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同道路(どうどうろ)

作者: 玄冬一重

シンとした空気、匂い、音、温度。私は、一瞬で過ぎる夕暮れ時が好きだ。駅前のベンチに堂々と腰掛け、勢いよく流れる人の波を眺める。面白いのだ。皆、虚ろにまっすぐ行くのだから。別の目的があるのだろうが、私の目にはどれも同じに見える。そして、皆、一様に目線をくれない。他に興味がないのか、そんな余裕さえも持ち合わせていないのか。私自身、決して気にかけて欲しい訳ではなく、なんなら見てくれない方が清々しい。たまに目線をぶつけてくるものもいるが、気まずくなる。だから、誰も見ないでいただきたい。ただ、足の裏から伝わる響きに揺られる心地の良い時間がそこにあれば、それ以上は何も。


 コーヒー片手にデスクへ戻ると書類の山が目に入り頭が痛くなる。崩さないようにゆっくり端へと滑らせ、視界に映らないよう無かったことにする。肩を一回転させ深呼吸するが、体に悪そうな空気が喉に引っかかり思わず咽せる。額に柔らかい何かが当たったように感じるほど、フロアの空気は重く淀んでいる。換気が行われていないためか、それとも人間の深いため息の結集なのか。ため息だとすれば、その一割、いや二割ほどは俺から発せられたものだろう。なんて、つまらないことを考えながら椅子に腰掛ける。今日の打ち合わせの客、どうも苦手で少々疲れた。こだわりがあるのはいいが、こちらが無理といえば無理、出来ないと言ったら出来ない、何故これを理解しないのだろう。…いけないいけない、ため息の比重を増やすところだった。この会社の仕事にも慣れてきたが、新しい事業の企画に加え、後輩の研修も重なり手一杯。それをわかっていながら、上司もまあ厄介な客を押し付けてきたものだ。今頃その当人は、部長のご機嫌を取りに個室にいるのだろう。ほら、ニヤニヤしながら低くなっている。…いけないいけない、またため息が。とりあえず、今日一日の仕事はこなしただろう、今日は帰ってゆっくり休ませてくれ。カップを勢いよく傾け残りを飲み干すと、十七時を伝えるチャイムが建物内に鳴り響く。今日は何とか定時で上がれそうだ。ざっと書類の山を仕分けて席を立つと背後から嫌味っぽい一言。

「おい、脱新人。客ひと組でへたばってんじゃねーぞ。たかが夫婦ひと組言い包められないでどうすんだ。余裕がねえから結婚どころか彼女もできねえんだよ。ま、余裕を通り越してだらしない俺はバツイチだけどな。がははは! 」

 ああ、捕まった。いつの間に出てきたんだよ。このニヤニヤ上司は、30代に突入したてのもういい大人。正直、苦手だ。ほら、周りの痛い視線も気にすることなく、ベラベラ語ってくる。頑丈に頑固に育ってしまった、嫌な大人の典型。歳を取るとデリカシーのない言葉をバンバン吐きやがる。

「そうすね、頑張ります。」

 はいはい、ありがたいお言葉です。お辞儀して床を見ながら思いっきり変顔してやった。あ、俺もまあまあ嫌な奴かも、と少し笑ってしまう。

 青なのか紫なのか、よくわからない濁った色の空を見上げ、駅の方へと歩き出す。夕方の時間帯だが、この時期はまだまだ日が短い。気をぬくと一気に世界のトーンが低くなる。会社から最寄り駅までは徒歩十五分ほどの距離があり、ほとんどの上司や同期は駅まで贅沢にバスを利用する。片道一六〇円ほどだが、仕事が終わった後にもう一度仕事の話をされるのが嫌で、雨の日以外は乗らないことにしている。もともと、散歩が好きなわけではないが、ふらふらと歩き回ると一日の運動量に貢献したような、なんとも程よい疲れがやってくることに心地良さを感じる。しかし、駅まで半分というところで、大学生が合流し賑やかになるのは難点。道いっぱいに広がり、男女問わずうるさい奇声をあげ、周りの迷惑そうな視線にも気付かない。あと何年かで社会人になってしまう、という危機感など持っていなさそうな腑抜けた声。頭の中の大学生らに「一瞬で俺みたいになるからな、一瞬で」と悪態…いや、余計なアドバイスをしていると、背後が一気に賑やかになる。後ろから軽音サークルだろうか、ギターを背負うグループがやってきて、特に声のトーンも落とさずにさっと抜かしていく。フェスのオーディションに合格したとかなんとか、嬉しそうに話す大学生たち。俺の人生の中で一番楽しかった時期を彼らは過ごしているのだと思うと、恨めしく、いや、羨ましく思った。大学を卒業してすぐに勤めたこの会社。やり甲斐は感じるが、正直、もっと他にやりたいことがあったはずだ、とふと我に帰り虚しくなる。周りに流され、無難な道を進もうかな、と妥協してしまったあの頃の自分を責めてしまう。もっと努力すれば良かった、もっとこだわれば良かった、なんて何の価値もない後悔はいつまでたっても消えやしない。加えて、同級生の活躍を妬み後輩の成長に焦る、どうしようもない奴。彼女なんてものもいなければ、親友でさえパッと思い浮かばない。いつからこんな堕落してしまったのだろうか、と、感傷に浸ったところで駅の改札を通る。

 いつもと変わらない駅のアナウンスに人の流れ。絶対にぶつからない、という信念を持った人間のみが前進する奇妙な光景。いや、小さい子供でさえ勢いよく歩いているのだから、痞える方が奇妙な人間なのだろう。そんなつまらないことを考えていても、足はプログラミングされているかのように三号車の二番のりばへと向かう。電車を待つ時間はなんとなく好きで、目の前の看板やらビルの窓の人影を眺めながら車両が突っ込んでくるのを待つ。アナウンスの後、引っ張られるような予告を体全身で感じ、ホーム上に少し緊張が走る。この、ゆるゆると今にも落ちてしまいそうな風が、急に生き返るかのように感じられる瞬間が堪らない。女性は迷惑そうに荒れ狂った髪を抑えているが、短髪の俺には頭皮に風が突き刺さって気持ちが良い。後から並んだお年寄りが我先にと電車に乗り込みいい気はしなかったが、今日は少しだけ運がよかった。掴んだつり革真下の席、扉の閉まるチャイム音と同時にヤンキーが慌てて立ち上がり、人を押しのけて電車から飛び出したのだ。目の前には帰宅ラッシュの空きシート。周りの人には申し訳ないが、この席は貰った。両隣は横幅のあるサラリーマンで、少し窮屈だが文句は言っていられない。一日の疲労からか、心地良い圧迫感と電車の傾きからか、少しずつ瞼が重くなり意識が瞬間移動する。まあ、いつも降りる駅では目を覚ましているのだから、少しの間睡魔に身を委ねてもいいだろう。ほんの少しだけ。しかし、結局目が覚めたのは降りたい駅の二つ向こうの駅だった。乗っていたのが快速急行だったため遠くまで来てしまった。定時に上がった日に限ってなんだよな、とため息をつく。青く疲れた顔をしたサラリーマンの波に押されながら、だらだらと反対側のホームへと向かう。既に快速急行の車両が止まっていて、駆け下りれば間に合うタイミングだったが、寝起きのだるさに負け、無理矢理飛び込もうとは考えられなかった。待つことなく入れ違いでホームに入ってきた各駅電車に乗る。席に座ろうと思ったが、座席の真下に緑茶ハイの缶が倒れているのが見え、一気にその気をなくした。別の席を探すのはスマートじゃないな、と周りの目を気にしてしまった俺は、仕方なくドア付近の直角コーナーにすっぽりと収まることにした。進行方向とは逆の方へと体を預け、ぼーっと窓の外の景色を眺めていると、降りた事の無い駅のアナウンスが耳に入る。

「…次は、どうどう。どうどう。右側の扉が開きます。」

 どうどう…? どんな字だろう。車内のテロップに視線をやると『同道』の文字が見える。ここで何故か、未だ心の中に眠る少年の冒険心のようなものが働き、少し袖を捲り時計を確認する。まだ時間はある、タバコでも吸おうかな、とその駅を降りることにした。ホームに降り立ち辺りをきょろきょろと見渡すが、他に降車した乗客は見当たらない。屋根が外れ、丸見えの夕日。程よく静かでひっそりとした空気。春先の冷たい風が脇腹あたりを掠めていく。

 貧相な駅前には喫煙所らしき場所が見当たらず、何処も彼処も工事用の幕が張られ、決して清潔そうな駅ではなかった。しかも、もくもくと頭の悪そうな連中の路上喫煙が目立つ。こういう連中は携帯灰皿も持たず、道や壁を平気で汚す。誰も関わりたくないため注意などしないが、それを逆手に取ってやりたい放題。近くでは吸いたくないし、そもそも、灰皿の無いところで喫煙するのは緊急事態時のみと決めている。折角降りたのだからと、静かな喫煙所を求め駅の北側へ向かうことにした。どうしてもこの冒険が見当違いであったと思いたくない、という意地のようなものが心の何処かにあった。遠目に見た北側の商店街は街灯の光だけが目立ち、どこかの店が放置した灰皿を探すことなど、難しくないだろうと思った。しかし、その意地が人生を大きく変えることになるとは、思いもしなかったが。


 駅の北側はカビ臭そうな廃れたロータリーが特徴的で、ジメジメとした雰囲気を纏っていた。想像通りの駅前を見て、落胆よりも興味が勝ったのは意地ではなく直感だった。ロータリーを過ぎ少し歩くと、人気の感じられない住宅が並ぶ。物音一つしないため心細く恐怖を感じるが、今住んでいる地域の人の多さにギャップを覚えたからだろう、と自身を納得させる。この歳になって雰囲気に怯えるようじゃあ男が泣くな、などと馬鹿なことを考えていると、既に目の前は商店街入り口だった。何だ、…想像していたより気配の多い商店街じゃないか。ピカピカの看板が飾られている入り口に何となく違和感を覚える。道を間違えたのかもしないと辺りを見渡すが、ここ以外に商店街らしい道は見当たらず、疑心暗鬼になりながらも足を踏み入れる。街全体を見回してみると、やはり飲食店や雑貨屋などが未だ開いていて、予想を裏切る華やかな商店街だった。これじゃあ、喫煙できる場所など見当たらないだろう、参ったな。案の定、50メートルほど歩いても喫煙できそうな場所は無い。はあ、駅前に屯ろする連中と並べばよかったか。いや、道端で吸うのは少々気がひけるし、緊急事態と呼べるほど切迫した状況ではない。もう少しの我慢だ。とりあえずこの華やかな中通りから外れなければ、と思うが、妙だ。路地はもちろん、切れ目もなければ抜け道もない。向こうまでヌメッと店が並んでおり希望が遠のいていく。しかし、もう少し歩けば、と足が勝手に動く。どんどんと流れていく街並み、目の端に映った薬局を見てふと妻の顔が浮かんでくる。家を出る前に何か言っていたな…。あ、そうそう、息子のオムツと粉ミルクのおつかいを頼まれていたのだった。引き返す時に買って帰ろう、忘れずに忘れずに。

 突然、雄叫びのような声が響き肩を震わせてしまう。誰だよ、こんな大きい声を出す奴は。先程まで気づかなかったが、居酒屋前で飲み食いする酔っぱらいや、道中で笑い声を響かせる女たちもいる。…言っては何だが、少し下品だ。俺だって若い頃は同期と飲みに行って馬鹿騒ぎしていたが、それとは比較出来ないほど、正直酷い。口の中のものが見えるほど大きな口を開け、「貪る」ような食事の仕方は動物的で、人間とは程遠い。酔っ払いの手元はよく見えず、何を食べているのかはわからないが、とりあえず汚い。笑い続ける女たちも奇妙で、笑い声を途切らせることなく、まるでコンテンポラリーダンスでもしているような動きであっちこっち揺れている。少しは人目を気にしてくれ、良い大人なんだから、と一声かけたくなるが、なんとなく触れてはいけないものだと感じスッと距離を取る。そもそも、こんな大勢が集まる商店街なのか、と不思議に思う。ここまで喫煙所を見つけられず、正直引き返そうとも考えたが、結構な距離を歩いた気がして、諦める気にはならなかった。諦めが悪いのは、昔の後悔からか、歳のせいからか解らないが、多分後者だろう。歳をとるっていうのはそういうことだろう、などと感傷に浸っていると、頷くようにヒューっと冷たい風がさっと抜かしていく。ああ、五十手前の中年男性にはキツイ寒さだよ、ほら、背筋がすぐに痛くなる。

 ヤニが切れたか、頭が重くイライラしてくる。結構な時間ここにいる気がするが、日が落ちる気配は全くない。もともと人だかりが嫌いであるため煩い場所は避けたいのだが、喧騒が耳を覆い鬱陶しい。いや、これはもう、緊急事態だろう、認定する。ここまで来たが駅前に戻って何処かのパーキングエリアで済ませよう、諦めも肝心だ。足を止めどれくらい歩いたかと後ろを振り返ると、薄暗い建物の隙間にポツンと立つ灰皿が目に映る。ああ、私としたことが。周りの騒がしさに気を取られ、見落としていたか。一瞬、まるで私を『この商店街から逃がさまい』というかのように感じられたが、しかし、そんなことはどうでもいい。歩き疲れた老体には灰皿がオアシスに見えたのだ。トイレに駆け込むように隙間へ急ぐ。

 やっと一服だ。相当な距離を歩いていたのだから仕方がない。妻に怒られるかもしれないが、今日は余分にもう一本吸わせてくれ。すっかり冷え切った土気色の手でタバコを一本引き抜き、年季の入ったライターで火を付ける。始めの一吸いで頭の様々な部分が浄化されるような感覚を味わう。素直にタバコに有り付けたことが嬉しかった。煙を一気吐き出すと、煮詰まった頭もすっきり、やっと落ち着きを取り戻すことができた。ああ、至福。一体、どれくらい歩いていたのだろう。ちょっとした寄り道のはずが、思わぬ大冒険になってしまったのだからな。そろそろ、妻が食事を作って私を待っているだろう。申し訳ない、と思いながらも欲に逆らえず、二本目に突入したところであることに気づく。今いる路地の奥の方から何やら音楽が流れている。最近のテレビでよく響く煩い『EDM』みたいなペーペー音ではなく、少しくぐもったような音で、私の体を心地よく振るわせる。嫌な気がしなかった私は、半分ほど吸ったタバコの火をグシャっと消し、音のする方を覗いてみる。すると、黄色く汚れたガラスの扉が見えた。店の方に引き寄せられ、割れたコンクリートの散らばる路地を進む。店前に立つと、今にも落ちてきそうな小さな看板がレコード屋であることを知らせる。店の名前のところが擦れており、うまく読めない。扉近くのカエルの置物は、客を選びそうな面構え。気に入った。どれ、少し寄ってみようか。昔から好奇心には逆らえない私の性分、ここでも十分に発揮された。

「今どきレコード屋とは懐かしいものだ。」


 重たい扉を開けると、透き通ったベルの音と壁にぎっしりと飾られたレコードが私を迎えてくれた。思いの外澄んでいる空気に緊張するが、目の前に懐かしい曲のジャケットを見つけ胸が躍る。あ、これ、妻の趣味に無理矢理付き合わされ聴いた、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。お、これは、よく休日の朝に流していたチャイコフスキーのくるみ割り人形。ああ、どれもこれも懐かしい。この店、ジャンルを問わないスタンスだな。店主よ、気が合いそうではないか。他にも色々と見て回っていると、店の奥の小さな扉が開き、店主らしき若い男が現れる。

「お客様、何をお探しですか。」

「あ、特に、少し見させていただいています。」

 急に現れ声をかけられたものだから、驚いた。思わず声がかすれてしまい咳払いをする。

「そうですか。それでは、ごゆっくり。」

 そう言うと、サッと扉の奥に戻っていった。想像よりよっぽど若い店主だな。しかし、いい趣味をしている。私があのくらいの歳のときは、一日中面倒な客やら上司やらに精神すり減らされていたなぁ…。おっと、いかんいかん。こんなおじいちゃんがため息を吐くなんて、あまりにもカッコ悪すぎる、などと、要らぬことを考えながら店内を徘徊している。この店、本当に面白い。レコード以外にも昔流行ったドールやフィギュア、バッジやアクセサリーなど多種多様な小物が所狭しと並んでいる。家の近くにこんな雑貨屋があればなぁ、と思ってしまうほど私の好みである。私のために用意された店なのではないか、はは、なんて冗談。そろそろお暇しようと、背筋をパキッと鳴らし出口のほうへ目線を移す。すると、先ほどまで目に止まらなかったのが不思議なほど一際目立つ怪しい木箱が机の上に。店主が置いたのか、と考えるが、私以外の気配は感じられない。レコードや小物の数に圧倒されて、気づかなかったか。手に取って欲しそうな場所に置いてあるため、しょうがなく持ち上げる。年季が入ったもので、埃をかぶりカビ臭い。少し重たい箱の裏には『垰屋』という金文字が書かれていた。

「お客様。そちら気になりますか。」

 店主がヌッと出てきて、少し体が跳ねる。

「そちら、当店のオリジナル商品『垰屋箱たおやばこ』と言いまして。」

「はあ、『垰屋箱』ですか。」

「普通の箱ではありません、大変珍しいもんなんです。箱を開けて耳を近づけると…、あら不思議! 聴きたい音楽聞きたい声、なんでも聞こえてくるんです。」

 店主は得意げに話しているが、いやいや、そんなわけないだろう。なんの変哲も無い古びた箱じゃないか。

「仕組みはお教え出来ませんが…本当になんでも聞こえるんです。試しに、何か思い出の曲でも聴いてみませんか。ほら、ささ。」

 店主はその『垰屋箱』とやらを私の顔に近づけてくる。この店主の言うことが本当なら、この箱、珍しいどころの話では無いぞ。生憎、物理について詳しくないためどういうメカニズムなのかわからないが、いやいや、これは私のような一般人でもわかる。ありえないだろう。ちらっと店主を見るが自信満々な様子。なんとも胡散臭いと感じるが、まあ、物は試しだ。興味はある。こんな素直な客がいてよかったな。正直な感想を頭の中にいくつか用意して、箱を持つ手を入れ替える。さて、結婚式に私が歌った曲でも聴かせてもらおうか。

「決まりましたか。ささ、箱を開けて耳を近づけ、聞きたいものを願ってみてください。」

 私は店主に促されるまま、遠慮気味に箱を耳を近づけ、あの頃を思い出す。

 …ザワザワと人の気配が増える。なんだか聞き取り難い。木箱を耳にしっかりと押し付けると何やら薄く音楽が聞こえるがこれでは何の曲かわからない。モヤモヤと眉間にシワが寄るのが自分でもわかる。聞こえないぞ、と店主の方を見る。しかし、変わらず自信満々な様子。ほら、やっぱり何も聞こえないじゃないか、と口を開こうとすると、店主が笑いながら話す。

「お客様。もっとしっかりと願ってください。その時の風景、人の顔、感情なども一気に。そうすれば、ほら。」

 店主のゆったりとした、また、こちらを納得させるかのような口調に導かれ、あの頃を鮮明に思い返す。泡のような白い球が輝く青いドレスに身を包み、嬉しそうな、また幸せそうな顔でこちらを見つめる妻。国民的アイドルの衣装を身につけ楽しそうに踊っている友人。酔った顔で普段言わないような優しい言葉を投げかけてくる上司。他にも色々。そして、ギター一本を持ってスポットライトの真下に立つ、私。


『片手と片手が重なり花

 美しいあなたへ

 ゆっくりまっすぐ伸ばしていく

 根のようにのように ふたり』


…すると、なんということだ、結婚式で歌った曲が聞こえて来たではないか。しかも当時のまま、私の声で。緊張に震えた箇所まではっきりと。一体、何が起こっているのだ。興奮気味に店主の方を振り返る。

「ははは、気に入っていただけましたか。」

 店主は満足そうな顔をしている。この反応を待っていました、と言わんばかりに。しかし、すっかりこの箱が面白くなってしまった私は、疑うことを忘れ、次はどれにしようか、と考え始める。そうだな…、ああ、大学時代に組んでいたバンドのオリジナル曲がいいな。初めて自分で作り、当時、バンドメンバーから絶賛された曲だ。この曲、メロディーがいいんだよ。因みに、私たちは大学じゃ名の知れたバンドで、「絶対メジャーデビュー! 」なんて、大きく騒がれていた。まあ、オーディションに通ることはなかったが。話を戻そう。大学三年の春、待ちに待った私の曲の初披露。嫌でも覚えている。演奏こそ上手くいったが、達成感、というよりも今まで経験したことのなかった羞恥に苛まれ、どうしようもなくなったステージ。あの居心地の悪さ、今でも鮮明に残っている。何か悪いことをしてしまったのではないか、というような後ろめたさを感じた記憶。若かったな、あの頃は。今の私が聴いても、もちろん恥ずかしくなるだろう。しかし、何故か、今なら受け止められる気がする。それでは、聴いてみよう。

 作詞作曲、桜田雄二。『完敗、カフェテリア。』


『シャンソン流れるカフェで今

 お前の話を聞いている

 一緒が辛いから…だって

 コーヒー覚めるぞ 先飲めよ

 温めた指が少しでも

 お前のこころを溶かしたら

 やっぱり愛している…だって

 格好悪いな この俺は 完敗』


…ああ、この曲は間違いなく私の曲だ。当時、録音することを忘れていて、もうこの世に残っていないと思っていたものだ。改めて聴いてやはり恥ずかしい歌詞だなこりゃ、とつい笑ってしまう。まあ、メロディはいいんじゃないか、と懲りていない自分にまた笑う。

「この曲、楽譜も音源も残っていないはずだが…、正直驚いた。」

「いいですねいいですね。」

「いやあ、これは面白い。どう言った仕組みなんでしょうか。」

「満足いただけて嬉しいです。…しかしお客様、もっと聞きたい音はないのですか。例えば、声、とか。」

 覗き込まれるように問いかけられ、ふわっと妻の顔が浮かんでくる。柔らかくふっくりした笑顔が青白くなっていく、あの病室のことが浮かんでくる。個室部屋の窓際に、折り紙や切り絵を飾り微笑む妻の顔が。私が来ると努めて明るく振る舞う痩せた妻の顔が。

「八重子。五年前に、死んだ妻の、八重子の声が聞きたいですね…。」

 自分の口から発されたとは思えないほど絞るような声に、まだ、八重子に先立たれた哀しみが解けていないのだと自覚した。

「それはそれは、ご愁傷様です。すみません、デリカシーのないことを聞きまして。」

「いえいえ、いいんです。故人の記憶って声から忘れるって言いますよね。私に限ってそんなことはない、と思ってはいたのですが。…いやあ、禁煙禁煙って耳にタコができる程うるさく言われた筈なんですがね、忘れちゃって。家に帰って吸ったタバコの数を数えられたなあ、なんて今思い出しましたよ。」

 ベラベラと喋ってしまい顔が熱くなる。一度にたくさん話す八重子の癖が移ってしまっていたことを今になって初めて知る。聞き取れないから一つ一つしっかりと話せ、と叱っていた前の自分を滑稽に感じた。

「すみません、急にこんな話をしてしまい。最近、孫が生まれたところでしてね、可愛い女の子なんですが、…ああ、八重子にも見て欲しかったなぁ、と。」

 ああ、また。店主は、いいんですよいいんですよ、と言いながら箱を耳に当てるよう促す。


『こら、雄二さん。二本多く吸ったでしょう。また会社で何かあったの。今度は上司? それともお客さん? もういい歳なんだから、人に振り回されてイライラしてタバコ吸うなんて、本当、勿体無いわよ。』

「…八重子? 」

『ご飯出来ているけど、先にお風呂は入ってくる? いや、冷めてしまうから先食べちゃいましょう。今日は、おでん、温まるでしょ。牛すじ多めに入れておいたから、準備してくるわね。』

 そうか、八重子は私の大好きなおでんを用意して待っていてくれたのか。ありがたい、…おい、牛すじより蒟蒻の方が多いじゃないか。

『そういえば、頼んでいたおつかいは? …その様子じゃ今日も忘れたようね。明日は忘れずに買ってこなきゃねえ。』

 そうだ、すっかり忘れていた。どうもここ最近、忘れっぽくなっているようだ。

『でも、なんだか今日はまっすぐ帰って来てくれて良かったわ。』

 どうして?

『あの駅よ、同道駅。雄二さん、たまにタバコを吸いに降りるじゃない。私が子供の頃、北の商店街を一人で歩くと物の怪に連れていかれる、なんて母によく脅されたものだわ。雄二さんはこの手の話聞いてくれないじゃない。』

 ああ、同道駅ねえ。同道駅…、商店街…。

「同道駅! 」

「あら、お客様。気づかれたようですね…。さっきまであんなにぐっすり眠ってらしたのに。」

 店主の残念そうな声が聞こえた。いつの間にか床に寝そべっていた私は、上半身を起こすと辺りを見渡した。何故か、汗が吹き出る。…待て、店主の顔を見るな。頭の中で警鐘が鳴る。直後、私の体は動き出す。細長いバルーンに勢いよく空気が入るかのように体をしならせ起こす。逃げるように店を飛び出した。そして、商店街の大通りへと走り出た。

 道の真ん中を全速力で走るが、足腰に力が入らず呼吸が苦しくなる。それでも、足をできるだけ早く回転させ出口へと向かう。途中で踊り狂う女たちがこちらを指差し何かを叫んでいる。酔っ払いはグラスを振り回しながら後ろを追ってきている。明らかに異様な光景であることはわかっている。わかっているが、考える時間、余裕などない。走らねば、逃げねば、ただそれだけ。縺れそうになっていた足に少しずつ力が入る。肺がたくさんの空気を取り込み始める。道を蹴る音がだんだんと軽くなっていると自覚する。そして、俺はどんどん店を通り過ぎ、商店街の入り口を抜けた。何かがこちらをずっと見ているような感覚があったが、決して振り返ることはなかった。


 駅のロータリーへ入ると、自然と恐怖は薄れ、走ってきた商店街の方を振り返る。しかし、そこには煌びやかな商店街なんてものはなく、古びた小さなシャッター街がひっそりと根を張っていた。あれ、さっきまでなぜあんなに走っていたのだろう。何故、こんなに息が切れるまで走っていたのだろう。思い出せない。何が何だか分からないが、ひとまず落ち着かなければ、とロータリー横のベンチに座る。冷たい風が頬にぶつかり気持ちがいい。遠慮せず思いっきり吸い込むと、冷えた空気が喉を通って熱くなった体内を落ち着かせる。一方、頭だけはどうしてもスッキリしない。ああもう、一旦タバコだ。胸ポケットに入った黄色い箱をつかもうとするが、手先が震え取り出せない。どうにもならず、煮詰まった息を吐き項垂れていると、スーツ姿の小柄な女性が声をかけてきた。

「あの、どうかされましたか。すごい汗ですが。」

「…あ、いえ、大丈夫です。…少し走ったので。」

「顔、真っ青ですよ。しばらく安静に、ここで休んでくださいね。」

 女性はそう言うと、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買い、戻ってきた。俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。女性は、俺の胸ポケットの箱を見て、ムッと表情を変える。

「お身体お大事になさってください。あと、お節介かもしれませんが…タバコはあまりお体に良くありませんよ。特に今は! 」

「あ、はい。ごめんなさい。」

 俺の返事が面白かったのか、ぷっと吹き出す女性。大丈夫そうですね、と女性は立ち上がり踵を返す。その後ろ姿に何か既視感を感じ、とっさに引き留めた。

「あの! ありがとうございます。…今度お礼をさせてください。あの…、お名前、お伺いしてもいいですか。」

 すると、女性は少し困った表情を見せて、

「北条八重子です。」

と名乗った。

(完)


 2020年5月にプロットを作成し、当初4000文字程度の短編小説として制作しました。「もう一度読みたい!」と思っていただくためにはどのような物語にしようか、と悩んだ末、『物の怪商店街』というモチーフが浮かびました。

 主人公の雄二について。果たして、雄二は今現在何歳? と疑問を持つと思います。八重子に先立たれ、過去の出来事を回想しているのか。それとも、若い雄二が未来を垣間見たのか。もしかしたら、宇宙にいる私たちが一人の人生を眺めていただけかもしれません。読んでくれた人の中に疑問と解決が生まれたらな、と思います。


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