これがなろうというものか
私には文才があるのではという話を、30歳ごろまでは時折聞くことがあった。
大学のサークル活動の年次報告資料、Facebook、職場の寄稿文など、文章を作る機会は多く、その度に比較的読みやすく最終的には何らかのオチのあるような文章を書いてきていた。
その後もSNSでの長文投稿など、何らかの文章を書き、自分が現在考えていることを書き記してはいたが、やはりこのような改まった文章を身内に晒すのは徐々に恥ずかしものだと思うようになった。
顔を合わせるような関係の人間に、自分の心理状態を把握して貰う必要はない。
ただ、真面目にというか、自分の意志の届く範囲で恥じることのない仕事をこなしながら、36歳まで頑張ってきたものの、未だ我が身の所在は定まらず。プライベートの身分が浮動的であると心理状態にも方向性を与えることはできず、現在も思春期のニキビ男の思うような悩みをかましつつ、嗜好に合うような新作アニメーションを眺めては愚息をしごき倒すような日々。
最早多くの同輩が家庭を持ち、人間らしい生活をする中、そういった生活の存在を夢想はするものの、自分の分別ではプライベートに異物を入れる決断は結局しないんだろうなと気付き始めた30代後半の差し掛かり。
もうSNSで共感を得るのは難しいだろうなという実感から、どこか別の洞穴に、恥部をさらけ出したいという感覚を持ち始めた、改めて36歳という年齢の私は、結局これはエッセイ的なものとしてなろうに流すのが一番ストレス発散になるのではないかという結論に達してきた。
ここならば当然ながらもっと長い文章の方が多いため、自分がささやかな駄文を垂れ流そうと、特にこれが長文乙などと考えるような者もおらんし、たまにファンタジックな発言をしても、異世界にその身をやつしたい者があふれる空間であるから、ポエミィであっておかしいこともない。
好きなだけ駄文の限りを尽くし、それが長文でポエミィだからと恥ずかしく思う者も少なく、極論を言えばこのようなとりとめのない長文の墓場としては非常に妥当な捨て場である。
ああこれが徒然なるままということで、平安期は何となく高級品の紙が何か知らんけど沢山貰えたから気に食わんことや気にとまったことがあるし、オレ正直文才あるから需要もあるだろうなどという多少の奢った気持ちで高級品を消耗して書いていたのだろうが、私はこのサーバーの中のわずかな欠片として、日々思ったことを記していくのがとても快適だと思ったので、「安い書付が見つかった」と思って、この駄文を書きつけていこうと思ったりする。
しかし、これが本当に面白いと思う、共感できるという者がいれば、それも面白いなぁ、共感得たいよなぁと思ったりする。
あ、仮想異世界エッセイでも書いてみるか。
昨日深酒をして寝落ちしたと思ったら、二日酔いで草原の真ん中に放り出されていた。
「Oops…ここ、どこ…?」
地酒を買い込み、一人で泥酔していた私は、なろう系小説の草原の真ん中で盛大にゲロを吐いていた。今まで、Facebook丘陵、Twitter海岸で似たようなことをやっていたが
飽きた。まあ随筆書きます。今日の雑感をまた後程ね。