32 霧の狙いと高坂の覚悟
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潮の香りと波の音、そして霧のパーカーが風でパタパタと揺れる音が高坂の耳朶をうつ。けれど彼が見ているものは、サングラスを外した霧の潤む瞳だけだった。
高坂はずっと、霧は結婚なんて古風な概念とは無縁だと思っていた。けれど彼女は、はっきりと自分の口で、それを望んでいると言う。
高坂の咽喉が、大きく上下した。なのに乾ききった口は唾液を生み出さず、彼の声を掠れさせる。緊張で胸が張り裂けそうだった。
「ああ、いや――その言葉は、俺が言うべきだろう、霧――……」
高坂は絞り出すような声で言った。
断る理由が一切ない。だから消去法で、現状を受け入れたのだ。あとは男の意地だった。やはりこういう時、未来への一歩を踏み出すのは男であるべきだと思っていた。
――俺も案外、古風なのか?
心臓が早鐘のように鳴る。それは、まるで物事の急展開に合わせているかのようだった。けれど霧はキョトンと高坂を見上げたまま、何も言えないでいる。
高坂の答えがYESかNOか、混乱した霧の頭では認識ができなかった。
「なに、どういうこと?」
霧が不安そうに手を胸の前で組み、高坂を見上げている。
もっとハッキリ言わなければと、高坂は思った。肝心な所で度胸の無い自分、決断できない自分が本当に嫌になる。
ギターが無ければ、自分はゴミなんじゃあないかと思う。だったらギターさえあればいいのかと、唐突に思った。
「霧、結婚しよう。指輪とか、まだ用意できてないけど――でも……――とにかく結婚だ!」
ギターを手にしているつもりで、高坂は言い切った。心臓が緊張で爆発しそうだ。
映像で見たウッドストックのジミヘンも、国歌を演奏する時これ程の緊張をしたのだろうか? 不安があっただろうか?
ミュージシャンは、二十七歳で死ぬのが最高にカッコイイと思っていた。なのに今、プロポーズして。だから髪を描き回し、高坂は言葉にならない思いを空にぶつけていた。「ああああッ!」
――俺はかっこ悪いのか……? かっこ悪いんだろうな……。大好きな人に想いも告げられず、二十七歳を過ぎて流されるように結婚を選ぶ。だっていうのに、こんなに緊張しちまって……。
「……嬉しい!」
数秒の間があり、霧は高坂に抱き付いた。夕日に照らされた二人の長い影が絡み合い、くるくると回っている。回りながら霧が、あれこれと言っていた。
「指輪なんていらない。その代わり先輩は、もう働かないで。ずっと家にいて、好きな時に曲を作って、ご飯食べて、夜はあたしと一緒に寝よう。それだけでいいんだ……」
「……えっ!? 働かなくていい!?」
「だってそうでしょ? 仕事ならあたしがやればいいし、先輩が曲を書いてくれるなら、それで十分だよ。今の会社のお給料、いくら? 四十万、五十万? そんなはした金、あたしは要らないから」
「あ、いや、その……給料はむしろ手取りで二十二万っていうか……その、そんなになくてゴメン……」
「だったら、本当に仕事やるなんて無意味。曲が出来たらギャラだって支払われるし、何よりこれからは、あたしが先輩を養ってあげる。お小遣い、月に百万円くらいあればいい?」
「え、その……霧……? 俺はそういうんじゃあなくて……だな」
「フフ、フフフ……これから、ずっと――ずーっと一緒だね、セ・ン・パ・イ」
「お、おう……そうだな」
霧の笑顔にどす黒いナニカを感じた高坂は、高揚感が一気に冷めていた。仕事を辞めろとは、一体どういうことだろう。毎月百万をくれると言うのは有難い話かも知れないが、何かが違うと思う、高坂なのであった。
■■■■
海が夕日を反射して、水面に美しい朱色を映し出していた。
気温も徐々に下がり、少し肌寒くなっている。
高坂と霧は秋山達が待っているであろう場所へ、ようやく戻ることにした。が、しかし途中で霧が高坂に寄り添い、「キスがしたい」などと我儘を言い始めて……。
「お前な……写真撮られたら、どうすんだよ?」
「いいじゃん、どうせ結婚するんだし。見せびらかしてやろうじゃないの!」
何故か袖をまくり上げ、盛り上がらない力こぶを見せびらかす霧だった。
とはいえ高坂も、ほろ酔いだ。霧のように可愛らしい女性にキスをせがまれて、悪い気などするわけが無い。ましてや彼女は自分の恋人なのだから、誰に悪びれる必要もなかった。
周囲に人がいないことを確認して、二人は身体を密着させた。長い睫毛を伏せて目を瞑った霧に、高坂は唇を近付けていく。
だが――実際のところ、周囲に人影はあったのだ。高坂が後ろを向いたから、その存在が確認出来なかっただけのことで。
逆に霧は人影が誰であるかも、十分に知っていた。だからこそ、この場所でキスがしたいと言い出したのだ。彼女は遠くから迫る人影を薄目で見ると、塞がっている唇を僅かに持ち上げるのだった。
――――
秋山陽華と久あすかは高坂と霧が戻らないので、連れ立って二人を探しに行くことにした。昼間の秋山の件があるから、万が一海で溺れたら大変だと久が提案したのだ。
そうして二人で砂浜を歩いていると、高坂と霧の姿を秋山陽華が前方に発見した。
「なあ、久、二人を見つけたぞ。だから戻ろう」
「どうして?」
「いやその、恋人同士の時間を邪魔するのは、ヤボというものだろう」
「二人がイチャついているのですか?」
「う、うむ。というか、イチャつこうとしている雰囲気なのだ」
「だったら、確認をするべきです。何なら邪魔を――……」
久は秋山の言う事を聞かず、ズンズンと足を前に進めて行った。秋山陽華は一人で戻るのも忍びなくて、何となく久あすかの後に付いて行く。そうして二人は、高坂良と霧のキスシーンを目の当たりにするのだった。
「もう、戻ろう――あんなもの、見ていたって気分が悪くなるだけだ……」
「悔しいのですか、霧に見せつけられるのが」
下唇を噛んで回れ右をした秋山の腕を掴み、久が言った。
「く、悔しくなんて無い。そもそもなぜ、わたしが悔しがる必要があるのだ」
「あなた、高坂さんのことが好きなのでしょう?」
「……は?」
目と口を丸く開いて、秋山が驚いている。
「分かるんです、私」
「どうして……?」
「同じ人を好きな人のことって、何となく分かるんですよ」
「それって、久。あなたも高坂が好きと、そういうことなのか?」
「ええ、そうです」
「それは、何というか……残念だったな」
「どうして残念なのですか?」
「だって高坂はもう、霧様の恋人なのだし……」
「うふふ、いいじゃありませんか、そんなこと。むしろ私達は同じ人を好きになった者同士、『強敵』と書いて『とも』と呼ぶ、アレなのですよ」
「は?」
カクンと首を傾げる秋山に、久は人差し指を立てて提案した。渾身のボケが相手に刺さらずスルーされても、彼女には動じない強さがあるのだ。
「だからここは一つ、協力しませんか?」
「何を、だ?」
「きっと霧は高坂さんの心がまだ揺れているから、こうして私達に見せつけているんです。だから高坂さんの、本当の気持ちを聞き出す為の協力ですよ。嫌ですか?」
「いや――……ではない。やろう」
秋山陽華は珍しく緑玉のようは瞳にやる気と言う名の火を灯し、大きく頷くのだった。
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