北の風、昆布と笑いの香り
旅には、二種類あると思う。
「予定を立てて行く旅」と、「気づいたら始まっていた旅」。
今回の主人公・悠の旅は、まぎれもなく後者だ。
静けさを求めてたどり着いた礼文島で、まさかの相部屋。
しかも相手は関西ノリ全開の女性旅人――。
一人旅のつもりが、なぜかツッコミ担当に回る羽目になった青年が、
海風と昆布と笑い声に包まれて、少しだけ人生の味を思い出す物語。
潮の香りと笑いの音を、どうぞごゆっくり。
六月の礼文島。
フェリーが香深港に着くころ、霧がゆっくりと晴れていった。
潮の香りが濃くて、思わずくしゃみが出る。
「へっくしょん! あ、すみません!」
隣の女性がくしゃみをした。バンダナに登山リュック、まるで“旅人のテンプレート”みたいな格好。
彼女はティッシュで鼻を押さえながら笑って言った。
「海の塩、鼻に入るタイプですわ?」
……初対面なのに、もうボケてる。
俺はただ静かに旅がしたいだけなのに、なぜか一抹の不安を感じた。
宿は、木造の小さな民宿「浜の風」。
チェックインを済ませると、女将さんが申し訳なさそうに言った。
「すみませんねぇ、今日は混んでまして。相部屋になっちゃうんですよ」
「……え?」
まさかと思って横を見ると、さっきの登山リュック女が手を振ってきた。
「うちら、運命ですな!」
いや、運命はもう少し慎重に決めてほしい。
部屋に入ると、畳に布団が二組。
窓の外は海。波の音が心地いい……はずだったのに。
「私、いびきかくかもしれません!」
「大丈夫です、耳栓持ってます」
「さすが旅慣れてる?。ほな、私のいびきBGMにどうぞ!」
……すでにコメディの波が押し寄せている。
夕食の時間。
テーブルの上には、ホッケの炙り、ツブ貝の煮込み、そしてウニ丼。
女将さんが胸を張る。
「全部、今朝港で仕入れたの。昆布も自家製ですよ」
千夏は箸を握ったまま叫んだ。
「うわっ、これ東京で食べたら一泊二万円コースちゃいます!?」
「そこまでじゃないと思いますけど」
「いや、絶対そうですよ! ウニの密度が高い! ほら、もう一粒で米三口いけます!」
女将が笑っている。
俺はウニを口に運び、思わずため息をついた。
「うま……」
「やろ? これ、ウニ界のゴッドやわ」
そんな言葉があるのか知らないが、妙に説得力があった。
食後、宿の外に出ると霧が再び立ちこめていた。
港の灯がぼんやり光り、どこか幻想的だ。
「散歩行きましょ!」
千夏が言う。
「霧の中を?」
「霧って、ロマンチックやないですか」
「いや、遭難フラグですよ」
「だいじょうぶ、私方向音痴ですけど勘だけはええんです!」
……その自信はまったく頼りにならない。
(10分後)
「……完全に迷いましたね」
「ふふふ、旅ってこういうハプニングが醍醐味ですよ」
「醍醐味っていうか、もうホラーですよ」
霧の中で笑いながら、俺たちは港の方向を探した。
遠くで波の音がして、やっと宿の灯が見えたときは、なぜか少し名残惜しかった。
夜。
布団を並べて寝転ぶと、天井の木目が海に揺れて見えた。
波の音の代わりに聞こえるのは、隣の千夏の寝息――と思ったら。
「すぴー……ズズ……ホッケうま……」
寝言。
ホッケを夢で食ってる。
俺は笑いをこらえながら、枕をひっくり返して目を閉じた。
翌朝。
女将さんが出してくれた朝食は、ウニ丼と昆布味噌汁。
テーブルに座った瞬間、千夏が叫んだ。
「昨日よりウニ増えてません!? うわ、勝った気する!」
勝負だったのか、それは。
口に含むと、海の香りが広がる。
昆布の出汁が優しく体に染みて、思わず笑みがこぼれた。
「ほんま、礼文島ってうまいもんしかないなぁ」
「ほんとですね」
彼女が笑うと、なんだか朝の光まで明るく見えた。
昼前、フェリーの時間が来た。
港で手を振りながら千夏が言う。
「またどっかで相部屋になりましょ!」
「……次は耳栓忘れません」
「言いましたね!?」
彼女の笑い声が、潮風に溶けていった。
フェリーが動き出す。
霧の中に島が遠ざかる。
潮風の香りが、昆布と、少し笑いの匂いを残していた。
END
礼文島の風は、思っていたよりも優しい。
そして、出会いはいつも予定外にやってくる。
一人旅って、孤独を楽しむためのものだと思ってたけど――
たまにこうして誰かと笑い合う瞬間があると、「また旅したいな」って思える。
旅先のごはんは、味よりも“誰と食べたか”で記憶に残る。
ウニの味も、昆布の香りも、そして彼女の笑い声も。
きっと潮風と一緒に、少ししょっぱいまま、心の奥で生き続ける。




