表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/36

20 霧の補完計画

 ■


 高坂は秋山の背中に腕を回し、抱きしめた。

 パスタを入れた鍋が沸騰して、コポコポと音を立てている。


「秋山――……」


 柑橘系の爽やかな香りが秋山陽華の髪から漂って、高坂の心をかき乱す。彼女は抵抗するでもなく、ただ両腕を広げ、茫然としているようだった。


「こ、高坂……夫婦なら……、こう……なる……のか?」


 再起動が終わったパソコンのように、突如として秋山が口を開く。長いまつ毛を上下に揺らし、目を見開いていた。


「たぶん」


 暫くして秋山も、高坂の背中に腕を回す。今度は高坂が、目を見開く番だった。


「秋山?」

「夫婦なら、こうするのだろう?」


 二人は互いの温もりを確かめ合い、それから僅かに距離を開けた。見つめ合い、少しだけ口を開く。自然とお互いの唇が近づいた。どちらからともなく目を閉じる。


 高坂にとって秋山の吐息を感じ、肌に触れることは夢だった。

 彼女の存在があったから曲を書けたし、手が届かなかったからギターに情熱を傾けたのだ。

 けれど実際に手を触れ抱き合っている今が、そんな過去を蔑ろにしているような気がして……。


 ――俺はまだ、秋山に気持ちを伝えていない。なのにキスをして、それからどうしようっていうんだ?


 急に止まった高坂を、潤んだ瞳で秋山陽華が見つめている。


「人間の夫婦がすることを、わたしも試してみたい……」

「小説の為に……か?」


 鼻が触れ合う程の距離で、二人は会話を交わしている。


「違う」

「じゃあ、どうして?」

「高坂は、嫌なのか? わたしとキスをするのが……」

「嫌じゃない――でも秋山は、いいのか? ――俺なんかとキスをして」


 軽く下唇を噛んで、秋山陽華は考えている。

 彼女も高坂に、ずっと言いたいことがあった。

 今ここでなら、言えるかもしれない。

 あるいは――今ここでしか言えないかも知れない。


「高坂――」

「――秋山」

「ただいまぁ!」


 三つの言葉が三人の口から発されたのは、ほぼ同時のことであった。


 ■■■■


 玄関からパタパタと慌ただしい足音が聞こえてくる。

 高坂と秋山が身体を離したのは、音が聞こえた瞬間であった。まるで磁石の同極のように弾かれて、二人はキッチンの隅と隅へ行く。


 秋山は落ちた野菜を拾い、高坂が鍋のパスタを確認する。


「あー、ふやけたか」


 パスタを一本つまんで持ち上げ、口の中へ放り込んでから高坂が言った。


 霧は手洗いうがいを済ませると、すぐにキッチンへやってきて惨状を見渡し、眉根を寄せている。


「パスタを作ろうという諸君の努力は認める。でもね――ぜんっぜんダメ! 茹でるなら時間くらい計りなさいよ!」


 霧の苦言は尤もだった。

 高坂だって、その程度のことは理解している。

 だが時間を忘れるような出来事が起きたのだから、仕方がないのだ。

 苦笑を浮かべ、高坂が後頭部を掻いている。本当のことを言う訳にもいかず、チラリと秋山を見た。


 秋山はパスタよりも茹ってしまった頭で、言い訳を必死に考えている。

 霧を応援すると約束をしたのに、さっそく自分の気持ちに負けそうになってしまった。


 胸の奥に燻っていた恋心が彼に触れた瞬間、爆発したのだろう。

 今でも胸がドキドキとうるさい。

 自分がどうなってしまったのか、初めての経験に秋山は戸惑っていた。


「は、計ろうと思ったのだ! し、しかし霧様! まさか茹でたら泡が出るなんて思わんだろう!?」


 ことさら高坂と距離を取り、秋山は手足をジタバタさせていた。

 一方、少しだけ落ち着きを取り戻した高坂はレタスをちぎり、二つの小皿に敷き詰めている。


「ていうか霧――早かったな」

「うん、何となく二人が心配だったから――飲みに行かないで帰ってきちゃった」

「ふぅん。じゃあ、霧もパスタ食う?」

「うんうん――食う!」


 高坂は頷き、小皿をもう一つ用意した。そこにレタスを敷き詰め、スライスしたニンジンやキュウリを乗せていく。こうした技を、彼は霧と暮らすうちに覚えていったのだ。

 パスタの方は秋山に代わって、白いエプロンを付けた霧がお湯を切っている。それからもう一束茹で始め、キッチンタイマーをセットしていた。


 秋山はそそくさとリビングへ行き、テーブルの上を拭いている。ここは二人に任せると見せかけて、今だ激しい鼓動の収まらない胸を、何とか抑えようと考えてのことだった。


 それに秋山は霧が「心配で」と言った瞬間、悪事を見つかった犯罪者のような気持になったのだ。

 自分が高坂のことを好きでも、本来ならば誰憚ることはない。

 けれど霧も高坂の事が好きだと知り、彼女を応援すると決めたのは他ならぬ自分自身。であれば先程のことは、明らかなルール違反だと秋山は思うのだった。


 ■■■■


 食卓にはパスタとサラダ、そして恒例の缶ビールが並んでいる。

 

「再び三人が揃ったことを祝して、カンパーイ!」


 霧が元気よく音頭を取って、高々とビールを掲げた。誰もグラスに酒を注ぐ――などという洒落たことはしない。コンッと液体の満たされた缶がぶつかる独特の音が、室内に響いていた。


「霧さ、飲み会参加しなくて本当に良かったのか?」


 高坂の問いに、霧がニヤッと笑みを浮かべて答える。


「うん、まあちょっとは悪いと思ってるけど――考えてみたら今日って先輩が来た初日でしょ。大切にしたいなぁって思ったから」

「お前さ、そういう照れ臭いことよく言えるよね。あれか、また病み期?」

「おい、おいおいおい――そゆこと言うなよなぁ……こっちは結構真剣なのに」


 横に並んで会話をする高坂と霧の姿を上目遣いで眺め、秋山が席を立った。食器を洗い、そそくさと自室へ引き上げていく。珍しく彼女は、缶ビールを一本飲んだだけであった。


「秋山――?」


 後を追おうとした高坂を、霧が止める。


「あー……今さ、陽華ちゃん小説で忙しいから。それより先輩、今日は引っ越しで疲れたでしょ? お風呂、入ってきたら?」

「ん? ああ、そうだな。そうさせて貰うわ」


 高坂がバスルームへ姿を消した後、霧は秋山の部屋へ行く。


「ねえ、陽華ちゃん」

「ん?」

「今ね、先輩がお風呂に入ってるの」

「うん……それで?」

「あたしも一緒に入ろうと思うんだけど――」

「だ、ダメだろう、そんなの!?」

「――なんで? 陽華ちゃん、あたしのこと応援してくれるんじゃ、なかったのかなぁ?」

「……そ、その……なんで……わざわざ言うんだ、そんなこと……」

「そりゃね……あたしがお風呂に入っていったら、先輩騒ぐでしょ。で、何も知らなかったら陽華ちゃん、何事かと思って来ちゃうでしょ?」

「う、うむ」

「だから、その時に無視してもらう為よ!」

「わたしが無視したら、どうなるんだ?」

「ふふん――先輩があたしに、ドキドキする!」

「つまり、わたしが何もしないということが、霧様を応援することになるのだな?」

「うん、なる! そんであたし、今夜キメるから!」

「……そうか、わかった」

お読み頂きありがとうございます!

面白いと思ったら感想、評価、ブクマなど頂けると大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ