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君色に染まる俺色おぼろ月  作者: 森外盾
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財布と約束 前編

俺の住む川上町は、県の郊外にある住宅街である。町の中心にある駅を境に、東側には住宅地が広がり、反対に西側には長い商店街が走る。商店街を抜け、県道を渡ると、川上山の登山口へと続く一本道と繋がっている。

 そんな俺の地元には、娯楽と呼べる娯楽施設がない。商店街には、スーパーや雑貨屋、薬局等は揃っている為に、生活する上で困ることはないだろう。だが、薔薇色やら青春時代やらと比喩される高校生活を送る俺には、些か退屈な町である。

 高校生活も二年目に入り、初めての休日を迎えたその日。俺は川上駅前にある時計台の下で、腕時計の時間を調節していた。ここの時計台は電波式で、実際の時刻と0.1秒の誤差もないらしい。それが本当だとすれば、俺の腕時計は五分進んでいたことになる。

「くっそー、後五分は眠れてたってことかよ」

 独りごちつつ、俺は小さな調節ネジと格闘していた。

 さて、なぜ俺が、貴重な休日に、こんな時間の浪費としか言えぬ場所で、一人佇んでいるかと問われると、話は昨日に遡ることとなる。


 その日のホームルーム、俺は担任の話を聞き流しながら、翌日に控えた休みの予定を思案していた。

 とはいうものの、誰かと遊ぶ約束もなければ、どこかに外出しなければならない理由もない休日などみな似たようなものだろう。

 惰眠を貪る。

 これ以上に正しい休息日の過ごし方などないだろう。体力の浪費を避け、来る登校日に備え英気を蓄え、加えては散財さえ控えることができる。怠惰な一日こそ休日の模範と呼ばれるべきなのである。

それに俺みたいに娯楽施設のない街に住んでいる人間なんてものは、家で一日を過ごすしか他にすることはない。俺を怠け者と罵倒する輩もいるが、俺は悪くない。むしろ正しいまである。

 心中で誰にでもなく弁解を述べつつ、明日の予定を組み上げた。

ひと仕事を終えた気分になり、上背を軽く伸ばす。

 そういえば、ホームルーム中だったと慌てたが、いつの間にかそれも終了していて、教室の中は帰宅や部活の準備をする生徒の喧騒が巡っていた。

 安堵し、自身も帰ろうと机の横に掛けている学生鞄を持ち上げ、立ち上がった。

「朔太郎」

 聞きなれた声に振り返る。

 黒髪のボブカット。化粧気がなく、大きな瞳が特徴的な少女が立っていた。

「なんか用か、風香?」

 と応える。

 彼女が、我が隣人にして、幼馴染である君嶋風香その人である。

「明日って、何か予定ある?」

 なんというタイミングだろうか。先ほど、完璧な休日の予定を立てたばかりなので、思わずにやけてしまいそうになる。実際に鼻をふふんと鳴らしてやった。

「当たり前だろ」

「ちなみに家でゴロゴロしたりするのは予定って言わないからね」

 なんだと?

 風香の超常的な勘と、信じていた常識が非常識と明言されたことに愕然としてしまう。

「やっぱりそんなこと考えていたのね……」

 風香は肩を竦める。

「うるせぇ……。それより明日、何かあるのか?」

 動揺を隠しながら問うと、風香は思い出したように「ああ、そうだった」と自分の鞄の中から、封筒を取り出した。

 窓から差し込む遮光で中身がうっすらと透けて見える。なにかのチケットらしい。

「この前、映画の鑑賞券を貰ったんだけどさ、良かったら明日観に行かない?」

「映画?」

「うん、好きな映画を観られるらしいよ。ほら、朔太郎、観たがっていた映画あったじゃない?」

 観たい映画なんかあっただろうか、と首を捻る。

「春休みに予告CMを見て、『面白そうだな』って言ってたじゃない」

 そう言われて思い当たった。先週から上映したばかりのアクション映画のことだ。設定が好みでそんなことを呟いた気もする。しかし、よくもそんな気まぐれから出た発言を、覚えていたものだ。

「まったく、自分の言ったことくらい覚えておいてよ」

 と風香は頬を少し膨らます。

「それで、明日は大丈夫?」

 聞かれるが、俺の予定は、風香曰く予定ではないので、答えは決まっていた。

「ああ、大丈夫だ。無料なら毒でも喰らうぞ」

「お腹壊さないでね」

 自分で言っておいてなんだが、壊すくらいで済んだならいいな。

「じゃあ、帰りながら明日のこと決めよっか」

「おう」と返事をして、俺は席を立ちあがる。

 風香を見ると、いつの間にか膨らんだ頬は緩んでいて、手を差し出してきた。

「なんだよ?」

「いいから」

 と風香は俺の右手を引っ張り、強引に握手を交わす。やがて、満足したように頷くと、手を解き、身を翻した。

「帰ろうか」

「……? ああ」


 ――と言った運びで、俺は幼馴染の風香と映画に行くこととなった。映画自体は人気のあまり、先週公開したばかりながら午後二時の一部のみ。最寄りの映画館は、川上町から電車で二十分ほどで着く鉄町にある。

 昼食をとってから、映画を観ようという風香の提案により、少し早いが十一時に川上駅前で待ち合わせをすることとなった。

 長くなったが、以上が川上駅に俺がいる理由である。

 腕時計の調節を終え、俺は辺りを見渡した。もう十六年も過ごしている町だが、まったくもって何の変化もない。変わったことと言えば、駅近くにある交番前で立っている警察官が、歳をとった位だろう。

「朔太郎」

 聞き慣れたを通り越して聞き飽きた声に振り返る。

 白いワンピースを身に纏った風香が、手を振りながら近づいてきていた。

 俺も小さく手を挙げ応えながら、左腕の腕時計を一瞥する。時刻は十一時十秒前。このまま何もなければ風香は約束の時間通り、待ち合わせ場所に着くことだろう。

 君嶋風香はそういう人間だ。

 待ち合わせの時間に一分の誤差なく現れる。

「おはよう」

「よう。相変わらず時間ぴったりだな」

「偉いでしょ」

 別に褒めてなどいないのだが、えへんと胸を張ってくる。高校に入って背丈の成長は止まったのだが、そちらが急成長したので無意識に視線が吸い込まれてしまう。風香のことを異性だと意識したことなどないのだが、仕様もない男の性というやつなのだろうか。

 風香に、邪な気持ちを悟られぬよう不自然に咳き込む。

「そ、そういえば、いつも思うんだが、待ち合わせなんかする必要ないんじゃないか。家が隣なんだから、一緒に駅まで行けばいいだろ」

「えー、待ち合わせは遊びに行くときの醍醐味でしょ」

 いや、普通に考えて遊びの醍醐味は遊びだろ。待ち合わせは過程でしかない。

 しかし、その答えでは風香は満足しないだろう。

 なんで理解してくれないの、と頬を膨らますだけだ。昔と変わらぬ彼女の仕草である。それに対して、俺は決まって分かったふりをする。

「まぁ、そう言われるとそうかもな」

 そう答えると風香は満足げに頷く。

「じゃあ、行こうか。お腹空いてきちゃった」

「俺もだよ」



 改札に入ると、後ろポケットから定期券を取り出す。鞄の一つでも持ってくればいいのだろうが、財布と定期、携帯くらいしか荷物がない為、必要性を感じられずつい忘れてしまう。風香からは不格好だと注意されるが、特に困ることもないので、現状のまま維持してしまっている。

 改札を通ろうとするが、風香がついてきていないことに気づいた。風香を見ると、どこか一点を見つめたまま立ち止まっていた。

「どうした?」

 と聞きながら、風香の視線を追うと、一人の少女が目に留まった。

 8、9歳位の女の子が、壁際でしゃがみ込んでいた。ボーイッシュな恰好で、靴は新品であろう底の厚いブーツを履いている。肩には青いポーチを掛けていて、少しだけ空いたチャックからストラップの様なものが飛び出ていた。

 当然ながら、風香が少女に目を留めたのはその格好ではない。

 少女は泣いていた。

 まるで明日、この世界が終わるかの如く、絶望に満ちた表情をしているのだ。

「あの子、迷子かな?」

 風香は心配そうに呟く。

「……さぁな」

 俺は答えるが、果たして少女は本当に道に迷って、あるいは保護者と逸れてしまったが故に泣いているのだろうかと考えてみた。

 結論から述べると、少女は迷子ではない、というのが俺の見解だ。

 まず考えたのは、少女が川上町の人間か否か、である。

 繰り返すようになるが、川上町は住宅街だ。そんな町に外部者が訪れる理由は二つしかない。一つは、唯一の観光地とも言える川上山への登山。二つ目は町民への来訪である。

 では、少女は登山目的でこの町を訪れたのだろうか?

 解は否だ。

 勿論、小学校中学年位の女の子が一人で登山をする訳がない、というのも根拠の一つだ。しかし、それだけではない。最たる根拠は彼女の靴にある。これから登山に行くという人間が、履き慣れていない、しかも厚底の歩き辛いブーツを履くとは考えにくい。よって、少女は登山目的の来訪者ではない、と断定する。

 続いて、少女はこの町の住民に会いに来たのであろうか?

 こちらも恐らく違うだろう。

 否定できる理由は、少女が携帯を持っているということにある。少女のポーチから飛び出ている無数のストラップ。あれは携帯のストラップだ。携帯があるならば、来訪先に連絡をすればいいだけだ。もしかしたら連絡先を知らない、携帯のバッテリーが切れているという可能性もあるが、ならば駅前の交番で電話を借りるなり、道順を聞くなりすればいい。しかし、少女はそれをしていない。つまり、誰かに電話をしても、この町のどこかへ行っても少女の涙の理由は解消されないということだ。

 よって、少女はこの町の住民であると判断できる。

 この町の住民ならば、この町の中心地である川上駅で道に迷うということは考えられない。仮に迷子だとしても、先ほどと同じく交番で道を聞けばいいのだ。それをしないということは、やはり少女は迷子ではないということだ。

 ーーならば、なぜ少女は泣いているのか?

「ま、どうせ親に怒られるようなことでもしたんだろ」

 ぼそりと呟いたが、風香が隣にいたことを思い出して、身を怯ませてしまう。しかし、風香はいなかった。

 どうやら俺が考え事をしている間に、どこかに行ったようだ。まったく薄情な奴だ、と毒づきながらも内心で安堵する。だが、すぐに考えを改める。

では、風香はどこに行った?

 きりきりと首をゆっくりと少女の下へ巡らす。

 予感とはそれが嫌なものであるほど、当たるのである。予感通り、風香は少女に話しかけていた。俯いている少女に、しゃがみ込んで目線を合わしている。

「あいつ、いつの間に」

 風香が困惑顔でこちらを一瞥してきたので、溜息を一つ吐いて、二人の下へと近づいていく。

「どうしたんだ」

「この子――燕ちゃんって言うんだけど、お母さんに頼まれたお使いの途中に、お財布を落としちゃったみたいなの」

 やはりな。

「そうか。なら、交番に行って落し物がないか確認するしかないんじゃないか。後は念のために駅員にもした方がいいな」

「そうだね」

 風香は首肯して、燕に向き直る。

「燕ちゃん、お姉ちゃん達と一緒に、駅員さんとお巡りさんに、財布が届いていないか聞きに行こう」

 しかし、燕は俯いたまま、反応を示さない。

「どうしたの?」

 風香が燕を下から覗き込む。

「でも……」

 燕はか細い声を絞り出し、言葉を継いだ。

「捕まっちゃわない……?」

「捕まるか、馬鹿」

「朔太郎!」

 思わず本音を漏らしてしまい、風香に睥睨されてしまう。

 馬鹿げた考えだと思うが、もしかしたら子供なんてそんなものなのかもしれない。よく言えば想像力が豊かで、悪く言えば常識に疎い。ともあれ、落胆している人間に投げかける言葉では無かったので素直に「すまん」と謝る。

「大丈夫だよ。このお兄ちゃんでさえ捕まらないんだから、燕ちゃんが捕まることなんて絶対ないよ」

 おい、どういう慰め方だ。

「ほん……とう?」

「うん、本当だよ。約束する」

 風香の言葉に、燕は顔をようやく上げる。目の下は涙の跡が確かについていて、赤くなっていた。

「じゃあ、行こうか」

 風香が手を差し出すと、燕は握り返して立ち上がった。

 俺は身を翻して、頭を掻く。

 やれやれだ。思わぬ道草を喰う羽目になってしまった。とはいうものの、俺たちがすべきこと、出来得ることは大した手間ではないのも確かだ。

 たった一つの懸念は、君嶋風香だけだ。



 まず初めに駅の窓口に財布の拾得物が届いていないか確認してみた。しかし、駅員の回答は届いていない、ということだった。まぁ、俺としては、本命は交番の方であったので期待はしていなかったのだが、どうやら燕は違ったらしく肩を落としていた。

 一応、遺失物届を出しておくことにした。風香が代筆をしながら、名前、住所、電話番号と記入欄を埋めていく。ちなみに燕はやはり携帯を持っていたようで、電話番号にはその番号を記入しておいた。

「落とした財布っていうのはどういうの?」

 風香がペンを止めて、燕に聞く。

「えっと、青くて、ウサギの絵が描いてあって、これくらいの大きさなの」

 燕は手でポケットサイズより少し小さめの楕円形を作る。

「なるほど」と風香は頷き、遺失物届の詳細欄に書き加えた。

 それから、俺たちは駅前の交番へと向かった。

 しかし、交番の扉には緑色の『ただいまパトロール中』という札が掛かっていた。

「確かさっきお前を待っている時は警官が立っていたからな。丁度、出たばかりだろう。待っていてもいいけど、時間がかかると思うぞ」

「じゃあ、どうしようか」

「どうもするも何も一回家に帰って親に話した方がいいんじゃないか?」

「でも、それだと燕ちゃん、怒られちゃわない」

「そりゃあ怒られることしたんだからな。それより、近所へのお使い程度であんまり時間掛けていると、心配させちまうんじゃないか」

「う……」と風香は言葉に詰まる。俺が珍しく正論を突いているから、何も言い返せないのだ。

「まぁ、素直に謝れば親も一度や二度の失敗でそこまで怒りやしないさ。何なら風香が一緒に話してやればいい。大抵の人間は他人の前じゃあ、世間体を考えて、感情を剥き出しなんて出来ねぇ」

「なるほど……って、朔太郎は行かないのね」

 当たり前だ。俺は子供が嫌いなんだ。誰が好き好んで面倒に巻き込まれたがるというのだろうか。

「でも……」

 と口を挟んだのは、先ほどまで黙っていた燕だ。恐らく親に怒られるのがさぞ心配なのだろう。

「財布を落としたの、これで五回目なの」

「…………」

仏の顔も三度までというが、五回目ともなればどんな顔になるのだろうか。

 しかし、燕の親の気も知れない。過去に何度も同じ失敗を犯している子供に、たった一人で再びお使いに行かせたのだろうか。それは今度こそという親の期待が故なのか、何も学習していないからなのか、他の理由からなのか。例え何だとしても俺には理解が出来ない。事実、結果として燕は、また財布を紛失してしまったのだから。

 肩を落とす燕に掛ける言葉が思い浮かばない、

 しかし。風香は違った。腰を屈ませ、燕に柔和な笑みを見せる。

「燕ちゃん、いい子だね」

「え?」

 唐突たる言葉に燕は目を丸くする。

「財布を無くすって、すごく悪いことしちゃったって気持ちになるよね。だって、信じてお買い物を任せてくれたお母さんをとってもがっかりさせちゃうもん。もちろん、お母さんに怒られることも嫌だけど、期待を裏切っちゃうのはもっと嫌だよね」

 何を言っているんだこいつは……。

 普通に考えて、燕は親に怒られるのが嫌なんだろう。なのに風香は、違うと主張する。親を落胆させるが故に、燕は真実を隠匿しようと、燕は泣いていたのだとそう言い張る。

 ほんの十分前に会った子供のことを、一分の疑いもなく信頼している。俺の幼馴染はどれだけお人好しなのだろうか。

 だが、今回ばかりは風香の言っていることも全部が的外れだとも思えない。奇しくも、俺も似たようなことを考えてしまった。一度や二度の失敗程度なら怒られるだけで済むだろう。しかし、同じ失敗を五度も繰り返したら……?

 失望、諦念、落胆、そんな言葉が頭を過る。親は勿論、本人もだ。

「大丈夫だよ。燕ちゃん。私たちが一緒にお財布を探すのを手伝うよ」

「え」

「え」

 風香の言葉に、燕と俺の反応が重なる。

「約束する」

 風香は小指をピンとたてて、燕の前に差し出す。

「おい、風香ーー」

 制止しようと試みるが、時すでに遅かった。

 燕の小指と風香のそれが交わり合い、そして、約束の唄が唄われる。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます」

 ――指切った、と唄い終わると同時に指が解ける。

 俺は反射的に頭を抱える。

 俺の幼馴染、君嶋風香は約束を破らない。

 正確には一度指切りを交わした約束を決して反故としない。約束至上主義者である。

 無論、その行為は称賛されど批判されえない。

 しかし、危ういのだ。仮に約束が果たされなかった時、彼女は『指切りの唄』の制裁を実行し得る。彼女はそれ程までに約束を守ることに固執している。

 そして、俺が頭を抱える理由はもう一つ。

 彼女が約束を交わすと、必ずと言ってもいいほど、俺が巻き込まれることとなる。

 風香はすくりと起立し、俺を見据える。

「さぁ、頑張ろう。朔太郎」

 ほらね。

「ナチュラルに俺も探すことになってるな」

「当たり前でしょ。私たちって言ったんだから」

 おお、確かに。なんという叙述トリックだろうか。ちょっとばかし感心してしまった。いや、している場合じゃないな。ここは怒っていいところだ。

 よし怒ろうと意気込むと、服の裾が引かれる。

 視線を下に向けると、燕がつまんでいた。

「お兄ちゃんは……手伝ってくれないの?」

 目に涙を浮かべ、縋るように言葉を絞りだしてくる。

 俺は子供が嫌いだ。無知が故に蛮勇で、無力が故に依存的で、無垢が故に傲慢且つ無責任な子供が大嫌いだ。

 だが、だけれども、泣きそうな子供を知らぬ存ぜぬで放っとけるほど鬼畜ではない。

 溜息を一つ。

「手伝うだけだぞ……」

 風香が口許に笑みを湛えた。



「さて、闇雲に探しても時間の無駄だ。まずはお前の今日一日の行動を教えてもらおう。こと細かに頼む」

 燕は頷く。

「あのね、朝起きて、ショコタンにおはようって言って……」

「ちょっと待て、俺が悪かった」

 こと細かにと言ったら、本当にこと細かにされそうになった。ああ、俺の言い方が悪かったのだろう。子供は素直だからな。

「あ、ショコタンはウサギでね」

「違う、そういうことじゃない」

 丁寧な解説、痛み入るがそうではない。

「へー、燕ちゃん、ウサギ飼ってるんだ」

「うん、お母さんとお父さんにお願いして、最近お家に来てくれたんだ。可愛いんだよ、すごく。お家にいるときはいつも遊んでるの。ふわふわして、気持ちいいんだぁ」

 風香が喰いつくと、さっきまで泣いていた烏が、急に饒舌になりやがる。あ、燕だった。

「いいなぁ。モフモフして気持ちいいんだろうなぁ」

「今度、お家に触りに……くる?」

「いいの?」

「うん……約束」

「ありがとう、燕ちゃん。約束ね」

 こうして新しい約束が交わされる。

 え、なに帰ってもいいのか? 感動的な場面に、俺の帰巣本能が猛烈に刺激されてきた。抗う必要性も感じないが、念のために咳払いの一つでもして、風香に抗議しておくことにした。

「あ……」と風香は話が本題から大分ずれていることに気づいたようで、舌をチロリと出してくる。うわ、ムカつく。

「改めて、家を出たところから頼む」

 投げやりな口調になってしまったが、燕は首肯し口を開く。

「あのね、家を出てから、すぐにお友達の雀ちゃんと会ったの。それで、近くの公園に一緒に行って、少しだけ一緒に遊んだの。でも、わたし、お使い行かなきゃいけないから、すぐにバイバイしたんだ。それで、途中で道路にいた猫と遊んだりしたんだけど、後は商店街までは真っ直ぐ歩いて行ったよ。……あ、でも、お洋服と手にショコタンと猫の毛がたくさんついてたから、駅のお手洗いで洗ったの。それからは、どこにも寄り道しないで、スーパーまで歩いたの。それで、お使いのメモを取ろうとしてポーチを見たら、チャックが全部開いてて、お財布もなくて……」

 説明は徐々に尻すぼみになっていった。

 財布を無くした過程をさらったことで、余計に元気がなくなってしまったのだろう。しかし、落ち込んでいる暇はない。この情報とも呼べぬ情報の中から、何とか財布の落とした場所の見当をつけなければならないのだ。たとえそれが的外れであったとしても……。

 さて、まず何から聞こうかと、顎に手を添える。

「財布はポーチの中に確かにあったのか? 入れ忘れた可能性はないのか?」

 燕は首を横に振る。

「お財布はずっとポーチに入れていたよ。この間、お財布を無くしちゃってからそうするようにしてたから」

「中は確認したのか?」

「うん」

「じゃあ、確認したときにポーチのチャックを閉め忘れたっていうことは?」

「たぶん……ないと思う」

 少し自信が無さ気だ。まぁ、実際チャックは開いていたのだし、財布は中に無かったのだ。どこかのタイミングでそうなる事由があったはずだ。

「あ、でも、やっぱり最初に見たときは、閉めたと思う」

 燕は思い出したように主張した。ほら、と指を指した先はポーチのチャックだ。チャックの部分に白い毛が噛んでいる。

「ショコタンがポーチの中に顔を入れちゃったから、引っ張り出して、その時にお財布を見て、チャックを締めたのちゃんと確認したんだったよ」

 なるほど。それだったら、中々信憑性は高いかもしれない。

 つまり、家を出た時、確かにポーチのチャックは閉まっていたということだ。ならば、開いた原因は外出後の出来事の中にある。

「トイレに行ったとき、手を洗ったんだよな?」

 そうだよ、と燕は頷く。

「なら、その時に手を拭いたんじゃないか? ポーチからハンカチを取り出して」

「あ」と漏らしたのは風香だ。

 単純な推理ではあるが、正しければ、燕が財布を落としたエリアをかなり限定することができる。

「手は拭いたけど、ハンカチはポーチから出してないの」

「どういうことだ?」

 聞き返すと、燕は前ポケットからハンカチを取り出した。

 ああ、ポーチにはハンカチが入っているという固定観念があったのが間違いだったのか。

 となると、財布を見つけるのが面倒になったな。

 ――いや、本当にそうなのだろうか。

 ――今、俺がすべきことは本当に財布を見つけることなのだろうか?

 暫しの黙考の末、一つの結論に辿りついた。

「……やっぱり、そうだよな」

 ぼそりと零した言葉に、風香が反応した。

「何か分かったの、朔太郎?」

「ああ、謎はすべて解けた」

 頷きながら、どこかの名探偵のような台詞を吐いてしまった。

「ほんとう、お兄ちゃん。お財布の落とした場所、分かったの?」

 燕が喰いつく。

「いや、正確には違うが、財布のある場所はおそらく分かった」

「どういうこと?」

 小首を傾げる燕と風香に、俺は言う。

「燕、お前は財布を落としたんじゃない。盗まれたんだ」

 一拍置いてから言葉を継ぐ。

「雀ちゃんによって」

 しんした沈黙が三人の中に生まれた。

 燕と風香の目が徐々に丸くなり、ようやく俺の発言が脳内に届いたようで、

「何を言ってるの、朔太郎。頭おかしくなった?」

「雀ちゃんはそんなことしないよ……。大丈夫、お兄ちゃん?」

 真剣には受け取られず、精神の心配までされてしまった。

「いや、この推理は結構的を得ていると思うぞ」

 慌てて、自分の考えの論理性を訴える。

「その根拠は?」

 信用の欠片もない目で、風香は溜息を吐きながら問うてきた。

 よし、いいだろう。我が推理、とくとご覧あれ。

「大前提として、燕のポーチの中には財布が入っていて、ポーチのチャックは閉まっていて、自然的には落としえない状況だった。ここまではいいな」

 うん、と風香と燕が頷く。

「そして、スーパーで燕はポーチが開いていて、中に財布がない事に気づく。つまり、家を出てからこのスーパーに辿りつくまでの間で財布を落としたこととなる。この間、ポーチを開けることができ、財布を抜き出すことが出来る人物、それはーー」

「ちょっと待ってよ、朔太郎。何も人が原因って限らないでしょ。例えば、どこかに引っかかってチャックが開いちゃったとかだって考えられるんじゃない?」

 む、確かに。

 まぁ、だがその疑問の解消は簡単だ。燕に確認をすればいい。どこかでポーチを引っ掛けたならば、必ず気づいているだろう。何故なら、中には絶対に落としたくないものが入っていたのだから。

「どうなんだ、燕?」

「うん……たぶん、どこにも引っ掛けていないと思う……」

 少し自信がなさそうに聞こえるが、恐らく物的要因の否定が、たった一つの結論に繋がると予期したからだろう。

「でも、引っ掛けたことに気が付かないってこともあるし……」

 風香が食い下がる。

「燕のポーチは全開だったんだぜ。ちょっと引っ掛けただけなら気づかないのも分かるが、ポーチのチャックが全開になるほどに引っ掛けちまったんなら、さすがに気付くと思うぞ」

「でも――」

 風香は尚も反論しようとするが言葉が続かない。

 俺は暫し待つが、風香の言葉の接穂がない事を確認し、口を開いた。

「これで物的要因の可能性は除外できたな。つまり残るは人的要因のみだ」

 ぶってきよういん? じんてきよういん? と燕が言葉の意味が分からないと小首を傾げるが、ここは敢えて無視をする。面倒くさいから。

「そして、燕が家を出てからスーパーに辿りつくまでの間で関わった人間は雀ちゃんだけだ。燕、お前は恐らく公園で雀ちゃんと遊んだとき、ポーチをどこかに置いたんじゃないか? そして、お前が遊びに興じている隙に、財布を抜き取った。しかし、ポーチを閉める時間はなく、口は開いたままだった。これが俺の推理だ」

 ふぅっと息を吐く。

 風香は無言で顎に手を当て、何やら黙考している。

 燕は目を見開いて、唖然としていた。

 ――上手くいっただろうか、と心中で呟く。

 当然ながら、俺の推理は全て出鱈目である。よく考えれば、ただのこじつけでしかなく、他の可能性から目を背けたものでしかない。

 しかし、この推理を燕が信じてくれさえすれば、風香のした約束は果たされる。すなわち、財布探しに協力するということである。推理によって協力をし、闇雲に探し回る時間と体力の節約もでき、映画にも間に合う。

 さりとて、燕の親友に罪を着せ、燕自身を愕然とさせてしまった罪悪感は多少なりともある。せめて、頭を擦って慰める位はすべきであろう。

 燕に近寄り、手を動かそうとしたとき、黙り込んでいた風香が喋った。

「ねぇ、朔太郎。それだと、雀ちゃん以外の別の人が来て、財布を持って行ったってことも考えられない?」

 ちっ。

「今、舌打ちしたでしょ。もしかして、気付いてた?」

「いや、まったく気づかなかったぞ。さすが風香だ。その可能性は見落としていた」

 耳聡い風香に焦りながら、俺は取り繕う。依然として睥睨してくる風香から目を逸らし、燕に水を向けた。

「いやー、よかったな燕。雀ちゃんは犯人じゃないかもしれないぞ」

「うん、知ってる。それにわたしたち、公園では鉄棒でしか遊んでないの。それもほんの少しだけ。ポーチは鉄棒の脇に確かにかけたけど、すぐ横で遊んでいたから、盗られたら気づいたと思うよ」

 冷めた声音、冷めた目線が俺に向けられる。おお、お前、本当に小学生か。

「なるほど。まさしく八方塞がりだな。……諦めるか」

「早いよ! まだ何もしてないでしょ!」

 風香が叫ぶ。

「じゃあ、どうするんだよ」

「燕ちゃんの歩いてきた道を探すのよ」

 なるほど、捜査の基本は現場百篇とも聞く。異論はない。

「じゃあ、俺は今までの情報を精査して、財布の在処を推理ーーいたいいたい!」

 急に風香に耳を引っ張られる。

「それじゃあ、さっきの二の舞になるだけでしょ! サボろうとしない」

「いたいって! 違う、さっきのはだな――」

 反論しようとするが、本当のことを言うわけにもいかず、口篭ってしまう。

「さっきのは何よ」

「さっきのは、その、あれだ、情報が足りなかっただけだ……」

 はぁっと、風香は大きなため息を吐いた。

「それじゃあ、今も同じでしょ……」

 ええ、その通りです。小さく手を挙げ、降伏宣言をする。



 川上商店街。

 全長500メートルにも渡るアーケードを俺たちは歩いていた。

 風香の提案通り、ひとまず燕の歩いてきたルートを辿り、虱潰しに探していくこととなった。

 スタート地点は、燕の目的地であったスーパー『むらさき』で、ゴールは燕の家だ。

念のためにスーパーの店員に財布の落し物が無いかと尋ねてみたが、答えは予想通り「ない」だった。

スーパーを出てから数分後、商店街の煉瓦路で振り返ると、風香と燕が手を繋いで忙しなく周囲に目線を巡らせていた。

 普通に考えればやる気なく歩いている俺のペースの方が遅いものだが、探し物をしているとなると話は違ってくる。ひたすら前を歩くだけの俺と、辺りを見渡し時に人に尋ねながら歩く風香達。どちらが速いかなどいわずもがなだろう。

 しかし、ただ歩くだけというのも些か退屈だ。確かに言わされた感はあれど、手伝うといったのも事実だし、多少は貢献してやるとするか。そう思い、視線を少し落とした。

(百円くらい落ちてないかな)

 不意にそんな考えが頭を過った

 それと同時にとあることを失念していたことに気づいた。

 後ろを歩く燕が追い付くのを待ち、尋ねてみた。

「燕、財布の中にはいくら入っていたんだ?」

「ちょっと朔太郎。何を聞いているの」

 風香が窘めてくるが、ちょっと待てと掌を前に出した。

「この質問の答えは、捜索が徒労に終わるか終わらないかの重要な指針になってくる」

「どういうこと?」

「いいか、考えてみてくれ。財布が落ちていたらどうするか」

「交番に届けるよ」

 当然だとも言いたげに、微塵の迷いもなく答えてきた。

「まぁ、お前はそうかもな……。だが、大抵の人間は違う。もしかしたら、財布の中身が十円や百円とかだったら、お前の言う通り交番に届けるか、そのまま放置する奴が多いかもしれない。逆に百万とか大金だったら、恐怖心や罪悪感が働いて、盗もうなんて考える奴は少ないと思う」

 だが、と言の葉を継ぐ。

「例えばそうだな、入っていたのが一万円だったとしよう。多すぎも少なすぎもしない金額だったとしたら、こう思うだろう。一万円くらいなら、盗ってもいいんじゃないかってな」

初めは大罪を犯すには臆病な人間も、これくらいなら、この程度なら、と小さな罪を重ねていく。塵も積もれば山となる。雨だれ岩をも穿つ。重ねた罪は山となり、または大穴となる。人の罪に対する感覚は麻痺し、やがては大罪を犯すことさえも厭わなくなってしまう。

「そんなこと」

 風香は否定するが、残念ながら俺の考えは紛れもなく真理であると思う。

 ショックを受ける風香の横で、燕が口を開いた。

「入っていたのは、千円だよ。お使いのお金としてもらったの」

「じゃあ、多くとも二百円しか貰えんのか。まぁ、ドリンクをワンサイズアップできるか」

 拾得物の五分から二割までは、拾得者の利益になるんだったな。そんな大事なことを忘れていたなんて、まったく馬鹿でしかない。

 なんて思っていると、唐突として背筋に悪寒が走った。否、これは殺気だ。

「さーくーたーろー」

 怒気を混じえた声が俺の鼓膜を振動させた。

 おそるおそる風香を見ると、般若がいた。

「ちょっと落ち着け、風香。冗談だよ、冗談」

「冗談にしては具体的な使い道まで考えてたわね」

 般若が無理に笑顔を作った。

「それはだな、あれだ」

「あれって?」

「……その、ほら、あれだ。…………ごめんなさい」

「何を謝ってんのよ!」

「耳を引っ張るのはアウ――いたたたたたたたた!」

「ちょっとは真面目にやってよ。いつもそうよ、朔太郎は。真面目に考えているようで真面目に考えてなくて。昨日だってね、夕ご飯の相談したら――」

「それは関係な――いたいいたい」

 痛みに悶絶していると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。

 風香が俺の耳を引っ張るのを止めて、笑い声の方向に視線を移す。俺もそれに倣うと、そこには腹部を手で押さえながら、楽しそうに笑う燕の姿があった。

 己の失態を恥じ、母親からの叱責を恐れていた少女が見せた初めての笑顔。嘘偽りのない心からの笑顔。

 俺と風香が見ているのに気がつくと、慌てて口元を覆うが、まだ笑いが収まらないらしく微笑が漏れている。

「何、笑ってるんだよ?」

 燕は笑い涙を人差し指で拭い、そしてまた笑う。

「ごめんなさい。お兄ちゃんとお姉ちゃんのやり取りが面白くて、怒ってるのに楽しそうで……」

 謝罪の言葉はあるが、態度が伴っていない。

「燕ちゃん……。えへへ、そうだね、変かもね」

 風香も燕につられるように笑い始める。

 楽しそうな雰囲気に俺までも当てられてしまう。

「くっくっく、はっはっはっは!」

「朔太郎、笑い方がわざとらしすぎ」

「無理して笑わなくていいんだよ、お兄ちゃん」

「きゅうん……」



 それから、燕の歩いた道を虱潰し探したが、結局財布は見つからなかった。

 燕の家に近づくにつれて、燕の顔が暗くなっていく。

「もう一度、来た道探してみようか」

 と風香が励まし、再捜索に繰り出たが、収穫は無かった。

 途中で交番に寄り、パトロールから帰ってきていた警官に話を聞いたが、財布の落としものは届いていないとのことだった。しかし、警官は先ほどまでパトロール中で、交番を留守にしていたのだ。たとえ届けようとした人間がいたとて、それが交番内に警官がいない間であったならば、持ち帰ったか代わりに駅に届けたかだろう。(後で確認したことだが、駅には届いていなかったが――)

 さらに別の警官が言うには、偶然だが、燕が通ったルート(公園と公衆トイレは除く)を、燕が通ったすぐ後に周っていたらしいが、財布らしきものは見なかったらしい。

 遂に行き詰ってしまった俺たちは、気分転換も兼ねて昼食を取ることにした。

『さくらバーガー』と言う名のハンバーガーショップが、川上商店街の中にある。

 店内は、客席は二人掛けのテーブル席が4つだけと、随分とこぢんまりとしている。まぁ、ハンバーガ―は持ち帰ることもできるから、客席の数はそれほど重要でないのかもしれないが。

 自動ドアを潜ると、客が入退店したことを知らせるためであろうチャイムが鳴った。

 レジカウンター奥にある扉から店員の姿が現れる。背が高く、触れれば折れそうな程に痩身の男だ。目鼻立ちが整っているので、女性受けはいいことだろう。

「いらっしゃいませー……ってお前さんたちか」

 男が衛生用の帽子をとると、綺麗に刈り込んだ短髪が覗けた。

 佐倉広大。

 俺と風香の通う虹村高校の同級生であり、『さくらバーガー』のオーナーの一人息子だ。

「休日デートかい? 相変わらずおあついね」

「ちげぇよ、馬鹿」

「ははは、照れなさんな」

 否定する俺を広大は、相手にもしない。

 広大に限らず、俺と風香を恋人だと誤解する奴は多い。しかし、実際はただの幼馴染の腐れ縁でしかない。色恋とは無縁だ。

「おや?」

 広大はようやく俺の背後には風香だけでなく、もう一名いることに気づいたようだ。俺に隠れて見えなかったのだろう、燕の姿を認めるや否や真面目な顔をして、

「お前さんたち、いつの間に子供ができたんだい」

 阿呆なことを言ってくる。

「ちげぇよ。本気で言ってるなら、病院行った方がいいぜ」

「冗談だよ。それで、そこの別嬪さんはどちら様?」

「燕ちゃんよ、さっきお友達になったの」

 風香が燕の肩に手を乗せ、紹介をする。いつの間に友達になったんだ、お前たち。

 注文をしてから、俺は一先ず便所で用を足した。便所から戻ってくると、風香と燕は窓際のテーブル席にすでに着いていた。テーブル上にはまだハンバーガーが用意されていないから、調理はまだ終わっていないのだろう。

「それで、一体どういう事情だい?」

 レジカウンターで広大に話しかけられる。燕のことを尋ねているのだろう。別に隠すこともないので、俺は事情を簡潔に説明した。

「なるほど、また風香ちゃんの約束癖か。相変わらずのお人好しだねぇ、お前さんも」

「なんで俺がお人好しなんだよ。俺は巻き込まただけだ」

「いーや、お人好しだよ。お前さんは」

 広大は知ったような口を聞く。

「それで、財布は見つかりそうかい?」

「いや、燕の歩いた道を探したが、まったく見つからなかった。もう誰かが盗っていっちまったかもな」

「なんかお前さん、やる気がなくないかい?」

 あるわけないだろう。風香にただ巻き込まれているだけで、この財布捜索に俺の意思は微塵もないのだ。

 広大は腕を組んで考える仕草をすると、やがてピンと人差し指を立てた。

「そうか、お前さん、今日は風香ちゃんと映画行く約束してたね」

「そうだけど、それがどうしたんだよ?」

「しかし、風香ちゃんは燕ちゃんとの約束を優先してしまっている。つまり、妬いているんだね」

 さも自分が名探偵であるという態度で、広大は迷推理を披露してくれる。

 阿呆か、こいつは……。真面目に質問をした俺が馬鹿だった。

 世間一般から見れば、風香と俺との映画も約束とされるのだろう。しかし、風香と俺のそれは、風香が守らなければならない約束ではないのだ。

 何故ならば――。

「風香は俺と指切りをしてねぇよ」

そう、俺たちは『指切り』を交わしていない。

 例えばそれは一方的に押し付けられた、誰も見ない学生手帳に書かれた、校則の様に。

 あるいはそれは、世間がモラルと解釈する、常識と言う名の暗黙のルールの如く。

 風香はそういったもの対しては、絶対に守るという執着はない。

 彼女が、至上とする約束は、あくまで自らの意思に基づき結ばれた約束のみであり、その証明となるのが『指切り』なのだ。『指切り』は儀式であり、誓いであると言えばイメージがわきやすいかもしれない。

 でも――。

「そういえば、風香ちゃんがお前さんと指切りをしているところ、見たことないねぇ」

 広大の呟きが、俺の疑問と合致してしまう。

 そうなのだ。風香は決して俺と指切りをしない。もっと幼い頃はしていたと思うのだが、いつの頃からか交わさなくなった。

 何故なのだろうか。何故、風香は俺と指切りをしないのだろう。

「だけどさ」

 広大の接続詞に、我に返る。

「お前さんとの映画も立派な約束だよ。オレにとってはね」

 そういうと、広大はいつの間にか用意されていたハンバーガーの乗ったトレイを差し出しながら、ウィンクをする。

「君嶋風香は約束を破らない、だろ」

 どこのどいつだ、そんなことを言ったのは。


「遅いぞ、朔太郎」

 テーブル席までトレイを運ぶと、風香が不満そうに言った。

「クレームなら店に出せ」

 至極正論を吐き、席に着いた。

「広大くんと何話してたの?」

「別に、ただの他愛のない馬鹿話だよ。広大の一方的な」

 横目で広大を見ると、レジカウンターに肘をつきながら、こっちを見ていた。

 ため息を吐き、風香たちの前に彼女たちの注文のハンバーガーと飲み物を押し出す。

「燕ちゃん、遠慮なく食べてね」

「うん、ありがとう」

 燕は首肯し、「いただきます」と手を合わせる。

 今時にしてはなかなか行儀のいい子供だ。

「ちゃんと『いただきます』出来てえらいね。どこかの朔太郎にも見習わせたいわ」

 生まれた頃からの付き合いだけあって、俺と風香の交友範囲はほぼ一緒だ。そんな俺の知り合いに朔太郎なる人間はいない。いったいどこの朔太郎のことを言っているのでしょうかねぇ?

 そんな疑問を抱きつつ、私こと俺色朔太郎は燕に倣い、合掌した。

 珍しいものでも見るかのような風香の視線があったが、気のせいだろう。

 ハンバーガーを包み紙に移していると、風香が話しかけてきた。

「でも、本当に仲が良いよね、朔太郎と広大くん。なんかもっと昔からの知り合いみたい」

「よしてくれ。変な昔馴染みは一人だけでお腹いっぱいだ」

「ちょっと、どうゆう意味よ。私が変って言いたいの?」

 風香が眉根を寄せ上げる。

「別にお前のこととは言ってないだろ」

「私以外に朔太郎の昔馴染みがいるの?」

「いや、いるだろう、そりゃあ……」

「でも昔馴染みを一人だけ挙げるなら?」

「そりゃあ、風――ちょっと殴るのは勘弁!」

 風香が拳を振りかざそうとしたので、身を怯ませてしまう。しかし、その拳が放たれることはなく、風香は呆れたかのように肩をすくませる。

「まったく、自分のことを棚に上げて、人を変人呼ばわりするなんて」

「いや、どう考えてもお前の方が変だろう」

 反論すると、憂いを帯びた目で風香は俺を見据えてくる。

「変って言った方が変なのよ、朔太郎」

「だったら、お前も変になるだろ、その理論だと……。いや、というか、風香の方が変だよな、広大?」

 レジにいる広大に聞いてみると、苦笑しながら答えた。

「いや、オレにとっては二人とも変だけどね」

 駄目だ。一番の変人に聞いても意味がなかった。なら、この場で風香と俺のどちらの方が変人かをジャッジできる人物はたった一人だ。

 俺は風香の隣にいる燕に目線を向けた。よほどお腹が空いていたのだろう、この口論の中でも必死にハンバーガーを貪っている。子供と言うのはいったん夢中になると、周りの声が聞こえなくなるらしい。

「なぁ、燕」

 呼びかけると、顔を上げ、「なぁに?」と小首を傾げてくる。

「俺と風香、どっちの方が変だ? どれ、お腹が空いていると頭も回らないだろう。ポテトでも食べてから答えろ」

 俺のトレイからポテトを差し出す。

 すると、その手がガッと掴まれた。

「ちょっと、物で釣るなんて卑怯よ。それとも、よっぽど自信がないのかしら?」

 風香がキッと睨み付けてくる。しかし、すぐさま柔和な笑みで燕に話しかけた。

「燕ちゃん、正直な気持ちを言っていいのよ。大丈夫、本当のことを言っても、朔太郎には怒らせないから」

「なんか、俺がすでに変と言われる前提みたいな言い回しだな」

 まったく、先が読めるとは変な奴だ。これはもう風香が変でファイナルアンサーでいいのではないでしょうか。

 燕は、俺と風香を順番に見て、少し黙考した後、口を開いた。

「お兄ちゃんの方が変……」

 ぼそりとした一言に、風香の顔が見る見るうちに喜色満面となる。

「いい子ね、燕ちゃん! ほら、ポテトも食べて食べて!」

 風香がつつつとポテトを燕に勧めた。

 おい、そのポテト、俺の俺の。などと突っ込むこともできず、俺は「ぐぬぬ」と苦虫を噛み潰した。



口を拭いた紙ナプキンを丸めて、机の上に転がすと、燕の目の前に置いてあった同じく丸まった紙ナプキンにぶつかった。

「これからどうしようか?」

 風香がおしぼりを口に当ててから、丁寧に折り畳みながら聞いてきた。

「どうしようも何も、もう探す場所も全部探したしな。最後にもう一度、交番に寄って、それでも無かったら、家に帰って親に正直に話すしかないだろ」

 ハンバーガーを食べたおかげで空腹が満たされたので、これ以上動きたくないという気持ちもあったが、実際に他には打つ手がないのだ。風香もそれは分かっているはずだが、

「そうだけど……でも……」

 と歯切れ悪く、燕を一瞥する。

 そんな風香の気持ちを察してか、燕は笑顔を作る。

「ありがとうお姉ちゃん。でも、もう大丈夫だよ。元々、お財布を落としたわたしが悪い子だし、お母さんに正直に謝る。お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、一緒に探してくれてありがとう」

 殊勝なことを言う。

 大丈夫、と言うのは強がりかもしれないが、この笑顔も、この言葉も、本心から生まれたのだろう。

 だから、俺の幼馴染の返答はすぐに分かった。そして、俺が風香を止めないことも。

 風香は真面目な顔で、燕に向かい直る。

「燕ちゃん、もう少しだけ、お財布を探すのを手伝わせてくれないかな」

「え、でも……」

 燕の顔に困惑の色が浮かぶ。

「お願い。もうちょっとだけでいいの。私が燕ちゃんのお財布を見つけてみせる。約束する」

 風香がピンと力強く小指を立て、差し出す。

 燕が戸惑いながらも、ゆっくりと自身の小指を風香のそれと絡ませる。

 そして、約束の唄が唄われる。

 唄が終わり、絡まった指が解けた。

「本当にいいの?」

 問いかける燕に、風香は頬を緩ませ「うん」と頷く。

 燕は鼻をすんと鳴らすと、「ありがとう」と風香に抱きついた。

「朔太郎」

 珍しく風香が申し訳なさそうな顔で呼びかけてくる。

「まぁ、乗り掛かった舟だしな。もう少しだけ手伝ってやる」

 そう言って、空になったコップのストローを啜る。

「ありがとう」

「ありがとう、お兄ちゃん」

 風香ははにかみ、燕も風香から離れ礼を言う。

 別に礼を言われることではない。

 ただ、俺の協力なしでは風香がした約束が守られることが難しくなっただけだ。

 先ほどまでの風香の約束は、財布を探す協力をするだけだった。つまり、財布の発見と言う結果は求められていなかった。

 しかし、今回した約束は財布を見つけることだ。

 どんな人間だって、約束の一つや二つ破ったことはあるだろう。今はまだなくとも将来、いつか破る時が必ず来る。

 それでも、君嶋風香は約束を破らない。

 そのために、俺は風香の傍にいる。

 机の下で小さく指を弾いた。


「サク」 

『さくらバーガー』を辞そうとすると、広大に呼び止められた。

 風香か燕のどちらかが――あるいはどちらも――いると話しにくそうだったので、二人は先に店外に行かせた。

「なんだよ?」

「あの子――燕ちゃんだっけ、後でちゃんと教えておいてやれよ」

「? 何をだ?」

「お前さん、気付いていないのかい?」

「だから何をだ?」

 広大の言わんとすることが掴めず、訝しんでしまう。

 広大は顎に手を当て、「ふむ」と思案する仕草をとる。

「まぁ、小さくても立派なレディだからね。野暮なことを言うのはよしとくよ」

 笑いながらそう言うと、ぱんと自分の尻を叩いて身を翻した。「毎度あり」と小さく手を挙げたことから、広大の用件は以上なのだと察した。

 首を捻りながら『さくらバーガー』を後にすると、風香達が待ちくたびれた顔をしていた。

「遅い! 広大くんなんだって?」

「いや、よく分からねぇ。燕がレディだとかなんだとか言っていたが」

「なにそれ?」

 風香が怪訝な顔をするが、俺にもよく分かっていないのだから答えようがない。

「まぁ、それよりこれからどうする?」

 広大の発言の意味を考えても時間の無駄だ。俺は本題へと水を向けた。

「うん、とりあえず交番に行ってみよう。もし届いてなかったら、もう一回だけ燕ちゃんの歩いてきた道を探してみよう。どこか見落としている場所があるかもしれないし」

「分かった」

 恐らく徒労に終わるだろうと思いながらも頷いた。現状は、それしか打つ手がないのだから仕方がない。これから打つ手を見つけるのが俺の仕事だ。

 風香と燕が手を繋いで歩き出す。俺もその後に続く。

 左手を耳元に動かそうとして、不意に腕時計が目に入った。いつの間にか、時間は午後十二時四十分となっている。もう風香と駅で待ち合わせてから二時間近く経っているのか。

 嘆息して、耳元で指を弾く。パチンという音が律動的に鳴り出す。

 俺は思考を巡らせた。

 ――そして、一つの結論に辿りついた。

「広大の阿呆」

 振り返り、もう見えなくなった『さくらバーガー』に向かって、独りごちた。

 パチンと大きく指を弾く。

「糸は繋がった」


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