19 君を抱きしめたくて
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午後五時過ぎ、高坂のスマホに秋山からの着信があった。
「ごめーん! 今日、このままスタッフと飲みに行くから、帰り遅くなる! 陽華ちゃんと適当にご飯食べておいて! あと先輩、ベッドは二階の寝室のやつを使ってね!」
「なんでだよ? ベッドも持ってきたし、もう一緒に寝る必要ねぇじゃん」
「ダメだよ! それじゃ、何の為に一緒に暮らすんだか分からないじゃない! じゃあ、後でね!」
言いたい事だけを言うと、霧は慌ただしく通話を切った。忙しいのだろう。
高坂は壁際に設置した本棚に本を並べている最中だったが、霧の電話で作業を一時中断していた。
といっても背表紙を眺めては中を覗き込み、内容を思い出しながら並べていたので、作業は遅々として進んでいない。
しかし室内を見渡せばテーブルも座椅子も置いてあるし、壁にテレビも掛かっている。あと五個ほどの段ボールが残っているが、何も今日中に全てを開けなければ死ぬという訳でもないのだ。もう、この辺でいいだろう。
首を右手で押さえ、コキコキと鳴らしてから高坂は立ち上がった。いま霧と話した内容を、秋山に伝えようと思ったのだ。
とはいえ――何か適当に食べると言っても、食材が用意してあるのか。
あったとして秋山は料理が壊滅的に下手だし、高坂だって同じレベルである。
となると食事は宅配か、もしくは外食という選択が無難であろう。コンビニ飯は食べ過ぎていて、高坂はもう食傷気味なのだ。
――コンコン。
高坂は隣の部屋をノックし、秋山に声を掛けた。扉には「秋山エルフ」と書かれたプレートが、ぶら下がっている。
「秋山ー」
「…………」
気配はするが、無言だ。高坂はもう一度「秋山」と声を掛け、ドアノブに手を掛けた。どうやら鍵は掛かっていないらしく、無音で扉が開いていく。
パタパタパタ――というキーボードを叩く無機質な音が、室内に響いていた。
それが止まり、「うーん……」――秋山の悩ましい声が聞こえてくる。
「主人公がピンチになるのはいいが――このままでは死んでしまう。助ける手立てがないぞ……どうしたものか……」
彼女は今、小説を書いているようだ。机に座ってパソコンを前に、腕組みをしている。扉を開けた高坂にも気付かないほど集中し、独り言を口にしていた。
――邪魔するのも悪いな……。
高坂はそっと扉を閉めて、霧のプライベートスタジオに行く。
あれほど創作に没頭する姿を見せられたら、自分も何かをやりたくなったのだ。
というより、彼女の姿が眩しかった。
今の何でもない自分では、声を掛けることさえ許されないような気がしたのだ。
高坂は防音扉を閉めてから、ギターをアンプに繋いでいく。エフェクターなんて要らない。ただ歪ませた音で、思うままにギターを掻き鳴らす。
自分が誰のことを好きで、何の為に働き、どうして息を吸っているのか。
根源的な疑問が頭蓋の中を駆け巡り、歪んだ音がそれらを吹き散らす。
いつの間にか高坂の頭の中では新しいメロディーが浮かんでは消え、やがて一つの像へと収束していくのだった。
■■■■
無心でギターを掻き鳴らしていたら、秋山が扉の前に立っていることさえ気が付かなくて。
高坂がふと振り返った時、そこには珍しく微笑んでいる彼女の姿があった。
「いつからそこに?」
薄っすらと浮かぶ額の汗を袖で拭い、アンプの電源を落とす。それからシールドを抜いてギターを壁に戻し、高坂は照れ臭そうに頬を掻いた。
「さあ、一時間くらい前から――かな?」
「えっ……」
高坂が壁に掛けられた時計に目をやると、既に八時も近かった。そういえば腹も鳴っている。
秋山の作業を邪魔するまいと思ってギターを弾き始めたら、自分の方が没頭してしまったらしい。
「余りにも真剣にギターを弾いているから、声を掛けそびれてな。腹も減ったし、どうしようかと相談したくて来たのだが……」
微苦笑を浮かべる秋山は美しく、高坂は思わず目を逸らした。
「ああ、そういえば――霧から電話があってさ、スタッフと飲みに行くから、適当に二人で食っててくれって言われたんだよ」
「うむ、やはりそうか。帰りが遅いから霧様に電話をしてみたのだが、出なくてな」
「え――電話って秋山、スマホ持ってないんじゃなかったっけ?」
「うむ、持っていないぞ。だから、この家の電話で霧様に掛けたのだ」
「――そういうことか」
高坂は、納得したように頷いている。
妙なところを見られてしまったと思い照れ臭かったが、秋山は特に何も思っていないらしい。そう考えることにして高坂は、何とか落ち着きを取り戻した。
室内の照明を落とすと秋山を促し、高坂はリビングへと戻っていく。
「ピザでも頼むか?」
ソファーに座り、高坂が訊いた。ついでにテレビのリモコンへ手を伸ばし、適当なチャンネルを選択する。大音量でギターを掻き鳴らしていた場所から、いきなり無音になるのが辛かった。
それにある程度の間隔を開けたとはいえ、秋山陽華が隣に座っている。彼女と二人きりで部屋にいる状態というのは、実のところ今日が初めてなので緊張をしていた。
「や――ピザは高い。パスタでも茹でて食べよう」
ソファーの上に胡坐を組んで、秋山が眉根を寄せている。
彼女は無職だから、極力お金を使いたくないのだ。そのくせ妙なところでプライドが高いから、奢ると言えば大体嫌な顔をするのが常だった。
そのことを思い出した高坂は彼女に同意して、立ち上がるとキッチンへ向かう。
「その位なら、俺でも作れるな」
秋山も高坂の後に立ち上がる。
「いや……ここは二人で作ろう!」
高坂は背中に楽し気な秋山の声を聞き、少し嬉しくなるのだった。
「ええと、確かパスタはここに……」
大きな鍋を用意して、秋山がパスタを棚から取り出した。
高坂は冷蔵庫の中をあさり、使える野菜を探してサラダを作る算段だ。
二人の料理能力がいくら低くても、パスタとサラダ程度なら何とかなるだろう。そういう考えであった。
しかし二人の能力は本人達が思う以上に低く、パスタを茹でていたら泡が鍋から溢れてきた。それでどうしていいかも分からずに、パニックが起こる。レタスの葉が舞い、ニンジンが床に転がった。
「ははははははッ! どうしてそんな、泡が出てくるんだよ!」
慌てる秋山をしり目に火力を弱め、高坂が笑う。
秋山は床のニンジンを拾いながら、「そんなに笑わなくても良かろう!」と頬を膨らませている。拾ったニンジンを高坂の鼻先に付けて、眉を吊り上げていた。
二人はその時、同時にドキリと心臓が弾むのを自覚して――。
「なあ、高坂――昼間の引っ越し業者がさ、わたしのことを奥さん――なんて呼んだな?」
「ああ、呼んだな」
「もし本当に夫婦だったら、こんな風なのかな? わたし達……」
「本当に夫婦だったら、もう少し違うだろ……」
「どう、違うんだ」
今が全てを打ち明けるチャンスだと、高坂は思った。
本当に夫婦なら、今頃彼女を全力で抱きしめている。抱きしめたかった。
だからニンジンを持ったままの秋山の手を掴み、ぐっと引き寄せる。二人の距離が急速に縮まった。
「そうだな、夫婦だったら多分、こんな風に――」
「ま、待てっ……高坂っ……いきなり何をっ……!」
高坂良は秋山陽華を、この時初めて抱きしめた。
ニンジンが白い手から零れ、床にゴロリと転がっている。
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