25 ずれていく三人の関係
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リビングで座り込んでいた秋山陽華が、フラフラと自室へ戻って行く。自分の身体なのに、天井に仕込まれた糸で操らているような、無意識の動きだった。
上階の寝室で、一体何が起きているのか――秋山陽華は考えるまでも無く分かっている。だからこそ一切の意識を遮断して、自らの行動を何か別の意志に任せてしまいたかった。自分が自分であるままでは、ただ悲しくて悔しくなってしまうだけだから。
時刻は午前二時を過ぎ、部屋に戻った秋山はクローゼットを開け、寝具を取り出して敷いた。
寝具はアパートに引っ越して来た時、実家から持ってきたセットである。掛布団のシーツにプリントされた可愛らしい熊の絵柄が、今は妙に憎らしい。
あの頃は、この布団に包まれて眠ることが当然だった。だというのに高坂と一緒のベッドで眠って以来、一人で眠る夜がたまらなく怖い。
一度何かを得た人間は、それを失うことを恐怖する。そういう話を思い出し、秋山陽華は奥歯を噛みしめていた。
――あのアパートの隣に引っ越した頃は、楽しかったな。あのまま変わらない毎日が続いていたら、わたしは……それだけで幸せだったのだ。
秋山陽華は最初、「高坂と普通に話せるようになれたらいいな」と考えていた。
アパートの玄関先で高坂と普通に会話を交わしたあとは、「友達になって、たまには食事に行けるような関係になれたらいいな」――こんな風に希望が膨らんだ。
一緒に暮らし始めてからは、「もしかして恋人――になれるかも」と期待をした。
もっとも、それは期待以上のものではなく、妄想に近いものだ。エルフと人間という種族の壁は高く分厚い。これを超える覚悟というものを、秋山陽華は持ち合わせてはいなかった。
そう考えれば、彼女の希望は既に叶っている。
それどころか共に暮らし、恋人になる寸前――そういう関係になれた気さえした。
だから本来なら、大成功だろう。だというのに――……。
「なんでわたしは、こんなにも悲しいのだろう……」
秋山陽華は真っ暗にした部屋で天井を見上げ、止めどなく流れる涙を拭うこともせず、寄せては返す波のような悲しみにじっと耐えていた。
「こんなことなら、高坂のことを好きになるんじゃなかった」
やがて秋山陽華は嗚咽を漏らし、身体を丸くする。
少し前までは高坂に頭を撫でて貰い、幸福に包まれて眠ることができた。だからこそ、それを失った今、絶望が足元から這い寄ってくるのだ。
あんな幸せなど知らなければ良かった、経験しなければ良かったと――秋山陽華は切実に思う。
高坂良の幸せを願った結果が、自分を不幸にする。
全ての原因が種族の差にあるというのなら、どうして自分はエルフなんかに生まれなのだろう――そう思いながら秋山陽華は僅かの時間だけ、微睡の中へと沈むのだった。
■■■■
翌朝――といっても既に正午を過ぎているが、カウンターキッチンのテーブルに高坂と霧が並んで座り、朝食をとっていた。
メニューはトーストにスクランブルエッグ、それからウインナーを一人三本といったところ。サラダの代わりに野菜ジュースがコップに注がれている。
「秋山――こないな」
「まだ寝てるんじゃない?」
「ラップ、しといてやるか?」
「あー、一応あたし、もう一回呼んでみるね。レンジで温めるより、卵は出来立ての方が美味しいと思うし」
昨夜から今朝にかけて高坂と霧の関係は劇的に変わったはずなのだが、二人はあえて今までと同じように接している。どちらにとっても今までの関係こそ、もっとも居心地が良かったのだ。なのでどちらも声が妙にぎこちなく、よそよそしい雰囲気になっている。
「陽華ちゃーん!」
秋山の部屋へ行き、霧がノックを繰り返す。特に返事は無く、いきなりガチャ――と扉が開いた。
「う……ん?」
現れたのは目の下にどんよりとした隈を作り、アホ毛の目立つ金髪を後頭部で纏めただけの秋山陽華である。
カーテンを閉ざしたままの室内はほの暗く、けれど机の上にあるパソコンだけが煌々と画面を輝かせていた。
「陽華ちゃん、寝ずに小説を書いてたの?」
「いや、少しは寝た。一時間くらいかな……。そのあと猛烈に書きたくなったから、そのまま書いていた」
「そっか――ねえ、朝ごはん作ったけど、一緒に食べない?」
「……ん、食べる」
「そ、じゃあ、早くきてね」
霧が軽く手を振り、カウンターテーブルへと戻って行く。
秋山陽華はディフォルメされた熊柄のスリッパをペタペタと鳴らしながら、霧の後を追った。
■■■■
「おはよう」
「お、おはよう」
秋山に声を掛けられて、高坂は思わず動揺してしまった。別に悪いことをしたわけでもないのに、声が上ずってしまう。しかも霧が隅に座っていた為、必然的に秋山陽華は高坂の隣に座った。
高坂が見たところ、秋山陽華に昨日のことを気にする素振りは無い。けれど横顔を見ると、妙に疲れているようだ。高坂は眉根を寄せて、心配そうに言った。
「秋山、お前、寝てないのか?」
「ん……ああ、部屋で仮眠くらいはしたが……すまんな、三人で寝ようと言ったのはわたしなのに、結局行かなかった。つい執筆が捗ってな……フフン」
微苦笑を浮かべて、秋山が言う。
「いいのよーう、陽華ちゃん! その分あたし達、楽しんじゃったから!」
ウインナーを突き刺したままのフォークを持ち上げ前後に揺らし、霧がニヤニヤと笑みを浮かべている。そんな霧に厳しい顔を向け、高坂が言った。
「おい、霧。そういうんじゃないだろ……」
「あ、ゴメンね、良」
高坂の名前をあえて呼び、霧が肩を竦めて見せる。その時、一瞬だけ秋山が眉根を寄せた。けれど何事も無かったかのように微笑し、コップに入った野菜ジュースを掲げて見せる。
「その様子だと、二人は恋人になったのだな。おめでとう」
「ありがとう、陽華ちゃん!」
霧が立ち上がり、陽華の背中に抱き付いた。
「おい、霧様――パンが食べられないだろう……ちょっと離れてくれ」
嬉しそうに笑う霧と、苦笑を浮かべる秋山陽華の姿。
これを見て高坂は、霧と恋人になる道を選んだことは、正解だったのだなと思う。逆であれば、こうして三人で和やかに朝食を食べる――などということは出来なくなったに違いない。
――だが、その時ふと秋山が寂しそうな顔をして。
「だが、二人が恋人になったとなると――ここにわたしがいることは、邪魔なのではあるまいか……?」
高坂は固唾を飲んで秋山の顔を見つめ、顔を左右に振る。
霧もまた、「そんなこと無いよ!」と大きな声で否定をするのだった。
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