必ずしも要の無い序章
「antidoteの意味、知っている?」
二月の屋上は寒い。無駄話を始めた二人は置いて、さっさと作業にかかろうと天体望遠鏡を転がす。
早くストーブの側に戻りたい。
「答えてられる? もちろん、辞書はなし」
羽山が無表情に詰め寄る。かわいそうに、あれじゃプレッシャーだ。聞かれた方は圧されて、頭が回らなくなってしまう。ただでさえ寒さで脳が凍りつきそうだというのに。
「えっと……」
凛は顔もそらせず、曖昧に笑う。白くなった互いの息が混じる。異性だったら訴えられる距離だ。がんばれ。
「知らなくても、考えればわかるな。半分は」
横からフォローだか野次だか、自分でもわからない声をかける。
「推測は出来る?」
「え、いや、全然」
「antiは反対を意味する接頭語。皆知っている、ほとんど日本語みたいなもの。じゃぁ、doteは?」
「えっと……」
そりゃ無理だろ。由来はドイツ語あたりだ。
「毒。反対に毒で、即ち解毒」
西洋をモチーフにしたRPGでもやっていれば知っている程度の単語だ。威張れるものじゃない。問題は、この先。
「仮に、あなたが毒を飲んだとして」
凛が顎を引く。この続きは二年くらい前に聞いたから、知っている。僕も答えられなかった。
「一生懸命、解毒剤を探しているとする。目の前にあったとしても、antidoteと書かれていたとしたら、見つけられる?」
「にゃー、無理っす」
「無理だな」
「うん。正解。無理ね」
満足したらしく、顔を引っ込める。相変わらず表情は無い。
「火事場の馬鹿力は筋肉だけのもので、脳には無い。緊急時にできることは、日ごろできることだけ。それも焦るから、いつも通りとはいかない可能性が高い」
と、言っている本人が動揺とかけ離れている存在だから、説得力が乏しい。
皮肉に笑う。やはり、僕が言うべきだったか。
「結局、とっさのパフォーマンスは落ちる、ってことだよな。ヒーローでもない限り、覚醒なんかしない。日ごろ、反復練習をするのはそのためだ。考えなくても、できるようにさ。あるいは、ミスを減らすように」
「ハルはちゃんと、練習はしてきたと思ってるけどね」
羽山はうんうんと何度も頷く。
トレーニングは一緒にやったからなぁ。
「別に、馬鹿にしたわけじゃないもの……」
「そこはわかってる」
ただ、説明しろと言われたら、どうしても脅迫めいたものになってしまうのだ。僕も羽山も、前に一度失敗しているから。情けない話。
「わかったのなら、再開、再開。二人とも、じゃなくてハル、集中して」
へい、と頷いて柵をよじ登る。手のひらと制服が汚れた。
壁側に降り立って、柵の隙間から手を伸ばす。
「羽山、レンズキャップ、くれ」
「はい」
羽山から天体望遠鏡のレンズキャップを受け取り、縁に置く。
これで大丈夫、失敗しても言い訳が立つ……かもしれない。
「それじゃ、やってみる」
引く気は無いが、恐怖が無いわけではない。
静かに深く息を吸って、口笛を吹くように細く吐き出す。
「あの……ハルさん、本当にやるんですか?」
「うん」何を今更。
死んで詫びる。謝罪としては最上級のものだろう。死にたくは無いが、僕は謝罪がしたいのだ。
「悪いのは、ハルさんじゃないですよ?」
「そうかな」
反駁が億劫だったので、それ以上は聞かないことにした。
振り返って、外へと背を向ける。
泣き出しそうな凛と、少しだけニヤついている羽山。
二人共に手を振って、縁から一歩後ろに踏み出す。
思い出したように重力がかかる。
内臓が浮き上がるような感覚には、未だに慣れない。
「それじゃ、また――」
後で、は僕と一緒に落ちて行った。