レベル2 『アルトヘヴン』
夕暮れ時。
蒼太は永子の部屋のドアをノックしていた。
「お母さーん……ちょっとゲームでわからないところが……ってあれ?」
されど返事がなく、ゆっくりとドアを開けて、キョロキョロと部屋の中を見回しても永子の姿はない。そこで蒼太は思い出す。
「あ……お母さん、買い物行ってるんだった」
ここにいても無駄、と部屋を後にしようとしたとき、蒼太の目に止まる物があった。
「ん?」
初めて見るゲームパッケージに、見慣れぬゲーム画面。
これは、まさか。
「アルト、ヘヴン?」
光に引き寄せられる虫のように、蒼太はフラフラと歩み寄る。
どうして、アルトヘヴンが起動中なのか。
考えにくいが、永子はゲームを途中にして買い物に行ったということになる。
――もしかしたら、僕を試してるのかも!
ハッと思いつき、蒼太は蒼太は周りを確認する。
ゲーム関連の物以外は必要最低限の物しか置かれておらず、永子が隠れられるようなスペースはない。隠しカメラがあればお手上げだが、永子はいないものと判断していいだろう。
「ふぅ」
蒼太は息を吐きながらホッと胸を撫で下ろして、画面に近寄った直後、何かを蹴った感触が足に伝わり、身を飛び上がらせる。
「……!」
心臓が飛び出たんじゃないかと本気で思いながら、蒼太は床を見る。
すると、永子が愛用している、マイク付きヘッドフォンが転がっており、それがゲーム機に接続されていた。
つまりは、このアルトヘヴンというゲームは会話することが出来るということだ。
アルトヘヴンはオンラインゲームであるから、仲間と会話をして連携を取る必要があるということか。
結局それだけでは何もわからず、今度はゲーム画面に注目する。
操作キャラと思わしき男が茂みの中で片膝をつき、息を潜めていた。
時折、身じろぎしたり、周囲を確認したり、背負っている長剣に手をかけたりと、様々な動きを見せてくる。
その様子を見て、リアルだ、と蒼太は感想を述べる。
普通のゲームでもリアルさを出すために息遣いなどが感じられるが、一定の動きしか出来ない。
だが、このキャラクターにはまるで意思があって、その意思に従って動いているかのようである。
――アルトヘヴンって、いったい何なんだ!?
バクバクと心臓の鼓動が高まり、蒼太はさらなる情報に目を向ける。
画面左上に表示されたHP。その上にカタカナで書かれているのは、もしかしたらキャラクターの名前なのかもしれない。
「えーと……ティゴシ―、かな?」
ポツリと漏れた蒼太の声をマイクが拾ってしまったのか、ゲーム内のキャラクターが静かに反応を示した。
「誰だ?」
「あ……えっと、あの……」
ヘッドフォンから声が流れてきて、どうしたものか、としどろもどろになる蒼太。
だけど、ここで黙り込むのはよくない。
永子はよく言うのだ、挨拶は大事だ、と。
母親の教えに従うべく、蒼太はヘッドフォンを装着し、答えた。
「ティゴシ―さん、こんにちは! 僕は朝霧蒼太です!」
「朝霧蒼太? ああ、なるほど、そういうことか。永子はどうした?」
「お母さんは夕飯のお買い物に行ってるよ」
「まったく……こんなときにあいつは何をやっている…………」
「ねぇねぇ、今何してるの?」
蒼太が首を傾げながらそう問うと、ティゴシーが抑えた声で叫んだ。
「見てわかるだろ!」
「うぇ!? えーと……」
ゲームの舞台は森とったところか。
所々に大小様々な木々が立ち並んでおり、しゃがめば身を丸々隠してしまうぐらい伸びた草が一面を覆っている。
そして、ティゴシ―の視線の先には、黒いドレスを着た妖艶な空気を醸し出す女が一人。
女は何かを探していて、ティゴシ―は女の動向を窺っている。
この状況が指し示すものを、蒼太は今朝のニュースで見たばかりだ。
「わかった! ストーカーだ!」
「違う! もう黙ってろ!」
ちょっとした冗談のつもりだったのだが、ティゴシ―の逆鱗に触れたようで、一切の発言を禁じられてしまった。
――そんな怒んなくてもいいのになー。
大体、こんなもの見てわかるわけがなかろう。見てわからないから聞いているというのに、見たままに答えたら怒られるとは、なんと不条理な世であることよ。
「うーん…………」
一歩大人の階段を上った蒼太は、その後、所在なさげに足を放り投げて床に座り込む。
なんとなしに画面を眺めていたのだが、ティゴシ―は女の尻を追いかけるだけでほとんど変化はなく、どうにも暇で、蒼太はチラリと目線を落とす。
ゲーム機から伸びる二本の線。それを追っていくと、パソコンで使うキーボードとマウスが、机の上に置いてある。
おそらく、これがアルトヘヴンのコントローラーなのだろう。
家庭用ゲームでキーボードを使うなんて不思議なものだ。
不思議ついでに、好奇心も湧きあがり、そろりそろりと左手を伸ばすが、すぐさま右手でそれを制す。
ああ、ダメだ。
永子と約束したばかりではないか。
アルトヘヴンをプレイしてはいけないと、触ってはいけないと言われているではないか。
しかし、そんな理性に反して、蒼太の心は囁きかける。
知りたい、と。
「…………」
――ええい! ままよ!
蒼太は本能の赴くままにDというボタンに触れ、ゆっくりと押し込み、音が硬く響く。
――押した! 僕はあのアルトヘヴンをプレイしたんだ!
歓喜。
そして、後悔が訪れる。
「…………ってこれ、大丈夫なの!?」
ひとまず、画面下部にDの文字が表示されているだけで、特に何も起こらない。
落胆し、肩を落とすが、何事もなかったことに蒼太は安心する。
それと同時に他のボタンはどうだろうかと、疑問が浮かぶが、これ以上はやめておこう。
どうやら、ティゴシーは隠れているらしいし、何かあったら永子は約束を破ったことを怒るだろう。
蒼太はそう考えて、自室に戻ろうと振り返ったとき、肘がキーボードにぶつかり、カチリッと音が鳴り響く。
「え?」
自分の肘がスペースキーを押していたことを確認して、ドバッと汗を噴き出しながら蒼太はゆっくりと画面に目を向けると、そこでは信じられない映像が流れていた。
ティゴシ―が、茂みから飛び出していたのである。
女が一瞬驚いた顔を露わにした後、嬉しそうに舌なめずりをして言った。
「あらあら、こんにちわ!」
「こ……こんにち、わ?」
挨拶をされたため、挨拶をし返した蒼太だが、果たしてこの声は届いているのだろうか。
いや、今考えるべきなのはそんなことではなく、アルトヘヴンを勝手にプレイしてしまったことだ。
――やばい、お母さんに怒られる。
永子が帰ったきたらああしようこうしようと思案を巡らせていると、呆れた声が蒼太の耳に届いた。
「はぁ、お前は何をやってるんだ……」
「ど、どどどどうしよう!」
「落ち着け、まずは逃げろ」
「逃げろって言われてもどうすれば!」
「操作方法も習ってないのか……」
「だって、お母さん、アルトヘヴンのことはほとんど教えてくれないんだもん!」
ティゴシ―の責めるような口調に、蒼太は涙目になって答えた。
永子はアルトヘヴンの内容を語りたがらなかったし、ゲームの説明書さえも読ましてもらえなかった。
ただし、永子からアルトヘヴンのルールを一つだけ教えてもらったことがある。
HPが0になったら、キャラクターは死んでしまい、そのデータが消去されてしまう、というものだ。
つまるところ、この状況、かなりマズイ。
女の姿がフッと消え、ティゴシ―の背後から小さなナイフを突き立てられた。
「ティゴシ―さん!」
「ぐっ……!」
ティゴシ―は苦しげな声を出しながらも剣を振るうが、剣が通り過ぎたのは女が背後から消えたずっと後であり、それはあまりにも、遅すぎた。
別段、ティゴシーの動き自体が遅いというわけではない。
普通の人間の速さだ。
けれど、女の動きが速すぎるのだ。
蒼太の目では追えないほどに。
――でも、さっきはティゴシーさんも速かったはず……だよね? まさか!
プレイヤーの操作によって、キャラクターの動きは、加速する。
逆に言えば、プレイヤーによる操作がなければ、キャラクターはその本領を発揮できない。
蒼太は瞬時にこのゲームの難易度を把握。
絶望する。
なにせ、蒼太は操作方法すらまともに知らない初心者なのだから。
勝てるはずがなかった。
けれど、諦めるにはまだ、あまりにも早すぎた。
まだ、足掻かないわけにはいかなかった。
ゆえに、蒼太は乱雑にボタンを押した。
234のダメージを受けたが、残りHPはまだ1666もあるし、幸い、何かしらのアルファベットを入力し、スペースキーを押せば操作できることはわかっているからだ。
「な、何で動かないのさ!」
しかし、ティゴシ―は動かなかった。
蒼太は焦ったように叫びながら、なおも、めちゃくちゃにアルファベットを打ち込むが、やはり、何も起こらない。
気がつくと、女が紫色の液体が入った瓶を左手に握っていた。
何が起こるんだろう、と息を呑むと、女が瓶の蓋を片手で開けて、紫色の液体をナイフへ豪快にぶっかけた。
ナイフからあぶれた液体は地面に滴り落ち、ジュウジュウと土を汚染していく。いい予感はしない。
「きゃはははっ!」
そんな耳が痛くなるような甲高い笑声が聞こえると同時に、女は再び姿を消す。
そして、先程と同じようにティゴシ―の背後に出現し、無防備なその背中を、ナイフで刺した。
ズブズブとナイフが奥へと進み、紫色の液体がティゴシ―の中へと入っていく。
「ああ! ああ! いい! いい! すごく、いいわァ!」
その、恍惚とした女の表情に、蒼太は身を震わせた。
異常だ。
これまでに蒼太が現実に出会ってきた人間のどれにも類似しない。いや、類似してはならない異常さを、蒼太は子供ながらに目の当たりにしてしまった。
「うふふ……ふふっ、うふふふふふ!」
どこか遠くを見るような目をした女が笑いながら、フッといなくなる。
カラクリはわからないが、女は出たり消えたりできるらしい。もし、出現位置にパターンがなければ、あらゆる人間にとって脅威となりうる。
どんなに厄介な能力だろうと蒼太には悪い意味で関係ないのだが。
「あれ?」
女が離れた場所に現れて、初めて蒼太は気づく。1666もあったはずのHPが850まで減っていたのだ。先程の一撃で約800ものダメージを負った計算である。
どうしてこんなに、と蒼太は疑問に思い、HPを凝視すると、攻撃を受けていないはずの今でも、そこには小さな変化が生じていた。
「HPが……何もないのに、減ってる?」
蒼太の驚きに満ちた言葉を受けて、ティゴシ―は落ち着いた声で説明する。
「毒……HPが時間経過とともに減少する状態異常だ」
「状態異常なんてあるの!?」
「ああ、だが……道具でそれを引き起こす奴は初めてだ……!」
「……!」
歴戦の戦士らしきティゴシ―がここまで言うのなら、それだけすごいことなのだろう。
蒼太の顔から分泌された汗が玉になって、顎から重力に従って落ちる。
ジットリと服が湿った。
「これね、私が思いついたの」
何が面白いのか、女はクスクスと笑うと、新たに液体の入った瓶をどこからか取り出し、その瓶を舌を使ってベロベロと舐め回し始めた。
そして、その中身をドロリとナイフに垂らし、女は言った。
「毒瓶はこんなにも使えるのにどうして使わないのかしら? 無能プレイヤーばっかりで呆れちゃうわ。今のあなたのように、ね」
「…………」
「いったい、あなたほどの人がどうしたというのかしら? 面白く……ないわね!」
女は強く踏み込み、真っすぐと向かってくる。
非常に単純な動きだが、消えて背後に現れる、という技はもう使ってこないのか。
舐められてる、と憤慨しながらも、蒼太は何も出来ず、あっさりとティゴシ―は脇腹を刺されてしまう。
最初に大きくHPを減らしてから、毒によって少しずつ削られていく。
――止まれ! 止まれ!
蒼太が強く念じても、毒は衰えることなく命を蝕み続け、HPは100を切り、ついには50以下。
そこでようやく、ダメージ量が緩やかになり、やがて、13で止まり、蒼太は声を漏らす。
「ぅう……!」
「あら、残念」
女はちっとも残念とは思ってなさそうな淡白な口調でそう言った。
それはそうだろう。現状は何も変わっていないのだから。
敵は圧倒的なプレイヤーであり、今の蒼太では逃げることさえもかなわないという現状は。
どうしてここまで追い込まれたしまったのだろうか。
初めてのゲームだから?
いや、違う。自分が無能だからだ。
真の有能なれば、知らぬ場所でこそ真価を発揮する。
――こんな状況で何も出来ない僕は……無能なんだ!
永子は言っていたではないか。
今の蒼太ではキャラクターを殺してしまう、と。
なのに、蒼太は約束を破り、永子のデータを勝手に触ってしまった。
それが、この結果だ。
「は……ははは…………」
蒼太は乾いた笑い声を上げて、
「僕には無理だ。これをなんとかするなんて」
コントローラーから、手を離した。
その空気を察してか、女が無言のまま短剣を構えて走り出す。
全てを投げ出し、テレビ画面から目を逸らしたとき、本当に見下すようなティゴシ―の声が蒼太の耳を叩いた。
「ふん、息子がこの程度なら……母親の底も知れるというものだな……! 所詮は永子も、ただの女だったというのか!」
瞬間。
全身の血が沸騰し、一気に脳へと駆け巡り、停滞しかけた頭がギュルリッと回転する。
「っ! 僕を馬鹿にしても、お母さんを馬鹿にするのは許さないよ!」
「どうしてだ? そういうものだろ! 家族ってやつは!」
「違う!」
「似るものなんだよ……血が、そう言っている……! 子がダメなら、親もダメだとなッ!」
「お母さんは僕と違って! すごいんだ!」
「だったら、証明してみせろ……! お前の母親がどれぐらいすごいか!」
「言われなくてもッ……! 証明、してやるッ!」
蒼太は怒鳴り、咄嗟にAというボタンを、そして、スペースキーを叩いた。
すると、何度やっても意味を成さなかった命令が、剣を横薙ぎに振るうという行動をもって、実行された。
――やっと……動いた……!
ゆっくりと流れる時間の中で、蒼太の怒りは冷水をかけられたかのように熱を失っていく。
その冷水の役目を担ったのは、凄まじい斬撃を放つ途中にあるティゴシ―の声であった。
「そうだ。それでいい……さすがは永子の息子だ」
そんなティゴシ―の、穏やかで、真に愛のある者にしか向けられない笑みを向けられ、蒼太は悟る。
乗せられた、と。
よくよく考えれば、このティゴシ―という男は永子と共に長く戦ってきたのだ。
そんなティゴシ―が永子を貶すはずがない。
――僕はなんて大馬鹿なんだ!
悔し気に机を殴り、けれども、晴れた表情で蒼太は成り行きを見守った。
剣が女の首に食い込み、血を掻き出しながら、進む。
そのまま女の首を断ち切ってしまうかと思われたが、女は驚異的な反応で後ろへ下がったため、切断には至らず、ティゴシ―は忌々しそうに呟いた。
「届かなかったか……」
首に付いた傷はみるみるうちに塞がると、溢れていた血も止まり、流れた血はパラパラと散っていく。
女は傷が付いていた部分を指で艶めかしく撫でながら声を上げた。
「うふふふふ! なるほど……油断させて即死狙い、ってわけね。今のは危なかったわ……でも、あなたにしてはお粗末な作戦じゃないかしら。失敗してしまえば、後に残るのは瀕死の体だけよ」
女のHPは約320も減っているものの、残りHPは900程度。
最低でも後三回、攻撃を当てなけれなならない。
対して、ティゴシ―のHPは13。一撃で沈められるHPである。
そんな絶望的状況において、ティゴシ―は剣の刃先を女に向けて、言った。
「いいや、ここからだ」
「いくらなんでも、それは無理じゃないかしら?」
「まぁ、見てろよ。俺のプレイヤーの力をな!」
そう宣言すると、ティゴシ―は剣を両手で持ち直し、話は終わりだと言わんばかりに気を滾らせる。
あまりの気迫に押され、固唾を飲む蒼太に、ティゴシ―は小声で話しかけた。
「お前を試すようなことをして悪かったな……」
蒼太は口を尖らせながら、答える。
「むぅ、そんなこと言っても許さないよ?」
「そうしなきゃ、俺が死んでただろうが…………」
「うん……そうだよね。ごめん……僕、もう諦めないよ」
「ああ、それでいい。やるか、臨時の相棒よ!」
「うん!」
元気よく返事をして、蒼太は策を練り始めた。
まずやるべきことはどのボタンがどの行動に繋がるかということだ。
おそらく、行動は全てのアルファベットから、つまりはAからZの最低26種類ある。
その全てを試すことは残念ながら、女がさせてくれないだろう。
しかし、不可能だとしても、がむしゃらにボタンを押しても無駄なことはもう学んだ。
――ここから順番に、一つ一つ試していく! まずはBとC!
と、実際に行動に移したわけだが、Bを押しても何も起こらず、Cを押しても何も起こらない。
「あれ? あれれ!?」
AとDは判明しているため、BとCを押したのだが、予想外の結果に蒼太は混乱する。
――全部のボタンが行動に繋がってるんじゃないの!?
自分で言ったことに文句を垂れていると、心配そうなティゴシ―の声が聞こえてくる。
「おいおい、本当に大丈夫かよ……」
「これは何の茶番かしら? 来ないなら……こちらから攻めるわよ……!」
女が言葉を残して、姿を消す。
蒼太を警戒したのか、またあの技を使うつもりなのである。
焦りそうになるが、焦ってはダメだ。
――最後まで冷静に対処する!
そう自分に言い聞かせ、蒼太は思考を再開する。
どうやらボタンにはそれ一つで行動になるものと、そうではないものがあるらしい。
それなら、BとCといったボタンはAやDといった行動を変化させることが出来るのではないか、と蒼太は推測し、それは正しかった。
蒼太が入力したのはBAというコマンド。
ただ攻撃するだけだったAという行動が振り向いて攻撃するという行動へ変化する。
コマンド入力と同時にティゴシ―の背後に出現した女が息を漏らした。
「……っ!」
さぞや驚いたことだろう。
今まで刺されるがままだった蒼太がいきなり対応し始めたのだから。
女はすかさず身を翻したため、その攻撃はさすがに避けられてしまったが、女の攻撃を阻止したのなら、上出来だ。
「ふん、どうだ? 馬鹿に出来ないだろう? 追いつめられた鼠というのは」
「どういうつもりかわからないけど、さっさと終わらせてあげる」
「終わらねぇさ! お前が倒れるまでなッ!」
ティゴシ―はグッと足を深く踏み込んで、駆ける。
そのスピードから繰り出される体当たりはまさに砲弾であり、女の体を盛大に吹き飛ばした。
吹き飛ばされた女の体はガサガサと草を揺らし、最後には巨木にぶち当たり、辺り一帯にその衝撃を波及させる。
今のはCDというコマンドによって生じたものだ。
攻撃を意味するAボタンを使わなくともこういった形でもダメージを与えられるようである。
ただ、相手のHPを見る限り、大して減ってはいない。
「さて……」
Bは後ろを向くというわかりやすい変化だったが、Cはどうだろうか。
とにもかくにも、すぐさまその場を離れるために、蒼太はBDというコマンドを入力する。
予想通り、後ろに向かって走るというものだった。
女が起き上がろうとしていたが、その距離に安心しきっていた蒼太は最後の組み合わせであるCAを試しに実行する。
だが、蒼太はそこで失敗に気づく。
Cというのは溜めを意味する行動であり、CAとは溜め攻撃なのである。
それは大きな隙を作ることになり、女が一瞬で距離を詰めて、ティゴシ―の懐に潜り込み、言った。
「それは悪手よ」
「ぅ!?」
蒼太は攻撃から逃れるため、BDと入力しようとした。
振り返る時間などあろうはずもないが、蒼太に残された選択肢はそれしかなかった。
しかし、蒼太はこんな大事な局面で手を滑らし、BではなくGを、そして、Dも押さずに実行してしまう。
その結果、ガギンッと金属がかちあう音が鳴り響いた。
女の攻撃を防いだのである。
ミスはしたが結果オーライ、と心を持ち直し、蒼太は次の手を考えていると、
「ふん、今のは悪手じゃないか?」
ティゴシ―がお返しとばかりにそう言い放ち、小さな短剣を弾き返した。
「ぐぅっ……!」
歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべながら、女は大きく態勢を崩す。
――いける!
ここぞとばかりにAボタンを入力すると、ティゴシ―の剣が吸い込まれるように女の首を目指す。
常に保ち続けていた女の余裕もついに、途絶える。
即死に繋がる弱点を突かれようとしているならば、今までHPがあったがゆえの余裕など、吹けば飛んでしまう塵も同然。
湧き出す勝利の気配。
だが、今度こそ女の首を断ち切ろうというときに蒼太が見ていたのは、女の首ではなく、女の左手であった。
そこには、さっきまでなかったはずの瓶があったのだ。
「3個目!?」
蒼太は甲走ってから、すぐさま自分の言葉を否定した。
その瓶の中身は紫ではなく、黄色の液体だったからだ。
どんな効果かはわからないが、女の性格を考えるといい物ではないだろう。
蒼太は即座に避けようとするが、どんな入力も間に合うはずがなく、剣が女の首に到達する前に、バシャリッとティゴシ―の開いた口に黄色い液体が流し込まれる。
ティゴシ―はすぐさま、ベッと液体を吐き出すが、少量を飲み込んでしまったようで、苦い顔をしながら舌打ちをする。
「ちっ……!」
その様子を見て、女は口が裂けるかのように笑った。
「やっぱりこれが一番ね」
ゆっくりとティゴシ―の動きは鈍くなる。
ティゴシ―は歯を食いしばりながら、必死で手を前へ伸した。
たとえ、後にどんな状態になろうとも、その首に届きさえすればそれで勝ちなのだ。
「と、ど、けぇぇぇぇぇ!」
ティゴシ―が叫び、思いを乗せた攻撃は、しかし、プリシラが持つちっぽけな短剣に阻まれ、衝突によって起こった弱弱しい金属音が蒼太の心にさざ波を立てる。
――まさか。
不安は的中し、どのボタンを入力実行してもティゴシ―は反応を示さない。
「ティゴシ―さん? 動かないよ!?」
「……麻痺毒、と言えばわかるか……?」
「なっ!」
麻痺毒。
様々なゲームで扱われている、操作不能という、プレイヤーにとって最悪の状態異常。
「うふふふふふっ! ああ! なんてつまらない結果なの? 実験にならないわよ、これじゃあっ!」
女の哄笑が耳につく。
もっと早く、コマンドの仕組みに気づいていれば、いや、それこそ最初に永子との約束を破らなければこんなことにはなっていなかったのだ。
この戦い、勝とうが負けようが、自分が失敗したことに変わりはない。
――僕は……間違っていたんだ。
「ティゴシ―さん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
蒼太の口から自然と何度も繰り返される謝罪を、
「違うな……お前は間違っちゃいない」
とティゴシーはハッキリとした声で否定した。
「え?」
「…………」
しかし、ティゴシ―は何が違うのかは口にせず、動かないはずの体をギリギリと鳴らしながら、剣を杖にして立ち上がり、女を睨みつける。
「お前には、俺が天敵のように見えていたようだが……俺は違うぞ……プリシラ」
名前を明かされた女、プリシラは眉をピクリと動かし、驚くほど低い声を出した。
「何ですって?」
ティゴシ―は一歩前へ進み、語り始める。
「いつか、悪を喰らう獣がお前達の前に現れる……世界最強のプレイヤーという力を持って、お前達全員の悪を喰らい尽くす……!」
そこで一度言葉を切り、大きく息を吸ってから、ティゴシ―は叫んだ。
「俺が負けても、正義は勝つんだよ!」
「……!」
ティゴシ―が何を言っているのかはわからない。
しかし、蒼太はグッと心を揺らがされていた。
わからないこそ、蒼太にもわかったことがあるのだ。
蒼太の見ていた世界というものはずっと狭い。
そんな狭い世界で、蒼太は決めつけてしまっていた。
自分は間違っていた、と。
そうではない。
そうでは、なかった。
物事というものはもっと広い世界で見るべきなのである。
ティゴシ―が言っていた、正義だの悪だのという世界もまた、狭い世界。
そう思えてしまうほど、蒼太の世界は広がり続けていた。
そして、無限に広がる世界の中で、プリシラは苦々しい顔を浮かべながらも、言葉を発した。
「…………たとえそれが本当でも、あなたはここで終わり……ゲームオーバーなのよ」
プリシラは大きく腕を引いて、そこから目にも止まらぬ神速の突きが繰り出され、ティゴシ―の腹を深々と、短剣が貫いた。
ティゴシ―の中からドロリと血が流れ、蒼太は心の中で呟く。
――ああ、全部終わりなんだ。
どんなに見識の世界が広がろうとも、蒼太はまだ子供。
何もかも受け入れられるほど、解脱してはいない。
世界が見えてもその世界を自由に渡れるとは限らないというわけだ。
つまり、蒼太は心のどこかで、こう考えていたのである。
実はティゴシ―には逆転の目があって、だからあんなに堂々としていられるのだ、と。
まだ勝ち目はあるのだ、と。
でも、違った。
ティゴシ―は死を覚悟した上で言ったのだ。
こんなにも蒼太が世界を広げることが出来たのもきっとそのせいなのかもしれない。
そう考えると、背筋が凍った。
自分はこれから怖いものを見ることになる、と蒼太は確信したのだ。
ティゴシ―の、残りHPを示す数値が減っていく。
0へと、死へと向かっていく。
ブルブルと体を震わせながら、蒼太は知らず知らずの内に、自分の感情を言葉に出していた。
「嫌だ……待ってよ、どこにも行かないでよ! ティゴシーさん!」
ティゴシ―がフッと笑い、口を開く。
しかし、その口からは何も出ず、ティゴシ―はゆっくりと体を傾かせた。
そして、ティゴシ―が地面に横たわる、その寸前。
蒼太の目を何かが覆った。
柔らかく、蒼太の体全体を包み込み、戦いで張り詰めた心をアイスのように溶かしていくそれは、無機質な物体ではとても出せない温もりを持っていた。
しばらくして、覆っていた物が離れ、永子の悲しそうな顔と、真っ黒なテレビ画面だけが蒼太の瞳に映った。
「お母さん、僕……」
「…………」
「ごめん、なさい。僕がティゴシ―さんを……僕が……!」
「大丈夫……大丈夫よ」
永子は蒼太の頬を右手でさすってから、頬と頬を触れ合わせ、蒼太の耳元で囁いた。
「たかがゲームだもの。それよりも、蒼太が怖い思いしなくて本当に良かった」
目頭が熱くなり、ダムが決壊したかのようにドッと涙が溢れ出す。
様々な感情が胸の中に流れ込み、蒼太は声を出して、泣いた。
「ぐすっ、ぅぅ、うわあああああぁぁぁぁぁ!」
蒼太は知っている。
永子がゲームをどれだけ好きかってことを。
蒼太は知っている。
永子がアルトヘヴンにどれだけ時間を費やしたかを。
蒼太は知っている。
キャラクターがゲームの中で生きていたことを。
そして、蒼太は知った。
アルトヘヴンというゲームの、そのルールの残酷さを。
*
その日の翌日のことだ。
永子が普段は着ないような黒い服に着替えようとしていたのは。
「お母さん、どこ行くの?」
蒼太に服の裾を引っ張られた永子は服のボタンを閉める手を止め、姿勢を低くして蒼太と目の高さを合わせた。
「ごめんね、蒼太……お母さんは遠いところに行かなくちゃいけないの」
「とおいところ? いつ帰ってくるの?」
「もう会えないかもしれない」
「会えない? どうして?」
「…………」
永子は困った顔をするだけで、何も言わない。
結局、どうして会えないかはどうやら教えてくれないようで、蒼太は質問を変えた。
「お母さんは遠いところに行ってもアルトヘヴンやってる?」
「うん、やってるよ」
永子は微笑んで、そう答えた。
世界最大規模のオンラインゲームの中で特定の誰かを見つけることは難しい。
けれど、自分の名を轟かせば、きっと永子は自分を見つけてくれる。
そのときは会ってくれるはずだ。
ゆえに、蒼太は拳を握り、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「僕は蒼太だ! アルトヘヴンで遊んで、遊んで、遊び尽くして! 世界最強になって……お母さんと会うよ!」
永子はハッと目を見開いてから、ニヤリと笑って、蒼太の頭をグリグリと撫でた。
「ふーん、言ったわね。でも、わかってる? それって、私を超えるってことよ?」
「うっ……そ、そうだよ! 僕は世界最強になるんだ! だからお母さんだって……!」
「んふふ」
永子は撫で続ける。
僕はもう子供じゃない、と嫌そうな顔をする蒼太を無理やりに。
そして、蒼太の体を強く抱きしめ、永子は優しく言った。
「それならお母さん……待ってるからね」
「……!」
蒼太はぎゅっと永子の服を握り、永子の胸に顔をうずめた。
行かないで。
そう言いたかった。
でも、それはダメだ。
――僕は世界最強になってからお母さんに会うって誓ったんだから。
「…………」
離れようとしない蒼太を、永子は咎めるようなことはせず、ただポンポンと蒼太の背中を叩き続けた。
蒼太が離れるまで、ずっと、ずっと。
当時、10歳の少年であった蒼太はこのとき、ゲームの師匠であり、母親である朝霧永子を失った。