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魔法使いの話

久郷栄太はいくじなし

作者: どらぽんず

<1>

 深夜。

 町の中心地から少し外れた位置にある住宅街の一角、街灯もない狭い道を一人の青年が歩いている。

 黒髪黒目。ぼさぼさの髪はわずかに目元を隠すほどの長さで、その下にある顔に特徴らしい特徴はない。背は高くも低くもなく、体の線はどちらかといえば細いだろうか。彼の外見には目を引くようなものはないが――それゆえか、歩く動作から伺えるやる気のなさがいちいち目に付く人物であった。

「さーて、と」

 彼の右手には有名なコンビニチェーンの名前が印字されたビニール袋がぶら下がっており、空いた左手には串にいくつかのから揚げが刺さったホットスナックがある。

 彼はから揚げをひとつ、口で串から外してほおばる。よく噛んでから飲み込むと、ほっと一息を吐いた後で、大きな溜息を追加した。

「特別うまいってわけでもないのに、どうして買っちゃうんだかなぁ。金がもったいねえったら」

 呟いて、から揚げをまたひとつほおばった。

 独り言の内容に反して口調は軽く、表情もまた軽い。しかし、口元には自嘲の笑みが浮かんでいて、心にも無いことを言ったというわけではないようだった。

「まぁ、買った以上は味わわないと勿体無いからな。うん、次から気をつけよう。この台詞も何度目かわからんけど」

 言って、またひとつ、から揚げをほおばる。

 ゆったりとした足取りで歩きながらつまんでいたから揚げはその内無くなって、残った串をどこか物足りなさげに噛んでいたところで、彼はふと足を止めた。

 彼は疑問符で顔を歪めながら周囲に視線をやり、鼻をすする。鼻をすする度に顔の歪みが増す。

 どうやら何かの臭いが気になるらしい。

 しばらくの間、彼はどうするのかを悩むように腕を組んでいたが、諦めたように溜息を吐いて、仕方ないと呟いた上で、再び歩き始めた。

 彼の歩みに迷いはなかった。

 彼が向かったのは近くの公園だ。そこは、ぽつんと立っているひとつの街灯と、遊び場としてのブランコと砂場、そしてひとつのベンチがあるだけの狭い場所だった。

 深夜ともなれば、子どもの遊び場として用意されたこの場所に人の姿はないだろう。

 そこに人の姿があるとすれば、それはきっと関われば損をするような――たちの悪い酔っ払いや浮浪者などの厄介事そのものだ。

「あーあー、酷いなこりゃ……」

 公園の様子を見て、彼が低い声で唸った。

 その視線の先には、ひとつの人影がある。

 街灯の光が地面に作る円の中で地面に蹲るように転がるそれは、まるでずた袋のような酷い有様になった一人の少女だった。

 小柄な体躯を包む服は所々が破けており、最早服としての体を成していない。端々に幼さの残る相貌は苦しげに歪んでいる。そして、長い黒髪は汚れ、散らばるように乱れている。

 その全体を覆うようにある色彩は血の赤だ。その流れは今も止まらず、生臭い錆びにも似た臭いを放っている。

 彼はげんなりといった表情を浮かべて溜息を吐くと、煩悶するように唸りながら頭を掻いていたが、やがて何かを諦めたように脱力して肩を落とした。

 咥えていた串を口から離して公園のごみ箱に放り捨てると、少女に近づき、その体を肩に担う。

「あーあ、服がひとつダメになっちまった。まぁ買い替えのいい機会だと思って諦めるしかないかねぇ」

 嘆息を落として、彼はその場から立ち去った。





 そこは薄暗い部屋だった。

 カーテンは締め切られ、光源は小さなテーブルランプのみ。ランプの柔らかく弱い光が照らす範囲は狭く、部屋の詳細は見て取れない。

 見える範囲にあるものは、ランプの置かれたサイドテーブルとベッドがひとつずつだけだ。

 そのベッドの上には一人の少女が横たわって眠っている。

 少女は穏やかな表情で静かに呼吸を繰り返していたが、ぴくりと身を震わせて薄く瞼を開くやいなや、勢いよく上半身を起こした。

 周囲にすばやく視線を巡らせた後で、眉根を詰めた疑問符の表情を浮かべる。

「ここはなに……?」

 少女がそうひとりごちたところで、乾いた音が響いた。

 部屋の扉が開いたのだ。

 同時に、この部屋の外から光が入り込む。

 薄暗闇に慣れた目は急に入ってきた光に対応できずに眩む。

「……っ、だ、誰!?」

 光を遮るように掌でひさしを作りながら、少女は扉から入ってきた人物に声を投げた。

 誰何の声にまず返ってきたのは軽い溜息で、すぐに言葉が続く。

「おうおう、起き抜けで随分元気なことで。それにしても、第一声は誰何か。しかし、誰って言われても困るわな。

 まぁ、端的に答えるなら、しがない一人暮らしのおっさんというところだよ。名前は久郷栄太という。覚えても覚えなくても結構だ。……とりあえず、まずはその貧相な体を隠すといい」

 そう言って部屋に入ってきた青年――久郷栄太は手に持っていたジャージを少女に向かって投げた。

 投げられたジャージは彼女の胸に当たってベッドの上に落ちる。

 少女は視線を自分の体に向けると、口を結んで口端を真横に引き伸ばす。

 彼女の視線の先にあるのは、彼女自身の下着姿だ。現状を確認したところで彼女の顔は一瞬だけ羞恥で真っ赤になったが、露になった肌、手足の所々に治療の跡を認めて開きかけた口を閉じた。

「叫ばないのはいいことだ。時間も時間、近所迷惑になりかねない」

 久郷の言葉に、彼女は視線をあげる。

「何か聞きたいことでも?」

「……聞きたいことだらけだけど」

「そうか。しかし答える必要はないな。礼儀知らずに答えてやる義理はないし、そもそも聞かれたからといって答えなければならない義務もない」

「人を剥いておいて!」

「ガキに欲情するほど節操なしじゃねえよ。単に治療に邪魔だったから脱がしただけだ。服は処分したから、代わりにそのジャージをやる。新品だ。金は取らんから着たら帰れ」

「じゃあ何で助けたのよ!」

「……ガキが死ぬのを見るのは目覚めが悪いからな。ましてやそれが女なら、尚のこと。それだけだ。

 おまえの事情を聞く気もないし、深入りするつもりもない。興味もない。

 助けたことが不都合だったなら、次は住宅街の一角なんかで力尽きないことだ。人の居ないところに行くといい」

 久郷はそう言うと、少女から視線を外して部屋の扉を閉めながら出て行った。

「……何なのよ、もうっ!」

 扉の閉まる音を聞きながら、少女は何とも言いがたい憤りをベッドに叩き付ける。

 彼女はしばらくの間そのままの状態で固まっていたが、大きく息を吐いて、両手で顔を覆った。

「……何をやっているのよ、私は」

 溜息をひとつ追加して項垂れると、顔を覆っていた両手で両頬を叩き、顔をあげる。ベッドから降りて、久郷から渡されたジャージを着る。手足ともに裾が余ったので、折って長さを調節した。

 扉を開いて部屋を出る。

 出た先にはまた部屋がある。狭い部屋だ。四人掛けのテーブルと食器棚がひとつずつ置かれていて、たったそれだけで残るスペースがヒト一人が通れる程度になってしまっていた。

 テーブルの一席には久郷が座っている。文庫本を読んでいたようだが、扉の音に視線をあげた。

 少女と久郷の視線が合う。しかし、それも少しの間だけだ。

「貴重品はそこに置いてある。持って行け。中身は弄っていないし、何も盗ってはいないが……一応確認しておいたほうがいいぞ。まぁ仮に何かが減っていたり無くなっていたとしても、俺にはどうしようもないけど」

 久郷はすぐに視線をテーブルの上に移る。少女も釣られて視線を動かせば、そこには財布や鍵、スマートフォンが置かれていた。

「あ、私の……ありがとう、ございます」

 少女はそれらを確認した後で、ジャージのポケットに収める。そして視線を久郷に戻すと、久郷は文庫本に視線を落としていた。

 少女はわずかに逡巡するように口をまごつかせていたが、意を決したように一度口を強く引き結ぶと、おずおずと呼びかけた。

「えっと……く、久郷さん」

「何か?」

「さっきは、すみませんでした。助けてもらったのに、その、酷い態度を取ってしまって。……助けてくれて、ありがとうございました」

「うん……? 随分と素直になったもんだ。何があったのかは知らんけど、気にしなくていい。夜も遅いし、はよ帰れ」

「……ひとつ教えてくれませんか?」

「聞くだけならタダだな。ちゃんと答えるかどうかは別として」

「あなたはいったい何者なんですか? あなたは、普通の人じゃないですよね」

 久郷は少女の問いかけに苦笑を浮かべ、本から視線を外さないまま、質問には答えずに問い返す。

「随分な言われようだなぁ。どうしてそう思うんだ?」

「怪我人を拾って治療したこと。普通は血まみれの人間を見て、関わろうとなんて思わない。それに、どう治療すればあるはずの傷跡が跡形も無く消えるっていうんですか」

 久郷は本を閉じてテーブルの上に置くと、少し悩むような間を挟んだ後で、少女に視線を向けて笑った。

「聞いたところで納得するかは知らんが。まぁ、俺は魔法使いってやつでね、だから治せたんだよ。大した秘密があるわけじゃねえな」

「……からかってます?」

「どう思うかは自由だよ。んで、気が済んだらはよ帰れ。俺ももう眠いし、寝たいし」

 久郷はそう言って立ち上がると少女の背後に回って肩をつかみ、体の方向を変えて、その背中を押しながら玄関へと進み始めた。

「え、ちょ、ちょっと、ちょっと待ってくださいよ。もうちょっと詳しく教えてほしいんですけど!?」

 少女は当然、久郷の行動に戸惑いながらも抵抗する。

 久郷は少女の反応に構うことなく、そして抵抗をものともせずに少女の体を押しやり続ける。

「詳しくも何もねーよ。……あー、魔法使いのイメージってどんなよ?」

「げ、ゲーム?」

「そうそう、創作物をイメージするだろ? その中で魔法使いはどんなことができる? ――どんなことでもしてるだろ。簡単に他者を傷つけることができるし、騙すこともできるし、助けることもできる。実際はそこまで便利でも万能でもないが。これまでに色んなことをやってきたんでね、あの程度の怪我は見慣れてるんだよ。

 ほら、さっさと靴はけ。じゃないと足が汚れるぞ。ほらほら、早く、早く」

「え、いや、だから、ちょっとー!?」

 少女は久郷に抵抗を続けていたものの、玄関まで押しやられると、久郷の言う通り足が汚れるのを嫌ってか、つっかけのように靴に足先をつっこむ。踵を踏まないように爪先立ちになって更に抵抗しづらくなったせいか、あっけなく玄関の外へと押しやられた。

「そこからなら帰れるだろ。夜も遅いし、うるさくしないようにな。じゃあ、さようなら」

 久郷は少女を完全に外に出した後で、扉を閉めながら少女に向かってそう告げた。

 扉ががしゃんと音を立てて閉まる。

 少女は鍵が閉められるより早くと、扉のノブを掴んで回して引っ張った。

 扉はあっけなく開いた。

 しかし。

「……うそ」

 扉を開いた先には生活の明かりはなく、真っ暗な、誰も使っていないと肌で感じられるような冷たい空間が見えるだけだった。





 その後、少女は自分のしていることに若干の後ろめたさを感じつつも、怖いもの見たさにも近い感覚に衝き動かされて、開いた扉の先、暗い部屋の中を見て回った。

 しかし、そんなことをしても、ここには誰も住んでいないということがはっきりとわかっただけだった。

 埃の臭いが濃い空気。使われた様子のない水周り。家具のない広い空間。そして、肌で感じる、長い間ヒトが居なかったからこそ生まれる冷たさ。

「…………」

 少女は自分の着ているジャージを見る。続く動きでジャージの上着の裾をめくって体の治療あとを確認して、苦虫を噛み潰したような顔になる。

 信じがたいことだが、どうやったのかもわからないが、今目の前で起きたことは勘違いでも幻でもないのだと再確認できたからだ。

「なんなのよ、いったい……」

 理解できないことを前にして、少女は苛立ちの混ざった吐息を吐き捨てる。

 しばらくの間、目を伏せた状態で立ち尽くしていたが、やがて舌打ちをひとつこぼすと、踵を返して部屋を出た。

 この部屋――というより建物は、廃屋というわけでもないようだ。

 部屋を出た少女は、通路に漏れるほかの部屋の電気を見てそう気づく。

「やばい」

 見ず知らずの自分がこんな時間にこんな場所に居るのは不自然だ。そう思ったと同時に、急ぎ足で建物の外を目指す。

 幸いにも、他住人と鉢合わせることなく建物から出ることができた。そのことにほっとしつつ、ここはどこだろうと首を傾げる。

 スマートフォンで現在地を確認すれば、どうやら通う学校の近くにあるアパートのようだった。

「……持ち物を見られた?」

 少女は久郷という青年に自分の情報を握られたことに一瞬不安を覚えた。しかし、気にしても仕方が無いと首を横に振って疑念を消す。

「さっさと帰ろう」

 溜息混じりにそう呟いて、少女は帰路に着いた。





「ただいま」

 少女は玄関に入ると、そう呟いた。

 誰かに宛てた言葉ではない。返事を期待したものではないからだ。ただそう習慣づいているだけ、そうするのが当然だと習ったから続いているだけのこと。

 少女に家族がいないわけではない。

 スマートフォンで時刻を確認すれば、今は夜の十二時を回ったところだ。この時間ならば、おそらく全員家にいるだろうと、少女はそう思う。

 これが夕方頃なら違ったのだろうか? と追加で思って、何を馬鹿なことをと失笑する。

 時間など関係ない。少女は、この家では居ないものとして扱われているのだから、何をどうしたところでそんな言葉が返ってくるわけもないのに。

 期待はずれの子どもとして。成果が出せない者として。

 ただ居ることだけは許容されている。親としての最低限度――学校に関することや住居の提供、資金援助などもしてくれている。

 そしてそれだけだ。

 最も、その援助すら自分の命を賭けて引き出しているようなものなのだが。

「ぼろぼろになったところで、心配してもらえるわけでもないのにね……」

 自分の体を見ながら震える声でそう呟くと、少女は自室に向かった。



<2>

 少女は普通の学生ではない。

 生まれ持った素質があって――これは家系によるもので、彼女の家族も大半がそうなのだが――それをもって、世界の秩序を守る活動を行っている。

 彼女の属する組織の敵は、彼女と同じような素質を持つ者たちだ。

 思想の違いから二つの集団は敵対し、その対立は随分と昔から続いていた。

 彼女が所属している組織は穏健派。素質を隠して、社会に馴染むことを優先とする方針をもつ。

 敵対する集団は過激派。自らの素質をもって、優位な立場に立って利益を得るべきとする方針をもつ。

 敵対する集団には粗暴な者が多く、暴力による被害が出てしまうため、彼女の所属する組織がそれを抑止――討伐する。

 それは結果として相手を殺してしまうこともある。

 勿論、自分やそれ以外の誰かが死ぬこともある。

 そんな現場で、少女はただ淡々と働いている。

 誰に語るでもなく、誰に誇るでもなく、また、誰に讃えられることもなく。

 そして、少女には学生としての生活もある。

 少女の同僚――同年代の者も含む――の中には、生活の中心を組織としての活動に置き、一般人として当然の在り方を軽視する者もいる。それは学生として、あるいは社会人としての時間を持たない者達だ。

 そうする者の方が多い中で、しかし少女は学生としての時間を大切にしていた。

 そこでしか得られないものが確かにあると、少女はそう思っていたからだ。

 だからこそ。

 学生としての時間と、誰かの命を奪い、自分の命も奪われるかもしれない現場を往復する毎日を、嫌気がさしながらもなんとか送っている。

 それが少女の現状だった。





 少女が不思議な体験をした日――久郷という青年と出会った夜から数日が経った。

 昼間は学生として過ごし、夜は時折、誰かの命を奪うかもしれない現場に駆り出されながら、少女はなんとか毎日を過ごしている。

 ただ、その毎日の中でいつも思うことがある。

 なんで私はこんなことをしているんだろう。

 なんで私がこんなことをしなければならないんだろう。

 なんで私はこんな思いをしながら、生きていなければならないんだろう。

 ――ああ、疲れた。

「最後に心の底から楽しいと思えたのは、いつだろう……?」

 最近は、気がつけば同じことを考えている自分がいる。

 前からこんなことを考える瞬間はあった。

 頻度が増えた――というより、単にそちらに気が行く瞬間が増えたのだろうと、少女はそう思う。

 きっかけは、久郷に出会ったことだろう。

 彼は魔法使いを名乗った。そして、それを証明するような、不可思議なことをやってみせた。

 彼は具体的なことを語らなかった。だから、もしかしたら、体験した出来事は手品や奇術によるものなのかもしれない。

 だけど確かに自分の知らない何かがあって、それは自分が出来るはずがないと思うことが出来た。そんな存在があることを経験として知ってしまった。

 だったら、そんな人たちが私の代わりにこれをやってくれればいいのにと、そう思ってしまった。

 気が緩んだ。

 だから、必死に考えないようにしていたことや、蓋をしてきた思いが堰を切ったように溢れ出して止まらない。

 溢れ出して頭の中を生める思いは、全て気が滅入るものばかりだ。――いや、気が滅入っているからこんなことを考えるのか。

「どちらが先だったのかなんて、あんまり関係ないなぁ」

 ああ、お腹が空いた。甘いものが食べたい。

 そう考えて、少女はスマートフォンの時刻表示を見る。

 画面が示す時刻は夜十二時を回ったところだった。

 現在時刻を確認して、

「健康にはよろしくないけれど」

 自分でもよくわからない笑みを噛み殺しながらそう呟くと、少女は家を出て、近所のコンビニに足を向けた。





 少女はコンビニに着くと、軽く雑誌の立ち読みをした後で、中を歩き回って棚の商品を眺め、メロンパン、たまごサンド、コーヒー牛乳を手にとってレジに向かった。

「これをお願いします。あと、ハッシュドポテトひとつください」

 台の上に商品を置いて、どこかに居るだろう店員に声をかける。

 すると、奥のほうから店員が急ぎ足で現れる。

「申し訳ありません、お待たせしました。ハッシュドポテトをひとつと、メロンパン、たまごサンド、コーヒー牛乳とあわせまして――円となります。少々お待ちください――」

「……は?」

 そして、現れた店員の顔を見て、少女は間の抜けた疑問符を口から漏らす羽目になった。

 久郷栄太がそこにいたからだ。

 少女はレジの中でケースからハッシュドポテトを紙袋に入れて戻ってくる姿を目で追いながら、いやいやまさかと首を横に振った。

 久郷栄太は魔法使いを自称した。ならば、まさかそんな人間が、コンビニでバイトなんてやっていないだろうと思うのは自分だけではないはずだと少女は思う。

「お客様? 会計をお願いしたいのですが」

 店員から声をかけられて、そういえばお金を出していなかったと気づいた少女は財布からお金を出して台に置く。

 台の上に置かれたお金が視界の中から持っていかれて、店員がレジから釣銭を数えて取り出した。

 釣銭の額を告げながら、店員が釣銭を少女に手渡そうとする。

 少女は釣銭を受け取るために視線をあげた。

 そこで再び少女は店員の顔を見た。

「なんで!?」

 それはどう見ても久郷栄太その人だ――と、少女は思った。

 しかし、店員は少女の声に訝しげな表情を一瞬浮かべただけで、次の瞬間には自然な営業スマイルに切り替えると頭を下げた。

「ありがとうございました」

 そう言われては、立ち退かざるを得ない。少女は釈然としない気持ちを抱えたままで、レジから離れて、そのままコンビニを出た。

 家路に着く。

 ただ、その道中でも、頭の中は疑問符でいっぱいだった。もはや憂鬱な気分など半分以上が吹き飛んでいた。それくらい、今の出来事は衝撃的だった。

 あまりにも自然な態度に、もしかしたら見間違えか他人の空似なのかもしれないという考えが少女の頭を過ぎったが、つい最近見た顔とまったく同じ顔の他人をこんなに短い期間で二人も見るだろうか? と考えて、自分の勘違いを否定する。

 あの店員は間違いなく自分の知っている久郷栄太その人だ。そのはずだ。というか、

「名札に名前書いてあったし!」

 同姓同名で顔も同じ人間がそう何人も居てたまるか。いや魔法云々や自身の関わる世界のことを考えるとそんな思いを否定しそうになったが、精神衛生上否定したくなかったので肯定した。居てたまるか。

「本人が無視するなら、いいさ、他の店員に聞いてやる」

 自分を無視できないようにさせた上で、もう一度話をさせてやる。

 ふふふと聞いているほうが不気味に思うような笑い声を漏らしながら、少女は家の中に入った。





 そして、それから少女の久郷への接触が始まった。





「今日も来てたよ、例の子」

 コンビニのスタッフルームで制服に着替えていた久郷は、自分と交代で退勤する同僚からそんな言葉をかけられた。

 例の子と呼ばれてここ最近話題にされ、こうして他人に絡まれる機会を増やしてくれた原因には心当たりがある。ただ、この手の話は当人の事情など関係なく、その話をネタにして盛り上がりたいだけのものでしかない。真面目に相手をする理由もないので、

「例の子って?」

 久郷は心当たりがないようなことを言いつつ、しかし話の先を促すように聞き返す。

 久郷には同僚と特別仲良くする理由もないが、話を断ち切って関係を悪化させる理由もまたないのだ。こういう話はテキトーに乗ってやって敵愾心を持たせないようにする――それが彼なりの処世術というやつだった。

 同僚はそのことに気づいているのかいないのか、からかうような声音で話を続ける。

「例の女の子だよ。噂になってるじゃん。君のことをやたらと聞いてくる子のこと」

「ああ、いるみたいですね」

「ほんとに知り合いじゃないの?」

「俺みたいなしがないフリーターに、学生と知り合う機会なんてあるわけないでしょう」

「じゃあなんで君の事を知りたがってるんだ?」

「さあ。俺にはわかりませんね」

「あ、もしかして一目惚れしちゃってたりして」

 久郷は表情を変えないように努めながら、しかし内心ではこの手の邪推――というより期待に辟易していた。もし声が漏れていたなら、非常にうんざりした声音でうへぇとか出ているところだ。

「はは、そんなのあるわけないですよ」

「だよなぁ。だったら君よりオレのほうに惚れるよな!」

「ですです。イケメンですもん、――さんは」

 その後も同僚とテキトーに、身にもならなければ、お互い心にも無いことを雑談として言い合って、久郷は着替えが終わるとスタッフルームを出た。

 ……仕事に出る前から疲れてしまった。

 久郷はここ最近、誰かと顔を合わす都度繰り返される同じ話題に若干辟易していた。

 話題にされている例の子は、久郷も知っている。ある夜に見つけて、気まぐれに傷を治して帰した少女だ。つい最近あった出来事であり、それを忘れるほど久郷もまだ呆けていない。

 数日前、深夜勤務をしているときにあの夜に出会った少女と再び顔を合わせた。生活圏が被っているだろうことは予想していたので、久郷のほうにさほど驚きは無かった。彼女のほうは違ったようだが。

 これ以上彼女と関わる気がなかった久郷は、少女のことに気づかなかった振りをした。

 それがよくなかったらしい。

 少女は翌日からこのコンビニによく通うようになり、客の居ない時間帯ではレジの店員と会話をするようになった。

 その会話の内容が、久郷について根掘り葉掘り聞くような内容なのだ。話を聞く限りでは、その様子はまるで恋する少女が思い人のことを知ろうとしているかのようであるという。

 ただでさえ個人について根掘り葉掘り聞く行為は注目されるというのに、それに恋愛の要素が見え隠れするともなれば嫌な噂になろうというものだ。

「あー、やだやだ。女ってのは、これだから嫌になるねぇ」

 そんな話を真に受けるほど、久郷は素直でも純朴でもない。

 彼女は自分と会話がしたいがために周囲から圧力をかけているのだろうと、久郷は推測している。なぜそんなことをしたいのかはわからないが――多分、本人にもよくわかっていないのではないだろうかと、そうも思う。

「典型的なうつ状態だったからな、あの子」

 何がきっかけでどんなことをするのか、あの精神状態のときの人間はまったく予想がつかないし、本人もよくわかっていない場合が多い。

「……まぁ、それは別にどんな人間でもそうだが」

 ともあれ。

 久郷にとって、現状はとても好ましいとは言えない状況だ。可能な限り、彼女と会わないように工夫はしている。ただ、それは事態の解決には繋がらないし、むしろ悪化さえしている気もする。

 解決策もないではないが、どれを選択したとしても負けた気分になるのがいかんともしがたい。

「人生ってのはままならないもんだ」

 久郷はそう呟いた後で、大きな溜息を吐いた。





「……今日も会えなかった」

 夕方。

 少女は学校帰りに寄ったコンビニから出た後で、溜息を吐きながら肩を落とした。

 久郷と再会した後でコンビニに通いつめるようになって、もうすぐ一ヶ月になる。

 毎日というわけではないにせよ、割と高い頻度で行っているにも関わらずこれだけ会えないのはいったいぜんたいどういうことなのだろうか。避けられているのは間違いないのだろうが、その理由は? しつこいから? それとも、自分のことを覚えていて係わり合いになりたくないから?

「わかるわけない」

 ただ、ここまで来たら引くに引けない気持ちにもなる。話を聞く限りはまだあのコンビニで勤務していることは確からしいから、根気よく通い続けるしかない。

 幸いにも、これだけ通い続けた成果か、あのコンビニの店員は気持ちの上でこちらに味方してくれている。周囲からの働きかけは絶対あって、そんな中での居心地は大層悪くなっているはずだ。あとは根気の勝負のはず。どちらが折れるのが先かだ。意地の勝負で負けるわけにはいかない。

 少女が明日は夜に行ってみようか――なんて考えていたところで、

「おい、あんた」

 横合いから声をかけられた。

 少女は声の方向に視線を向けると、あ、と間の抜けた声をあげる。

 そこには久郷が立っていた。

 久郷は呆れたような、困ったような笑みを浮かべながら肩を竦める。

「俺の負けだよ。まさか一月も続けるとは思わなかった。途中で諦めるもんだと思ってたんだがなぁ」

「や」

「や?」

「やった! 勝った!」

 少女は大声をあげてガッツポーズをした。

 人の行き来する道の真ん中でだ。

「……ああ、うん。嬉しいのはわかったけど、ここ往来だから大声あげるのはやめような」

 久郷の言葉を受けて、少女ははっとした表情で周囲を見回して、視線が集中していたことに気づいて顔を赤らめた。

 久郷は溜息をひとつ吐いた後で、まぁいいと呟き、少女に背を向ける。

 あ、と少女のあげた声を聞いて、久郷は首だけを動かして少女に視線を向けると、

「何がしたくて俺に接触したかったのかは知らないが、こんな往来でやることもないだろう。場所を替えようぜ。年上として、労いも兼ねて、お茶でも奢ってやるよ」

 周囲に誤解されないといいがな、と付け足した後で、視線を少女から外して歩き出した。

「……はい」

 少女は覚悟を決めるように久郷の言葉に返事をして、彼の後をついて歩き始めた。そして思う。

 ……なんで私はこの人に会おうとしてたんだっけ?

 今更になってこんなことを考えて、少女は冷や汗をだらだらとかき始めていた。





 久郷と少女が入ったのは居酒屋だった。

 二人が入るとほぼ同時に、大きな声でいらっしゃいませという言葉が響く。

 久郷は近くにいた店員を呼ぶと、軽く笑って言う。

「二人。個室がいいんだけど空いてる?」

 店員は一瞬、久郷の傍にいる少女に視線を移したが、営業スマイルを崩すことなく応える。

「二名様ですね、かしこまりました。ご案内いたします」

 店員に連れられて行った先には、パーティションで区切られた個室――らしきものがあった。断言をしないのは、入り口やパーティ損それぞれが完全に閉じられていないからだ。入り口は短めの暖簾が垂れているだけで、区切られた空間に置かれたテーブルや椅子が覗けてしまっているし。パーティションも床から脛の半ばくらいまでは隙間が空いている。

 そんな個室紛いの空間を前に、久郷は片目を眇めて、少女は少し驚いたように目を見開く。二人とも、期待したものとは違った何かを目の前にして、若干戸惑っているようだった。

 しかし、店員は二人の反応に頓着することなく、マニュアル通りの接客を続ける。

「ご注文の際は、テーブルに備え付けてあるタッチパネルをご使用ください。わからないことがあれば、お近くの店員にお尋ねください」

 そう言って、二人の前から立ち去った。

 久郷は店員が去っていったのを確認してから、頭を掻きながら暖簾をくぐる。

「期待していたものとは違うが、まぁ、最低限のプライバシーは確保されてるからいいか。ほら、入って座ろうや」

「……はい」

 少女も久郷に続いて、暖簾をくぐる。

 スペースの中は狭い。四人席のようで、入り口から見て横に長い角型のテーブルが二つ並び、壁とテーブルの間に丸椅子が四つ置かれている。しかし、それぞれの席と壁の間に余裕はなく、実際に四人座っているときは窮屈な思いをしそうだった。

 久郷は入り口から見て右奥の席に、少女は左手前の席にそれぞれ座る。

 テーブルの各席前には既におしぼりが置かれていた。

 久郷はおしぼりで手と顔を拭いて一息吐くと、壁に背中を預けて力を抜く。

 少女はおしぼりで手を拭いた後で、手持ち無沙汰におしぼりを弄り続ける。

 久郷は少女の様子を見て、苦笑を浮かべた。

「まあ、見ず知らずのおっさんと居酒屋の個室に連れてこられちゃ、気も抜けないか」

「お茶を奢ると言う話じゃ……」

「まぁそう言ったが。別に居酒屋は酒を飲むだけの場所じゃないさ。奢りは奢りだ。何か好きなものを頼むといい。遠慮はいらんよ」

 久郷はタッチパネルを取って、少女に差し出す。

 少女は少し躊躇うような間を置いた後で、

「えっと、じゃあ……」

 おずおずと差し出されたタッチパネルを受け取ると、すぐに注文を入力して、久郷にタッチパネルを返却した。

 久郷はタッチパネルを受け取ると、

「オレンジジュースだけか。……まぁ、こっちで色々頼むから、てきとーに摘むといい」

 自分の注文を入力して、確定した。

 しばらくの間気まずい沈黙が続いたが、ほどなくして店員が注文した品物を持ってやってきた。

「お待たせいたしました――」

 そう言って、かかえたトレイから品物をテーブルに置いていく。

 お通しのキャベツとソース。から揚げ。フライドポテト。生ビールの中ジョッキを二つに、最後にオレンジジュースを置いて、去っていった。

 久郷は置かれた品物を取りやすいように配置した後で、ジョッキを少女の前に軽く掲げて見せた。

「さて、まぁまずは乾杯といこうか」

「え、あ、はい」

「ほい、乾杯」

「か、乾杯」

 かん、と高い音を立ててコップとジョッキがぶつかった。

 その後、久郷はジョッキを即座に傾けて、一息で中身を空けるとジョッキをテーブルに置いて、大きく息を吐いた。

 少女はその様子を見て少し驚いた後で、手に持ったジュースを一口だけ含む。

 久郷は少女の様子に頓着することなく、もう一つのジョッキに手を伸ばしながら、フライドポテトをひとつ摘むと、思い出したように少女に声をかける。

「――っと、話をしに来たんだったな。あんなにコンビニに通いつめてまで、なんで俺に接触することに拘ったのか。聞いてみたいもんだが」

 少女は久郷の言葉を聞いて、あっと嫌な事実を思い出した。なぜ彼に会うことに拘ったのか、何がしたくて会いたがったのかが自分でもわかっていないことを、だ。

「あ、その……」

 少女は久郷から視線を外して俯いて、言葉を詰まらせてしまう。

 久郷は少女の沈黙を他所に、テーブルに並んだ料理を摘みながらちまちまとビールを消化し続けて、中身をジョッキの半ばほどまで飲み進めたところで、ふっと笑いを漏らした。

「なんだ、聞きたいことでもあると思ってたんだが、違うのか?」

 久郷の言葉に、少女は俯き加減を増やして、体を小さくするように身を震わせた後で、

「えっと、あの……ごめんなさい」

 それでも続く言葉が出てこず、謝罪の言葉が口から漏れた。

 久郷はそんな少女の様子をしばらくの間、無言で眺めていたが、苦笑を浮かべて吐息をひとつ吐くと、

「別に責めてるわけじゃない。どうせそんなこったろうと思ってたからな」

 少女の言葉に気を悪くした様子もなく、そんな言葉を口にした。

「え?」

 少女が疑問符と共に視線をあげると、久郷のゆるゆると笑っている視線とぶつかる。

 久郷はテーブルに頬杖をつきながらビールを飲みつつ、言葉を続ける。

「きっかけはコンビニで再会したときの俺の対応だろう? 自分のことを知っているはずなのに知らないふりをされた。だから、自分を認めさせるために行動した。そんなところじゃないか」

 一息。我ながらあっさい考察だが、と笑みを追加して、

「あとは、そうだなあ。魔法使いを名乗ったやつが、コンビニでバイトしているのが気に入らなかったとか、そんな気持ちもあったんじゃないか? どうだ?」

「……はい。そんな気持ちはあったと、思います。……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「なんなりと。ただまぁ、答えられる範囲でしか答えられないが」

「どうしてバイトなんてしてるんですか?」

 久郷は少女の質問に途惑うように首を小さく傾げたが、傾きを戻した後でビールのジョッキに口をつけた後で、端的に答えた。

「暇つぶし」

 久郷の言葉に、少女は一瞬何かを我慢するように表情を硬くした後で、なんとかと言った様子で次の言葉を口にする。

「……お金のためじゃないんですか?」

 久郷は少女の様子を一瞥したが、特に態度を変えることなく、ポテトをつまみながら応じる。

「金には困ってない。困ることがそもそもない。魔法ってのは便利でね。特に、人を騙すことに長けている。これを利用すれば……まぁ、金を稼ぐのも楽なんだよ。手段を選ばなければ金稼ぎが容易いのは、別に魔法に限った話じゃないが。

 ――ああ、安心してくれ。今回の奢りに使うのは、バイトで稼いだ真っ当な金だ。気にせず飲み食いするといい」

 久郷はただ何でもないことを言うようにそう言い切って、軽く笑って見せた。

 その言葉を、笑顔で言い切る久郷を見て。

 少女は一瞬何かが弾けるような気配を発したが、なんとか堪えたようで、口を硬く引き結んで顔を俯かせ、そして言う。

「……なんでなんですか」

「何が?」

「魔法って、何でもできるんですよね」

「何でもって……いや、まぁ、人の想像できる範囲のことは、大抵できるんじゃないかとは思うが」

 じゃあ、と少女は一度溜めるように言葉を切った後で、テーブルを強く叩いて立ち上がった。

「じゃあどうして、その力で人を助けようとしないんですか!?」

「あー……」

 どうやら我慢の限界が来たようだ、と久郷は思う。

 万能――当然、当事者としては違うと切って捨てる評価だが――に見える力を持った人間が居て、その力は使い方次第で本当に、誰かを救える力であるとするならば。

 その存在を知った人間は、大抵そう考えるものだ。

 それが、自身の力を他者を守るために使っている人間なら尚更だ。そしてその善行を行う人間が若ければ、より一層、そういう考えにもなるのだろう。

「強い敵を倒すのだって簡単じゃないですか。困ってる人を助けるのだって、簡単じゃないですか。どうして、何もしないんですか!」

 少女の言葉、その内容は、久郷自身そう言われるだろうと思っていた内容に相違ない。

 大きな力は、人のために使われるべきものだ。

 悪を淘汰するために使われるべきものだ。

 それはノブレスオブリージュという考え方にもあり。正義の味方という在り方にもあり。そして勇者という定義の根本にある意味だ。

 それらの行いは、すべていい事だ。

 善行だ。

 多くの人間にとって利益のある――その利益を受け取る側にとって、都合の良い事だ。

「んー……まぁ、言いたいことはわかる。わかるが、少し落ち着けよ。会話をしに来たんだろう? 冷静にならないと話にならんぜ。憤ったまま何かを聞いたところで、全部拒んでしまうだけだろう。何も得られんよ」

 久郷は少女の激情を見ても、平素のまま、ただ少女を諭すだけだ。

「~~っ」

 少女は言葉にしたいけど出来ない、頭の中で空回る感情を噛み殺して、もう一度だけ、感情をぶつけるようにテーブルを叩いた後で椅子に座る。

 久郷はテーブルを叩いた音に、おおっと少し驚いたが、口端を上げて少し笑いながら肩を竦めた後で、ジョッキを傾ける。

 一息。ジョッキの中身を少し減らし、酒の臭いのする息を吐いて、

「オーケー。じゃあまずは、君の質問から答えよう。なぜ人を助けないのか、だったかな。

 これの答えは簡単だ。やりたくないからだよ」

「……なんでですか」

「逆に聞こうか。なぜそんなことをやりたがる?」

「は? 喧嘩売ってるんですか!?」

「売ってねーよ。だから落ち着けって。単に聞いてるだけだ。俺の理由をただ説明するだけじゃあ納得せんだろうから、順を追って理解か納得かをしてもらおうとしているだけさ。必要な手順というやつだよ」

 少女は久郷の気負わない様子を見て、彼の言葉は本当なのだと、渋々自分を納得させて気分を落ち着かせる。

 そして、改めて久郷の問いについて考える。

 なぜ人を助ければならないのか?

 そんなの――

「そんなの当たり前じゃないですか。力があって、人を助けるのは当然のことじゃないですか」

「惜しいね。俺が聞いてるのは、それを当然と思う理由だよ。そこじゃない」

「当然だと思うことに、なぜなんて……」

「考えろ考えろ。考えるのは楽しいことだ。この世にある唯一の楽しみだと言っても過言ではないくらいに。まぁ、楽しいのと同じくらいに面倒くさいがね」

 少女は久郷の言葉に納得がいかないと、不満そうな表情を浮かべたが、彼に言われた通りに当然と思う理由を考えようとする。

 しかし、少女の思考はその当然になぜと問うところまで行き着けない。

 なぜならそれは当然だから。

 当たり前、という認識を前にして問う言葉など持っていないから。

 少女が思考の海に沈んでいると、ぱん、と乾いた音がひとつ響いた。

 驚いて視線をあげれば、久郷が拍手を打った体勢で止まっていて、

「ほい、シンキングタイム終了。答えは出なさそうだし」

 一息。あわせた手を離してジョッキを再び傾けた後で、

「君が答えないのなら、俺が答えよう。そして、話を進めよう。

 まず前提として、これは俺個人の意見だ。正解だとかそういう話じゃあない。

 また、重要なのは、それを元に君が何かを考えることだ。……まぁ、これは頭の隅にでも置かれていればマシという程度だがね」

 久郷はから揚げをひとつ頬張り、咀嚼すると、続ける。

「さて。

 なぜ人を助けることが当然だと思うのか、という質問についてだが、まぁ俺ならこう答えるな。

 それが当然と思える程度には、自分にとっての利益があるからだと」

「利益?」

「そう、利益。得。得られれば嬉しいもの、だ。

 あらゆる行動は、何かしらの得があるからやるのさ。これはヒトの行動原理に相当するものだと、俺は思ってるし、間違った意見ではないと考えている。聖であれ、魔であれ。勇者であれ、魔王であれ。為手は、為手にとっての利益があるから行動するのさ。

 ……納得いかないって顔だあな。でもよく考えてみろ。

 一番簡単な確認だ。誰かを助けようと動くとき、誰かを助けたいと思っているのはいったい誰だ? そして、誰かを助けたときに満足するのは誰だ?

 やってる本人だろうと、俺は思うがね」

「でもそれは……いいことだから、いいじゃないですか」

「いいことねぇ。でも本当にそうかな? 解決方法が暴力なら、行為そのものは悪じゃないのか? だって、誰かを傷つけているじゃないか。誰かを傷つける行為は悪じゃないのか。

 君のやっていた……治安維持行為? まぁなんて呼ぶのかは知らないが、ここでは活動としておこうか。その活動は、そもそも、君と似たような力を持った人間が誰かを傷つけるから――その行いを悪として、自らを正義として、行われていたのではないのかな」

「そ、れは」

「……ま、こんなの別になんてこたあない、どこにでも見当たる当たり前のこった。少し話がそれたな。

 次に話すべきは、人を助けることを当然だと思うほどの、人を助けた場合の利益についてかね。

 色々な場合が想定される訳だが、ここはわかりやすく勇者で例えよう。

 勇者ってのはまぁ、魔王といった判りやすい外敵を倒すための存在だよな。

 魔王ってのは、強い外敵の象徴みたいなもんだ。それを倒す勇者も、最初からなのかやがてなのかはともかくとして、それに匹敵するか凌駕するほどの強さを持つ。

 さて、ここで問題です。勇者と魔王の違いはなんだ?」

「……味方か敵か」

「おお、種族の違いとか言い出したらどうしようかと思った。では、勇者が魔王を倒さないと言い出したら、どうなると思う?」

「……そんなことを言う人は、いないんじゃないですか」

「居たとしてって話さ。もしもそんな勇者がいたら……多分、嫌われるよなあ。

 なんでやってくれないんだ、自分たちにはない力があるのに。俺たちのために戦えよ。こんなに期待してやっているのに、なんてな。

 そして、そんな連中はその気持ちを晴らすためにある行動をとる。嫌がらせってやつだ。その標的は当然、勇者本人じゃあない。なにせ勇者様だ。自分たち、弱い人間がどれだけ束になったところで敵わない、かもしれない。殺すつもりなら別かもしれんがね。だからまあ、勇者の周りにいる人間――近しい人、親しい人、勇者が大切にしたいと思っている人が対象だ。本人が対象になる嫌がらせも当然あるだろうけどな。攻撃性の高いものは絶対にやらんだろうなぁ」

 だって、報復が怖いもんな。どっちにしろされる気もするが。

 そう付け足して、久郷は一度言葉を切った。

 両者の間に沈黙が降りる。

 久郷は相変わらず、特に焦る様子もなく、テーブルに置かれた料理などをつまみながら沈黙を維持していたが、少女のほうは耐え切れなくなったというように口を開く。

「……結局、どういうことなんですか」

「何がかな」

「人を助けることを当然と思うほどの、人を助けた場合の利益について、です。結局、なんだっていうんですか」

「ああ、結論言ってなかったっけ。言ったつもりになってたな。

 言うなら、そうだな、属している集団における他者から不利益を被らないことさ。そういった力があることを周囲が把握している場合で、かつ、その集団に所属し続けること……というか自身の環境を変えたくないと思っていることが前提だがね。

 まぁ、みんな当たり前にやっていることさ。わざわざ説明すると、どうしたってくさくなっちまうけどな」

「じゃあ、あなたが人を助けないのは」

「言ったろ、やりたくないからだって。そういうことだよ」

「…………」

 少女は久郷の言葉に、信じられないと言った様子で絶句する。しかし、そこについ先ほどまであった憤りはない。ほんの少しかもしれないが、事情――久郷としてはそう表現するほどのものでもないが――を理解したからかもしれないし、単に力が抜けたからなのかもしれない。

 久郷は少女の反応を一瞥した後で、ポテトをつまんで言う。

「そういった柵を嫌うやつは、昔は隠者なんて過ごし方もしていたんだろう。別に、そう珍しい考え方でもないと思うがね。

 最も、現代においては僻地と都会じゃ違いが大きすぎる。昔ならいざしらず、僻地で人との関わりを絶って暮らすのは非効率だ。まぁこの辺は好みもあるが、俺は便利で楽なほうがよくてね。こうして暮らしているというわけさ」

 少女は無言のまま、ただ視線はテーブルのほうへと下げている。

 久郷は少女を見て、困ったような笑みを浮かべて頬を掻く。

「あー、まぁ、なんだ。こんなことを言ったが、実際のところを言うとな、俺はそこまで強くはないんだ。勇者だとか、主人公だとか、そこまで期待をされるようなもんじゃあない。だから、そこまで期待されては困ると、そういうことを言いたかっただけだ。

 世の中には君が期待することができるような傑物もいるだろうさ。もっとも――」

 いや、これは言っても詮無いかと、久郷は苦笑しながら、続く言葉を取り替えてた。

「――もっとも、何ですか?」

 ただ、少女はその言葉を捉えて、その内容を問うた。

 久郷はあーと唸って、答えあぐねるように押し黙る。

 少女は視線をあげて久郷を見た。

 その視線に色はない。先ほどまでの憤りも、ともすればあったのではないかと思われた落胆や呆れもない。

 久郷はしばらくの間その視線を黙って受けていたが、やがて根負けしたかのように、溜息を吐きながら降参というように両手をあげてみせた。

「もっとも、その傑物が君と関わりを持つかどうかはわからんし、そもそも出るかもわかんよと、そう思っただけだよ。なにせ、滅多に居ないからこその傑物だからな。だから」

 一息。向けられた視線を確認した後で吐息をひとつ追加して、

「勇者みたいな不確かなものに期待するのはやめることだ。君自身の問題は君にしか解決できんよ。解消もできん。誰かが何かをやった結果が、その影響が、君に利することはもしかしたらあるかもしれないが」

「……あなたに何がわかるんですか」

 少女の視線、その色がわずかに濁る。その色は様々な感情がないまぜになって判然としないが、同時に変化して生まれた表情の歪みは、どこか泣きそうに見える。

 久郷はその表情をまっすぐ見て少女の視線と合わせていたが、しばらくすると視線を切るようにして首を横に振ってみせた。

「何も。何もわからないさ。ただ、俺が見る限りで君は何やら思いつめていたようだと感じて、君が憤った点から、そういうことを望んでいるように感じた。それだけだ」

 久郷の言葉を受けて、少女は顎をあげてしばらく天井を眺め、テーブルに視線を落として項垂れ、

「……帰ります。わざわざ時間をとってもらって、ありがとうございました」

 久郷のほうを見ないまま、そう呟くように告げて個室を出た。

 久郷はその背中を見送ると、ジョッキを勢いよく傾けて残りを飲み干し、大きく息を吐く。ジョッキを置く。テーブルに突っ伏して頭を抱える。そして言う。

「……だー、失敗した。こんな流れにするつもりはなかったんだけどなあ」

 それは誰に向けたものでもない独り言だ。反応を期待しない呟きだ。

 しかし、その言葉に反応するように少女の声が響いた。

「いつも失敗ばかりじゃない、あんた」

「あぁん?」

 音源は個室の入り口だ。

 久郷は首だけを動かして音源に視線を向ける。

 そこには一人の少女が立っていた。

 黒髪黒目。後ろ髪は首元の辺りで揃えられ、前髪は眉の下あたりで伸びている。目鼻立ちは少女の芯の強さが一目でわかるほど、凜と整っており、今はにやにやとした笑みを浮かべていた。

 久郷は少女の姿を確認して、うへえと嫌そうに表情を歪める。

「何か用かよ、成瀬」

 久郷に名前を呼ばれた少女――成瀬奏は久郷の反応を見ると、笑みを維持したまま、やれやれと吐息を吐きつつ肩を竦めた。

「用がなきゃ会いに来ちゃいけないの?」

「そこまで親しくもないんだ。用が無きゃ来ねえだろ」

「つれないなぁ。つまんねーの」

 成瀬は舌打ち一つで表情をリセットして、久郷の対面にある椅子に座り、ポテトをつまむ。

「おい」

 成瀬の遠慮のない行動に、非難するような声音で久郷は声をかけたが、成瀬はどこ吹く風といわんばかりに平然と言う。

「なーによ。あまりもんでしょ、これ。いいじゃない。一人で食べるよりおいしいと思うけど」

 久郷はテーブルから体を起こしてしばらく頭を抱えた後で、色々なものを諦めたように大きく吐息を吐く。

「……いいから用件を言えよ」

「随分といい空気を吸っているようだったから、からかいに」

「帰れ」

「もう、本当につれないな。冗談じゃないか。

 用件は別。あんたが珍しく他人にちょっかいかけてるみたいだったから様子を見に来たのと、ついでに売れるものがあれば売っておこうと思ってね。動くつもりなら要るものもあるでしょ?」

「……余計なお世話だ」

「あほか。入用だから商談を持ちかけに来ただけ。別にあんたを思ってやってるわけじゃないっつの」

「知ってるよ。わかってるよ。その上で言ってるんだよ、ばーか」

「にしても、正義と善悪の話は面倒よねぇ。だいぶ頑張ったんじゃない? 正直よくわからなかったけど」

「最後の言葉は余計だよ」

「まぁ色んな見方もあるし、解釈もあるし、事情もあるし、表現もあるし? あんたの言ったのが全てではないんだろうけどさ。みんな、複雑に考えすぎだと思わない?」

「それこそ、力があるからこう考えられるんだろうよ。余裕が無ければ考えることはできんからな。

 ……あー、年は十五か六。女。高校中退程度の、なるべく綺麗な経歴の戸籍があるなら売ってくれ」

「毎度あり。価格は二千でいいわ」

「たっけえ」

「人ひとりの人生がその価格で買えるなら安いでしょ」

「手間賃と思えばそんなもんか。口座は以前使ったものでいいのか?」

「ええ、問題ないわ。私、数字を増やすのって面倒なのよね」

「俺は戸籍を作るほうが面倒だよ」

「利害が一致して何よりだわ。入金は今月中にお願い」

「了解。話が済んだら帰れ」

「……ほんっとにつれないわね。まぁいいや。久しぶりにあんたが遊んでるところを見れるの、期待してる」

「趣味わりぃな」

「最近私もネタがなくてさ。暴れられなくてつまらないのよ。あんたのやることは私のやることと相性がいいもの。そういった意味でも、楽しみにしてるわ。もっとも――」

 あんたのそれはとても怖いのだけどね、と成瀬は付け足すと、テーブルに残ったから揚げをつまんで口に含み、個室から出て行った。

 久郷は成瀬が去っていったのを確認してから、ほっとしたように体の力を抜き、天井をあおぐ。

「台風みたいな女だなぁ、相変わらず」

 そしてぼやくようにそう漏らすと、テーブルの上にある料理を確認して、タッチパネルを取る。

「吞まなきゃやってらんねえよ。めんどくせえ」

 新しいつまみとビールを追加注文して、タッチパネルを元の場所に乱暴に戻した。




<3>

 少女と久郷が居酒屋で会話をした日から、少女は久郷が活動と称した行為に従事するのをやめた。学校にも行っていかなくなった。

 久郷の言葉を聞いて、今までやってきたことの意味がわからなくなったからだ。

 本来なら、彼の言葉に戯言だなどとレッテルを貼り、彼の言葉は正しくないのだと断じてしまうのが普通なのだろうと少女は思う。しかし、少女の内面は、思考は、彼の言葉で揺らいでしまった。

 少女が善行と信じて行っていたことが、実は徒労か自己満足で。それは、誰がやろうと構わないといった程度のことでしかないのだと、そういう考え方があるのだと知ってしまった。

 少女がしてきた結果は変わらない。自身がそれを為したのだという結果は変わらない。人を助けたこともあれば、人の命を奪ったことがあることは、変わらない。積み重ねてきた事実は決して消えない。

 だけど、それをやるのは自分でなくてもよくて、それをやらないという選択肢も実はちゃんとあったのだと、今更ながらに気付いた。

 そういう道を選んでいたら現状はどうなったのだろうと考えてしまった。

 そして。

 現状は決して自身が望んだ状態ではないのだとはっきり自覚した。

 だから、少女は今まで続けていた殆どのことに興味を失ったのだ。

 当然、家族――少女にとってはもうそう呼ぶべきかもわからないが――や同僚からは色々と言われた。

 期待しているのに。

 期待していたのに。

 なんて、色々と、彼らにとって都合のいいことを望む言葉だけがかけられた。

 勿論、それが全てではなかった。ほんのわずかな人たちから、少女を心配するような言葉も出ていた。ただ、それらの言葉は例外なく、少女からすれば距離の遠い――親しくない間柄にいる者たちばかりであったから、それらの言葉は少女の心には何とも響かなかった。言葉は声で、音で、それは雑音に等しい。価値など見出せず、ゆえに鑑みることもない。

「…………」

 もう誰とも会いたくなかったし、会話もしたくなかった。

 必要最低限の外出だけをする日々が続いてしばらくすると、頭と四肢がずんと重くなって、動くこと自体がとても億劫になった。いや、動こうと思っても辛くて出来ないと言うほうが正しいか。それに加えて、寝ても覚めても頭にずっと靄がかかっているようで、時間の感覚が殆ど無い。暗いから夜なのだろうとわかって、明るいから昼なのだろうとわかる。眠れなくて、ただただ一日が長かった。

 そんな状態であっても、勉強だけは続けていた。あらかじめ渡されていた今学期の時間割にそって、自室の机で教科書とノートを開いてひたすら問題を解く。体育は外には出ないが、体がなまらない様に筋トレとストレッチをする。家庭科や技術といった科目についてはどうしようもないから、自主学習の時間に変えた。

 少女自身にもなぜこんなことをしているのかはわからない。しかし、やろうと思って、思えて、続けられることはこれくらいだったから続けていた。やっていれば、少しは気が紛れて楽になる。

 そんな生活になって数ヶ月。家族からの干渉もなく静かに過ごしていたが、終わりは突然やってきた。





 少女の部屋に思わぬ来訪者が現れたのは、平日のどこか、その夕方に差し掛かった頃のことだ。

 来訪者は、少女の活動における上司だった。

 どこにでもいるような、少し体格のいい初老の男だ。短く刈られた黒髪にはわずかに白髪が混ざり、その下にある顔は若々しい印象の面持ちではあるが、よく見れば所々に老いが伺える。浮かべている表情は好々爺然としたおだやかなものだが、少女からすれば胡散臭いとしか感じられない。

 少女が活動に参加していた時には、こんな表情を見たことはない。もう来ないと告げた時も含めて、常に期待はずれのものを見るような視線を感じていたのだ。あまり良い予感はしなかった。

「…………」

 部屋でいつも通り勉強していたところに突然入ってきた男を、少女は椅子に座ったまま首だけを動かして無言で見る。その顔に浮かぶのは険の色であり、表情は訝しげに歪んでいる。

 男は少女の視線を受けても表情を変えることなく、口を開いた。

「やあ、久しぶりだね」

 男の第一声は言葉の上では、態度としては、比較的友好的――というよりも無難なものではあったが、少女の反応はそっけないものだ。

「……何の用ですか。まぁその内容に興味はありませんが」

 男から視線を切り、ただ警戒するように、嫌悪を示すように、視界の隅にその姿を捉えた状態で中断していた作業を再開する。

 男の取り繕っていた表情が一度歪んだが、なんとか完全に崩すことなく、しかし歪みは残した違和感のある表情のまま、少女の態度を非難する。

「随分と不躾な対応だ」

「そもそも私が招いたわけではありませんので。招かれざる客にはそれ相応の対応があるでしょう。それだけのことでは?」

 男は少女の態度を見て、何かを諦めたように大きく息を吐くと、表情を厳しいものに変えて言う。

「……単刀直入に言おう。また一緒に戦って欲しい。すぐにでも」

「いやです」

 男は少女の即答に一瞬ひるんだように言葉を詰まらせたが、言葉を続ける。

「本当ならここに来るつもりは無かった。しかし、状況が変わった。どうしても君の力を貸してもらわなければならない状況になっている。君の力が必要だ」

 必要という単語に、少女は薄く笑みを浮かべる。

 私が必要だ――そう言われることを、いつかは望んでいたこともあったというのに。なんて薄っぺらい言葉なんだろうとしか感じられない。

「それはそちらの都合でしょう。私はもう、あなたたちにかかずらうのは御免です」

 男は少女の態度に憤りを隠さずに、声を荒げる。

「雌雄を決する時が来たんだ! この勝負に負ければ世界がどうなるかわからない! それでも君はそんなことを言うのか!?」

 少女は浮かべた笑みを嘲るものへと変える。

 雌雄を決する? 世界がどうなるかわからない?

 それがどうした。その程度のことがなんだっていうんだ。たかがその程度のことのために、私がなぜ駆り出されなければならない――

「……ばかばかしい。そこを離れた私には関係のないことです。帰ってください」

 少女は熱が入って加速しだした思考を止めるために、深く息を吐いて笑みを消した。

 男は少女の回答に信じられないものを見たような、愕然とした表情を浮かべて少しの間動きを止めた。そして、震える声で確かめるように尋ねる。

「本気で言っているのか?」

 少女は男の言葉を聞いて、その様子を確認して、言う。

「あなたの方こそ本気で言っているんですか?」

 その声音には落胆と呆れがありありと滲んでいた。

 男は目を見開いて驚き、わずかに狼狽した様子を見せたが、

「……残念だ。こういうことはしたくはなかった」

 一瞬で表情を消して、低く暗い――聞くだけで肌が粟立つような、剣呑さを感じる声を漏らした。

「――っ!」

 少女は男の声音に危険を感じ、対応しようと体を動かそうとする。しかし、重く感じる四肢は逸る意思についてこず、体の動きと意思の期待がずれて動作が遅れた。

 それが致命的だった。

 まず聞こえたのは羽虫の羽音のように低く耳障りな音だった。そして間を空けることなく、この場に居なかったはずの第三者の声が響く。

「大人しくしろ!」

 虚空から現れた誰かは、少女の体を椅子ごと床に叩きつける。

 少女の頭が強く床に当たる。重く鈍い音が頭の中で響く。視界が白く瞬く。遅れて痛みが走り、意識が過熱して視界の色が消えた。

「いっ、たい、なぁ……!」

 少女は生じた憤りを吐き捨てるように強く声を出すと同時に、自分の体を押さえつける誰かごと体を持ち上げようとしたが、

「ぐあ、っ――!?」

 その途中で力が抜けたように床に崩れ落ちた。

 少女の視界が全身に走る痛みで明滅する。力を入れて立ち上がろうとするも、意思だけが先走って体が追いつかない。ぴくりとも動かない。かろうじて繋がっている意識が思考を加速させる。

 何をされた? 力が入らない? そんなこと言ってる場合じゃないだろ。動け。動け、動け動け動け。このままじゃまずいのに――!

 何かが弾けるような危うい音を聞いて、少女の意識は落ちた。





 男は部下に圧し掛かられた状態で床の上にぐったりと倒れた少女の姿を一瞥した後で、部下に視線を移す。

 部下は少女の背中を押さえ込む手とは別の空いた手に、スタンガンを持っていた。少女の意識を奪った原因はそれだろう。

「…………」

 部下は男の視線に気付くと、少女の意識を確認するように頬を数度強く叩き、少女が確かに気絶したことを確信すると、男に視線を戻して無言で頷きを返す。

「連れて行け」

 部下は男に浅く頭を下げると少女の体を肩に担ぎ、この部屋に現れた時と同様に耳障りな低い音を立てた後で、何も無い空間の中に潜るように姿を消した。

 男はその背中を見送ると、俯いて、顔を覆うように片手を当てて数秒その場で佇み、熱を持った深い息を吐く。そして、苦い表情を浮かべたまま踵を返し、部屋を後にしようとした。

 そのときだ。

「人が気絶するほど威力のあるスタンガンを使うとは、あんまり褒められたことじゃねえな。それは違法改造のレベルじゃねえの、おい」

 男は誰もいない部屋の中で、自分以外の声を聞いた。

 その声は、この部屋の中で起こった出来事に対して言及するものであり、行為者である男を非難するものであった。

 自らの行動に少しの後ろめたさを感じていた男は、驚愕と困惑が混ざった表情で振り向き、大きな声をあげる。

「誰だ!?」

 しかし、いくら部屋の中を見回しても、そこに誰の姿も認めることはできなかった。

「……早く戻らなければ」

 気味の悪さを感じつつも、男は次の予定が迫っていたため、急いで部屋を出た。

 

「ガキに何やってんだ。あー、気に入らねえ。ほんと、気に入らねえな」

 

 ここではないどこかで、一部始終を把握していた久郷は、誰に言うでもなくそう吐き捨てた。





 少女が目を覚ますと、視界が奪われ、体の自由は奪われていた。

 自由になる感覚は聴覚と触覚だけ。自由に動かせるのは口と首くらいのものだ。

「…………」

 少女は感覚する情報から、どうやら椅子に座らせられて、椅子の背を挟むように後ろ手で拘束されているようだと判断する。目元は布で覆われているらしい。

 周囲に人の気配は感じられない。ただ、視線に近い何かは感じられたから、監視はされているようだと想像する。

 その想像は正しかったと証明するように、がちゃりと何かが開く音の後で複数の足音が聞こえた。

「目が覚めたか」

「最悪の目覚めです」

 聞き覚えのある声に、少女は忌々しげに、低い声で威嚇するように声を漏らした。

 声の主は、少女の上司――この状態を作り上げた男だ。ただでさえ良い感情はなかったのに、こんなことをされては好感度も底を抜けようというものだ。少女の反応が攻撃的になるのも当然と言えた。

 男は少女の反応に頓着することなく、言葉を続ける。

「君の処遇について説明する」

 少女は男の言葉に耳を傾けつつ、体の状態を更に確かめる。

 相変わらず頭は重いし、体中に鉛でも巻かれているように重く感じて動きにくいし、気分もとても上向きとは言えないしで、倦怠感がまとわりついて離れない。

「君の力は有用だ。本来であれば、自らその力を役立てようと、協力する姿勢をもって参加してもらうのが好ましい。しかし今の状況がそれを許さない以上、多少強引な手段を取らざるを得ん」

 ただ、それはそれとして。この状況から逃れようと、こんな連中とかかずらう羽目になった原因でもある少女自身の力を使おうとしているのだが、どうにも集中が続かない。

 何か薬品でも盛られたのかもしれないと、少女は思う。なにせ、

「それが例え、非人道的な手段と罵られようと、世界を守るために必要な犠牲だ」

 平然と、こんなことを言える神経の持ち主しかここには居ないのだから。

 どうしようもなく詰んでいる状況であると判断した少女は、脱力して椅子の背にもたれかかるように体勢を変えて、天井を仰ぐように顎をあげた。

 なんとはなしに男の話を聞いていると、次のような流れで話が進んだらしい。

 少女が属していた組織とその敵は、なんらかの交渉を行った。

 これ以上不毛な争いを防ぐために、ということが目的らしい。そもそも、敵は敵で己の正義を信じて行動しており、その意見が衝突した結果として争いが起こったという話がわかったそうだ。細かいところは興味がなかったので完全に聞き落としていたが、どこにでもある話なのだ。すれ違いというやつだ。

 そしてその交渉の結果として、けじめをつけるために勝負をすることになった。

 結果はどうあれ、この勝負の結果をもって今後の動向を決定しようと。

 その勝負は、一対一の殺し合いを何戦か行う団体戦。

 結局は殺し合いで解決するのかともはや呆れるしかなかったが、組織は少女がこの勝負に参加することを強く望んでいるらしい。

 強さを見込んでか、捨ててしまってもいい駒としてか――現状を鑑みれば、後者の可能性が高いのだろう。

 死という単語が、はっきりと脳裏に浮かび上がった。

 しかし、

「…………」

 少女はそこで焦るでもなければ恐れるでもなく、自分が死ぬかもしれないという可能性に対して、明確な、なにがしかの反応をすることができなかった。

 ……なんかもう、どうでもいいや。

 だって、上司が自分の部屋に通されたということは、少なくとも自分の親はこの事態を把握しているはずなのだ。彼らも、自分と同じように活動に参加することもある現役で、この勝負のことは知っているはずなのだ。

 そして男の行動を止めなかったということは、自分の命などどうでもいいと、そう言われているも同然だ。

 味方がいない。

 ……いや、自分の周りには、最初から誰も居なかったんだ。

 そう思った。

 だから何もかもどうでもよくなって、少女は男の言葉を聞かないまま、静かに意識を閉ざした。





 少女は捕らわれた日の翌日――あくまで少女の体感時間の上でだが――に解放された。

「…………」

 目隠しをされ、両手を後ろ手で拘束されたまま、椅子から立ち上がらされて数歩進むと、低く唸るような音を聞いた後で空気が切り替わった。

 肌で感じるほどに明確に、部屋の中から外のどこかへと場所が移ったのだと理解して、少女が環境の急変に一瞬だけ固まる。

 直後。再び耳障りな低い音が鳴って、少女の拘束が全て解かれた。

「……っ」

 視界が突然開けて、久しぶりの光に視界が白く焼かれる。

 少女は反射的に腕をひさしの様に額にあてて目を強く瞑る。頭の奥に刺さった実態の刺激が過ぎるのを待って、ゆっくりと、光に慣らしながら瞼を開く。

 光に慣れた、いつも通りの視界に映った久しぶりの外界は、ジオラマめいた廃墟の街だった。

 少女は幅の広い道路の中央に立っている。車線は四つ。隣接する歩道の傍には壊れてますよといわんばかりの、これまたステレオタイプな壊れた自動車が散在している。

 歩道の横、道路の両側を挟むように在る建物は、わずかに顎を持ち上げなければ最上階が見えないほど高いコンクリートのビルばかりで。その外壁はひび割れ、窓は所々無い。

 呼吸する空気には錆と埃の臭いが混ざり、腹の底にむかむかと不快感が溜まっていく。

 状況を認めて、少女は怪訝な表情を浮かべる。

「何なんだ、ここ」

 こんなテンプレートな属性を揃えた場所が、現実社会のどこにあるというのか。

 そんな疑問が少女の頭の中をぐるぐると回って、表情をますます渋いものへと変えていく。

 しかし、それも数呼吸ほどの間だけのことだった。

 少女は浅く吐息を吐いて表情をリセットすると、手足を軽く動かして状態を確かめる。

 今少女にとって大事なことは、この場がどこで、どういう場所であるかではない。

 少女が解放されたということは、参加させられる勝負が開始しているということであり。

 この場は、その勝負のための場であるということだ。

 そして、勝負の内容は殺し合いだ。

 武器はない。防具もない。

「……っ」

 頭は相変わらず靄がかかったようで集中がうまくできない。四肢は何かに引っ張られているように重く、思い通りには動かない。

 肝心要の能力すらうまく使えない。

「……最悪だ」

 あいつらは、私を捨て駒として使う気なのだと理解した。

 いや、理解はしていた。今、感情がその理解に追いついた。

 心に浮かぶのはどこに向ければいいのか――その向ける先が多すぎて荒ぶる憤りだ。

 しかし、そんな少女の事情だと関係なく事態は進む。

 それは空から降ってきた。

 一瞬の無音を置いて空から降ってきたそれは、勢いのまま路面を割り砕いて着地する。

 音は遅れて走る。

 最初に重く低い割れ砕きの音が響き、次に高く軽い破砕音が響いた。

 粉塵が舞う。

 続く音は周囲の建物が押しやられた空気、その衝撃の余波で崩れ落ちる音だ。

 少女はそれが落ちてきた衝撃で宙を舞った。

 地面に数度打ち付けられた後も転がり続けて、勢いが止まったところで、咳をしながらゆっくりと体を起こす。

「ぐ、っつう……」

 体中を打った。痛い。痛い。どこが痛いというのではない。痛くないところがない。呼吸がうまくいかない。いくら呼吸しても息苦しい。呼吸する度に肋が痛い。折れた? 腕は動く。折れていない。ただ満足には動かせない。足は? 動く。でも力が入らない。苦しい。頭が痛い。目に血が入る。切れてる? どの程度だ――

 状況変化についていけない少女の思考は混乱したまま過熱する。

 その内に、相手に動きがあった。

 声が響いた。

 体の奥から勢いよく吐き出された重低音の咆哮だ。

 攻撃の意思を孕み、敵意を剥き出しにした大音声は周囲の粉塵を一掃する。

 粉塵が晴れた後、破砕の中心に見えるのは地面に四肢をついた状態でなお地面からの高さが二メートルはあろうかという巨躯だ。

 くぐもった唸り声を鳴らしながら一歩を前に踏むそれは、人面獣身の化物だった。

 巨躯を支えるのは大木のように太い四肢と長い尾だ。それぞれの先端にはヒトの身体など容易くちぎれてしまうのではと思わずにいられない、大きく太い杭のような爪と棘が備えられている。その表面をてらてらと光を反射する茶色の毛皮が覆い、頭頂部から臀部にかけて、背中の中央を黒く逆立った針のような体毛が走る。

 頭は体躯に対して非常に小さいものだ。彫の深い顔立ちに、鋭く小さな目と、唇の薄い、その割には大きな口が配置されている。造詣はヒトのそれで、一見すればそれが違和感となり恐怖と悪寒を走らせる。しかしよく見れば、目の前の獲物を食い殺さんとする意思で血走った目と、限界まで開かれて歯茎まで剥き出しになった口から漏れる吐息と唸り声からは獣性しか感じられず、これはまさしくそういう化物なのだと納得させられた。

 化物の視線が少女の視線と重なる。

 少女と化物の呼吸が重なる。

 ただ意味は違う。

 少女は彼我の戦力差を自覚して絶望で息を呑み。

 化物は獲物の華奢さを認識して歓喜の息を吐いた。

 一拍の間を置いて。

 化物は大きく息を吸って力を溜めると、少女に向かって飛び出した。

 軌道は限りなく直線に近い放物線を描いて飛ぶもの。右手で地面を叩いて掴み、溜めた力を足で弾いて飛べば、右を軸にして身体が回る。勢いのまま左腕を薙げば、その軌跡には少女が収まる。

 少女は化物が飛び出した直後に、呑んだ息を肺に留めて動き出す。

 抗うための動きとして身体を持ち上げる。立ち上がれと念じて腕を動かす。だが遅い。動き出すタイミングからして遅れていたが、それはそもそも身体の動きが意思にまったく追いついていないからだ。

「……っ!」

 憤りの吐息が口端から漏れる。思考が過熱する。

 万全で望める戦いなんて無いのは知っている。だけどこんなのってない。私はここに来たくなかった。こんな場所に、こんな奴らに関わりたくなんて無かった。いや違う。本当はそんなことだってどうでもいい。くやしい。くやしい。なんで私はこんなことを跳ね除けられない。どうして私は私を思ったとおりに動かせないんだ。

 憤りはある。走った思考は確かに考えていること。でも、そんなことだって枝葉なんだと少女は思う。

「――――」

 化物が来る。振りかぶられた左手は目の前だ。

 終わる。それが確信できる。自分の身体はここで、地面にこびりついた虫の死骸のように、無惨に、無様に、不恰好な地面の染みとなって散らばるのだろう。

 その様を想像して、少女の身体から力が抜ける。

 諦めの思考が、身体の動きを即座に支配した。

 抗う意思には躊躇うくせに、どうしてこんなときだけ素直なのだろうと思って――

「う、あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 声をあげた。身体が力を取り戻した。地面に倒れこんだ姿勢で握りこんだ手指がコンクリートを割って埋まり、その力に指先が耐えられずに爪は割れて血が噴出した。

 その行動に意味はない。それは何の解決にもならない行為だ。

 少女の今使える力をどう使ったところで、逃げるのは間に合わない。

 このままでは、少女の身体は化物の攻撃に喰われて消える。

 少女は抗う動きは止めずに目を強く閉じながら、一瞬後には迫るだろう終わりに涙を流した。

 そして。

「介入するには十分魅力的な在り方だ」

 少女は終わりの代わりに、どこかで聞いた覚えのある声を聞いた。





 化物は目の前の獲物と自身の間に現れた人影を認めた。

 それはどこにでもいるような、特徴らしい特徴のない青年だった。

 化物は人影が突然現れたことには驚きを得たが、しかし相手には特に脅威らしい脅威を感じなかった。

 だからそのまま腕を振るった。

 獲物が増えたこと。それ自体は化物にとっては喜ばしいことだったからだ。

 しかし、どこかから金属が擦れたような甲高く耳に障る音を聞いたと思った直後。

「……っ!?」

 化物の身体は空中でその動きを強制的に止められた。





 金属質が噛み合う大きな音が響いた。

 少女は聞こえた音に驚いたように顔をあげる。

 顔をあげる動きで涙が落ちてクリアになった視界にまず入ってきたのは、発生した大音の原因だろう光景だ。

 二歩か三歩ほど先の位置、地面の上で化物が倒れこんでいる。その身体をよく見れば、いたるところに黒い鎖状の何かが食い込んでいて、それらは化物の周囲の地面に溶け込むように流れて張られている。

 先ほどの音はこれらの鎖が化物の身体を拘束する際に発生したものなのだろうと、少女は理解した。

 化物の体躯、攻撃における速度を考えれば、それらを強引に止める力は相当なものとなるはずだ。むしろ、生じた音や衝撃は不自然なほどに小さかったのではと、追いついてきた感覚が奇妙を感じさせる。

 次に認めたのは、傍に立つ人影だ。

 焦点を合わせれば、それが自分の知っている人間だと少女は気付く。

 そこに居たのは、魔法使いを名乗ったのにコンビニでバイトをしていた冴えない青年――久郷栄太その人だった。

「なんで……?」

 久郷は少女の言葉を聞いて、少女と視線を合わせると、薄く笑って言う。

「一度言った気がするけどな。俺は俺がやりたいと思ったことをやってるんだよ」

 化物が唸り声をあげた。

 がしゃりと鎖が音を立てて鳴って、その音を聞いた久郷は少女から視線を外して化物を半目で睨む。睨みながら悩むように首をわずかに傾げると、あまり時間はかけないほうがいいかと呟いた後で、少女に視線を戻して続ける。

「端的に言う。俺は大した人間じゃあない。だから、俺が動く時はましな理由づけを求めるんだ。つまり、共犯者に近い誰かを作ってから動く」

 少女は久郷が言っている内容を理解できない。だから浮かんだ疑問符をそのまま、表情と声に出す。

「なにを……?」

 久郷は少女の疑問符には取り合わず、独り言を続けるような変わらぬ調子で問う。

「君はこの場から逃げ出したい。生きて逃げたい。そうだな?」

 久郷の言葉に、少女は心の底からするりと希望が湧く。

 助けてくれるのだろうか? そう思って、少女は久郷の言葉に頷いた。

 少女の首肯を見て、久郷は問いを重ねる。

「そうできる状況が揃った結果として、今までの生活を全て捨てることになったとしても、君はこの場を生き長らえることを望むか?」

 少女は質問の意味が理解できずに固まる。

 助けてくれるんじゃないの? と、助けられることを期待してしまった少女は、湧いてしまった希望が消える絶望で目に薄く涙を浮かべた。

 ――と、そのときだ。

 ばきり、と硬質な何かが割れかける音が響いた。

 少女が久郷から視線を外して音源を見る。この場でこんな音を出しそうな物はひとつしかない。

 化物の身体に纏わりついていた黒い鎖の一部が砕けたのか、粉のような破片を散っていた。

「……っ!?」

 それは解けないものだと思ってしまっていた。こんな場面で出てくる誰かが用意したものだから、それはきっと何事も無く元に戻してくれるように動いてくれるものだと思っていたからだ。

 少女はパニックに陥った。

 絶望から奮い立ち、しかし覚悟をした死から助かり。助かったと思えば、その希望は、期待させるだけさせて見捨てられるような嘘みたいな何かで。そして、今度は自身を死に追いやる化物が解放されようとしている。

 緊張と弛緩を短い間隔で強制的に繰り返されて、少女の思考は一度止まった。

 視界が真っ白に染まる。

 でもそれは一瞬のことだ。

 次の瞬間、

「……は、ははっ」

 少女は小さく笑うと、ゆっくりと立ち上がり、覚束ない足取りで久郷に近寄って、久郷の胸倉を掴んだ。

 久郷は無言で少女を見下ろす。

 金属の弾ける音が響いた。化物の唸り声が大きくなる。硬質な割れる音が連続して響く。

 ただ、少女はそれらを気にすることなく、声をあげた。

「なんだよ、なんなんだよ、何を言わせたいんだよ!」

 目尻に溜まった涙が少女の頬を流れて落ちる。続く声は震えていた。

「助けてくれるんじゃないならなんで出てきたんだ!? あれで終わってれば悩まずに済んだのに! 何も悩まずに済んだのに!」

 少女のあげる声は最早叫びに近い。大きくなった声に耐え切れなくなった喉がつまったようで、何度も咳き込み、しかしそれを息継ぎとして叫びは続く。

「何を悩めばいいのかもわかんないよ。なんなんだ。なんなんだ。あんたいったい何なんだ! ……あー、もう。もう。もう。もうもうもうもうもううんざりだよ! 何で私がこんな目に合わなきゃなんないの? 世界のことなんてどうでもいいよ。誰も私を助けてくれない。甘えって言われてもいいよ。そうしなきゃ生かしてもらえなかったんだからやってただけなんだ。他の人もそりゃ苦労してるんだろうけど知らないよ、どうでもいいよ、わかんないんだから。だって私のことだってわかってくれないじゃないか!」

 硬質な割音と金属質の破砕音が連続し、止まらない。二種類の音は交互に響き、その偏りは既に破砕音が勝っている。

 それらの変化は化物の解放が近いことを示すものだ。

 それでも少女は止まらない。堰を切ったように、溜めていた感情が止まらないのだと言わんばかりに、叫び続ける。

「死にたいと思ってた。でも、死にそうになってやってないことたくさんあるって気付いた。漫画読みたい。だらだらしたい。怠けたい。学校を楽しみたい。放課後に友達と一緒に遊びに行ってさ、寄り道してさ、買い食いしたりさ、そういうのやったことないんだよ。やりたかった、やりたかった、やってみたかった! 部活でもいいよ。何も考えてない学生として、普通に生きていたかった! バカでいいよ、そうなっていたかったんだ、私は!」

 ほんの小さな崩れるような音が響いて、それを掻き消すような獣の大きな咆哮が轟いた。

 咆哮に見えるのは怒りの色。

 少女の視界の隅で、化物が攻撃の掛かりとして上体を大きく捻ったのが見えた。

 だけどそれさえ少女にとってはどうでも良かった。まだ言いたいことを言い切っていない。死を前にした絶望なんて瑣末なものを掻き消す、今までの人生で封じていた憤りと怒りはこんなことでは治まらない。

 だけど。

 だけど、と少女の頭の片隅に残った冷静な部分が思う。

 その憤怒は、本来自分に向けたものなのだと。向けるべきものなのだと。

 そう思って、思ったから、少女は一度声を止めた。止めて、大きく息を吸って、これで最後と腹の底から声を張り上げる。

 あんたの言ってることの意味はわからないけど――

「なんだっていい。生きてさえいられるんならなんだっていいよ! 生きていられたら、後は自分で生きたいように生きるから!」

 少女がそう叫んだのとほぼ同時に、空気に火が点いたような音が生じて。

 化物の腕が久郷と少女に向かって動いた瞬間に。

 少女の知覚する世界から一度全ての感覚が消えた。



「「――っ!?」」

 それは化物の側も同じだったのだろう。攻撃の動作を途中で止めていた。

 少女はその行為に奇妙を感じない。化物もこれを感覚しているのなら、それは正しい反応だと少女はそう思う。

 復活した知覚が最初に感覚したのは、背筋が凍るような恐怖だ。

 居る。何かが居るのだ。こちらに気付いていない何か、ではない。それはこちらを見ている。これ以上、こちらが勝手に動いて注目されることを本能的に避けてしまうほど恐ろしい何かがこちらを認めている。

 そうなのだと言葉で理解した後で五感が追いつく。

 次に感じたのは臭いだ。

 鼻の奥を突き抜けて頭の奥をゆっくりと鷲掴みにするような圧迫感を伴う腐臭だった。

 それはどろどろに溶けて腐った生き物の臭いだ。

 そんなものが生きているわけがない。動く屍は確かに話にあるが、あれは死んだ後のものが動いている。そうであればまだ納得がいく。しかし、直感が理解させる。これはそういう状態で生きている何かなのだと。

 少女の視界の端に、ふっと色がひとつ追加された。

 見えた色は土気色で、数は二つ。

 最初のひとつは右上からまっすぐ伸びるように、後のひとつは左下の地面に向かって下りるように。ゆっくりと視界に占める面積を増やしていく。

「あ、あ……」

 それは恐らく腕だ。

 まず見えたのは指先。捻りきった末に千切られたように歪に尖った先端が五つ生えている。爪と指先の区別がないようで、それらが一緒くたに溶け合った形状をしており、先は非常に細く、根元に向かうほど明確に太くなっていった。それらを覆うのは腐った色の人肌で、肌そのものが毛羽立って、毛皮のように見えている。

 次に続く腕は非常に太く逞しいもので、先ほどまで死の脅威として認識していた化物のそれが枯れ木のように感じられるほどだ。

「……っ」

 見れば、目の前の化物がまるで蛇に睨まれた蛙のように固まった姿勢のままで震えている。

 化物はこれを直視している――つまり、筆舌に尽くしがたい何かは確かにそこに居るのだと、少女は化物の反応から確信して涙を浮かべた。

 右上の腕が静かに伸びて、化物をがっしりと掴む。

 化物はまともな抵抗を見せなかった。もう捕まってしまった今でさえ、わずかな動きで相手を刺激することを忌避してしまうほど、目の前の異物を恐れているのだと少女は感じた。

 風が動く。

 認識している何かが、視界の外で距離を詰めてくる圧迫感を感覚する。

 頭の上を何かが通過する。視界に影が差す。反射的に、止められない反応が少女の視線を頭上に跳ね上げた。

 そして見た。

 ――何だこれは。

 愕然とする。

 見えたのは異物の頭部だ。そのはずだ。

 そこには顔がある。おそらく形はヒトのそれに近い。だが、貌はない。剥き出しの骸骨のようだ。でもそれはそう見えるだけだ、形状がそうであるだけだ。そこは骨のように硬いものでできていない。そこは、今も滴り落ち続けているどろどろに溶けた何かが、骸骨のように見える形を象っているだけだった。

 眼窩らしき部分に先はない。開いた口には底がない。

 ――あんなものに見入られたら、動けるわけがない。

 少女が戦慄で心胆を冷やした瞬間に再び風が動いて。

 視界に入った異物が水が引くように後方へと消えていった。



「……は、は」

 久郷以外が映らなくなった視界を認識して、少女は止めていた息を荒く短く、何度も吐いた。

 あの異物がここに現れて消えるまで一息もかかっていない。

 化物が攻撃を届かせるまでの一瞬に、あの一幕はあったのだ。

 夢か幻ではないかと思ったが、その思考はすぐに捨てた。

 化物が目の前から居なくなった事実と今もまだ色濃く残る腐臭が、あれは現実だと告げている。

 少女は久郷の胸倉から手を離すと、よろめくように、数歩後ろに下がった。

「あれはあんたが?」

 久郷は薄く笑みを浮かべると、肩を小さく竦めてみせた。

 沈黙は肯定だ。少なくとも少女はそう受け取った。

「うそでしょ」

 少女の呼吸が止まらない。短く吸っては吐いてを繰り返す。止められない。心臓の音がさっきから耳に痛いほどうるさく鳴っている。

 原因は自分のしでかしてしまったことに対する恐怖と焦燥だ。

 身体の痛みなんてもう気になっていなかった。頭にあるのは、そのことだけだ。

「うそだ。あんな、あんなのが、出てくるなんて、私、知ってたら……っ」

 呼吸が止まらない。こんなに息をしてるのに胸が苦しい。そう思って、少女は胸に手を当てて体を抱きしめた。

 膝を追って地面につく。上半身をそのまま地面に倒して額を打った。でもそんな痛みも気にならない。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい――

 恐怖と焦燥、そして息苦しさに頭が真っ白になっている少女の耳に、溜息まじりに言葉が投げかけられる。

「まあ、今は寝とけよ。答え合わせは次に目が覚めたときにしてやるさ」

 その言葉を聞いた直後に、少女の意識は途切れた。



<4>

 そこは静かな部屋だった。

 広さは六畳ほどだろうか。床も壁も白く、明るい印象を受ける空間だ。

 ただ奇妙な点がいくつかある。

 壁のどこにも窓がない。いや、窓どころか出入りするための扉もなければ、部屋を照らす明かりや、余計な付属品が一切無い。あるのは四方を囲む壁だけだ。本来なら暗闇に包まれて何も見えなくなっているだろう場所だが、光を取り入れる場所がないにも関わらず、部屋の内部を見るのに問題ない光度が保たれている。

 閉鎖的な空間だが、不思議と圧迫感はなく、穏やかな――人を安心させるような雰囲気で満ちていた。

 飾りの無い殺風景な部屋だが、何も無い訳ではない。

 部屋の中央には簡易なパイプベッドと椅子がひとつずつ置かれており、それぞれに人影がある。

 椅子に座っているのは冴えない青年、久郷栄太だ。

 久郷は足を組んだ状態で椅子の背に身を預けながら、手元にある本を静かに読み耽っている。

「…………」

 久郷がふとした折に視線を移すベッドの上では、一人の少女が静かに眠っている。

 穏やかな顔で呼吸を続けるこの少女は、久郷がある場所で拾った少女だ。

「なんだかなぁ」

 久郷はそう呟いた後で、この少女と出会ってからのここ数ヶ月を思い出す。


 最初に見つけた時は、傷だらけで倒れていた。

 夜の街中で、誰も居ない公園で、ただ一人で倒れていたところを拾ったのだ。

「……別に好みってわけでもないんだが」

 目を覚ましたこの子はそらもう噛み付いてきたもんだった。目が覚めて服を剥かれていれば誰でもそうなるだろうか。でも処置上必要だったんだから仕方ない。まぁ実際は剥かんでもできたけど。欲情はしないが目の保養にはなるからな。

 それはさておき。

 二度目の再会は意外なものではなかった。元々あの店で働いていたし、そもそも案外と近くに住んでいたのだ。縁があれば会うこともあるだろうとは思っていた。

 想定外だったのは少女の反応だ。

 まさかあそこまでえげつなく、自分の性別を利用して外堀を埋めてくるとは思わなかった。女っていうのは怖いね、まったく。

 対応の仕方はいくらでもあったが、試しに会ってみることにした。

 確かめてみたいと思っていたことがあったからだ。

 それはどうしてそこまでして自分に会いたいと思ったのか、その理由だ。

 居酒屋で会話をした際に、少女に対しては反発心からのものだったんだろうと笑ってみせたが、そんなわけがない。

 少女は自分を助けて欲しかったのだ。

 魔法という、自分にはない力による現状の解決を望んだからこそ、執着した。

 久郷にこの思考を悪いものだと断じる気はない。

 これは少女自身の責任感が裏返った結果だからだ。

 力を持つ者はそれを正しく使わなければならない。他人を助けるために使われなければならない。

 本当にそう思っていたから、それを他人にも求めた。当たり前のことだ。誰だってやっていることだ。

 しかし、その前提を壊す考え方を久郷は言ってしまった。会話の流れというやつではあったのだが、言うべきではなかったとほんの少し後悔した。

 自分の選択は仕方なかったことなのだと、自分の現状はそうあるのが当然の結果なのだと諦めていたから自分を保てていたのだろうに。

 新しい考え方を得てしまった結果として、考え込みすぎた少女は身体を壊した。

 そこにタイミングが悪いことに、少女の属する世界観において重要な変化が訪れた。

 意外なことに、少女は相当な力を持つ人材として認識されていたらしく、その変化に巻き込まれた。

 自分が余計なことを言わなければ、少なくとも少女は少女の持つ力でその事態に立ち向かえていたはずだった。

 その結果がどうであったかは問題ではない。納得した過程を経て結果に至るという事実が必要だったのに。

 その機会を奪ったのは自分だと、久郷はそう考えた。

 だから介入した。

 その結果が、今だ。



「……まぁ、本当にそうだったのかどうかは知らんけど」

 人生ってのはどんな風になったってままならんものだと、久郷は溜息を吐いて。

「加えて、係わると大抵ろくなことをせんのが面倒だな、我ながら」

 そう呟いたときだ。

 少女の身体がベッドから跳ね起きた。





 少女は意識が覚醒すると同時に上半身を跳ね上げた。

「君は起きる時はいつもそんな風に起きるのか? 慌しいことで」

 聞き覚えのある声に、少女はその音源に――久郷に視線を向ける。

 少女は久郷の顔を見るやいなや表情を厳しく歪めて尋ねる。

「ここはどこ?」

 久郷は少女の視線を飄々と受け流しながら、軽く答える。

「比較的安全な場所、としか言いようが無いな。少なくとも、君と君の知る世界観とは、まったく関係の無い場所だよ」

 少女は久郷の口調、態度を気に入らないといわんばかりに表情の厳しさを深めたが、大きく溜息を吐いて表情をリセットすると、据わった瞳で久郷を見据えて言う。

「教えてくれるんでしょうね」

「いきなりだな。いったい何を教えて欲しいんだ? まぁ何にせよ、俺は基本的に聞かれたことには答えるぜ。俺の把握していることと考えていることを、話せる範囲でね」

「答えないこともあるの?」

「答えたくないことくらい誰にだってあるだろうよ。その時はそう答える。言ったろ? 俺は、聞かれたことに答えると。……意味が精確に伝わりにくいか? じゃあ言い直そう。聞かれたことには反応を返す。ただし、その反応は問題を解いた結果を示すような形ではない、かもしれない。それでよければ飽きるまでは付き合おう」

「わかりにくい」

「言葉を尽くしても尽くさなくても意図ってのはちゃんと伝わらないもんだ。それが会話ってもんで、醍醐味でもあり、根深い問題でもあると俺は思うね」

 少女は久郷の言葉に諦めたように吐息をひとつ吐いた後で、続ける。

「じゃあ聞くわ。あなたは私を助けてくれたの?」

「そうだな。あの場で君が死なないように対処した、という意味では」

「じゃあ、あなたはあの場で何をしたの?」

「敵を君の世界観に追加した。見ただろう? あの異臭のする怪物を。あれは、君の所属していた世界観――君のように超能力じみたものを持った人間を老若男女問わず襲うものだ。君の所属していた組織? の人間と、そこに敵対していた人間を餌にする動物だよ。

 あの場で君が助かった形になったのは、君よりも喰いでのある餌が目の前にあったからだ。

 そして、あれはその場限りのものではない。今後も、あれは無差別に餌を求めて現れては人を襲い……曖昧な言い方はやめるか、人を殺し続ける。倒されるまでは」

「……私があの場でああ答えたから、そうしたの?」

「そうだな。君がきっかけであったのは確かだ」

 少女は久郷の答えにひゅっと小さく息を呑んだ。動悸が早くなる。視線を久郷から外して、顔を俯かせる。

 しかし、次の言葉に少女は別の意味で息を止めた。

「ただ、それは君でなくてもよかった。今回たまたま君だっただけだ」

 少女は視線を上げる。久郷をまっすぐ見る。どういう意味だという意思を込めて睨みつける。

 久郷はその視線を受け止めた後で、少し悩むような間を置くと、言う。

「単純な話だよ。覚えているか? 俺が最初に君を拾った日のことを。

 君と俺はたまたま関わった。その過程で俺には俺の思うところができた。だから、俺は俺の思うまま、俺のやりたいことをやった。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 拾ったのが君でなければ、もしかしたらしなかったかもしれない。そもそも君を拾わなければ、やらなかったかもしれない。

 でも、他の誰かを拾ったときにも同じようにしたかもしれないし、誰かを拾わなくても、他の何かを見て、知った結果として、同じようなことをしたかもしれない。

 結局のところ、君の属する世界観を知る機会があったかなかったか、それだけの話なのさ。

 ……わかるか? 君がきっかけであること、それ自体はそんな大したことじゃないんだよ。

 今回は君だった。色々な気まぐれが働いてこういう結果になった。それだけのことだ。

 そして、君は俺が介入することになったきっかけではあるが、これからあれのせいで人が死ぬことと君に因果関係はない。

 あれによって人が死ぬのは俺があれを使ったからであり、また、あれに抗うほどの力を持たなかった、狙われる不運を得てしまった君ではない他人がいるからに過ぎない。

 もっとも、他の人間が経緯を知ったときに君にどんな感情を抱き、どう行動するのかはまた別問題にはなるが」

「……もし、私が答えなかったらどうなってたの?」

「さあ、どうしてたんだろうな。少なくとも、俺は死んでない。君がどうなっていたかはわからないが」

「なにそれ。無責任」

「やってないことなんて知らんよ。考えるのも面倒くさい」

 久郷は心底面倒くさいと表情でも語るように顔をゆがめた上でと吐息をひとつ吐いた。

 少女は少し呆けたように久郷の顔を眺めた後で、ぷっと小さく吹き出した。

「なんだそれ。前に考えるのは楽しいって言ってたじゃん」

 くすくすと泣きながら笑い続ける少女を見て、久郷は痛いところを突かれたという顔をしながら頭を掻くと、

「……場合によるだろ、何事もな」

 苦し紛れのように、そんな言葉を呟いた。

 少女はしばらく笑い続けていたが、やがて大きく息を吐いて顔を拭い、ベッドに横になった。

「あーあ、これからどうしよう。どうすればいい?」

「好きにしたらいい」

 少女はしばらく悩むように唸った後で、言う。

「戻りたくない。というか、あんな化物がいる場所に出たくない。死にたくないし」

「まぁそうだろうな」

「……何とかならない?」

「俺が提案できる内容はあるが」

「聞かせて」

「君が今まで培ってきた関係性を全て捨てられるなら、こういうものもある」

 そう言って、久郷はベッドで横になる少女の上にクリアファイルをひとつ投げ置いた。

 少女が起き上がってクリアファイルの中身を確認する。

 入っていたのはいくつかの書類と通帳だ。

「……これは何なの?」

「通帳は君が稼いできた金を入れている。といってもまあ、単純な計算による概算だがな。元々君が所属していた組織とやらから給金が出ていたそうじゃないか。危険手当というやつかな。それをそのまま引っ張ってきたのさ。もっとも、君が指定していた口座には殆ど残っていなかったがね。足りない分は、君の家族に身に覚えのない借金を背負ってもらうことにしたよ」

 少女は久郷の言葉を聞いて半目になりつつ、

「色々言いたいことがある内容だったけど、私が聞きたいのはそれじゃない」

 言って、クリアファイルから一枚の書類を取り出して示してみせる。

 久郷はその書類を見て、ああ、となんでもないことを話すように言った。

「この世に存在しない人間の戸籍だよ。買ったんだ。知り合いにそういうのを作るのが得意なやつがいるんでな」

「提案の具体的な内容は?」

「聞かなくてもわかってるんじゃないか?」

「あなたの口から聞きたいの」

 少女に強い視線を向けられて、久郷は間を置くように軽く肩を竦めた後で言う。

「君が自分の名前や関係性といった今まで積み上げてきたものの殆どを捨てることができるのなら、あの怪物に君を襲わせないようにしよう。という話だ」

「この話に乗らなかったら?」

「別に何も。君を帰して、それで終わりだ」

「そう」

 少女はそう言って目を閉じると、長く息を吐いた。

 しばらくの間その状態で固まっていたが、やがて短く息を吸って目を開くと、久郷を見て言った。

「乗るよ、その話」

「いいのか?」

「いいよ。未練なんてないんだ。てきとーに生きて、今後のことはその場その場で考える」

 少女は笑ってそう言った。

 未練がないという言葉は本当だ。今回のことで、自分の周囲は自分にとって大した価値がないことがわかったからだ。

 それなりに色々頑張って生きてきて、その過程で積み上げてきたものがこの程度であったことに落胆やらなにやら――言い切れない感情が浮かび上がってくるのは確かだ。

 ただ、その中に無くなることを惜しむ気持ちはひとつもない。何をやっていたのかという後悔のようなものが強く出ているだけだった。

 なにより、捨ててもいいものなのだと思ったら、なんだか気持ちが軽くなった。

 この一瞬だけテンションがハイになっているだけかもしれない。でも、ここ数ヶ月の間、体中にあった倦怠感も頭の重さも、今はまったく感じない。

「…………」

 通帳を開けば、八桁の数字が並んでいる。額は四千万弱。少なくとも十年かそこらは、学校に通いながらでも問題なく生活できるだけの金額がそこにはある。

 金が足りなければバイトでもなんでもすればいい。時間はいくらでもあるのだ。自由に使える時間があるのだ。

 なにより、あの怪物に今後襲われる心配がない。

 それだけで十分魅力的な提案だった。

「知り合いに会っても、君はまた一から関係を築くことになる。もしも他の誰かに君が以前の君であるとわかれば面倒も起こるだろう。それでもいいのか?」

「それは仕方ない。気にしない。面倒事は、もう自分でどうにかするしかないんだから」

 少女はすっきりした表情で、軽い笑みを浮かべている。

 久郷はその顔を見て、同じように軽く笑うと、

「そうか。ならいい」

 そう言って立ち上がると、ポケットから一台の携帯電話――折りたたみ式のガラケーだ――をベッドの上に放り投げた。

「保護者相当が必要になる場面もあるだろう。もし必要ならそれで呼べばいい。まぁ、金さえあればそういうことを代行するサービスもあるから、そちらを使うのも手だ。

 住居は用意してある。使うか使わないかは好きにしろ。学校についても好きなところに入れるように取り計らおう。

 細かいところは、クリアファイルに入っている説明書きを熟読してくれ。多分、過不足ないだろうから」

「慣れてるんだ」

「まぁよくあることだからな」

 話はこれで終わりなのだろうと、少女はそう感じた。

 あとは余韻。いつ終わるともしれない時間だ。

 おそらく、久郷と会う機会はもう殆ど無い。何かきっかけがなければ、会うことはもう無いのだろうと少女は思う。

 別にそれはそれで構わない。人の縁とはそういうものだと今回学んだ。

 だけど、聞いていないことがまだある。そう思って、少女は口を開いた。

「……ねえ、まだ教えて欲しいことがあるんだけど」

「何だ?」

「あなたはいったい何者なの?」

「最初に言わなかったか? 魔法使いってやつだよ。自称だけどな」

「魔法使いって何?」

「……興味があるのか?」

「少し。ねえ、教えてよ。魔法使いについて」

 久郷はしばらく嫌そうに眉根を詰める表情をして押し黙っていたが、少女の無言の視線に堪えかねてか、根負けしたように、諦めるように溜息を吐いた後で椅子に再び腰を下ろした。

「面白い話でも、珍しい話でもないが」

 それでも話したくなさそうな態度を崩さず、ぼやくようにそう言ったが、

「いいよ、それでも。知りたいから。だって、こうなった原因だよ?」

 少女はただ笑って、久郷の言葉を流した。

 久郷はやれやれと溜息を追加しながら頭を掻いた後で、言う。

「そうさな。まずは魔法とは何か、についてから話そうか。君は魔法って何だと思う?」

 久郷の問いかけに、少女は顎に手をあてて少し考えた後で答える。

「正直よくわからない。そんなの見る暇なかったから。……でも、不思議なものよね。呪文を唱えて、道具を使って、普通でないことをする」

 あなたのように、と付け足された言葉に、久郷は小さく肩を竦めると、言葉を続ける。

「まぁその認識で間違いないんじゃないか。結局、魔法ってのはそういうものだ。

 ただ、曖昧なままだと話がしにくい。だから、俺なりの定義を話そう。

 俺にとって魔法というのは、物事に対する認識の仕方、物事の受け止め方だ。

 誰かが何かをする。それを誰かが見る。そのとき、見た者が、目の前で起きた出来事の因果……どうやって起こった出来事を為したのか、それを理解できない場合に、その出来事を表現することに使う言葉だ。

 だから魔法に実態はない。

 その関係が成り立っているのなら、奇術でも、科学でも、スポーツでも、何にでも魔法はある」

 久郷はそこで一度言葉を切った。

 少女は久郷に無言の首肯を送って、言葉の先を促す。

「……じゃあ魔法使いというのは何か。これは割と単純だ。

 魔法は使えるものじゃあない。ただ在るだけのものだ。しかし、関係の上にある言葉だから、誰かに対して自分のしていることをそう見せ続けることはできる。

 つまり、魔法使いというのは、相手の知らない世界観――手段や方法をいくつも知っているだけの人間ということになる。基本的にはな」

「ずるをしてるってこと?」

「表現を変えればそうなる。どちらかと言えば、そう表現されるように努力をして初めてそうなれるものだがね。努力をしているんだ、割と」

「どうやったらなれるの?」

「運がよければなれる。君みたいに、俺のような魔法使いに会う機会があれば、誰でもなれる。ただし、捨てるものは多い」

「例えば?」

「一般的に言われる人間性はまず捨てることになる。例えば俺の身体は、病院でどんな精密な検査をしても異常が見つかることはない。完膚なきまでにヒトという生き物の健康体として評価されることになるだろう。

 でもな、俺は頭を撃たれたところで死なない。心臓を潰されようが身体をミンチにされようが死なない。

 身体を再生することもできる。潰れた身体を放棄して別な身体を新たな自分として動かすこともできる。自分という意識を複数同時に存在させ、それぞれに肉体を持たせて動かすこともできる。

 なぜそうなったのか。その理由は単純だ。

 そうしなければ新しい世界観を、手法を、許容した上で理解し、運用することができないからだ」

 少女はなぜと視線だけで問う。言われた内容に絶句して、二の句が告げなかったからだ。

 久郷は視線を受けて、なんでもないことを言うように軽く続ける。

「なぜそんなことになるのか。その答えも単純だ。そうしなければ、自分の持っていた常識を崩すことができないからだ。

 意外と世界ってのはうまくできてるらしくてな。縁のある世界観は、基本的に問題なく許容できるものだけだ。

 物語で主人公が不思議な出来事に遭遇して驚く場面があるが、あれは本人の認識だけの話さ。読者ならわかることだが、そもそも、その物語の登場人物は物語の世界観に合致していなければ登場できないんだ。

 他にいい表現方法を知らないが、つまりそういうことだ。

 だから、複数の世界観を知るためには複数の違う自分が必要だった。そのための手段として、死ぬことや自分を複数用意することくらいしか思いつかなかった。だからそうなった。そういうことさ。

 知るだけならばどうにでもなる。使いたいなら何かをしなければならない。そして、俺たちのような魔法使いはそれ以外に方法を知らない」

「……そうまでして、あなたたちは何をしたいの?」

「やりたいことがあった。そのために力が必要だった。――最初はな。今はもう惰性だ。そうしなければ安穏と生きていけない。走り出してしまった以上、置き去りにしてしまったものを無かったことにしないために続けなければならなくなっている。あるいはそう思い込むことで生き続けようと努力している。そんなところだ。

 傍から見れば平穏とかけ離れている行動だったとしても、本人にとっては続けなければ心がまともでいられないのさ。他人から見た平穏ではなく、自分が感じる平穏をのみ求めている生き物が、魔法使いという在り方だ。

 まぁ、大仰に言えばご立派に、あるいは面倒に聞こえるもんだが。実際は、誰でもやってることだよ。自分のやりたいことをやるために努力する。そして、自分のやったことに責任を持って生きる。その責任の取り方、手段が基本的にろくでもないのが、魔法使いの質が悪いところか。

 あくまで私見だがね。話して聞かせる内容はこんなもんだ。どうだ、つまらない話だったろう」

 少女は久郷の苦笑に首を横に振って答えた後で、問いを追加する。

「ねえ、あなたは何をしたくてそうなったの?」

 久郷は苦虫を噛み潰したような苦い表情を浮かべて唸った後で、言いたくなさそうに答える。

「流石にそれは言えないな。そういうのを知られるのは恥ずかしいもんだろう、誰でも。

 ただそれじゃあんまりだから、要らんだろうが、ヒントは出そう。

 魔法使いは己の在り様を名前に込める。単語、行動、方針――いろいろあるが、大抵の魔法使いは、最初の目的に近いものを選択して名前を作ることが多い。少なくとも俺はそうだった。

 俺の名前は久郷栄太。久しいに郷土の郷、そして栄え太ると書く。

 もしもこの名前の由来となる言葉がわかったなら、連絡してくるといい。答え合わせをしてやるよ。もしもその答えが合っていたなら、そのときは、何か褒美をやろう。大したものは出せないがな」

「わかった。暇なときにでも考えてみる」

「好きにしな。――じゃあ、俺は行くぞ。いい加減、聞きたいことも聞いただろ、十分に」

 言って、久郷は椅子から腰をあげた。

 少女は久郷を見上げて、くすりと笑う。

「あなたが行きたいだけじゃないの」

「その通りだ。我ながら喋りすぎた」

「なんでそんなに色々教えてくれたの?」

 久郷は苦笑を浮かべながら少女の質問に答える。

「話したがりなだけさ。他の連中は割と秘密主義だが、俺はそうでもないからな」

「本当のことなのよね?」

「どう思うのかは自由だ。嘘でもなんでも。結局、何事も気の持ちようだ」

「……そうね、本当にそう。私は、それに気付くのが随分遅くなったけど」

「まだ取り返しはつくだろ、十分に。若いんだから」

 久郷は少女の言葉をそう言って鼻で笑うように笑い飛ばすと、ベッドから離れるように歩き出した。

 久郷はこの場から去る。それがわかって、少女はふとあることに気付いて声をあげた。

「ねえ、そういえば私、名前教えてない」

「あ? 知ってるよ、そんなもん」

 少女は自分の名前を名乗ったことなどないが、今更その程度の情報を久郷が知っていることに驚いたりはしない。

 でも、驚かせることはできそうだと、そう思った。

「それは前の名前でしょ。新しい名前よ」

「は?」

 久郷は足を止めて、首だけを動かして背後にいる少女を見た。

 少女は視線を受け止めて、にやっと笑って言う。

「明瀬勝美。明るいに瀬戸の瀬、美しく勝つって書くの。いい名前でしょ?」

 久郷は少女――明瀬の表情を見て、軽く目を見開いて驚いていたが、しばらくするとぷっと吹き出して笑い声をあげて、ああ、と頷いた

「ああ、いい名前だ。覚えておくよ、ちゃんと」

「また会いましょう、いずれ」

「縁があればな」

 久郷がそう言って明瀬に背を向けて軽く手を振ってみせた。

 別れの挨拶だろうか、そう明瀬が認識した直後だ。

 明瀬の周囲にある風景が歪んでぼやけ始めた。

 変化は急速に進んだ。

 まるでカンバスに画を描くように、白い壁に様々な色が走り、混ざっていく。

 床と天井には明るめの茶が全体に。壁は薄くベージュのかかった白がまず全体を染めて、後を追うように黒や赤といった多種多様な色が細かく流れていった。

 やがて描きあがった画は洋間の一室として現実と合致した。

 少女の居るベッドを窓側として、その正面に扉がある六畳ほどの空間がある。

 娯楽小説から参考書まで多くの本を備えた本棚が左側の壁際に、勉強机らしい一式が右側の壁際に配置されている。

 そして、その場にもう久郷の姿はなかった。

「あっという間ね」

 そう呟いて、明瀬はベッドから起き上がる。

 ふと自分の身体を見下ろすと、知らない服を着ていることに気付く。

 それは白のブラウスに、黒のプリーツスカートという簡素なもので、

「私には似合わないなぁこれ」

 久郷が間に合わせで選んだのだろうと思うと、少しおかしくて笑ってしまう。

 とりあえず外には出れるかな、と結論づけると、扉に向かって歩き出す。

 やることは山積みだ。

 まずはこの住居の間取りや置いてある家具類の把握だ。それにここはどこにあるのか、どんな場所なのかも調べないといけない。

 次は何が足りないのか、生活するために必要なものの数を把握して、もらった書類やらなにやらも一度熟読しなければ。

 やるべきことを考えれば頭が痛くなる思いもあるが、それは別段嫌なものではない。

「さて、これからどうしようかなぁ」

 明瀬は薄く笑って、楽しそうに言葉をこぼすと、扉を開いて外に出た。



 

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