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10 大事にしているもの

 ■


 朝から満員電車に駆け込んだ高坂は、ズキリと痛む頭のせいで眉間に皺を寄せていた。夕べ飲み過ぎたことと、秋山=エルフィーネ=陽華が同じ部屋で眠っていたから、緊張してあまり眠れなかったことが原因である。


 目を閉じて目的地まで自分の世界に閉じ籠ることで、高坂は朝の苦痛を乗り切ることにした。身体を潰される圧迫感は存在するが、視界を閉ざしてしまえば閉塞感も多少は軽減するのだ。

 ときどきミュージシャンになっていれば、こんなつまらない経験はしなくて済んだのかな……と思わなくも無いが、それでも彼は自分の選んだ人生に後悔は無かった。


 適度に仕事をして生活の糧を得る。

 その上で趣味があれば、十分に幸せだと思うのだ。


 とはいえ転職前は残業に次ぐ残業で、趣味に時間を割くことが出来なくなっていた。だから高坂は給料が下がるとしても、迷わず転職を選んだである。


「おはようございます」


 始業の十分前に自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げる。それからメールをチェックして、始業と同時に返信するのが高坂の流儀だった。

 といって彼は頼まれれば残業もするし、人並に同僚と飲みにも行く。決して気難しい人物ではないのだ。


 午前中の仕事が終わり、高坂は近くのコンビニへ向かう。その途中でスマホに着信があり、初期設定のままの音楽が流れた。誰だ――と思って画面を見ると、昔のバンドメンバーの名前が表示されている。


「――もしもし」


 高坂は一つ舌打ちをして、画面をタップした。この時間に電話を掛けてくるということは、こちらが休憩時間であることを知っているからだろう。

 電話をしてきた理由にも、察しは付く。無視すれば会社に電話を掛けてくるかもしれない。それは避けたかった。


「良! 何でlineの返事、寄越さねぇんだよ!」

「ああ、悪ぃ……あとで返事しようと思ってたんだよ」

「あとってお前、既に十分あとだろ! 俺がline送ったの、一昨日じゃねぇか!」

「まだ二日しか経ってないだろ……」


 相手は桐生司きりゅうつかさ――シルヴラウのドラマーで、酒と筋肉が大好きな男だ。学生時代は同じバンドメンバーということもあり、高坂とは二人で飲みに行くことも多かった。しかしバンドがデビューして以降は疎遠になり、最後に会ったのは二年前か、それよりも更に前だったはずだ。


「ちっ……まあいいや。霧のことなんだけどさ、良、居場所しらねぇかな?」

「……何で俺が知ってると思うんだよ、そもそも」

「そりゃ、お前ら仲良かったから」

「それって、ずいぶん昔のことだろ? 今、霧と一番仲の良いヤツに聞けばいいんじゃねぇか? ていうか――お前だって霧の友達だろ? それなのに何も言わずにアイツ、どっか行っちゃったわけ?」

「何も言わねぇっていうか……、ウルセェな、そんなのバンド辞めたお前にゃ、もう関係ねぇだろ」

「関係ないのに霧はどこだって俺に聞くの、おかしいんじゃないのか?」

「ウルセェな、そんなのどうでもいいんだよ! 霧の居場所、知ってるかどうかだけ教えてくれって! こっちは困ってるんだよ!」

「どうして困ってるんだ?」

「レコーディングの最中だし、インタビューだってあるんだよ。失踪したとかニュースになったら世間に叩かれちまうだろ!? そしたらCDも売れないし曲のダウンロード数だって減っちまう!」

「ああ……そうだな。収入が減るな」

「だからさ、知ってることがあったら、何でも教えてくれって」

「――知らない」

「本当か?」

「ああ……、何も知らない」


 ――知ってても言わねぇ、とまでは流石に言えない。だがそれでも、今の会話は高坂に違和感を感じさせた。

 霧の言い分が正しかったというか、少なくとも桐生は霧を「バンドのボーカル」としてしか見ていない。つまりは「金づる」だ。そんな風に高坂には思えてしまった。


「そうか。霧から連絡があったら、すぐに教えてくれ。俺達お前と違ってさ、いま大事な時期だからよ!」

  

 桐生の言い方に、高坂はカチンときた。ヤツの上から目線が癪に障った。自分はバンドで成功したが、お前は底辺のサラリーマンだ――とでも言わんばかりの尊大な口調だったからだ。


「あのさ、司。俺いま休憩なんだよね。飯も食わずにお前の話を聞いてたんだけどさ――……」

「あ? ああ……昼が休憩だろうなって思ったから、それで電話したんだけど」

「俺にとって昼の休憩って、すげぇ大事なんだけど。なのに何で、お前の都合で潰されなきゃいけないわけ? お前達の大事な時期ってのに比べれば、俺の休憩なんかは消し飛んでも問題ないってこと?」

「は? 何言ってんの、お前――」

「お前さ、ちょっと調子に乗ってると思うよ。霧が居なくなったっていうのなら、その理由とか少しは考えたらどうなんだ?」


 それで通話を切り、高坂はコンビニへ入った。その後も着信を知らせる振動がスーツの内ポケットから伝わってきたが、その全てを無視することにして。


 ■■■■


 午後九時過ぎ、帰りの電車を降りた高坂に、またも着信があった。これも桐生かと思って拒否しようと思ったが、画面を見ると霧からだったので思いとどまる。


「――もしもし」

「ちょっと、まだ帰ってこないの!?」

「え? ああ、いま駅出たとこ。コンビニに寄ってから帰るよ」

「だめぇぇぇ!」


 スピーカーにしていたのかと驚く程の大声で、霧が喚いている。


「な、なんだよ?」


 問い返すと少しの沈黙があり、それから「おほん」と小さな咳払いが聞こえて……。


「こ、今夜は鍋だ。高坂、早く帰ってこないと、全部食べてしまうぞ」


 秋山が照れたように言い、それが余りにも可愛かったので、高坂は一も二も無く頷いた。


「お、おう……急いで帰るわ」


 桐生に対する苛立ちも、秋山の声を聞いて吹き飛んだ。今日も彼女が家にいるのかと思えば、心も体も軽くなる高坂良なのであった。

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