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【没ネタ供養】スチームパンク小説

作者: 石田 初羽

ロンドンが舞台のスチームパンク小説

途中まで書いたものの、その後の展開がダメダメで書けなくなってしまったまま1年以上が経過……

序盤はとても面白い感じに書けたので供養としてアップします。

一八〇四年

リチャードトレヴィシックが蒸気機関の実用化に成功

急速に拡大しつつあった資本主義経済における工業偏重の流れを決定的にした

一八二〇年

大英帝国の工業生産が世界全体の半分を占める

一八二二年

チャールズ バベッジが階差機関ディファレンス・エンジンの設計に着手

一八五三年

チャールズ バベッジとエイダ ラヴレスによる長年の共同研究によって解析機関アナリティクス・エンジンが完成、彼の功績を称えて”BABBAGE(バベッジ)"と呼ばれたそれは、計算機科学の四〇〇年先の未来の技術に匹敵すると賞賛された

一八七一年

チャールズ バベッジが亡くなるとほぼ同時にBABBAGE(バベッジ)機関が稼働を停止



一九一四年八月一日


 かすかな星のまたたきを残らず吸い込んだ闇を湛えた広大な海の上で、その島はまばゆく輝く無数の光に満たされていた。

 安全に密閉された飛行船の内側で、張り出した窓におでこをくっつけて吐息でガラスが曇るのもお構いなし。少女はただただ食い入るように見つめていた。それが一体何なのかも知らないまま。

 だがそんなふうにして見とれているのは彼女一人ではなかった。この旅客船に乗り合わせた者たちは皆裕福であることでは共通していたけれども、しかし確かに老いも若きも地平線の彼方に見晴るかす目的地に気もそぞろのようだった。揃って窓際に張り付いてしまった踊り手たちをよそに広間の蓄音機が虚しく鳴り響く。

「お父さま、あの島だけ昼間なのはどうして?」

少女は振り向きざま、車椅子を押してやって来た男性に尋ねた。

「あれがロンドンの街だよ。夜でも昼のように明るい、大英帝国第一の都市だ」

 帝国、という言葉に少女は心を震わせた。鉄と軍隊、強権的な政府とそれを支える顔のない人々……そういうものが彼女は好きだった。だが男の子が好むものに興味を示すと、父親は決まって悲しそうな顔をするので努めて表情には出さないようにした。彼女の父:フーゴ クルンプホルツは軍国主義とは一切無縁の男だった。

「どうやら舞踏会はお開きのようだ。セラフィア、この子を寝かしつけてお前ももう寝なさい。明日の早朝にはもうロンドンに着いてるはずだから」

 セラフィアと呼ばれた少女は頷き、父の手から車椅子を引き取って広間を後にした。その後ろについていくフーゴが会釈してその場を去るのを用心深く観察すると、富裕な乗客たちは好き勝手に噂を並べ立て始めた。

 実際、この旅客船に一介の人形制作者が交じっているのは奇妙だった。航空経路が開拓され飛行船での渡航が一般化したとは言え、片道六〇万ドルを下らないチケットを買い求めるのは一般的とは言えない。この場にいるのもハプスブルクの社交界に知られたお歴々ばかり。フーゴがそういった種類の人たちを相手にそつなく振る舞えていたと言ったら嘘になる。

 だが彼の娘は違った。幼いながらにはっきり表れたチェコ人に特有のエキゾチックな目鼻立ちに加え、何か生まれついての気品とでも呼べるものがその子には備わっていた。身分相応の質素なドレスが、却って生まれ持った魅力を引き立たせる効果を上げており、厳しく仕込まれたと見受けられる完璧かつ自然な作法と相まって見事貴族連中のお気に召したという訳だった。大人びた印象とは裏腹に、わずか一〇歳にも満たない年齢と知らされた者たちからは自分の子供のしつけの不行き届きに恥じ入る声が挙がる始末。

 この父娘の釣り合いの取れなさだけでも充分憶測のしがいがあろうというものだが、しかし最大の注目は車椅子に乗せられている少女の方に寄せられていた。

 彼女が生身の人間であると主張する者と、単なる人形であると主張する者で真っ二つに意見が分かれた。

 その子がかすかに寝息を立てているのを見たという者がいれば、チェコ人の造り出す精巧無比な自動人形(オートマタ)のその傑出ぶりを知る者が、その程度なら人形でも充分再現可能であると証拠を取り下げさせる。僅か三日間、旅程を共にしたのみであるに関わらず、そうした不毛なやり取りを繰り返すうちに彼ら部外者は徐々に言い知れない不気味さに取り囲まれつつあった。

「よし、ではあのお嬢さんがセルロイドの人形であると仮定しよう」とある紳士が言った。「仮にそうだとして一体この文明世界のどこに、自分の娘と鏡合わせに似せて作った人形を当の娘本人に可愛がらせる父親がいると言うのかね?」

 この紳士が提示した難問が決定的に立ち塞がったことで、議論はあえなく暗礁に乗り上げた。誰一人として、そのおぞましい事実を肯定することも否定することもできはしなかった。そうして奇妙にもこれ以上の詮索は無用だと、噂好きの社交界連中に似つかわしくもない慎ましさを発揮させることになったのだった。


 完璧に防音加工が施された大広間を抜け出ると、そのアトラス級メタルクラッド飛行船がいかに美辞麗句で飾り立てらた誇大な宣伝文句に支えられているかを知ることになる。

 内装こそ当世風のヴィクトリア朝様式で統一されてはいるが、全て軽量化という名分の下に徹底的な肉抜き加工が施され、張りぼても同然。大型のプロペラ4機の作動音もさることながら、蒸気機関が放つ騒音も想像を絶していた。もっぱら従来の飛行船と有翼機のハイブリッドであるとの触れ込みだったが、自慢の大型蒸気機関を可能な限り水素が満載されたバルーンと隔離させておこうという設計者のなけなしの良心が機体そのものの大型化に拍車をかけていた。

 最大で上空一二〇〇〇フィートの高さを飛行する都合上、蒸気機関の構造そのものも例に見ない特殊性を誇っていた。航空力学上の最新鋭の見地をふんだんに注入した結果、急激な気圧の変動をものともしない洗練された強靱さを備えると同時に寒冷な気温を熱した蒸気の冷却に利用する目的から無数のパイプがあちこちにうねった奇怪な形態を獲得したのだった。

 そういう理由から、乗客が乗り込むゴンドラはパイプの隙間を縫うようにして建築され、その乗り心地は広告代理業者が本来約束していたラグジュアリー性を全く欠いていると言えた。

「お父さま、ロンドンにはまだ着かないの?」

 すっかりくたびれた様子のセラフィアにフーゴは苦笑した。

「そんなに疲れているなら代わってあげるよ」

 眠り込んだ少女を乗せた車椅子のシートは自力で姿勢を保てない重病人向けのもので、使用者が安楽にもたれかかれるようかなり背もたれが倒れている。小さなセラフィアが押して歩くには苦労が多い。

「アムネリスはいいの、わたしがお世話してあげるんだから。それよりこのお船……」

 車椅子から両手を離したセラフィアは、その手で耳を押さえ声を発さずに大声を出すふりだけをして見せた。

「ああ、分かってるよ。父さんだってつんぼになった訳じゃない。この騒々しさには気が滅入ってる。それでも彼が是非にと言ってくれたんだ。そうでなきゃ乗る機会なんてそうそうあるもんじゃない——良いかい、セラ」

 フーゴは小さな娘の頭の高さまで腰を屈めて言った。

「君は明日の朝にはロンドンに着いてる。そこにもきっと男の子はいるだろうな。機械とチャンバラが好きで、一生に一度で良いから飛行船に乗れたらどんなに良いだろうと思ってるようなやんちゃ坊主が。そういう子たちを相手に君は言うんだ。『あら、空飛ぶ豪華客船?そんなに憧れるほど乗ってて気持ちの良いものじゃないわよ。それでも雲を見下ろしながらの舞踏会はまあまあだったかしら』ってね」

 おどける父の様子がおかしくてセラフィアは子供らしい笑い声をけらけらと立てた。確かに、同じ年頃のお友達に自慢できる話題を持てるのは想像するだに魅力的だった。そう思えればこそ、この騒音さえも悩みの種になるのは今のうちだと我慢する気になる。

 娘の個室の前に着くと、父は扉を開けて車椅子を押す娘を通した。大がかりな防音装置を収めた分厚い壁のせいで納屋より狭いその部屋の両隅に、シングルベッドが二つ(しつら)えられている。そのうちの一方に車椅子を寄せると、シート脇の装置を操作した。プシュッという小型蒸気タービンの短い動作音があった後、シート全体が緩やかに動いて水平になっていく。

完全に水平になって停止すると、フーゴが眠り込んだ娘を抱き上げてベッドへと寝かせた。この小型蒸気機関を積み込んだ車椅子もまた、彼の親友であるとある資産家からの進呈物だった。明らかに彼ら父娘の持ち物の中で最も高価な代物だ。

 金糸のように美しい髪を手で(くしけず)ると、フーゴはしばし見入った。

 死にも等しい永遠の静寂の中で眠り続けるアムネリスの頬は、しかし咲き匂うように色づいて生き生きとしている。

 ——美しい、我が娘ながら……

 この五年余りというもの、彼の情熱は娘の美貌を象〈かたど〉ることのみに注がれていた。元々ハプスブルクでは屈指の腕前と賞賛されていた彼のこと、製作された人形はいずれも名品とされ、自身の名声を更に高めることに繋がりはしたが、それでも……

 それでもこうして、日に日に美しさを増していくアムネリスには到底追いつけず、彼女を前にすると自分の仕事の成果物はいずれも不出来な偽物だったと認めざるしかなくなるのだった。

 絶対的な美を前にして、敗北した芸術家は逃げるように視線を逸らした。まるで太陽から隠れようとする醜い虫のように。しかしなけなしのプライドも彼を守ってはくれないのだった。

 彼の脇ではセラフィアがしおらしく待っていた。アムネリスを鏡で写したかのようにそっくりな双子の姉は、父が妹に「おやすみなさい」と囁くのを聞いて、次は自分の番だと思って背筋を伸ばし、一層淑女らしい姿勢を保った。

「今日の社交ダンスは立派だったね。みんな驚いていたよ」

「お父さまがレッスンしてくれたおかげ。もっといろいろ教えて?」

「そうだね、君のようなよくできた娘を持てて私も鼻が高いよ。ロンドンに着いたら、ご褒美に新しい靴を買ってあげよう」

 セラフィアは無言で父に抱きついた。ああ、お父さまったら何も分かってくれないんだから。今こうしている間もわたしが感極まって何も言えなくなってると思いこんでるのかしら……

 長身な父親の腰の辺りに顔を埋〈うず〉めている間、彼女は念じるようにそう二、三度心の中で呟いた。「靴なんて要らない」なんて言ったらがっかりされてしまうかも知れない。何も言わなくても不思議な力で通じ合えたら良いのに…… しかし見上げてみても、フーゴの満足そうな表情は変わっていなかった。

「それじゃあ、私はもう寝るよ。アムネリスのこと、後は頼んで良いのかい?」

「はい、ちゃんとお着替えさせて寝かせてあげます」

 父に気づかれないような浅い溜め息をつきながら、セラフィアは答えた。

「ありがとう、すっかり頼りになるお姉さんだね。誇りに思うよ…… お前は私の最高傑作だ」

「はい、お父さま」

 弾力に富んだリンゴのように丸い頬にキスをしてセラフィアの頭を撫でると、フーゴは部屋を出た。扉が締まると共にガチャリと音を立てて錠が掛かると、娘はぼそっと呟いた。

「嘘ばっかり」

 靴を脱ぎソックスを自分のベッド目懸けて投げ捨てる。更にドレスも。可愛らしい反抗心を露わにして華奢なキャミソール姿のまますたすた大型のトランクへ向かう。その中から花柄のネグリジェを二着取り出すと、丁寧に畳まれていたのをばさっと広げてアムネリスが眠るベッドの上に広げた。

「さあ、もう眠る時間よアムネリス。今日はつかれたでしょう?」

 そう話しかけつつ、セラフィアは妹のドレスのボタンをひとつひとつ外していった。生成(きな)りのアイボリーホワイトのドレスの下から覗く肌は一層白く透き通るよう。

 そんなアムネリスと、壁掛けの姿見に映った自分の姿とを見比べてセラフィアは不意な劣等感に苛まれた。


 段々、似なくなってきている。


 つい最近そのことに気づいた。昔は見分けがつかないほどそっくりだったはずなのに、自分の顔がアムネリスの完璧な相貌から離れていっている……そんな気がしてならないのだった。

「お父さまは嘘ばっかり。わたしのこと、さいこうけっさくだなんて、ほんとは思ってないくせに……」

 この原因をセラフィア自身は、毎日笑ったり悲しんだりしたことで生じた”表情の蓄積”にあると信じていた。実際、生まれた時のままの混じりけのない無垢さを保っているアムネリスの顔にはそういった表情の痕跡が認められない。それだけに一層完璧に見えるのだ。

「わたしのこともアムみたいにかんぺきなお人形にしてくれればよかったのに」

 愛する妹にネグリジェを着せ終え、おやすみのキスを頬にして自分もベッドに潜り込む。セラフィアは眠りに就く間際まで小言を口にしていた。

「ふしぎでたまらない。どうしてお父さまは、わたしたちをこんなふうに作ったのかしら……」


 遠くの方で、さっきから何度も唸るように聞こえているのが雷なのだと気づいたのは、天井から吊り下げられた揺れるガス灯を眺めるのにすっかり飽きてからのことだった。

「おはよう、アムネリス」

 返事はない。

「あの音のせいですっかり目が覚めちゃった……あなたにも聞こえた?お空の上で聞く雷ってなんてこわいんでしょう。お船に雷が当たったらどうなっちゃうのかしら」

 壁に掛けられた振り子時計の針は午前二時半を示していた。

「まあ、まだ夜?どうしよう、お父さまが迎えに来てくれるまではお部屋から出ちゃいけないことになってるのに、わたし、お空の様子が気になってきちゃった」

 スリッパを履いて扉の前で立ち止まりドアノブに手をかけたが、開けてしまうのは躊躇〈ためら〉われた。

 錠前は扉が締まると自動的にロックされる仕組みになっており、解錠する方法は内側からダイヤルを回すか外側から鍵を差して回すかの二通り。もしここで扉を開けて出て行けば、唯一この客室の鍵を持っているフーゴが迎えに来るまで締め出されることになる。

「お父さまを呼びに行ければいいのに。アムネリス、あなたはお父さまがいらっしゃるお部屋がどこか知ってる?」

 もの言わぬ妹にセラフィアが話しかける。

「そう、じゃあアムを連れて行ってもしかたないわねーーううん、いいの。わたし一人で行くから。それよりアムにお願いがあるんだけど……」

 誰にも聞かれないよう妹のそばに寄って囁く。

「わたし、お外のようすを見てくる。それで戻ったら六回ノックするから、そうしたら扉を開けてちょうだい。かんたんでしょう?」

 昏睡するアムネリスには姉の声は届いていないようで、眉にも唇にも、その陶器のような顔のどこにも変化は認められなかった。

「そう、六回よ。それ以外はわたしじゃないからぜったい開けちゃだめ。わかった?……もう、アムったら分からず屋ね、お父さまならへいきよ。わたしたちの方から開けなくたって、鍵を持ってるんだもの。」

 アムネリスに口を酸っぱくして言い聞かせると、薄手のキャミソールにコートだけ羽織ってスリッパのまま外に出た。

 個室を出ると、蒸気機関の唸り声が一層けたたましい。当然だが夜の間も休みなく稼働し続けているのだ。逃れるように大広間に駆け込んでばたっと扉を閉める。束の間、突然訪れた静けさにセラフィアは息を止めた。

 照明の落ちた大広間は、ついさっきまでの様子とはまるで違っていた。ついさっきまできらびやかに着飾った無数の男女が入れ替わり立ち替わり、くっついては離れを繰り返して流れるように踊っていたのも、夢の出来事だったと言われたら彼女は信じたに違いない。

 草原のように広がる絨毯の上をスリッパのまま、半ば爪先(つまさき)立ちで進んでいく。しんと静まりかえった中でガラス張りの窓一面に写し出された景色だけが燃え上がる炎のように揺らめいていた。

 夜の(とばり)の向こう側から漏れ出たかのように黒い雲の群れは遙か遠くまで続いており、天上で瞬いているであろう星々をひとつ残らず隠してしまっていた。時々刻々と流れゆく雲がまるで一粒の星も取り逃さないことを使命としているかのように金属製の船に雨を打ちつけ、そして()え立てる。

 ひんやりしたガラス窓におでこをくっつけて覗き込んでいたセラフィアの目に、灼けるような痛みが走った。目の前で青白い光の矢が束になって閃いた——稲妻だ。一度や二度ではなかった。あたかも人の造り出した文明の利器がオリュンポス山に着陸するのをゼウス神が阻んでいるかのように、放たれた稲光はいずれも孤立無援の飛行船に命中した。その度に耐腐食性に長けたアルクラッド合金の薄い装甲が激しい悲鳴を上げる。

 それでも飛行船は構わず急速に下降しつつあるらしかった。深い黒雲の海を果敢に突き進み、その海底に瞬く無数の光の点にセラフィアは釘付けになった。

 それらを雷に撃ち落とされた星だとばかり思い込んでいた彼女は、実はそのひとつひとつが人々が灯した明かりであるという事実に気づいて声を立てずに驚愕した。雨が打ちつける中でそびえ立つ摩天楼の群れは稲光が走る度に外壁の白亜を露わにし、建物全体に施されたいかめしい装飾と相俟あいまって幼い目には悪魔サタンの根城に見えた。

「あれがほんとうに悪魔サタンのお城なら、きっと財源は罪人たちから没収した財宝だわ……」

 荒れ狂う自然の猛威を目の当たりにして一層熱心に想像を巡らせている最中、背後に人の気配を感じたセラフィアははっと我に返った。

「セラ……?ここで何してる?」

 父の声には怒りでも失望でもなく、動揺が滲んでいた。ただ単に、娘の行動を理解できずに苦しんでいるのだとセラフィア自身もはっきり分かって少し気の毒な気持ちになった。その両手はアムネリスを座らせた車椅子に行儀正しくかしずいている。

「まあ、アムったら!信じられない、お父さまにわたしのこと言いつけたのね!」

「何もごまかそうとする必要はない、君が無事なら…… だがこの雷雨でおびえているんじゃないかと様子を見に来た私の気持ちも考えて欲しいね」

 大好きな父親からの苦言を耳にして、セラフィアは初めて心細くなった。好奇心に駆られて大切な妹を置き去りにした自分を恥じた。

「さ、船は間もなく着陸するらしい。予報によると雨は昼過ぎまで降り続くそうだ」

 娘の表情から反省の色を見て取ると、フーゴは巧みに話題を変えた。

()むまでこの船で待つこともできるが、生憎(あいにく)私たちは急いでる。もうひと眠りしたら一足早くおいとますることにしよう」

「はい、お父さま」

 父に手を引かれ窓から離れる間際、小さな淑女は振り向いてもう一度だけ外の景色を目に灼きつけ、心の中で好きなものリストに「かみなり」と新しく書き加えた。少女の心はぞわぞわとした落ち着かない快感に(つつ)まれていた。銃や大砲の発射音を聞くのと同種の興奮。どうやら大英帝国の街は恐ろしげな刺激に満ちているらしい。


 船は神々の聖域ではなく人が造り出した都市に着陸した。地上で最も発達した巨大な機械都市メトロポリスに。

 夜中、雲だとばかり思っていたのはロンドンの上空を舞う煤煙ばいえんだった。飛行船から降り立ち、傘を差して空港の敷地を歩く間、その外で大雨の中でも無数に立ち並ぶ建物のあちこちから煙が昇っているのを父であるフーゴに尋ねてようやくそれを知ったのだった。

「あれは雷雲を作るために煙を出してる訳ではないよ。確かに現にその通りになってる訳だが…… どれもみんな、何かしらの工場なんだと思う。何しろ蒸気機関を動かすには莫大な燃料が必要らしいからね」

 娘の空想に感心しながらも、フーゴは彼に出来得る限り科学的な解説を試みた。

 セラフィアはコリーンの屋敷に(しつら)えられた立派な暖炉を思い出した。以前、女中の真似をして薪の燃えかすを掃除した際、盛大にくしゃみをして部屋中に煤を撒き散らしたことがあった。そう言われてみると確かにロンドンの空気はあの時と同じように煤けてどんよりしている。

 午前八時、まだ早朝のためか空港はがらんとしていて人気(ひとけ)がない。

 各種の検査をクリアして貨物庫に預けた大きな荷物を四つばかり引き取るとたちまちフーゴの姿は隠れて見えなくなった。帆布で織られた厚手の丈夫な鞄を肩や腕のあちこちに引っかけたその姿は、まるで荷物に足が生えて独りでに歩いているかのよう。セラフィアは本人に聞こえないよう遠慮がちに笑った。

 見かねた空港職員に荷物を剥ぎ取られてようやく人心地(ひとごこち)の着いた彼はロッサムが寄越した迎えの車が既に到着していると確認するや彼ら親切な職員たちを従え、颯爽と出口へ向かっていった。その後ろを車椅子を押すセラフィアがついていく。空港職員が何度か代わりましょうと言ってくれたものの、彼女はそれらの提案全てを丁重に断った。なぜ彼女が頑として譲ろうとしないのか、不思議に思った職員が車椅子に乗せられた少女の顔を覗き込んだ。そうして二人が双子であるという事実に気づくと狼狽うろたえたように後ずさりし、それ以降彼が何かを提案することはなかった。


 フーゴの親友が寄越した自動車はすぐに荷物だけでいっぱいになった。荷物鞄に収まった物品の(ほとん)どは割れ物なので、手狭な車内に無闇に詰め込んで良いものでもない。

「もう一台迎えをこちらに来させます。少々時間がかかりますが、お二人はそちらにお乗りください」

 マリウスと名乗った青年はそう提案した。言葉だけは丁寧でも無機質な表情を仮面のように貼り付けた何となく愛想のない御者に対して、物怖じしないセラフィアは大胆にも咳払いした。アムネリスも勘定に入れてもらわなければ困る。

「これは失礼、三名様でいらっしゃいましたね」

 ちっぽけな子供の自分に対して深々としたお辞儀で陳謝の意を示して見せた男にセラフィアは目を丸くした。彼女が知る限り、今までそんな大人はいなかった。オーストリアにいるどんな男性よりも礼節をわきまえている。大英帝国の紳士はみんな本当に紳士的なんだわ、としみじみ感心した。

「せっかくの申し出ありがたいが、別段急いでいる訳でもないし、私たちは歩いていくよ」

「いえ、しかし……」

「遥々〈はるばる〉オーストリアの片田舎から来たんだ。世界が注目する未来の都市がどんな場所なのか散策してみたいだけだよ。セラフィア、それでも良いかな」

「はい、お父さま」

 他人がいる手前、ロンドンの街をすぐにでも歩けると知って(おど)り出しそうになっているのを気取けどられないように返事したものの、少し上擦うわずった声色こわいろでばれてしまったかも知れない。

「彼には後で私から謝っておくから」

 フーゴは話を続けながらも、マリウスの表情がかすかに曇ったのが気にかかった。

「いえ、そういうことではなく……やはり私としては大切なお客様をこのまま放り出す訳には参りません」

 見かけに依らず思いやりに満ちたこの青年は自分の保身を気にしている訳ではないらしかった。

 少し考えた後、御者は決心したように口を開いた。

「このようなことを申して恐縮ですが、旦那様はまだロンドンという街をまだよくご存知ではない。取るに足らぬ召使いと雖〈いえど〉も、その点にかけては私に一日いちじつちょうがございます。今だけで構いませんから、どうか私の忠言をお聞き入れなさってください」

 一体どう落着するのかと目をぱちくりさせるセラフィアを一瞥して、フーゴは御者の言葉にゆっくり頷いて恭順の意を示した。

「分かった、あなたの忠告に従うよ——済まないね、セラフィア。ロンドンの散策はまた今度にしよう」

 気まずそうに苦笑いする父に心底がっかりしながらもセラフィアは静かに頷いた。

「恐れ入ります。わざわざ車を呼ばずともきっと馬車の一台くらいは空港にも停まっているでしょう——今確かめて参りますので、少々お待ちください」


 マリウスが先導する蒸気自動車は、セラフィアたちの荷物を満載してゆっくりと走り始めた。ぽーっという蒸気機関車と同じ霧笛(むてき)を追うように、フーゴら三人の乗った馬車が後に続く。

 馬車の乗り心地は決して良いとは言えなかった。酸性雨で傷んだ路面が車体にもたらす振動は、砂利道を進んでいるのとほとんど変わらないほど大きく、フーゴはその不快な振動から少しでもアムネリスを守るため、始終抱き寄せていなければならなかった。

「妙だな、町外れとは言え誰も見当たらないなんて」

 座席から外を眺めながら、フーゴが不安げに呟いた。確かにその通りだった。空港から都市部へと向かう道すがら、かすかに前世紀の空気が残る郊外——と言っても林立する石造の建物に押し退()けられたように草木は一本も見当たらないが——に建設された空港から都市の中枢部へ下って行く大通りには人影ひとつない。建物はどれも煤けて廃墟のよう。だがしかし、これが普段通りのロンドンの姿なのかも知れず、余所者よそものの二人には判断のしようがなかった。

「まだ小雨がぱらついてる、顔を出さないように気をつけて」

 少年と呼んでも差し支えないほど若い御者が大都市への興味に駆られた父娘をたしなめる。空港から出てくる観光客の扱いには慣れているのだろう。

「ロンドンの天候は変わりやすいんだ。ようやく止んだかと思えば、二時間も経たないうちにまた降り出してしまう」

 なんだ、そんな心配かと胸を撫で下ろしかけたフーゴの表情を見透かしたかのように、少年は更に付け加えた。この街に来たばかりの人間の考えることは見なくても分かるらしい。

「おじさん、出身はどこ」

「オーストリアだ。コリーンという町でね、」

酸性雨(アシッド レイン)って聞いたことあるかな。濡れるとひどく皮膚を傷めるんだ——あれを見て」

 少年が指差した先は大きな石造の時計塔だった。前世紀の建築様式で建てられており、いかにも歴史のありそうな建造物だが表面の細かな彫刻がぼろぼろに崩れて醜く黒ずみ、酷く傷んでいるのが遠くからでもはっきり見て取れる。

「ビッグベンでさえ、酸性雨にさらされるとあっという間にあの有様ありさまさ。人体にだって当然良くない」

「そんなに深刻なのか」

「そりゃあね。飛行船に使われてるような特別な金属で建て替えてく計画を進めてるらしいけど、こんな調子じゃ追いつく前にみんな溶けてなくなってしまう」

 馬車がゆるやかな坂を軽快に走る間も、フーゴはこの石畳の石ひとつひとつの角が削れてがたついているのも酸性雨の影響なのだろうかとしみじみ考えた。

 一方セラフィアは無人の通り沿いに立ち並ぶ寂れ気味で埃をかぶった店のショーウィンドウ全てを目聡(めざと)瞥見(べっけん)し、靴や服飾はもちろん家具からガラス細工に至るまで一九世紀から続く伝統的なヴィクトリア朝のスタイルというものを頭に刻み込んでいった。それらはいずれも高度に洗練され目を見張る出来栄えを誇りながらも決して主張し過ぎるということはなく、ロンドンという街を形成する一部として見事に調和するよう設計されていた。

 熱心に窓の外を覗いていたセラフィアだったが、先ほどまで意識して頭から追いやっていたかすかな刺激臭がいよいよ考え事を中断せざるを得なくなるまでに強まってきた。悪臭と汚泥をたっぷり染み込ませた重たい空気にはらはらと煤煙が舞う。呼吸が苦しい。セラフィアの小さな肺は早くも悲鳴を上げ始めていた。

「セラ、窓を閉めなさい」

 咳込んで手をもたれかけていた窓を閉めながら、フーゴは言った。二人はすぐに臭いが強まる前に閉じるべきだったと後悔した。密閉された車内はハンカチをマスク代わりに口元に当てていなければとても過ごせない。

「これがロンドンじゃ当たり前だって?」

 普段温厚で決して声を荒げない父親が悪態をく姿を、セラフィアはハンカチとストールに深く顔をうずめながら物珍しげに観察した。

 しばらく馬車に揺られながら、気を紛らわすためにふと外を眺めやると辺り一帯の風景が徐々に変化していることに気づいた。朽ちた石材、漏れ出た重油で虹色に光る汚らしい水溜まり、錆び付いて赤茶けた鉄とてらてら安っぽく輝く金属のコントラスト。それらにまばらながら人影と炎が混じり始めた。

「一体何なんだ?何が起きてる?」

 自分と幼い娘たちが引き返すことの許されない事態に巻き込まれつつあることに気づいて、フーゴは狂乱の度を高めつつあった。彼の問いかけは明らかに御者に向けられていたものの、混乱する乗客をまるで気にかける様子もない。

「馬車を停めろ!」

客車から身を乗り出して、フーゴは叫んだ。煤で汚れた街を疾走する馬車を吹き抜ける悪臭が、自分の身体に爪を突き立てているように感じた。

「停めてくれと言ってるんだ!」

「おじさん、ばか言っちゃいけないよ。この騒ぎが何なのか知らないとでも言うつもり?」

「どういう意味だ?!」

 大声を張り上げる度にフーゴは激しく咳込んだ。それでもやめようとはしない。どうにか状況を理解するために必死だった。

 更にもう一度、御者の少年に向かって質問を畳みかけようと息を吸い込んだところで馬車は急激に速度を落とした。ぼこぼこした路面の上を滑るようにして車体がくるりと元来た道に頭を向けた。フーゴが扉を開けて振り向くと、マリウスが運転する蒸気自動車は黒い人混みに覆い隠されてたちまち見えなくなった。誰もが人間性を喪失したこの街で唯一思いやりの心を持ち合わせていた男。彼はいなくなってしまった。

 一体どこから湧いて出たのか、馬車は街の中心へと行進していく群衆に取り囲まれて身動きが取れなくなった。空気が酷く淀んでいるのも構わずに大きな口を開けて叫ぶ彼らは、顔から指の先に至るまで皆一様に煤で黒ずんでいた。

「さあ、これでお望みの通りになった。満足だろ。こいつはもう俺の手に負えないね」

 言うが早いか、若き御者は手綱〈たづな〉を放り投げて馬車を降り、必死に彼を呼び戻そうと叫ぶフーゴに一瞥もくれないまま、人混みの中へと消えた。

 馬車は街の中心へ押し流されていく群衆をき止めるように立ち往生するしかなかった。客車を牽いていた二頭の馬は鉄の街に放り出された異物として落ち着きなく歩き回るが、今や統制を執る者が不在となったことで一歩たりとも前に進むことは叶わない。人々の熱気と攻撃的な感情とが、自分たちに向けられつつあることに気づいて、フーゴは震え上がった。

 そうして不意に何者かが松明たいまつを投げ入れた。彼らの心にも確かにあった悪意を堰き止めていた何かしらが決壊したのだ。素早い火の手はたちまち車体を覆っていく。馬車の外からも悲鳴が上がっていたが、そんなものは今のフーゴの耳には入らない。

「セラ、降りるんだ!」

 激しく咳込みながら彼は怒鳴り散らした。「さあ早く!!」

 目を丸くして動けなくなっていた幼い娘はそれでようやく生き延びるための行動を起こした。扉のハンドルを全身で押し倒しすようにして外へ飛び出すのを横目で見ながら、フーゴは自分のハンカチをアムネリスの口にくつわのようにかぶせて外れないようきつく縛った。

 昏睡する娘を抱き抱えて脱出すると、先に外にいたセラフィアにコートの裾を引っ張られるに任せて、群衆が流れていくのとは逆の方向に突き進んだ。当然車椅子は置き去りにした。


 坂道を上って人通りのない隘路あいろに入ると、とうとうフーゴは立ち止まってしまった。眼前の危機を脱したとは言え、安堵するには早過ぎる。しかし、既に彼の体力は限界を迎えていた。視界には常に黒雲垂れ込めるロンドンでは見えるはずのない星が無数にちらついており、それ以外の目に映るもの全てがひどく遠くにあるように思われる。

 フーゴの鼻と口は何にも覆われていなかった。持っていたハンカチはアムネリスに使ってしまったし、両手で娘を抱えていたからだ。一息ついたところでそのことに変わりはない。

 ぜーぜーという荒い呼吸の繰り返しに病的な咳が織り混ざって意識も朦朧とする父を前にセラフィアができたのは、ただその手を取って先を急ぐよう促すことだけだった。父親が直面している苦痛を想像すると胸が痛む。実際、セラフィアは自分のハンカチでしっかり鼻と口を覆っていたにも関わらず、小さな肺に充満した煤煙によって刺すような痛みにさいなまれていた。

 だが、一度へたり込んで座ってしまったフーゴはもう動こうとはしなかった。どれだけ娘に手を引っ張られても効果はない。大声でわめき立てる声もまるで耳に入らない。ただ、焦点の合わなくなった目でかすむ街を眺めているだけ。そこではまだ自分たちが脱出した馬車の残骸がくすぶって煙を吐いている。二頭の馬の姿はない。その距離四〇ヤードはあるかに見えた。

 今なら群衆がどこへ向かって行進していたのかが手に取るように分かる。都市の中心に屹立きつりつする鉄塔と、その周囲を囲むように広がる工場群。それらの平坦な屋根から伸びる無数の煙突を、まるで親分の鉄塔が従えているかのようだ。そしてその隙間をせわしなく這い回る黒い生き物たちの、何と醜いこと。肌も服も煤にまみれた連中がかすかに白いはずの石畳の上で油染みのようにこびりついている。自分たちもまた彼らと同種の存在であるという到底受け入れがたい事実から目を逸らすべくフーゴは再び塔を見上げた。

 見れば見るほどそれは奇妙な塔だった。無骨な鋼材から成る構造体が外壁に被覆ひふくされずあらわになっている様は、パリにあるというエッフェル塔を思わせる。しかしまっすぐ天を突く鋭利な頂点から串刺しされた玉葱たまねぎ型のドームが、それが何かしら科学的な目的を果たすために建造されたことを示していた——だが、それ以上のことは何も分からない。考えるには酸素が足りない。どこかへ行こうとしていた気がした。だがはぐれてしまった。行き先など見当もつかない。目的地が一体どこだったのか、平衡感覚を失った今は思い出すことさえ難しい。彼は一〇ヶ月前に再会した親友の顔を思い出した。実に__年ぶりだった。幾分肥えて恰幅かっぷくが良くなったものの、ひどく疲れて老け込んでいる。それでも目の奥に秘めた輝きには確かに見覚えがある。そう、彼の名前は、彼の名前は——


 ぐったりと仰向あおむけになった父にセラフィアがすがりついていたのは、父を失う恐れからではなかった。口に当てていたハンカチが汚染された空気を漉すフィルターとしての機能を失ったために、とっさに父のコートに顔をうずめたのだった。彼女が離れまいとして抱き締めている間フーゴが正常な呼吸を取り戻すことはとうとうなく、むしろその異常な引き笑いのようなリズムを保ったまま徐々に静まっていっていることに気づいて背筋が凍りついた。

 そんな幼いセラフィアの肩を優しく叩く者があった。背中をさすってフーゴから引き剥がそうとする。その手は天使のように軽やかだったが、同時に小さな彼女では逆らえないほど力強くもあった。

「ここは危険です。速やかに避難しましょう」

 その声には聞き覚えがあった。彼女が知る限りこの都市で最も誠実な青年、マリウスのものだ。煤煙でかゆみを生じた目を見開いて自分を抱き抱えた相手を確認する。

「助けに来てくれたのね?」

「あなたは旦那様の大切なお客様です」

「お父様が変なの、壊れる前になんとかしてあげて」

 青年に軽々抱き上げられたセラフィアは王子様に訴えた。彼女の小さな口をマリウスがガーゼでふさぐ。幾分呼吸が楽になって足下を見やると、極度の呼吸困難に陥ったフーゴが口から泡を吹いて顔面蒼白がんめんそうはくになって倒れていた。

「まだに合う?」

「極めて重症です。すぐに運びましょう」

 マリウスがそう言うまでもなく、後ろについて来ていた男たちがフーゴとアムネリスそれぞれの顔にガーゼをかぶせ、慎重に抱き抱えて蒸気自動車の後部座席へ寝かせた。男たちは皆マリウスと同じ背格好で同じスーツに同じコートを羽織り、そして同じ顔をしていた。

 父親が運ばれていく、そのモノトーンの光景を目にしたことで、セラフィアの脳裏にほとんど忘れかけていた記憶がフラッシュバックした。幼い彼女がもっと小さかった頃。父親に手を引かれて参列した、母の葬式。顔は覚えていない。覚えているのは、棺を埋め尽くす白百合の眩しさと、両手に握られた十字架の鈍い金属光沢。

 何人ものマリウスたちと共に自動車に乗り込んだセラフィアは燃えるロンドンの街並みを一瞥いちべつすると、少し咳をした後ほとんど倒れ込むように寝入った。ひどい熱の兆候が現れ始めていた。

 鉄と煤煙、街と同じように煤けた人間たち。およそ人が住むには適さない場所……それが、セラフィアが見た初めてのロンドンだった。



 窓から射し込むやわらかな日の光が瞼越しにも感じられるほど強まってきた。気怠けだるく髪を掻き上げて目を開ければ、まず見えるのは白亜の天井。隣ではアムネリスが眠っている。

 もぞもぞと布団から起きあがって周りを眺めやる。あまり片づいていない、いつも通りの自分の部屋を懐かしいと感じるのはどうしてだろう。

何となく熱っぽいのは照りつける太陽のせいだろうか

「おはよう、アムネリス」

 すっかり日が高くなっていることに気づいてベッドから這い出る。眠り続けるアムネリスのためにかけ布団を直すと、セラフィアは自分の身支度に取りかかった。

「おはよう、シャーリー。おはよう、ブランシェット」

 部屋の隅の椅子に腰かけた人形たちに挨拶する。

「おはよう、キリアン。すっかりお寝坊しちゃった。待ってて、すぐに着替えさせるわ。あなたたちもパジャマのままっていうわけにもいかないものね」

 手早く自分の着替えを済ませて人形たちの寝間着を脱がせ、慣れた手つきで服を着せていく。アムネリスには自分と同じ衣装を、それ以外にはそれぞれの性格に合わせた衣装を。

「ねえ気づいた?わたしたちもうすぐブランシェットと同じ背丈せたけになるのよ。そうなったらあの子のお服を借りたりできるかも」

 アムネリスの耳許みみもとで、いかにも重大なことであるようにセラフィアはささやいた。だがその声はブランシェット本人にも聞こえていたらしい。それに気づいて慌てて弁解する。

「安心して!あなたにはわたしたちのお服を貸してあげるわ、もちろん。一番上等なのをね。着せ合いっこなんて楽しそうじゃない?——シャーリーはだめよ、わたしたちよりずっとお姉さんだもの」

 シャーリーの無邪気な提案にキリアンがいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った冗談にセラフィアは思わず笑い転げた。

「キリアン、やめてよ。あなたはもっとだめ。そうに決まってるでしょう?男の子は参加させてあげられないわ、当然よね?ドレスを着たいって言うんなら着せてあげてもいいけど……でもわたしのは貸せないわ。ほら、アムもいやがってるもの」

 お友達との談笑をしている最中でもセラフィアは玄関の扉が開く音を聞き逃さなかった。およそ_フィートある、彼女一人では決して開けることの出来ないあの黒く大きく重い扉はもう長いこと油が切れて開け閉めする度にぎぎ~~ぃ……っという鈍重な異音を発するのだ。

 フーゴが来客を出迎えているようだが、扉は開いたまま。何やら親しげな話し声も聞こえる。これは珍しいこと。

「いったいだれだと思う?お父様が会って喜ぶようなお客様。マーガレットおばさまじゃないわ。ぜったいにちがう。いつものニシンのパイじゃあんなふうには喜べないもの。わたしもあのパイ好きじゃないし、それに……たぶんだけど相手はお父様より年上の男の人よ。なんだか声がそんな感じ」

 みんなに聞いた結果、新しい作品を欲しがっているコレクターの仕事を比較的頻繁に斡旋してくれるロベルト子爵なのではないかというキリアンの意見が最もらしく感じられた。彼はアムネリスとセラフィアが作られた時には既にこの屋敷にいて、父の昔からの交友関係にも詳しいのだ。

 フーゴの腕を評価して純粋な好意のみで割の良い仕事を回してくれるあの物好きの貴族になら、セラフィアも会ったことがある。

「それじゃあキリアンの見立てが正しいかどうか、確かめてみましょう」

 いたずら好きのアムネリスを除いて皆が思いとどまるよう反対する中、セラフィアは意を決して扉を開いた。二階にある子供部屋を出て手摺りの隙間越しに吹き抜けの大広間を覗いてみても、玄関先で応対している父の背中しか見えない。さっきよりは声もはっきり聞こえるが会話の内容までは判然としない。確かめるにはより大胆な行動に打って出るしかないようだ。

「だいじょうぶ、平気よ。怒られたりしない。お客様にお茶を運んでいくの。怒られるどころか、褒めてもらえるわ」

 靴を脱いで手に持ち、物音を立てないよう注意しながら階段を下りてキッチンへと続く廊下を入っていった。

 白磁のポットに茶葉をセットしたは良いものの、困ったことに彼女はまだガスコンロの使い方を父から教わっていなかった。

「どうしましょう、コンロがないとお湯が沸かせないのに……」

 まごついてうろうろしている内に、居間の暖炉に火が灯っていることに気づいた。よく暖炉の上にシチューの鍋を置いて保温するのに使っている。その要領でポットを暖炉に置けば温まるはず。

 名案だと思ったものの、十一月のコリーンは本格的な寒さには程遠いため、薪が控えめでそもそもあまり暖まってはいなかった。何本か薪を足してはみたものの、炎は見かけよりずっと慎重でそう簡単に薪を食べてはくれない。そんな様子をセラフィアは焦れったく睨みつけた。

 湯が沸いて紅茶ができあがるには、どうやらまだ少し時間がかかるようだった。


 彼とは実に_年ぶりの再会だった。エドゥアルト ロッサムは最後に会った時よりでっぷりと肥え太っており、くるんと撫でつけた立派な口髭と嵩の高いシルクハットが生来強かった彼の自己顕示欲が長い年月を経て一層彼に対する支配力を強めたらしいことをよく表していた。

「我が旧〈ふる〉き友よ、懐かしい顔が見れて嬉しいぞ。元気そうじゃないか」

「一体どういうことです……エド、どうしてあなたがここへ?」

 力強く抱擁を求めるその男にされるがままであったフーゴはそんなことを言うのがやっとだった。背の低い彼がシルクハットを取ったことで露わになった頭髪の後退の著しさに目を逸らしながら、フーゴはこの状況を理解しようと努めた。

「工房を出た後、ロンドンに渡ったと聞きましたよ」

「ああその通り、今も住んでいる。一時的に戻って来たに過ぎん。それと言うのも君に頼まれて欲しい仕事があってな。私がじきじきにオファーに出向いたという訳だ」

「手紙ではいけなかったんですか」

「手紙を送っても人を寄越しても良かったが、それで君にそっぽを向かれたら結局私が出向くことになる。手間がかかるだけ、こちらの方が早いと思った。それだけだよ」

 こともなげに言って見せるエドゥアルトをよそに、フーゴはここに来るまでの道程みちのりの長さに思いを馳せた。ブリテン島からオーストリアへ。飛行船を使えば三日とかからずに着けるだろうが、生憎あいにく彼が新天地で財を成したという話は聞いた覚えがない。ならばやはり船で大陸へ渡り、その後はひたすら陸路を進むことになるだろう。休まず馬車を走らせても二〇日はかかるし、何より各国の関所を通過しなければならない。そして帰路でも全く同じ苦労をすることになるのだ……。チェコから一歩も出たことのないフーゴではそれがどれだけ大変なことなのかを具体的に想像することは適わなかったものの、だからこそエドゥアルトが持って来たビジネスに興味が湧いた。そうまでして自分に頼みたい仕事とは一体何だろう。

「長い旅だったんですね、まあ入って。話を聞かせてください」


 フーゴ クルンプホルツとエドゥアルト ロッサム。まだ少年と言って良い年頃から、二人は同じ師のもとで人形の製作を学んでいた。主に劇を演じさせるための木彫りの傀儡(くぐつ)を造る工房で、年齢は一つしか変わらないがエドゥアルトの方が三年弟子入りが早かった。腕前を上げていく中で二人はそれぞれの才能を開花させ、それぞれが別の道を歩んできた。その長い道程みちのりの中でも決して交わることはなかった——今日までは。

 古巣の工房をほとんど破門されるようにして追い出されたエドゥアルトは、無一文にも関わらず単身ロンドンへ飛んだ。そこは今も昔も世界で最も産業の発達した目映まばゆい未来都市であり、そこでは日夜技術者たちがより高い効率性を求めて蒸気機関の改良にいそしんでいた。 日雇いの蒸気機関技師として糊口ここうしのぎながら、エドゥアルトはそうした先端技術を巧みに取り込んで全く新しい自動人形オートマタを構想し、その実現に心血を注いだ。

「試作品を公開したとき、運良く大英帝国政府の目に留まってね。会社を設立すればすぐにスポンサーになろうと申し出てくれた。それで晴れて会社を興し、資金を得られたおかげで研究も進んだ。既に実用段階に入っていて、じきに量産の目途も立つだろう」

「ちょっと待ってください…… 人形と言うより工業製品の話をしているように聞こえます。工場で大量生産するほどの需要があるとでも?」

「まあ聞きたまえ」

 ここまで喋り通したエドゥアルトは室内を見回して一息入れた。その未開人を見るような物珍しげな眼差しがフーゴは気に入らなかった。

「いいか、時代は新しいフェーズに移りつつある。機械は人の暮らしを変えた——ここじゃあまだそんなことも起きちゃいないんだろうが、とにかく変えたんだ——だがもうじき人が機械を操る時代も終わる。私が終わらせてやる」

 エドゥアルトは一層熱を込めて断言した。

「機械を動かすのは、機械の仕事になる」

 フーゴが彼の話を理解するには更に細やかな説明が必要となった。

 世界で最初の産業革命は大英帝国で起きた。それはフーゴも知っている。およそ_年前のことだ。産業を偏重する流れは近隣諸国にも広がったが、程なくして大英帝国は自国が誇る技術に関して、その一切を他国に公開しない方針に切り替えた。莫大な利益が見込める製品を発明した場合でも、技術が流出する恐れがあると帝国が判断すれば禁輸措置が講じられる。それほどまでに徹底していた。

「ここへ来るまでの間、私は政府の方針がいかに効果的であったかを実感させられたよ。いやはや、イギリスじゃ型遅れの機関車が、オーストリアでは最先端の移動手段として重宝されているとは!」

「ドイツが今総力を挙げて線路の敷設を進めていますよ。"あなたの国"に追いつくために」

 げらげらと遠慮なしに笑うエドゥアルトに、フーゴがいかにも不服そうに反論した。全く、エドゥアルトも自分と同じチェコ人であるというのに。鼻持ちならないイギリス野郎になってしまうとは残念でならない。

「あまり良い気分はしませんが、合点がてんがいきました。つまりあなたは、今工場で稼働している機械は、いずれ人形が動かすようになると?」

「人間が従事する労働行為ならどんなものでも、だ。自立して考え、最適な判断を下し、忠実に命令をこなす」

 フーゴは、糸で吊られた操り人形が自ら糸を断ち切り、傀儡くぐつ回しの手を離れ自由に踊り回る様を思い描いて不意な寒気に襲われた。

「……それは最早もはや人形とは呼べないのでは?」

「やはり話の分かる奴だよ、君は」

 エドゥアルトは笑うのをやめると、今度はひどく真面目な様子で語った。

「全くその通り。そいつを呼びならわすには全く新しい呼称を必要とした。そこで私はこう名付けた——汎用労働素体:Robotロボットと」

「ロボット」フーゴはそう口に出して呟いた。名付け親に尋ねるまでもなく、チェコ語で「労働」を意味する「robota」を元にした造語とすぐに分かった。

「俄には信じられません」

「そりゃあ、そうだ。未だ見も知らぬ者にとっては、想像すら困難だろう。写真でも見せてやりたいところだが生憎、今話した通りこのプロジェクトに関する一切は秘匿が義務づけられている」

「しかし今のお話を聞く限り私に出来ることなど何もないように思えるのですが」

「まあ聞いてくれ。ここからが本題なんだ——私は男女一対の人形を開発し、量産前の最終調整に移行しつつある。そこで君には、この二体の顔を造ってもらいたい」

「何も私でなくったって、他にもいるでしょう」

「私の審美眼を侮らないでもらいたいね」

 前置きに反して思いの外単純な依頼だったことに拍子抜けした様子のフーゴに、エドゥアルトは憤慨すら覚えているようだった。

「焼成した粘土に生命を吹き込む技術を心得る者は他にもいるだろうが、君のように生気に満ちた造作を施せる作家はそう多くない。少なくともイギリスにはおらん」

 屋敷のあちこちの壁際に置かれた椅子にもたれかかるようにして座った人形たちを、エドゥアルトはいかにも感服したように眺めて溜め息をついた。どの人形も服には皺ひとつなく、髪は整えられて埃をかぶっているようなものは少しも見当たらない。毎日欠かさず手入れをしているのだろう……この男が?しかしフーゴの他に人がいる気配はない。

「私は不思議でならんよ。なぜこれほどの技術を持ちながら片田舎に隠遁しとるのか?てっきり私は、君は大成してプラハで有名劇団や貴族を相手に仕事をしとるもんだとばかり思っていたのに。かつての工房仲間から君の所在を聞いた私の驚きが想像できるか?」

「その話はよしましょう」

 フーゴが珍しく話を遮った。

「私にとってもこの_年は長かったんです」

「詮索するつもりはない…… 話をビジネスに戻そうじゃないか」

「あなたの要求を教えて下さい」

「率直に言おう。私と共にロンドンに来てくれ。君にはそこで顔を造って欲しい。作業量はさほどでもない。何しろ男女一対を造るだけだからな」

「それだけの話であればここで作業して船便〈ふなびん〉で送っても」

「この仕事を受ける場合、君にも技術情報を秘匿する義務が発生する」

「どうにも気乗りしない話ですね……」

 フーゴは深く考え込んだ様子で、顎先の僅かな髭の剃り残しを撫でた。大方渡英を決断することで生じる様々な厄介ごとを想像しているのだろうと推測したエドゥアルトは彼が口を開くのをゆっくりと待った。

「……私の腕を見込んでくれているのは光栄に思ってますよ。ただ、私もこう見えて暇をしている訳ではなくてですね……」

「もちろんすぐにという話ではない。君には一旦今の生活を捨ててもらうことになるからな。それは分かっている。仕事やら屋敷やらを整理する時間が必要だろう。私は待つつもりだ。それでも、半年以内に来てもらえると助かるんだがね」

 フーゴは壁に掛けたカレンダーに目を遣〈や〉った。半年後は、一九一四年六月。その頃には仕事の方は片が付くだろうか。いや、だがしかし……

 仕事よりも遥かに重大な懸案事項を果たして目の前の男に打ち明けるべきか悩んでいるところへ、エドゥアルトはいよいよ痺れを切らしたと見えて苛立ちも隠さずに問いかけた。

「これでも不服なのか?他にこの地を離れられない事情があるとでも?」

「その、ロボットというものがどうにも信じがたくてね……」

 一体何なのかは分からないものの、かつての親友が何かを隠そうとしていることをエドゥアルトは敏感に察知した。なぜ今、話を濁すのか。彼にそれを吐き出させるべく、旧友は男の虚栄心を煽り立てた。

「なあ、フーゴよ。我々は出来の悪い弟子だった。

自動人形製作者として、お互い半人前のまま一人前のふりをしてきたようなものだ。だがだからこそ、二人で協力すれば世界に通用する芸術品が出来上がるとは思わないか?今こそ各々が磨いてきた技術を結実させよう。一体何をためらう必要がある」

 奥の部屋へと通じている廊下の扉が静かに開いた。そのかすかな音にエドゥアルトは心底驚かされた。この簡素な屋敷にフーゴの他に誰がいたと言うのか。注目してその人物が薄暗い廊下から姿を現すのを待った。そしてその全貌が明らかになると、彼はしばし観察して呟いた。

「なんだ、もうできてるんじゃないか」

「何を言ってるんです、この子は私の娘ですよ」

 こともなげに言うフーゴにエドゥアルトは却って耳を疑った。

 その少女は客間で話し込んでいた二人の許へしずしず歩み寄っていくと、手にしていたティーセットをテーブルに置いてポットに持ち替え、二つのカップに紅茶を注いだ。その一連の所作は子供にしては上品だったもののところどころぎこちなく、それが自動人形オートマタに特有の動きに似通ってもいた。

 だがエドゥアルトが彼女を人形と見間違えたのは動作のせいでなくその人工的と呼べるまでに美しい容貌のためだった。胸まで伸びた長い金髪は日光を明るく反射して重く穂を垂れた収穫期の小麦畑のように豊かであったし、頬は丸みを帯びていかにもやわらかく、まだ乳歯の混じった小さな歯列は奥まった顎に几帳面に納められている。どこを切り取っても端整に過ぎる顔の造作は陶製の人形のように完璧だったが、そこに浮かぶ表情は年齢相応にあどけない。それがあまりにもアンバランスで見る者に危うい魅力を感じさせずにはおかなかった。

「セラ、この方はエドゥアルト ロッサムさんだ。ご挨拶を」

 カップに紅茶を注ぎ終えるのを見計らったフーゴの言葉に軽く頷くと、セラフィアは半歩下がって伏し目がちに言った。

「セラフィア クルンプホルツです。ごきげんよう」

 ポットを右手に持ったまま、左手でスカートの裾をつまみ上げてお辞儀をした。

 濃い緑色の濡れた瞳にまじまじと見つめ返されている間、彼はその魔性にほとんど吸い込まれかけていた。

「お父さま、この人は?」

「父さんの昔からの友人だよ。遠くロンドンから訪ねて来てくれたんだ」

 目の前にいることが疑いようもない事実であるにも関わらず、エドゥアルトは未だ信じられずにいた。毛髪と言い相貌と言い小さな手足と言い、彼女が持つ身体的特徴の全てがことごとく工房での修業時代からフーゴが追い求めてきた理想の少女像であることを知っていたからだ。彼女はその幻影を存分に含んでいた。こんなことがあり得るのだろうか。

「ふ~ん、ロンドン?ロンドンって、国の名前?」

「いや、少し違う。後で地球儀で教えてあげよう——それよりセラ、父さんはこの方と仕事のお話をしなければならないんだ。ダイニングにビスケットがあるから、それを取ったらしばらく部屋にいてくれ。できるかい?」

「はい、お父様」

 軽い会釈をすると、嬉しそうに元の扉へ駆けていく。二人の会話は、エドゥアルトの耳にはほとんど夢のようにしか入らなかった。

「アムたちの分ももらっていっていい?」

 扉から顔だけ出してセラフィアが尋ねる。

「いや、駄目だ。ビスケットを食べて良いのはお客様に紅茶を淹れてくれた優しい子だけだよ」

「でも……」

 エドゥアルトには何のことかさっぱり分からなかったものの、どうやら彼女にとって重要なことだったらしい。さっきまでの笑みがたちまちしおれてしまった。

「でも、わたしだけ食べてるとみんなにずるいって言われちゃうかも……」

「セラ」

 父親が溜め息混じりに呟くと、セラフィアは咄嗟とっさに扉の向こう側へ姿を隠した。

「部屋に友人でもいるのか」

 エドゥアルトは尋ねたが、フーゴは顔をしかめて首を横に振っただけだった。なぜか小声で話していることに自分でも少しおかしくなったものの、彼に合わせて黙っていた。

 しばらくするとセラフィアは再び姿を現し、ビスケットを載せた皿を大切そうに持って二階へ上っていった。ビスケットは三枚だけ。確かに一人分だ。彼女の注意が手にした皿にだけ払われているのを見て取って、エドゥアルトはしばしその姿を熟視した。

 その少女は確かに、エドゥアルトがその手で造り上げた男女一対の人形が備えるべき特性を備えていた。

 セラフィアが自室の扉を閉めるのを合図にエドゥアルトは口を開いた。

「あの子が気がかりという訳だな」

「ええ、まあ」

 フーゴは何か言い淀んでいる様子だったが、少しして決心したように告げた。

「……いや、心配なのは彼女じゃありません。あの子には双子の妹がいるんです。あの部屋に、一緒にいるんですがね……」

 フーゴは訥々(とつとつ)と語った。エドゥアルトは知った。


「どうしたの、みんな。そんなに深刻そうな顔して」

 自室に戻ったセラフィアは目を丸くした。じっと見つめてくる人形たちの心配を振り払うように今あった出来事を話し始めた。

「いいえ、おこられてなんかいないわ。きちんとお給仕したんだもの。それどころかお父さまに褒められちゃった。見て、ご褒美のビスケット」

 後ろ手に隠していたものを戦利品のように皆に見せて回った後、それをぽんと小机にお皿を置いてアムネリスの眠るベッドに腰かけた。

「ほんとはわたしだけにってお父さまは言ってたけど、みんなにも分けてあげる——それより、あのお客さまだけどやっぱりロベルトさんじゃなかったわ。はじめましての人だった。お父さまのむかーしからのお友だちですって」

 三つのビスケットをそれぞれ半分に砕きながら、セラフィアは話して聞かせた。

「声の大きい太っちょのおじさん。でもむずかしいことばかり言っててよくわかんなかった。なんだかわたしのこと見てびっくりしてたけど、どうしてかしら……」

 砕き終えると、セラフィアはすぐさま小さくなったひとかけらをひょいっと自分の口に放り込んで味わいつつ、残りを人形たちに与えていった。

 イザベラは黒い短髪がトレードマークで少し目つきの鋭い女の子。いつも決まって半ズボン姿でスカートは絶対に履こうとしない。勝ち気な性格でよくキリアンと喧嘩している。それでも二人は仲が良い。くっつき合って話し込んでいる時は大抵いたずらの作戦会議。

 セラフィアが紙に包んだビスケットを置くと「どうも」と言った。

「あなたがいたずらすると、いっつもわたしのせいにされて困るのよね。もう少しいい子にしていられないの?今みたいに」

「あんたが間抜けなのがいけないのさ」

 けらけら笑いたてながら、イザベラはビスケットをほとんど一口で飲み込んだ。

「まあっ!」

 ブランシェットはセラフィアと同じ年頃の女の子。明るい茶髪をおさげにしていて、内気な性格を反映して長い前髪で顔を隠しているが、とても優しい目をしている。彼女にならどんな秘密を打ち明けても心配ない。

 セラフィアが紙に包んだビスケットを置くと「本当にもらっていいの?」と言った。

「当たり前じゃない、ひとりめにしておくなんてさびしいもの」

「ありがとう、セラちゃんは優しいね。ほんとだよ?」

 くりくりした大きな眼に尊敬の眼差しを一杯に湛えながら、ブランシェットはビスケットをかじった。優しい子に「優しい」と言われて、セラフィアはたまらず顔を赤くした。

 アムネリスはセラフィアと双子の女の子。髪も服も面相もお揃いの大の仲良しだが、どちらがお姉さんなのかという議論になると互いに一歩も譲らない。それでも二人は寝る前に今日の出来事を報告し合うことを日課にしていて、お互いのことなら何でも分かる。例えば今の気分は……

 セラフィアは紙に包んだビスケットを置いて「紅茶はないよ」と言った。さすがのアムネリスも先手を打たれては口をつぐむしかない

「わかってよ、そんなにたくさんは持てないもの」

 シャーリーはしっとりと艶のある長い黒髪が自慢の女の子。癖のないまっすぐな髪に、巻き毛のセラフィアは強い憧れを抱いていた。自分よりもずっと年上のいかにもお姉さんといった落ち着いた雰囲気に、ついどきどきしてしまう。

 セラフィアが紙に包んだビスケットを置くと「まあ、おいしそう」と言った。

「そう言えば」と、セラフィアが尋ねた。

「さっきのお客さま、ロンドンから来たんだって。ロンドンってどこか知ってる?」

「ええ、イギリスの首都ね」

 セラフィアがまだ理解していない様子なのを見通してシャーリーはビスケットを含んだ口を隠しながら付け加えた。

「地球儀か地図でも持ってきてくれたら、教えてあげられるけど」

 残っていたもうひとかけらのビスケットをテーブルに置くと、嬉々として隣にある父の寝室から地球儀を持ち出して戻ってきた。

「僕にもビスケットくれよぉ」

 ぶうたれた様子のキリアンが駄々を捏ねる。

「あなたもお勉強よ、おばかさん」

 そう言いながら紙に包んだビスケットを手渡してやると、キリアンはにこにこしながら素直に「ありがとう」と言った。

「いい、セラ?ここが、私たちがいるオーストリア。コリーンはこの辺りね」

 うんうんと熱心に聞くセラフィアとキリアンの様子に、シャーリーの指導にも少しだけ熱が入る。

「ここから西に行くとドイツ。ドイツを横切って更に西がフランス。この二国は昔からとっても仲が悪い——まあそれは置いといて、フランスからドーヴァー海峡を渡った先にあるのがイギリス。大英帝国よ。ロンドンはその首都」

「ふ~ん……首都って?」

「そうね……その国の政治や文化の中枢になってる街のこと、って言えば伝わる?オーストリアだとプラハ」

「アイルランドのダブリンみたいな?」

「正解。さすがね」

 アイルランド系のキリアンが透かさず知識を披露する。いつも叱られてばかりのシャーリーに珍しく褒められてすっかり得意げだ。

「フランスの……パリがそう?」

「その通りよブランシェット」

「そういうことか。じゃあスペインのバルセロナか」

「イザベラも正解」

 皆が続々と正解して何となく自分も何か言わなければいけない空気を感じ取った。黙り込むセラフィアを、調子に乗ったキリアンが肘で小突いた。

「イタリアの、ヴェネツィア……?」

「う~ん、残念」

「イタリアはローマだろ、ふつうに」

「イタリアはすてきな街が多いもんね」

 苦笑気味のシャーリーに颯爽と正解をかっさらうイザベラ。味方してくれたのはブランシェットだけだ。

「ううっ、アムも黙ってないでなんとか言ってよぉ」

 セラフィアがたまらずアムネリスに泣きついたのと同時に、突然扉が開いた。振り向いてみればそこに立っていたのはさっきの来客だった。

「やあ、君の楽しそうな笑い声が外まで聞こえてきたよ」

 ごめんなさい、とか細い声で謝るセラフィアに男は両手で皮肉のつもりで言った訳じゃないんだ、という意味合いのジェスチャーをひらひらさせた。

「それより、さっきは美味しい紅茶をありがとう。セラフィアちゃん、今少し話せるかな?」

 セラフィアは控えめにこくりと頷いた。


 エドゥアルトは何気なく部屋を見渡した。フーゴの言っていた双子の妹が確かにベッドに横たわっている。セラフィアと鏡合わせにしたようにそっくりだ。しかし、この部屋にいるのは双子だけではなかった。

 父親の手によるものだろう精巧な人形が4体、その中央にセラフィアはいた。どうやらままごとの最中だったらしい。人形たちに与えられたビスケットはいずれも皿の上で手をつけられないまま残っている。


「実は今日こうして来たのは君のお父さんを仕事に誘うためでね。私としては是非ともやってもらいたいと思ってるが、引き受けるならロンドンに来てもらわなきゃならない。もちろん君もね。それで……どうだろう、お父さんと一緒にロンドンに来てもらえるかな?」

「おしごとって、どんなですか?」

 エドゥアルトの問いかけに対して、セラフィアは腕を組みいかにもな思案顔で尋ねるという芝居がかった反応を示したので彼は思わず笑いそうになり、後ろにいるフーゴに娘を説得するよう目で促した。

「いつも通りだよ。人形にかおを与える、それだけ。そんなに長くはかからないと思う」

「そう、お父さんには我が社が打ち出す初めての製品の仕上げを担当してもらう。何てったって未来都市ロンドンだからな。人形だって特別なものであらねばならない」

「どんなふうに、とくべつなんですか?」

「独りでに動き、人間の代わりに働いてくれる。今までにないものになることは確かだ……どうだい、興味が出てきたかな?」

 まあ、そんなことが?というように少女の眉が動いたのをエドゥアルトは見逃さなかった。

「ロンドンに滞在するのはその仕事の間だけだし、終わったらこの屋敷に戻って来られる。セラも一緒に来てくれるだろう?」

「その、ロンドン、ってどんな場所ですか」

「さあもういいだろう。すみませんねこの子、一旦興味を持つと質問責めをして大人を困らせる癖があるんですーーじゃあ構わないね、セラもロンドンに渡るってことで」

「アムたちもいっしょなら」

 フーゴは部屋を見回しながら静かに頷いた。すっかり新しい街に興味津々のセラフィアは、エドゥアルトが部屋を後にして扉が閉じられたのを合図にアムネリスが眠るベッドへ飛び込んだ。

「ねえ聞いた?アムネリス。動く人形ですって。人形が動くのよ?ロンドンでならあなたも動けるようになるかしら?」


 馬車を停めている庭の縁まで歩いていく間、エドゥアルトはすっかり考え込んでしまっていた。そうして馬車の前まで着いてようやく口を開いた。

「君たち父娘はこの屋敷を出るべきだ……今すぐにでも」

 その深刻な面持おももちのまま、エドゥアルトは意見を述べた。

「……全くおぞましいことだ、想像もつかなかった。きっとイマジナリーフレンドというやつなんだろうが、彼女のは度を超している」

「僕らは三人で仲良く暮らしてきました」

 フーゴの言葉にすぐさま反論しようと後ろを振り向いたエドゥアルトの顔をまっすぐ見つめて、フーゴは更に言った。

「でもそれは私のエゴでしかなかった。父としての押しつけがましい思いやりでさえない。一人の男の醜い欲望、そう形容する以外にない」

 エドゥアルトは頷くことも口を挟むこともせずに、ただ耳を傾けていた。

「美しい世界に固執するあまり、娘を狂気に晒していることに気づきながらむしろそれを助長させようとすらしていた……父親失格です」

 エドゥアルトは再び歩き始めた。

「人形を扱う者には、時に強い自制心が求められる。君の長年の孤独をおもんぱかれば越えてはいけない一線を踏み越えてしまったことも、まあ理解できないこともない。だが、あの子らには……少なくともセラフィアには未来がある。父親の責務は、今からでも果たせる。共にその方法を考えよう」

 馬車に乗り込むと、エドゥアルトは去り際に言った。

「向こうに着いたら、医者を紹介するよ。人格の分裂も見られるようだし、一度専門家が診るべきだろう」

「全てあなたに従います」

「それから……今回の件、宜しく頼むぞ。私なりに礼節を尽くしたつもりだ。君にもそれを重んじてもらいたい」

 荒涼とした気候のもと、馬車が木陰から木陰へと渡るように進んでいく様を、フーゴは取り出したパイプに火を点けゆっくりとくゆらしながら眺めた。五分程の後、馬車が家並みに隠れて見えなくなると道端に灰を捨ててようやく屋敷に戻った。


「おじさま、もう帰られたの?」

 玄関の大扉の影に隠れて外を伺っていたセラフィアが残念がるのをフーゴが頭を撫でてなだめる。

「ああ、セラのことをとても褒めていたよ。ロッサムさんのこと、気に入ったのかい?」

 尋ねられたセラフィアは上目遣いのまま口をすぼめてはにかんだだけだった。

「そうだ、さっきロンドンがどこにあるのかって話をしてたね」

「ううん、もういいの」

「もういいって、興味がなくなった?」

「ロンドンは国じゃなくて大きな街のことで、イギリスの首都なんだって」

「その通りだ、けどどうして……」

 先程まで、彼女は確かに知らなかったはずだ。知っていたことを隠しているようにも見えなかった。訝〈いぶか〉しむ父に、セラフィアはこともなげに訳を教えた。

「シャーリーが教えてくれたの。あの子ってすごいのよ、わたしが知らないことなんでも知ってるの」

 ガラス玉のように輝く両眼にありありと浮かんでいたのは恐ろしげな狂気などでなく、寧ろこの年頃の子が当たり前に抱く年上の友人に対する純粋な尊敬の気持ちであるように、フーゴには思われた。それほどまでにセラフィアの想像の世界は完全な調和を保ちつつ現実を呑み込んでいるのだった。



一九一四年七月_日


 肺がけている。凄まじい痛み。仰向けになっているのか、息を吸い込む度に煤煙が入り込んで呼吸が苦しくなっていく。

 口を塞ごうともがく。もがく。だが両手の自由が全く利かない。顔に触れている感覚はないが、恐らく両目を塞いでいるんだろう。目の前には奥行きのない暗闇がべったりと張り付いている。瞼を開いても、閉じても、何の変化もない。

 なぜこんな状況に陥ったのか、今のフーゴにとっては考えることすら難しかった。

 立ち上がることはできなかった。緊縛された両足からは血の気が引いてしまっている。

 煤煙に塗り潰されて酸素を取り込めなくなった肺はとうとう限界を超え、呼吸困難に伴う激しい発作を引き起こした。まるで水から掬い上げられた魚のように無力。ひどく脂ぎった汗をかきながらも、なぜか彼は自分の胸に納まっている穴だらけの肺が黒ずみながら収縮していく様子をありありと想像することができた。

 発作は絶望的に長かった。それが彼に勇気を与えた。死を悟るには充分な長さがあったからだ。

 彼は決心した。フーゴは最期の力を振り絞って、もはや動かなくなった手を払いのけようと努めた。激しい抵抗を示しながらも指は少しずつ命令に従う。一〇本の内どの指を動かしているのかは分からない。ひどくねじれ折れ曲がっているためだ。指と指との隙間から、かすかに薄らいだ闇のベールに覆い隠されていたものを盗み見ようとして目を細めた。

 仄暗ほのぐらい蝋燭の灯りに照らされてほんの一部分しか見えなかったものの、フーゴには確かに見覚えがあった。そのすっかり年老いた顔に刻まれた無数の皺は、どこか夕暮れ時の急峻な岩肌に落ちた影が織りなす複雑な情景にも似ていた。自然が数百年、あるいは千年にも及ぶ年月を費やしてやっと浸蝕しおおせる面積を、都市の酸性雨は一人の人間が生きている間に、つまりはものの二〇年足らずでついばみ尽くしてしまうらしい。

 闇のベールの向こう側で無表情のままフーゴを眺めていた死に神の如き者、それは旧友・エドゥアルト ロッサムだった。


「クカカカッ! せっかく信頼できる運転手を寄越したのに、山ほどガラクタを積み込んで帰ってくるなんて!」

 フーゴが目を覚まして以降、エドゥアルトは悪態をき続けていたが、その雑言ぞうごんよりも寧ろ定期的に発せられる「クカカカッ」という奇妙な咳払いの方が耳障りだった。機械のような規則正しい動作音が人間の身体の中から漏れ出ていることに耐え難い違和感がある。しかし彼の剣幕が余りにも凄まじいので、フーゴは一向に指摘できずにいた。

「彼の思考回路に問題などなかったはずだ。一体どんな指示を出したら肝心の客人を安馬車に任せて放置するなんて結論が導出されるんだ。君はマリウスに何を言った」

「アムと、セラは……」

 咳がぶり返さないよう細心の注意を払いながら、フーゴはやっとの思いでそれだけ言った。

「ああ。車椅子の方は……確かそっちがアムネリスだったな。彼女は何ともない。君が自分を犠牲にして庇ったおかげだろう、よく眠っているよ。前と変わらず。だがもう一人の方は……」

 とっさにフーゴはぎゅっとこぶしに力を込めようとしたものの、まるで力が入らない。

「医者が診た限り君よりも重症だ。ここに人工呼吸器があったから延命できたようなものの……まだ目を覚ましていない。熱も引かないし、仮に意識が戻ったとしてもここへ来るまで二〇分近くの間、呼吸も覚束ない状態が続いていたんだ。脳にどれだけの障害が残るか、まるで分からない」

「ここはどこです……」

 消え入りそうな声は喉の中で震えただけでほとんどカサカサ、というノイズにしかならず、エドゥアルトの耳には届かなかった。

 このままアムネリスだけでなくセラフィアまでもが昏睡することになってしまったら……自分には到底耐えられないだろう、とフーゴは思った。

 彼自身の病状は、彼自身が一晩中うなされ続けていた悪夢ほどには劇的な様相を呈してはいなかった。両手はねじれているのではなく単に手錠で拘束されているだけだったし、呼吸困難を引き起こす酷い発作も今は影を潜めている。だからと言って深刻であることに変わりはない。彼が罹患りかんした通称・ロンドン肺炎は未だ決定的な治療法が確立されていない不治の病であり、かかったら最後、僅か数例のみが知られる奇跡的な寛解の症例を信じて絶対安静による自然治癒を祈るしかないなのだと聞かされて以降、彼は事実を受け容れられないまますっかり取り乱していたのだった。

「まずはこの拘束具を外してください」

「君が解放した途端暴れ出さないという保証がない」

「保証、保証ですって?ロンドンがこんな有様ありさまだと知らせなかった人がよくもそんなことを」

「一年前はこうではなかった。あの時君が私の求め通りすぐに渡英していてくれれば……」

「気が狂ったのはあなたの方なのでは?私に何の関わりがあると言うんです」

「順を追って説明するから、まずは落ち着いてくれ。君は安静にしていなければならん」

「この鬱陶しいかせを外してください。外した途端あなたに飛びかかると保証しますよ。気力が余ってさえいればね……しかし生憎あいにく今の私は自力で立ち上がることすら難しい。そんなことは自分がよく分かっていますから」

 エドゥアルトは何者かに指図すると自分は後ろに下がり、代わりにマリウスが現れた。どうやらずっと、フーゴの視点からは死角になる位置で控えていたらしい。

 フーゴの左手を拘束する錠前に鍵を差し込み、がちゃりと回した。続いて右手、左足、右足と作業は滞りなく進んだ。ロボットの振る舞いは与えられた指示に即したもので、それ故に拘束されていた人物に対する配慮が欠けていた。無言で錠前をいじくりながらも、都度エドゥアルトに対して目配せしているのがフーゴから見ても明らかだった。もしこの病人が暴れ出したら、エドゥアルトは再びロボットに指示を飛ばし、フーゴを改めて拘束し直させるだろう。

「私たちは対等だ」

 相手の表情を油断なく点検しながら、エドゥアルトは言った。

 無言で寝そべったまま、拘束されていた手首をさする。金属のかせあとがまるで歯形のようにくっきりと残っている。

「縛られていたからその程度で済んだのだと思って欲しい。鎮静剤の効果が切れたら、また君はすぐに」

「あなたの嘘にはもうりです」

「全てが変わってしまったのだよ」

 そう言いながら初めてフーゴの手が届く範囲に踏み込んで、彼が横たわるベッドの脇に腰かけた。エドゥアルトから差し出された新聞の一面は、実に驚くべき事件を伝えていた。その衝撃に思わずりきんで起き上がりかける。

「オーストリア皇太子夫妻、暗殺さる……」

「_日前のことだ。セルビアの黒手組(ブラックハンド)に属する青年が、パレード参加中の二人を銃で狙った、白昼堂々の犯行。これが何を意味するか分かるか」

 バルカン半島はこの数年戦争続きだった。ロシア帝国が不凍港の獲得を目指してパンスラブ主義を旗印にじりじりと南下を迫る一方で、ロシアの進出を阻むべく「持たざる国」ドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー二重帝国が汎ゲルマン主義を掲げて衰退したオスマン帝国を延命させるべく支援した。

 ドイツはベルリン・イスタンブール・バグダードを繋ぐ鉄道の建設を目指しており、その通り道であるバルカン半島をロシアに占拠されては、計画そのものの成立が危ぶまれる。必ず避けねばならない事態だ。しかしながらドイツの計画もまた、全世界に植民地を保有する大英帝国の権益を損ねることは必至であり……と、このように複雑に絡まり合う大国の思惑という名の導火線が、黒海に面したこの半島に集中し、もつれ合っているのだった。

 青年が放った二発の銃弾は、放置されていた導火線を残らず着火させ、やがてはヨーロッパ全土をも巻き込んでいくことになるだろうーーそのくらいのことは、世相に疎いフーゴにも理解できた。

「オーストリアはーー我らの祖国は、激しい非難の声を上げてはいるが、まだ目立った動きを見せてはおらん。皇位継承者を潰されたにしては理性的な態度だ。だが既に、次なるバルカン戦争への根回しは始まっている。現に今日、セルビアはロシアに支援を要求して承諾されたという」

 そう言って新たな新聞を投げて寄越す。

「確認したがどうやら事実らしい」

「既にオーストリアとセルビアだけで済む話ではないという訳ですね。セルビアがロシアを味方に付け、これに応じてドイツがオーストリアと共闘するとなれば……」

「大英帝国も黙ってはいられん」

 全く自分のの悪さには言葉もない。重大事件の数日前に敵国に踏み込んでしまうとは!

「ヨーロッパは長い間、ドイツの分裂を前提とした危うい均衡を保ってきた。ところがビスマルク体制のもとで国内の統一に成功、一大軍事国家に転身を遂げて全てが変わった。今では若き皇帝のもと拡張路線をひた走る、どの国にとっても最大の仮想敵になってしまった」

 実に残念そうに頭をもたげる旧友の姿を見て、フーゴは喉元にナイフを突きつけられているような鋭い冷たさが走ったのを感じた。

 実に鈍いことにーー重病の身では当然とも言えるがーー彼はその時になって初めて見抜くことができた。エドゥアルト ロッサムは大英帝国側の人間なのだ。おかげで、彼は今すぐ祖国へ戻ろうなどという愚かな提案をすんでの所で引っ込めることができた。

「街中のあの騒ぎには、そういう事情があった訳ですか。あの様子だと、市民は戦争には反対のようですけど」

「戦争に反対している訳ではない。あの騒ぎは元はと言えば市民が戦地へ派兵されることに対する抗議運動だよ」

「……同じことでは?」

「人間でなく人形を戦地へ。彼らはそう言っている」

莫迦ばかげている……人形に、人殺しをさせろと……?」

 心臓が凍りついて全身の血の気が引いていくのが感じられた。

 市井しせいの人々にとって人形は単なる道具でしかない。それはフーゴとて理解していたつもりだ。だが、だとしてもどうしてそんなことができるだろう。

「デモ参加者の多くは我が社の自動人形が出回ったことで職を失った連中だ。戦争が始まれば、働き口のない男は好むと好まざるとに関わらず戦地へ行くしかなくなるだろう。自分から仕事を奪った機械を守るために戦うことなんてできない、彼らはそう主張している」

「なるほど……そうだとしたら、至極最もですね」

「ロンドンはじきに人間よりも人形の方が多くなるーー都市部の人口が地方に流出しているせいもあるが、これについては私たちとて憂慮しているところだ」

「私たち?」

ねんごろにしている政府の高官だよ。そう時を置かずに、行動を起こした市民の要求を叶えてやることになるだろう」

 寝たきりの状態でほとんど身体を動かせずにいたが、それでもフーゴは動揺を隠しきれている自信がなかった。自分は一体何を聞かされている?敵国の機密情報だ。この場から逃げ出すことができない以上、自分の置かれた立場を理解するのは必要なことだ。だが、エドゥアルトを頼れば頼るほど、ぬかるみにはまっていく気がする。

「サラエヴォでの事件があってすぐに、海軍からの密書が届いた。我が社のロボットを兵士に改造し、速やかに量産せよとのお達しだ。只事ではないと思った。何しろそれは、皇帝からの勅令だったのだから」

「人形が人間を殺すことは、可能なんですか」

「愚問だね。私との会話を録音しているのかと疑いたくなるほどに」

 エドゥアルトの声色に冷たく鋭いニュアンスが混じり込んで、フーゴは思わず生唾を呑み込んだ。煤煙でひりついた喉に生じた痛みを表情に出さないために並々ならぬ努力を必要とした。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、彼の顔をまじまじ覗き込んだエドゥアルトは突然破顔して声を上げて笑った。

「冗談だよ!ただ言いたかったのは、人形が人間を殺せるか。その答えは君とてよく知っているはずだ、ということだ。人形にとってそれは、ありふれたタスクのひとつに過ぎない。銃を構える。相手を認識する。頭を狙って引き金を引く。それが全てだ。その結果人間が死んだとしても、それは飽くまで結果に過ぎない。人形にとっては手順に則ってタスクをこなす、ただそれだけのことなのだ」

「人形たちが罪の意識を覚えることもない、と。でもあなたはどうなんですか。それを許した市民たちは」

 エドゥアルトは質問の意図を取り違えまいとしてフーゴを見つめたが、その必要はほとんどなかった。彼の怒りが見せかけのものではないことは明らかだった。

「帝国の援助なしに私の悲願を成就することはできなかった。その点においてこの国の技術者は政府にすっかり飼い馴らされている。私とてその例外ではないのだよ」

「人形は常に人間の理想形をかたどらねばならないーーそうは思わないのですか」

「我らが師の口癖だったな」

「あなたは恥じるべきだ。理想に目を背け、人間が持つ最も醜悪な側面を模倣させようとしている」

「子は親に似るものだ。神が我々をお創りになった時にも同じ過ちがあったのかも知れん」

 クカカカッという奇妙な咳払いが再び響いた。その異様な音程にフーゴは言いかけていた言葉を呑み込んでしまった。

「君に納得してもらおうなどとはつゆほども思っておらん。歴史の流れには逆らえない。次なる戦争で、この国は人類史上初めて人型の機械兵士を戦場に送り出す。私は損な役回りを押しつけられてしまった。だがやり遂げるつもりだ。私が望むと望まざるとに関わらず、放棄したところで別の誰かが代わりを務めると知っているからな」

 フーゴは何も言い返せなかった。旧友の決意は頑なで、どれだけ言葉を費やしても耳を貸してくれそうにないと分かったからだったが、しかし彼はせめてもの反抗として話せないのは喉の腫れのせいであるかのようにひどく咳込んで見せた。だがこれは失策だった。一度咳を許すと、ほとんど発作のように連続してすぐさま呼吸困難に陥った。

 部屋へ飛び込んだ看護婦に対処を任せて、エドゥアルトはその場を立ち去った。

 朦朧とする意識の中でエドゥアルトが立ち去り際に発した言葉だけがフーゴの頭に響いており、看護婦の呼びかけはほとんど耳に入らなかった。

「明日、全てを君に見せる。君にも片棒を担いでもらうからな」


 使用人たちが何やら騒がしくしている。屋敷に控えていた数人の看護婦が総動員され、そうでない者は電話で医師を呼んだり、もしくは心配そうな様子でただ右往左往していた。ただ一人彼女だけは、淡々と自分の職務を遂行すべく廊下を進んだ。

 ある部屋の前で立ち止まり、扉をふさぐように待機している警備ロボットの視界に入るように顔を上げた。

 存在を感知したロボットがレンズの焦点を合わせる動作音が静かに響く。

「エメリル様」

 数秒あって、ロボットが言った。

「様は要らない。立場はあんたと変わらないんだからーー定期巡回よ。通してくれる」

「お二人のお加減はいかがですか」

「悪いんじゃないの。そういうのは医者に聞きなさい」

 そっけないメイドの態度に、男性型のロボットは身じろぎもせずにただ会釈をして扉の前からけた。の態度をエメリルは大層気に入っていた。大抵の男は女性からつっけんどんな物言いをされると怒り出すかそうでなくても顔をしかめるものだが、彼は違う。彼らロボットはあらゆる人間全てにかしづく奴隷なのだ。自分と彼らとを分け隔てる差を確かめる度に胸のすく思いがする。なぜ人々がロボットを嫌悪するのか、エメリルには分からなかった。

 扉をくぐると、見張りとして部屋に常駐していたメイドがエメリルの方を振り向いた。彼女は部屋の中央に座っていて、その両脇には二台のベッドがあり、そこには二人の少女が寝かされていた。顔も背格好もよく似ているが容態は極めて対照的。

「ああ、エメリル」

 看病役のメイジーがエメリルを見てなぜかほっとした表情を浮かべているのを無視して、エメリルは事務的に尋ねた。

「どう、二人の容態は」

「特に変化はないわ。こっちの子、アムネリスには異常な兆候は出てない。よく眠ってる。……ねえ、知ってた?病気でもないのにあんまりにも目を覚まさないからあたし、心配してお医者様に聞いたのよ。そしたらこの子、生まれつきの植物状態で一度も目を覚ましたことがないんですって。信じられる?」

「ああ、道理で。それは何というか、気の毒ね」

 残り僅かとなっていた点滴の袋を新しいものに付け替えてやりながら、エメリルは適当な返事をした。

 作業を終えてもう片方のベッドに向き直る。

 セラフィア。この子の容態は極めて重篤だ。典型的なロンドン肺炎で最早もはや人工呼吸器なしではまともに酸素が取り込めないほど肺がぼろぼろで、その上医者の見立てでは猩紅熱しょうこうねつを併発していると云う。

「処方された解熱剤も全然利かなくて。お医者様は、体力が尽きればこの苦しみから解放されるでしょうって。どういう意味か分かる?それが医者の言うことなのかしら?」

 肌着姿のセラフィアの汗を拭いながら、メイジーは悪態をいた。

双子の片割れと同様に美しかったであろう白い肌には至る所に赤い発疹があり、自らが発する高熱でぬぐってもきりがないほどの汗が噴き出ている。

「今夜が山なのかもね。かわいそうだけど、医者が匙を投げてるんじゃどうにもならない」

 ひたいに載せていてすっかりぬるくなったタオルを冷たく絞った新しいものに替えた時、エメリルはセラフィアの瞼がしきりにぴくぴくと動いていることに気づいた。後で報告書にメモしておこう、と思いながらそそくさとその場を立ち去ろうと身支度を始めた。

「待ってよ、夜にこの部屋に一人じゃ心細くって。もうしばらくここにいてもらえない?」

「あたしがいたって何かが変わる訳でも」

「あなたはまだ独身だから無関心でいられるんでしょうけどね、あたしの子供も丁度このくらいの年頃なのよ。だからどうにもいたたまれなくって。あなたが話し相手になってくれたら気も紛れる。もちろん、あなたが迷惑でなければね」

 エメリルはメイジーの要望通り空いていたスツールに腰掛けたが、意識はセラフィアに向いていた。

「ねえ、メイジー。この子いつから夢を見てたと思う?」

「夢?夢を見てるかどうかなんてどうして分かるのよ」

「瞼の動きを見て。ぴくぴく動いてるのは瞼の裏で眼球がひっきりなしに動いてるからよ。あんまり良い夢ではなさそうだけど。きっと何かを追いかけているのね。もしくは追われる側で、必死になって出口を探しているかのどちらか」

「全然気づかなかった。でも私が看病に就いてすぐの時にはこんなふうにはしてなかった気がする……何となくだけど」

 その瞼の動きから何かを読み取れるかのように、エメリルは注意深く観察を続けた。話し相手を求めていたメイジーは不満げではあったものの、頭脳明晰な彼女なら何らかの答えが導き出せるのではないかと期待してその様子を眺めていた。


 翌朝。夜明けと共にセラフィアは目を覚ました。夜通し付きっきりで看病に当たったエメリルとメイジーはすっかり眠り込んでいる。

 がばっと跳ね起きたセラフィアは二人を揺すったが、起きる気配はない。それでも彼女は興奮を抑えられず、誰に言うでもなく叫んだ。

妖精(ピクシー)を見ちゃった!わたし、あんなふしぎな生きものを見たの初めて!」

 先程までの容態が嘘のように汗は引いていて、熱は消え顔色も回復している。窓から差し込む早朝の日の光が甦った生命力をまばゆく賞賛する。それは確かに、妖精(ピクシー)がもたらした幸運に相違なかった。



一九一四年七月七日


 早朝。ロッサム邸に訪れた医師が患者の待つ部屋へ通されていく後ろを、屋敷の者たちが遠巻きについて行った。さながら伝道師に従う信徒のようであったものの、しかしこの場合奇跡を起こしたのは医者ではなく患者本人だった。

 部屋に入った途端、手にしていたトランクケースが指を滑り落ちて大きな衝撃音を発した。医師は我が目を疑っている様子だった。それはロンドンの、否、大英帝国中の医療関係者が誰一人目にしたことのない世にも稀なる症例であるに違いなかったので、驚くのも無理なかった。

「こんな……こんなことが……」

 ベッドに佇んでいたセラフィアは慌てる大人を前にしておかしそうにはにかんだ。

「彼女の父親も肺炎で寝込んで動けずにいる。父親の代わりに私に話してくれ」エドゥアルトが医師に言った。

 問診にはさほどの時間を必要としなかった。昨日までは文字通り手の施しようもなく死の淵に瀕していた少女は何らかの要因によって奇跡的な回復を示し、大きくダメージを負っていたはずの肺も喉もすっかり治って今では寧ろ重病を患った痕跡を見つけ出すことの方が困難な程である、それ以上は何も分からないとありのままの見解を述べた。

「今現在彼女が健康であることは疑いようもない事実です。しかし回復に向かう過程で何が起きていたのかという話になると、皆目見当もつきません」

「神のお慈悲はかくここに在り、という訳か」

妖精(ピクシー)よ!神様じゃなくって」

 部屋の外での立ち話をセラフィアが訂正した。その声にぎくりとして、二人の男は怖々《こわごわ》室内を覗いた。超自然的な奇蹟を顕した当人にそのように指摘されると、確かにそれが重大な間違いであるように感じられた。

妖精ピクシーがわたしの熱と痛みを取りのぞいてくれたの。すうっと楽になって、目を覚ましたらほんとに治ってたの」

「……今回の一連の現象をどう解釈するかについては追い追い考えるとして、ともかく彼女は至って健康。何の心配も要りませんが、大事を取って数日間は安静にしているのが良いでしょう」

 屋敷の主人が医師を見送りに階段を下りていくと、控えていた女中や下人たち十数人がどっと部屋に詰めかけた。

「お嬢様、お(ゆる)しください。正直なところあたしらは、きっとこの子は助からないとばかり思い込んでおりました。それでもあなた様は奇蹟をお示しになった。あたしらのようなロンドンを離れることの(かな)わない人間にとって、肺炎は最も身近で最も強大な脅威です」

「肺炎で大切な人を亡くした者も、この中には大勢おります。そういう者たちにとって、あなた様はこの上なく勇気を与えてくださったのです」

 今度はセラフィアが目を丸くする番だった。煤煙でくぐもった空から注がれるガラス越しの光に照らされた人々は、街にいた人間たちより栄養状態はいくらかマシなようだが、それでも皆一様に疲れた顔をしている。しかし今やその目には明々《あかあか》と希望がともっていた。まるで長らく使われず放置されていた燭台がほこりを取り払われて息を吹き返したかのように。くすんではいても炎は新鮮。それこそが重要だ。

「お父さまはどこ?」

生憎あいにく、今朝早くにお出かけになってらっしゃいます。旦那様とのどうしても外せないご用事があるとかで」

 大人たちから崇敬の眼差しを受けたことにはすっかり気を良くしたが、父親の容態が気がかりだった。さっき聞いた話では今も悪化の一途を辿っていると云う。

「わたしの病気は妖精ピクシーが治してくれたの。きっとこのお屋敷に住みついてるんだわ。妖精ピクシーに頼めば、もしかしたらお父さまの病気も治してくれるかもしれない。」

「"親愛なる隣人"ならわしも見たことがある。だがあいつらはいたずらをして人を困らせるばかりで、役に立ってくれるとは到底思えん」

「けど、この子が言うんだからきっと正しいのよ……」

「でも"お隣さん"は気まぐれでしょう。この子を治したのもただの気まぐれでやったことかも知れないじゃない」

 妖精はイギリスに生まれついた者なら誰にとっても馴染み深い存在のようではあったが、人間の要求を聞き容れてもらえるかどうかというところになると懐疑派が多数を占めた。いずれにせよまずは妖精に一言お礼を言うべきであるとの意見が年老いた下人から提出され、これは満場一致で賛成を得た。

「それから、あの方々を呼ぶ時は"良き隣人"とか"お隣さん"とか、そういう言葉を使うようになさい。彼ら独特の礼儀作法を守ってやることが肝心です。そうでないと協力を得るどころかしっぺ返しを食う結果になりますぞ」

「うん、わかった……。"おとなりさん"にお礼をするには、どうしたらいいと思う?」

「メイドに一人、コーンウォール出身の子がいなかったかね。その子ならよく知っているやも知れん」

「それはだれ?ここにいる?」

「エメリルね。あなたが奇蹟を起こす瞬間、唯一すぐそばで目撃してた人。でもきっと普通に仕事してると思う。あの子冷めてるから」


 セラフィアを診た医師が屋敷を離れるのを見届けたエドゥアルトは、マリウスを始めとする警備ロボット数台を引き連れ蒸気自動車に乗り込んだ。向かった先はウェストミンスター寺院。王室とのゆかりの深いその場所は、壮麗な聖堂建築でありながら今やR.U.R社の開発設備の大半が集約された最先端の研究機関と化している。先日のデモ騒ぎでは、暴徒化したデモ隊はここにも押し寄せていたと云う。

 彼がここへ来るにあたって最高度の警護を伴ったのは、既に鎮圧されて鳴りを潜めた民間人ごときを警戒してのことではない。サラエヴォでの一件で開戦が秒読みとなった今、その寺院が図らずも戦略上の要衝(ようしょう)となってしまったからである。

 一足早く屋敷を出立しゅったつしていたフーゴは既に到着していた。エドゥアルトの到着に気づいて礼拝堂の長椅子から立ち上がろうとする仕草を見せるフーゴをエドゥアルトがなだめた。

「ここは全く、病人向きではないですよ。それとも死に際にせめて神頼みくらいはさせてやろうというあなたの粋な心遣いの表れですか?」

「まあ聞け。君の娘だが、セラフィアは助かったよ」

 僅か数日の闘病生活ですっかり頬のけたフーゴの両目に光るものがあった。しわがれた声すら発することもできないほど、呆気に取られている彼にエドゥアルトは医者から聞いた言葉を委細漏らさず伝えると、彼は涙を隠すように俯いてただただ頷いた。

「私の用事に付き合わせてしまって悪いな。屋敷に戻ったら本人から話を聞くと良い。手早く済ませよう」

「でも、ここは……」

 フーゴは周りを見渡した。贅を凝らした聖堂の内部に、その精緻さでは引けを取らない大型の機械群が設置されていてその細い隙間を研究員と思しき男女十数人が忙しそうに立ち働いている。時折こちらを見る彼らの眼差しが、不審者でも見るような邪険なものに感じられてどことなく居心地が悪いのだった。

「ここは、私のような部外者がいて良い場所ではないんじゃないですか」

「君が部外者だって?ハッ!誰がそんなことを。むしろ君こそ、我が社にとって最も重要な人材だよ!R.U.R社は末端まで含めれば数千人の社員を抱えているが、私自らがオファーに出向いたのは君だけなのだから」

 エドゥアルトがこれでもかというほど聞こえよがしにのたまって見せると、研究員たちはどことなく落ち着きを失ったようだった。かつて同じ工房で寝食を共にした兄弟子あにでしが英国内有数の企業の取締役と聞いても実感がなかったが、今の彼には確かに人を支配する力があるらしい。

 すたすたと礼拝堂を進んでいくエドゥアルトの後ろをフーゴは杖を頼りに必死について行った。

「とは言え、君の力が必要になるのは戦争が終わってからの話だ。我が社の製品は本来、平和な家庭にあってこそ真価を発揮するのだから」

 追いついた彼にエドゥアルトは小声でそう囁いた。

「つまりあなたは、戦争犯罪の片棒を担ぐ用意ができたと?」

「用意なら出来ていたさ、ずっと前からな。私に足りないのは覚悟だよ。始めたことの落とし前をつける勇気。断じて、私が自ら進んで人の道を踏み外そうと早まっている訳ではないことを君には理解していてもらいたい。何としても君には立ち会ってもらいたいのだ、証人として」

 礼拝堂の最奥部の壁は、天井を目指して天高く這い上る無数のパイプで埋め尽くされている。フーゴは当然、ゆったりとした階段を上った先にあるのは、パイプオルガンだとばかり思い込んでいた。だがそこにあったのは、オルガンよりも遙かに複雑な、名状しがたい程に複雑な機構を備えた機械だった。

BABBAGE(バベッジ)機関。完成した時、開発者の名前を取ってそう名付けられた」

「これは……一体何です?何に使うものなのですか」

「何にでも。物理の超難問から天文の気の遠くなるようなシミュレーションに至るまであらゆる種類の計算を難なくこなす、地上で唯一の完璧な計算機だよ。開発者のチャールズ バベッジ本人は解析機関アナリティクス エンジンと呼んでいたそうだ」

 機関を覆う艶めかしいブロンズの外装は、その全体に排熱のための透かし彫刻が施されており、近寄れば内部の働きを観察することができた。無数の歯車やシリンダーが一定の法則に従って絶え間なく時を刻み続ける。

「イギリス人にとってこの寺院は単なる宗教施設ではない。ロンドンで最も高い格式を誇る、言わば信仰の象徴なのだ」

「その場所に置かれているのが機械ということは……」

「礼拝堂に安置された枢要すうようなる聖遺物。旧来の神は、|機械仕掛けの神《デウス エクス マキナ》にその座を譲ったということさ」

 フーゴは改めて機関全体を見渡した。十一世紀に建設された当時の面影を今でも留めるゴシック建築の中に置かれながら、優美さでは一切遜色がない。原始的な——イギリス国外で盛んに生産されている蒸気機関については、もはやそう形容するより外ない——蒸気機関にありがちな不格好さはどこにもなく、これが国家の威信を賭けて建設されたことは疑うべくもなかった。

「だが私がイギリスにやって来た当時、BABBAGE機関は長らく停止してしまっていてな。チャールズ バベッジが亡くなるのとほぼ時を同じくして突如稼働が止まったらしい。_年余りの間のことだが、それによって帝国の技術進歩が_年遅れたとも試算されている。だが勿論、君も今日の今までその存在を全く知らなかったのと同様、ただ単に優れた自動人形オートマタを製作するため蒸気機関を学びに来たに過ぎない一青年がBABBAGE機関に辿り着くのは容易ではなかった」

 話しながら、エドゥアルトは階段を下りてフーゴに長椅子に座るよう進めた。フーゴは彼の話を興味深く聞いた。フーゴにとってエドゥアルトとの思い出は、工房の師匠や先輩たち全員の反対を押し切って単身英国に渡った日、ただ一人見送りに来ていた自分と二言三言言葉を交わしたのが最後であったのだ。何を話したのかは覚えていない。その後は特に手紙のやり取りもなく、この_年という歳月彼が何を感じ何をして過ごしていたのかについては全く謎に包まれていた。

「イギリスは産業革命発祥の地だ。工業生産力は常に世界一、技術力は最先端。それは人々の豊かさを示すと同義だと思っていた。大英帝国は世界で最も豊かな国であると、私は疑いもしなかった。だがこの国に来て私が最初に見たものは……ああ、それは過酷な労働を強要する工場以外に居場所のない哀れな子供たちだったのだ。この街ではどこでも、人間は機械よりも手酷くこき使われていた。タダ同然の駄賃を得るために僅かな睡眠時間以外一日中、働き続ける。運悪く指を落としたらその場でクビ、それから先は一生乞食をするより他に生きる道がないのだ。実際、英語も満足に話せなかった私が今、物乞いをせずに済んでいるのは全く偶然に過ぎない。

「蒸気機関技師の見習いとして働く間、私は考えた。ロンドンへ来たのは最新鋭の蒸気機関を学ぶためだ。動力源を自給する機構を組み込めれば自動人形オートマタをより完璧なものにできる。だが、人形など作って一体何になるだろう。人々には娯楽を楽しむ余裕などないのに。大英帝国の現在は他国の未来の姿でもある。このまま全世界的に工業の進歩が進めば、いずれ世界中がこの国と同じ苦しみを味わうことになる。だから、私は決めたのだ。持てる技術の限りを投入して、人々を過酷な労働から解放することを我が使命とした」

 エドゥアルトの懺悔はその後も続いた。人の代わりに労働に従事する人形という着想を得て、それを実現するために奔走した日々のこと。帝国が工業の進歩に寄与する若き才能を見出みいだすことを目的としたコンペで入選し、多額の出資金を得たこと、その金で会社を設立し、有力者と面会する中でBABBAGE機関に接触する機会を得たこと……。

「この地獄を造り出したのがあなた一人の功績でなかったことは、よく分かりました」

「この国は私が来るより遥か前から地獄だったさ。そう言えばなぜこの機関がこの場所に据えられたのか、まだ話していなかったな」

 フーゴの皮肉に気を悪くする様子も見せずに、エドゥアルトは新たな話題を振り向けた。

「それならさっきご自分で言っていたじゃないですか。この国は信仰する神をすげ替えたのだと」

「なぜこの場所に、つまりなぜパイプオルガンの代わりに据えられたのかという話だよ。機関を設計したチャールズ バベッジの考えを理解する者は少なかった。帝国政府も、資金は潤沢に提供していたがその実、彼の研究が何を可能にするのか当時はよく分かっていなかったという程だ。彼の考えを正しく理解したのは唯一人(ただひとり)エイダ ラヴレスだけだった。この機関の前身となる階差機関ディファレンス エンジンの開発を終えて、より汎用性に富んだ機関の設計に着手していたチャールズに、ラヴレス夫人はこう言ったのだそうだ。音楽を奏でる計算機を造るべきです、と。

「ラヴレス夫人は高度な数学を理解する聡明な女性ではあったが、チャールズに比べれば凡人のレベルに留まっていた。だが彼女の構想はチャールズのそれを遙かに凌駕していた訳だ。つまり、技術を可能にすること、ただそれだけのために邁進していた彼と違って、エイダ ラヴレスはまだ現実にはありもしないその技術を使って何を為すべきかを考え始めていたのだよ。チャールズはその進言を聞き容れて、新たに開発を進めていた機関の用途に音楽を追加した」

「どうやらそのご夫人はあなたにこそ必要な人物のようだ」

 クカカカッ!笑い声と共にエドゥアルトは再びあのぞっとする咳払いをした。

「皮肉も結構だが、君には私が平和を愛する男であることを理解していてもらいたいものだね。今日はそのために呼んだのだから……ARCUS(アーカス)!客人に音楽を」

 その場の空気が一瞬で塗り替えられた。パイプから響き渡る重厚な低音によって、荘厳な聖堂に相応ふさわしいものに変わった。続くメロディは軽やかで、且つ祝福に満ちていた。

 リヒャルト ワーグナー、オペラ『ニーベルングの指輪』より「ラインの黄金」〈ヴァルハラ城への神々の入城〉。オーストリア出身の二人にとっては馴染み深い選曲だった。

「一体どういう仕組みなんだ、この機械には耳があるのか?人の言葉を理解するのか?

「そこまで驚くことかね、君は既にロボットと会話することに慣れつつあるというのに。BABBAGE機関はあらゆる機械の神であり、私が命運を賭して造り上げたロボットでさえ、彼の子供に過ぎない。きっと君の言葉の訛りから、君がオーストリアから来たと推測しての選曲なんだろう。尤も、敵国であるドイツの音楽をこの場所で奏することは好ましくないがね。しかし同じ人間同士がなぜ争うのかを機械に理解させるのはことほか難しいのだよ……さあ、次へ進もう。ここからが本題なのだ」

 エドゥアルトは立ち上がり、壮麗な音楽を背に受けてBABBAGE機関へ続く階段の脇にある通路を進んだ。そこは、どうやら本来なら広大な空間であったようだが機関による侵食著しく、人がようやく通れる程度のメンテナンス用の通路だけを残して他は全て蒸気を吐く機械に埋め尽くされていた。

「あなたがさっき機械に呼びかけた、ARCUS(アーカス)、というのは?」

「BABBAGE機関を扱いやすくするためのインターフェイスだよ。本格的にロボットの設計を始めるための試みとして、人格を持たせてやろうともしたがそれはうまくいかなかった。何かと便利なのでそのまま残してある」

 エドゥアルトは鉄扉てっぴを開けて立ち止まった。その面持ちは沈痛で、そこで待ち受けているものが決して快いものでないことをありありと示していた。

「見せたいものはこの奥だ。まずは見てくれ」

 エドゥアルトに促されるまま、フーゴは進んだ。部屋に入ると両脇に身長七フィートはありそうな鋼鉄製の男性像が二体、うずくまるような姿勢で立ち入る者を監視している——そのようにフーゴは感じた——更に進むと、部屋の中央の手術台の上に横たわる女性を認めた。一歩近づくごとにその詳細が明らかになり、フーゴはその心中に渦巻く恋心に似た情熱の炎にまきがくべられていくのを感じた。

「BABBAGE機関の再稼働が成功したことで、今までにない高度な人形を開発する目途がついた。それが_年前のことだ。完全自律型の自動人形を造るにあたって、まずARCUS(アーカス)を、その次にもう一台の試作品を造った。それが、手前にあった二台のロボットだ。BABBAGE機関との接続を必要とするが、それによって理想的な振る舞いを実現させられる。その後、男女一対のプロトタイプ製作のを開始した。昨年の_月、君に話したのはこのことだ」

「この型のロボットを他で見かけない理由は?」

「君をオファーした後もここで調整を続けたが、なぜか正常に起動できたのは男性型の方だけだった。私としては女性型が完成するまで製造ラインに載せたくはなかったのだが……帝国がさすがに痺れを切らして男性型の方だけで構わんから量産しろとのお達しが来てな。もう開発を始めて_年が経っていたし、いい加減結果を出す必要があったのだ」

 今フーゴの目の前にあるのが、エドゥアルトが造ったという男女一対のロボットの内起動できずに置かれているという女性型ロボットであったのだ。

 "彼女"の前に立った瞬間フーゴの脳裏に、師匠に連れられて初めて人体解剖の現場に立ち会った時の記憶が甦った。

 窓のない部屋で燭台に灯ったかすかな光だけを頼りに大勢の医師や芸術家たちがひしめき合って、つんと漂う腐臭と生きている者たちが発散する脂汗の臭いでフーゴは始まる前から卒倒しそうになっていた。

 フーゴはスケッチに夢中になる職人たちを見た。彼らの視線の先にあるものも見た。皮を削がれ真っ赤な肉が露出した女性の死体。熟練の解剖医が慣れた手つきで作業(・・)を進めていく。まるで肉屋だ、と不謹慎な考えが頭をよぎった瞬間、口の中で唾液が分泌されたことに気づいて一気に気分が悪くなり、一目散に部屋を出た。彼が解剖を見学したのはその時が最初で最後だった。

 死人の肌は青白く美しかった。崩壊の間際にほんの一時いっとき垣間見ることのできる永遠の静寂が硬直した皮膚全体に湛えられていた。だが、その皮を剥いだ下にあるのは……

 彼は夢に思い描いた理想の世界が壊されるように感じて激しく拒絶した。そうして彼が外の風に当たって涼んでいる間にすっかり暗くなり、師匠と共にエドゥアルトが解剖見学から戻った。エドゥアルトはしたためたスケッチをどっさり抱えて、今まで見たこともないほど興奮していた。フーゴには兄弟子の気持ちは少しも理解できなかった。更に奇妙だったのは、彼が誇らしげに見せてくれたスケッチには筋肉や骨の素描のたぐいは一切なく、そこに描かれていたのは人体の機構をいかにして機械部品の組み合わせに置き換えるかについて思索したと思われる、スケッチとも呼べない殴り描きの数々だった。

 フーゴは今、あの時のエドゥアルトが何を考えていたのかを_年越しに理解した。解剖見学の帰りの馬車で弟子二人の散々な態度に憤慨した師匠は工房に着くまでの間ずっと小言こごとを口にしていたが、もし師匠がこれを見たならエドゥアルトの大成ぶりを予見できなかった事実を認め、恥じ入るに違いない。

 痩身そうしんの少女の形を模して造られたブロンズ製のボディは細部に至るまで透かし彫りの細工が施され、その内側には更に精密な機械の数々が納められている。それら全てが無数のパイプで接続された様は生々しいほど有機的で、工学よりも解剖学によって理解されるようにさえ思われた。にも関わらず、フーゴの心には少しも拒絶する気持ちが生じなかった。すっかり魅入られていた。むしろこの第一級の芸術品を通してならば、皮を剥いだ下にある人体の美しさを発見することもできるのではないか……そんなことさえも確信した。

「…………それは証明できたが、課題は一にも二にも小型化だった。BABBAGE機関に相当する性能の計算機をいかにして人体と同等の大きさのフレームに納めるか。これはほぼ解決不能に思えた。だが頭打ちになっていたところで、昔ある書物を手に入れていたことを思い出してな……と、つまらん製作秘話を明かすのはやめておこう。君にとってはそれどころではないのだろうな?」

 エドゥアルトは目の前の中年男性が初めて恋を知った少年のように見惚みとれて立ち尽くす様子を大層微笑(ほほえ)ましく眺めた。

「私は愚かでした。依頼されたその日の内に荷物をまとめて、あなたと同じ便でロンドンへ渡るべきだった」

 彼の目には涙すら浮かんでいた。昨年、コリーンの屋敷で聞いた話を胡散臭(うさんくさ)いでっち上げだとすら思い込んで一時はロンドンへ来ること自体を取りやめにしようとした自分を恥じた。実際、ここへ来たのは仕事のためと言うよりセラフィアの治療のためであった。

「君に頼む予定だった仕事に、今取りかかってもらう訳にはいかない」

 話しながら、エドゥアルトは小型だが頑丈そうな金庫のダイヤルを回し始めた。

「情勢がそれを許さない。大英帝国の意向は絶対なのだ。だが開戦が必定(ひつじょう)であるのと同様、いずれは戦争が終わることもまた必然だ。第三次バルカン戦争は必ず起きる。だがいずれ終わる。私は大英帝国に従う。それは戦争に加担するためではない。いち早く終結させるためであることを、君には理解していてもらいたいのだ。だから……」

 バチッという短い金属音と共に、金庫の錠前が開いた。

「帝国の要求は、あなたの人形を兵士にすることでしたね」

「そう。これさえあれば、我々の忠実な下僕を文字通り血も涙も通わない殺戮の道具に仕立て上げることができる」

 金庫から取り出されたのは、この国の高度な技術を知らないフーゴにとっては何の変哲もない厚紙に見えた。八インチ×十二インチの紙には直径四㎜程度の穴が無数に開けられている。その穴の配置に規則性は感じられない。

「ロボットは人間で言う目や耳に相当するセンサーを通して外界の状況を知り、それに応じてマウントされたパンチカードの中から適切な命令を選び出し行動する。会話のできない最も単純なロボットの場合でも必要なパンチカードの枚数は四〇〇枚程度。その中に、これを1枚交ぜる。必要な操作はそれだけだ」

 フーゴは改めて虐殺のプログラムが記されたパンチカードに目を移した。機械にしか意味を為さない穴の配置。だが、もしかすると空にはこれと一致する血塗られた星の配列があるかも知れない、とふと思った。

「実を言えば、帝国は研究の当初からロボットを兵器にするつもりでいたらしい。そのことに気づいた時には帝国と手を切るなんてことはできようはずもなくなっていた。だからせめてもの抵抗として、ロボットに兵士の代わりを務めることは不可能だと連中を説得してきた。だがそれも今日で終わる。

「このパンチカードは決して間に合わせの代物しろものではない。失敗は許されんからな。帝国の目論みに気づいてすぐにこの部屋で作成し、誰にも存在を明かさずに保管し続けてきたのだ——これをBABBAGE機関にアップロードする。以後、我が社の工場で製造されるロボットは一台残らず帝国軍に納入され、臣民に替わって敵国の兵隊を殲滅するだろう……無論、その敵の中には我々の故郷も含まれている」

 エドゥアルトは機械の前にどっかりと座り込み、最後まで気の進まない様子でプログラムのアップロードを進めた。

「なぜ、私をここへ」

「さぁね……証人として、なんていうのも君を連れて来る建前である訳だし。ただ君にこれを見ていて欲しかった、それだけだ。もしかしたら、私を殴ってこのパンチカードを破り捨ててくれるかもと期待したのかも知れないな。だが君には、今更そんなことは出来まい?あれを見た後の君では」

エドゥアルトの隣でフーゴは肯定も批判もせず、ただ彼の作業を眺めていた。大きな歴史の転換点に立ち合いながら、究極の美に触れた無力な男はいともあっさりと良心を捨てた。

おもろいっしょ?完成させられず残念でならぬ。

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