして地元を出たことで、両親は周りの親から顰蹙を買っていた。
と、いってもその攻撃は母だけに集中した。
なぜか?母の方が学校行事の役員として他の親と接触する機会が多かったから、そして何よりここが典型的な男尊女卑の田舎であったから。
男に物申すような根性のある人間はいなかったという簡単な話。
「自分の子だけいい学校に行かせるなんて」
「金持ちアピール?」
「地元を裏切って出て行ったくせに何自分のガキほっつき歩かせてんだ」
「自分の子が別の中学に行ったからって地元中学の役員を免除されるなんてずるい」
「その歳で我が子を寮に入れるなんて人でなし」
リノが育ったのはそんな筋の通らないことを平然と人に言うような人間が集まった田舎だったのだ。
妬み僻みで他人の足を引っ張ることしかできない田舎者たち。
自分以外の誰かが自分より良い人生を歩むのが許せない自称伝統主義者たち。
寮にいても地獄、帰省しても地獄。
逃げようとした結果リノは地獄を増やしてしまったのだ。
数少ない趣味は親のお気に召さないため、リノは新しい趣味を始めようと思った。
たまたま見かけた絵画がとても綺麗だったことに感銘を受けたのだ。
普通の水彩絵の具ではない、アクリル絵の具で描かれた絵だ。
自分もこんな絵が描けたらと憧れたリノは早速母に買い物に行きたいと申し出た。
アクリル絵の具が欲しいと言うと、母は自分が昔使っていたのが倉庫にあるはずだからそれを探してきてあげるとリノに約束した。
リノはそれまでの間、アクリル絵の具でどんな絵を描こうかと思案した。
画用紙を引っ張り出し、下描きをして、母からアクリル絵の具を貰うのを楽しみに待っていた。
だが1週間経っても、一向に母は絵の具をくれなかった。
忘れているだけかもしれない。
そう思っていた。
2週間経った頃、リノは妹の机の上にアクリル絵の具が置かれているのを見つけた。
頭が真っ白になった。
そんなはずはないと。
何も知らないふりをしてリノは料理中の母に尋ねた。
アクリル絵の具は?、と。
母は一瞬こちらを向くとめんどくさそうに
「ああ、ごめん。妹が欲しいっていうからそっちにあげた」
と手元に視線を戻しながら答えた。
リノは静かに「そう」と答えて部屋に戻った。
リノは部屋に戻ってクローゼットの中で泣いた。
弟や妹に聞こえないよう声を押し殺して泣いた。
どうして、どうして、私が先に約束したのに、なんで私にくれないの。
私にくれるって言ったのに、なんで、なんで妹にあげちゃうの。なんで、なんで、なんで、私は大事にして貰えないの。
それはリノの記憶にある中で初めて母と交わした約束だった。
きっと忘れているだけで、小さな約束はしたことがあったに違いない。
だが、物心ついてきちんと約束したのはこれが初めてだった。
約束だと思っていたのはリノだけだった。
母にとっては適当に返事しただけで、妹が欲しがれば簡単になかったことにしてしまえるどうでもいい日常の一部だったのだ。
この頃になると弟や妹には恨みすら感じ無くなっていた。問題があるのは父と母で、弟と妹もその被害者であると分かるようになったからだ。
リノが高校生になる頃には、あまりにやり方が厳しすぎるということで入寮者がいなくなり、寮もなくなってしまった。
そうなると実家から通わざるを得ない。
高校生にもなると学校もリノにとって楽しい場所ではなかった。
「好きな男があんたに惚れたって言って私のことを振った」
「勉強してないくせになんであんたの方が成績上なの」
「ちょっとかわいいからって調子に乗っててマジ腹立つ」
ネット上の掲示板に悪口を書かれるといった小学校時代とは違う陰湿な嫌がらせが増えた。
もちろんリノに何も原因がなかったかといえばそうではない。
リノは人の気持ちを考えるということが致命的に苦手だった。
親から自分の気持ちを尊重されたことがないのだから当然と言えば当然だった。
高校生の時点で、周りの人間にも意思があるということすら認識できていなかったリノにとって全ての人間はゲームのNPCと同じだった。
実家から高校に通うようになり、通学時間は片道2時間ほどになった。
家に帰りついて、夕飯、風呂、課題、予習、復習、全てこなすと就寝時刻は深夜1時2時がざらだった。
そして朝は5時始発の電車に乗らなくてはいけない。
田舎なので最寄駅まで徒歩40分はかかるため親に車で送迎してもらわなくてはいけない。
そんな生活でリノはボロボロだった。
精神的に休まらない家、勉強以外に何もする暇が与えられないスケジュール、出歩けば嫌な顔をされる地元、足りない睡眠時間、同級生からの嫌がらせ、数少ない趣味は親から咎められる。
仲の良い友人も少しはいたが、友人の家はリノの家と反対方面に1時間以上かかる距離だった。
休日に友人と遊ぶなんてアニメの中にしか発生しないイベントだと思っていた。
リノはまともに授業が受けられなくなった。
教室にいるのが苦痛でたまらないのだ。
静まり返った教室に自分の心臓の鼓動だけが鳴り響く感覚で頭が真っ白になってしまうのだ。
成績が下がった。
先生の話が頭に入ってこないのだ。
考えようとすると思考にモヤがかかるのだ。
不正出血が増えた。
2週間おきに生理がくる。
もう生理なのか血便なのかも分からなかった。
トイレはいつも真っ赤に染った。
毎朝腹痛がくる。
トイレにこもっていると、学校に行きたくないからって仮病を使っているんだろうと怒られる。
額に脂汗が滲むような腹痛も親にとっては仮病だった。
親に体調不良を訴える。
「病は気から」だと根性論を返されて病院へ連れて行って貰えなかった。
リノが家で感情表現をしなくなったことにようやく気付いた親から喜怒哀楽の感情表現をしろと怒られる。
「喜」と「楽」以外の感情表現をしたら怒るくせに。
目の前で「怒」と「哀」を見せても気付きもしない。
親に思考を決め付けられた。
「お前はこう思っているに違いない」という妄想で親はリノを怒った。
もちろんリノはそんなことを考えてすらいなかった。
リノにはもう何も分からなくなった。
将来の夢?やりたいこと?行きたい大学?
そんなものは何もなかった。
ただただこの世から消えてなくなりたかった。
毎晩布団の中で何度も親が死ぬことをイメージした。
こんなに嫌いなはずなのに、気付くとリノは泣いていた。
その矛盾する感情すら憎らしかった。
心のどこかにまだ親に愛される事を期待をしている自分がいるということがこの上なく気持ち悪かった。
リノはリストカットを覚えた。
毎晩毎晩手首を切って滲み出てくる血を眺めた。
枕元にはカミソリとガーゼと包帯の山ができていた。
それでも親は気付かない。
唯一気付いた担任教師からの言葉は冷たいものだった。
「そうやって周りの人間を脅迫しているつもりか?」
お前は悲劇のヒロインぶってるだけなのだと。
親と上手くいかないのは思春期だから、反抗期だからだと。
そうやって死にたい気持ちを抱えたまま高校生活を過ごしている内に大学受験がやってきた。
やりたいことは相変わらずなかった。
勉強も全くできていなかった。
だが大学にいかないという選択肢も与えられなかった。
オープンキャンパスは女子大を何件も回ったのに、親から言われるままに共学の短大へ行くことになった。
親の知り合いの息子がいるからという理由になるか疑わしい理由で。
女の子だから早く短大を卒業して結婚して欲しいのだと。
リノはいっそ遠くの国へ行ってしまいたいと思うようになった。
別の国ならもっとマシな人生が歩めるのではないかと思ったのだ。
留学したい、そう勇気を出して親に相談したら反対された。
女の子が留学するなんて、と。
親が心配しているのは自分より賢い女を日本男児は嫌うということや、婚期が遅くなるということ、海外はどこもかしこも治安が悪いということだった。
どうしても行きたいなら自分でお金を稼いで行きなさいと親は言った。
短大の寮ではバイトが禁止されていた。
それを知った上でそう言ったのだ。
リノは黙って諦めるしかなかった。
それでも短大での生活はそれまでより比較的充実していた。
親と離れて生活できるようになり、以前の寮のように厳しい規則もなく、リノの心には余裕が生まれた。
それまで疎かになっていた勉強にも多少身が入るようになり、こんなに成績優秀な子がなぜうちのような底辺短大にきたのかと教授たちを驚かせた。
教授たちはリノに4年大への編入を薦めた。
親も教授の薦めならと快諾し、4年大の編入試験を受けることが決まった。
4年大にもすんなり受かり、一人暮らしができるようになり人生が随分マシになった。
人間関係も少しずつ改善され、人と当たり障りない会話ができるようになった。
リノの人生は『普通』に近付きつつあった。
そんなとき弟が留学すると親から連絡があった。
少しずつまともになりつつあった生活がまた崩れ始めた。
リノが留学したいと相談したときには大反対した親が、弟が「ちょっと留学してみたいんだけど」と軽い気持ちで申し出た留学を簡単にオーケーした上、お金をポンと出したという事実が酷く苦しかった。
悔しかった。
リノが女だから。
リノが女じゃなかったら?
同じように留学させてくれただろうか。
「女だから」「お姉ちゃんだから」
一人暮らしをするようになって久しく聞いていなかった言葉が何度も頭を反芻した。
涙が止まらなかった。
やっと『普通』になりつつあった人生がまた遠ざかっていった。
夢に親が出てきた。
夢の中で母が言う。
お前なんて産まなければよかった。
夢の中で父が言う。
精神病なんて甘えだ。
夢の中で泣いていたはずなのに、気付くとひとりベッドの上で嗚咽を漏らして泣いていた。
これらのセリフは実際には言われたことは無いのだ。
言われたことは無いのだけれど、リノにとって親のイメージはこうなのだ。
もう今更変えられない。
リノは大学に行けなくなった。
部屋から出られなくなった。
異変に気付いた大学の友人から心療内科を勧められた。
いざ心療内科で医者を前にしても、リノは言葉が出なかった。
何から話せばいいのか、この人に話して大丈夫なのか。
結局、大した話はできず診察は終わった。
医者は「もっと他人を信用しましょう」と在り来りな言葉を口にし、睡眠薬を処方するだけだった。
他人が信用出来るような環境で育った人間なら心療内科の世話になどなっていないだろうに。
医者もあてにならないと悟ったリノは、今までの人生をテキストに書き出して感情をぶつけることで感情の整理をした。
たくさん泣いた。
たくさん怒った。
それを繰り返して日常生活が遅れる程度の精神状態を手に入れた。
睡眠薬で無理やり眠って、なんとか大学生活を続けた。
就活が始まるとリノは研究室で一番最初に内定を手に入れた。
他の学生が研究室に来ない日もひとり研究を続けていた。
その成果もあり学会発表に出て欲しいと教授から推薦された。
学会での発表も問題なく終わり、内定していた東京の企業に就職した。
やっと全てが順調に回り出したかに思えた。
就職してからもリノは褒められる一方だった。
仕事が出来る、気遣いが出来る、常識がある、後輩から慕われる、ノリがいい、と上司たちは口々に褒めた。
それでもどの言葉もリノには響かなかった。
嬉しくない訳では無い。
かといってとても嬉しくもなかった。
やっと『普通』の人間としての振る舞いを身に付けて、思ってもいないポジティブな発言をして、やりたくもないのにやる気があるフリをして仕事をこなしているだけなのだから。
いつか本当の自分を知られてしまうことを酷く恐れていた。
リノは飲み会にも積極的に参加した。
酒は飲めなかったが、飲み会に参加するだけで社長や上司からの評価があがったからだ。
ある飲み会の席で両親の話になった。
リノが長らく親に連絡をとっていない、自分から連絡することがないと知ると上司は小馬鹿にしたように語り出した。
自分から連絡しないなんてお子ちゃまのやることだ。
何も無くても定期的に連絡して親を安心させてあげるのが親孝行だ。
もっと大人になりなさい。
愛想笑いで流したが泣きたくてたまらなかった。
普通の家庭で育った人は親子とはそう言う関係であるべきだと本気で信じているのだと実感させられたのだ。
上手く取り繕っていたはずの社会人生活もまた徐々に壊れ始めていた。
父の日、母の日になると周りの人々は親への感謝を口にする。贈り物を何にするか相談し出す。
リノは父や母に本気で感謝している人間が存在するなんてことは社会人になるまで知らなかった。
子は親に感謝するものだという社会的な圧力で、皆思ってもいない感謝を形式上述べているだけだと思っていたのだ。
そしてそれは同時にどうやってもリノには手に入れられない感情であった。
ふとした瞬間に他人の言葉で思い知らされる『普通』の家族。
毎年やってくる祝日が、記念日が、イベントが、リノの心を曇らせた。
更に追い打ちをかけたのは女性差別だった。
上京してからリノは自分がセクハラされていたこと、女性が差別されていることを自覚した。
当たり前過ぎて気付かなかったのだ。
学生時代に習った男女平等は嘘だったと、大人になるまで気付けなかった。
結婚したら男性は昇進、昇給、女性は退職。
男女の給与格差。
結婚して苗字を変えるのも9割女性。
夫の仕事の都合に合わせて転勤するのも女性。
女の化粧はマナー、ヒールやパンプス、コンタクトレンズの強要、あげればキリがない。
こんなに露骨に男女で差をつけられているのに、当たり前過ぎて差別だとすら気付けない人がたくさんいるのだと、リノは気付いてしまった。
優しいと思っていた親子ほど年の離れた上司もリノを恋愛対象として見ていた。
仲良くしてくれる同期や後輩の男性社員も、みんな下心ありきでリノに接触していた。
夜道で知らない男に声を掛けられた、電車で痴漢に遭った、断っても荷物を持つからと家まで着いてこられた、教えてもいないのに授業で隣の席だった男から電話がかかってきた、友達だと思っていた男友達に押し倒された、ソフトドリンクとアルコールをこっそり入れ替えられて酔ったところをホテルに誘われた、挨拶のように今度ヤラせてと言われた、もうたくさんだ。
気付かなければよかったのに。
鈍感なままなら、馬鹿なままなら、それなりにマシな人生を送れるようになったと勘違いしたままでいられたのに。
差別もそれが当たり前だと受け入れたままでいれば、どうしようもない現実に絶望する必要もなかったのに。
リノはもう限界だった。
体調不良を理由に会社を辞めた。
本当は生きることすら辞めたかった。
もう収入もない。
食欲もない。
動く気力もない。
助けを求める相手もいない。
ただ横になって天井を見つめる。
もう何も感じないはずなのに時折頬や耳に生ぬるい水滴が流れてくる。
吐き気がする。
リノは生きることを諦めようとしているのに、その意に反して身体は生きようとSOSを出す。
脱水のせいか、空腹のせいか目が霞む。
船酔いのような目眩が襲いくる。
ああ、とても具合が悪いなと他人事のように分析する。
これまでリノはたくさんたくさんひとりで考えたのだ。
親も先生も教えてくれなかったから。
疑問の持ち方や他人と接する方法や自分の頭で考えるということを。
他人と上手く接するために、他人の思考を知ろうと努力した。
掲示板を読み漁った。
ニュースブログのコメント欄を隅から隅まで読んだ。
こういうときに人はこういう意見を持つのが一般的なのだと、多数派の意見を見て学習した。
まるで生まれたてのAIが学習するように、自分に欠けていた倫理観を補った。
哲学者のように、多くの答えのない思考を繰り返し、リノはあらゆる物事に疑問が持てるようになった。
その結果どうだろう。
世界は益々生きづらいものとなった。
無知なままでいればよかったと何度も後悔した。
もう考える事すら辞めてしまいたいのに、気付くと何かを考えている。
唐突に充電器に繋がれたままのスマホが鳴る。
親からの連絡だ。
通知に見える「元気?」の3文字。
元気?元気かって?同じ家にいた時にあんなに元気のなかったリノを見て見ぬふりしたくせに元気?だって?笑わせる。
もう返事はしない。
親から連絡が来る度に精神がすり減る。
もう全部全部嫌なのだ
どうして
どうしてこうなちゃったんだろう
初めから
全部
全部
狂ってた?
私はどこで間違えた?
パラレルワールドには幸せに暮らす私もいるの?
どうすればよかったの
私にはもう何も無い
ないから、もう
これ以上苦しめないで
ごめんねリノ
助けられなかった
ごめんねリノ
全部背負わせて
ごめんねリノ
さよなら可哀想な私
同じ苦しみを背負った人たちがどうか救われますように。
逃げられますように。




