20 霧の補完計画
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高坂は秋山の背中に腕を回し、抱きしめた。
パスタを入れた鍋が沸騰して、コポコポと音を立てている。
「秋山――……」
柑橘系の爽やかな香りが秋山陽華の髪から漂って、高坂の心をかき乱す。彼女は抵抗するでもなく、ただ両腕を広げ、茫然としているようだった。
「こ、高坂……夫婦なら……、こう……なる……のか?」
再起動が終わったパソコンのように、突如として秋山が口を開く。長いまつ毛を上下に揺らし、目を見開いていた。
「たぶん」
暫くして秋山も、高坂の背中に腕を回す。今度は高坂が、目を見開く番だった。
「秋山?」
「夫婦なら、こうするのだろう?」
二人は互いの温もりを確かめ合い、それから僅かに距離を開けた。見つめ合い、少しだけ口を開く。自然とお互いの唇が近づいた。どちらからともなく目を閉じる。
高坂にとって秋山の吐息を感じ、肌に触れることは夢だった。
彼女の存在があったから曲を書けたし、手が届かなかったからギターに情熱を傾けたのだ。
けれど実際に手を触れ抱き合っている今が、そんな過去を蔑ろにしているような気がして……。
――俺はまだ、秋山に気持ちを伝えていない。なのにキスをして、それからどうしようっていうんだ?
急に止まった高坂を、潤んだ瞳で秋山陽華が見つめている。
「人間の夫婦がすることを、わたしも試してみたい……」
「小説の為に……か?」
鼻が触れ合う程の距離で、二人は会話を交わしている。
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「高坂は、嫌なのか? わたしとキスをするのが……」
「嫌じゃない――でも秋山は、いいのか? ――俺なんかとキスをして」
軽く下唇を噛んで、秋山陽華は考えている。
彼女も高坂に、ずっと言いたいことがあった。
今ここでなら、言えるかもしれない。
あるいは――今ここでしか言えないかも知れない。
「高坂――」
「――秋山」
「ただいまぁ!」
三つの言葉が三人の口から発されたのは、ほぼ同時のことであった。
■■■■
玄関からパタパタと慌ただしい足音が聞こえてくる。
高坂と秋山が身体を離したのは、音が聞こえた瞬間であった。まるで磁石の同極のように弾かれて、二人はキッチンの隅と隅へ行く。
秋山は落ちた野菜を拾い、高坂が鍋のパスタを確認する。
「あー、ふやけたか」
パスタを一本つまんで持ち上げ、口の中へ放り込んでから高坂が言った。
霧は手洗い嗽を済ませると、すぐにキッチンへやってきて惨状を見渡し、眉根を寄せている。
「パスタを作ろうという諸君の努力は認める。でもね――ぜんっぜんダメ! 茹でるなら時間くらい計りなさいよ!」
霧の苦言は尤もだった。
高坂だって、その程度のことは理解している。
だが時間を忘れるような出来事が起きたのだから、仕方がないのだ。
苦笑を浮かべ、高坂が後頭部を掻いている。本当のことを言う訳にもいかず、チラリと秋山を見た。
秋山はパスタよりも茹ってしまった頭で、言い訳を必死に考えている。
霧を応援すると約束をしたのに、さっそく自分の気持ちに負けそうになってしまった。
胸の奥に燻っていた恋心が彼に触れた瞬間、爆発したのだろう。
今でも胸がドキドキとうるさい。
自分がどうなってしまったのか、初めての経験に秋山は戸惑っていた。
「は、計ろうと思ったのだ! し、しかし霧様! まさか茹でたら泡が出るなんて思わんだろう!?」
ことさら高坂と距離を取り、秋山は手足をジタバタさせていた。
一方、少しだけ落ち着きを取り戻した高坂はレタスをちぎり、二つの小皿に敷き詰めている。
「ていうか霧――早かったな」
「うん、何となく二人が心配だったから――飲みに行かないで帰ってきちゃった」
「ふぅん。じゃあ、霧もパスタ食う?」
「うんうん――食う!」
高坂は頷き、小皿をもう一つ用意した。そこにレタスを敷き詰め、スライスしたニンジンやキュウリを乗せていく。こうした技を、彼は霧と暮らすうちに覚えていったのだ。
パスタの方は秋山に代わって、白いエプロンを付けた霧がお湯を切っている。それからもう一束茹で始め、キッチンタイマーをセットしていた。
秋山はそそくさとリビングへ行き、テーブルの上を拭いている。ここは二人に任せると見せかけて、今だ激しい鼓動の収まらない胸を、何とか抑えようと考えてのことだった。
それに秋山は霧が「心配で」と言った瞬間、悪事を見つかった犯罪者のような気持になったのだ。
自分が高坂のことを好きでも、本来ならば誰憚ることはない。
けれど霧も高坂の事が好きだと知り、彼女を応援すると決めたのは他ならぬ自分自身。であれば先程のことは、明らかなルール違反だと秋山は思うのだった。
■■■■
食卓にはパスタとサラダ、そして恒例の缶ビールが並んでいる。
「再び三人が揃ったことを祝して、カンパーイ!」
霧が元気よく音頭を取って、高々とビールを掲げた。誰もグラスに酒を注ぐ――などという洒落たことはしない。コンッと液体の満たされた缶がぶつかる独特の音が、室内に響いていた。
「霧さ、飲み会参加しなくて本当に良かったのか?」
高坂の問いに、霧がニヤッと笑みを浮かべて答える。
「うん、まあちょっとは悪いと思ってるけど――考えてみたら今日って先輩が来た初日でしょ。大切にしたいなぁって思ったから」
「お前さ、そういう照れ臭いことよく言えるよね。あれか、また病み期?」
「おい、おいおいおい――そゆこと言うなよなぁ……こっちは結構真剣なのに」
横に並んで会話をする高坂と霧の姿を上目遣いで眺め、秋山が席を立った。食器を洗い、そそくさと自室へ引き上げていく。珍しく彼女は、缶ビールを一本飲んだだけであった。
「秋山――?」
後を追おうとした高坂を、霧が止める。
「あー……今さ、陽華ちゃん小説で忙しいから。それより先輩、今日は引っ越しで疲れたでしょ? お風呂、入ってきたら?」
「ん? ああ、そうだな。そうさせて貰うわ」
高坂がバスルームへ姿を消した後、霧は秋山の部屋へ行く。
「ねえ、陽華ちゃん」
「ん?」
「今ね、先輩がお風呂に入ってるの」
「うん……それで?」
「あたしも一緒に入ろうと思うんだけど――」
「だ、ダメだろう、そんなの!?」
「――なんで? 陽華ちゃん、あたしのこと応援してくれるんじゃ、なかったのかなぁ?」
「……そ、その……なんで……わざわざ言うんだ、そんなこと……」
「そりゃね……あたしがお風呂に入っていったら、先輩騒ぐでしょ。で、何も知らなかったら陽華ちゃん、何事かと思って来ちゃうでしょ?」
「う、うむ」
「だから、その時に無視してもらう為よ!」
「わたしが無視したら、どうなるんだ?」
「ふふん――先輩があたしに、ドキドキする!」
「つまり、わたしが何もしないということが、霧様を応援することになるのだな?」
「うん、なる! そんであたし、今夜キメるから!」
「……そうか、わかった」
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