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沙装士が海を目指すとき

 酒場である。

 一年前に【武威】と呼ばれる鬼種で三本の指に入る強者ムミートが失恋のおりにしこたま酒を飲んだ酒場である。

 偶然極まることにその酒場にムミートと縁がある女がいた。


 彼女は一人酒を飲んでいた。

 名はナムル、とおり名は【武威殺し】というムミートを殺した最強とうたわれる神理者である。

 浴びるかのように酒杯をあおる彼女の眼はうつろで力がない。

 

 昨日彼女は敗北した。相手は最強のイフリート、地獄の支配者に足元にも及ばずに負けた。

 彼女の人生に敗北がこれまでなかったわけではない………だがこれほどの敗北は初めてだった。

 いつか自分が地上に戻るためには倒さねばならない敵、まるで底が見えず本来ならばそれを守るであろう邪霊たち、鬼種たちがつく。


 一生をかけても届く気がしなかった。


『ならばもう諦めてしまえ、地上など行かずともそれだけの強さだ。この地獄で優雅に暮らすぐらいの金は容易く稼げれるだろう。地上に戻ったとしてお前が望むようなものは何かあるのか?地獄から這い出た亡者として排斥されるのがオチだ。あきらめろ!』


 聞きなれた邪霊の一体≪堕落≫の声が脳裏に響く。心が弱った全ての人間にこの邪霊は必ず声をかけ名の通り堕落を囁いてくる。

 

 これまでは一顧だにしなかった、自分ならばイブリスを倒すことができると考えていた。

 だが、今は無理だ。

 あれに勝てるイメージがわかない。ならばいっそ≪堕落≫が言うようにあきらめ≪蒼天≫にでも移籍して安楽に過ごすのも悪くないのかもしれない。


『そうだ諦めろ、諦めてしまえ!お前などがなにを足掻こうとイブリス様を倒すことなどできないのだ、無駄な努力をするな、安楽に生きろ、諦めろ!』


≪堕落≫の声に耳を傾ける褐色の沙装士に一人の酌婦が声をかけた。

「大丈夫ですか」

 その声はひどく疲れ果てていたナムルの心に染みわたるように響いた。


 ナムルが顔を向けるとそこには平凡な女がいた、どこにでもいそうな顔立ちに髪型。だがなぜか忘れることができそうにない……そう思わせる言葉にしがたい魅力がある笑顔の女だった。

 

「ああ、すまない助かった。これを」

≪堕落≫から救われた礼にナムルは懐から一枚、銀貨を女に差し出す。

「いえ、≪堕落≫に囁かれているような人を見つけたら声をかけるのが酌婦の仕事ですから、さあ飲むなら一緒に飲みましょう」

「いや、私は女だぞ」

 一人での酒は心が弱まりやすいもの、≪堕落≫に囁かれるものを救い、その後閨を共にし金を得るのが酌婦というものである。


「わたくし少々変わり者でして、他人と酒を飲み愚痴を聞くのが好きなのです。ですから別にお金はいいのですよ」

「変わった趣味だなそれは」

「ええ、両親や兄妹からもよく言われます。それでどうして痛飲していらっしゃるのか聞いてもよろしいので?」


 沙装士は少し考えこんだが一人で抱え込むのは危険かと語り始めた。

 昨日の戦いのこと、命を懸けて全力で挑み届かなかったこと、そして一生かけても届くことはないであろうこと。一度言葉にすると堰を切ったように言葉が口から出ていった。


 一通り相槌を打つだけで話を聞いた酌婦は言葉が止まったタイミングで聞いた。

「それで、あなたはどうしたいのですか」

「……わからない……本当にどうすればいいのかわからないんだ。考えてみればなぜ地上を目指していたのかすらもわからなくなってしまったんだ」


 さもあらん、彼女ナムルは才能があった。沙装術の開祖アーダムに匹敵するほどの圧倒的才能が。

 それを知った≪昇陽≫の幹部たちは何を考えたか?

 答えは単純明快、彼女に教育をほどこそうと考えたのだ。

 

 いかに地上が素晴らしいか。

 地獄がいかに過酷か。

 そして人間がどれだけ不当に虐げられているか。

 

 魔術の粋も使い彼女に教育をほどこした。驚くには何一つ値しない。

 人間とは目的のためならばかようなことも辞さない生き物であるのだから。

 彼女の中の地上への憧れとは作られたものでしかなく、それはイブリスに敗北と共に打ち砕かれた。


「それならば≪堕落≫の言う通りに安楽に生きますか」

「………………」


 女に言われナムルは思った、自分が神理者を止め安楽に生きる未来を。

 豪邸、金銀財宝、食って寝て起きるだけの生活。

 そういう生活をしている者たちは知り合いに居はする、だがそれを羨ましいと思ったことは一度として無い。

 

 むしろ、そういう者たちを唾棄してきた。

 彼女の中にもはや地上への憧れはない、だがしかしそれでも彼女は【武威殺し】のムミートだった。

 その性は≪昇陽≫によって作られたもの、だがそれがどうした!


 この世に作られなかった人など居はしない!

 神によってか、家族によってか、激情によってか、あるいはその生き様によってか!

 そこには貴賤も是非もない、であらば……彼女がその性によって再度の挑戦を志したことには貴賤も是非もない!


「ありがとう、やるべきことが定まったよ」

「どういたしまして。顔を見る限り≪堕落≫の言いなりになるつもりはなさそうで安心しました」

「しかしリベンジするとしてもどうしたものかね。なあ、あんた噂でもいいから神理者にとって面白そうな話を知らないか?」

「噂話でよければ、海の底で沙装術の開祖が修行しているという話を聞いたことがあります」

「なんだそりゃあ、聞いたこともないな。それに本当だとしたらアーダムは今いくつだよ」

「さて、けれどもイブリスという例もありますよ」


 イブリスの種族はイフリート、火と風から生まれた彼らの命は本来ならば人間よりも短い時間で燃え尽きる。

 だが、イブリスはすでに数百年、あるいは数千年の年月を生きている。

 であらば同様の人間が居てもおかしくはない。


「まあいいか、どうせ当てはない。いっそ与太話に賭けてみるのも一興か」

 言ってナムルは懐から出した酒代を女に差し出し、卓から立った。


「そういやアンタ名前なんてんだい?」

「≪慈愛≫と申します」

「そうかい、≪慈愛≫あんたが平穏と共にあらんことを」

「ええ、あなたが平穏と共にあらんことを」


 別れの言葉を交わして沙装士は酒場を後にした。

 目指すは海、この地獄に唯一存在する海の異境域。

 かくて地上への道を切り開くこととなる彼女の最後の冒険が始まる。


 ◇ ◇ ◇


 ナムルが去った後も≪慈愛≫と名乗った女は一人での酒を楽しんでいた。


「やあ、うまくやってくれたね」

 いつからそこに居たのか、卓には≪慈愛≫と向かい合うようにいつの間にか緑を基調にした極彩色のターバンと外套を着こんだ男が女とつれあって座っていた。


「そうですね、お父様の言っていた通りあのままでは≪堕落≫に飲まれていたでしょうね」

 イブリスを父と呼ぶ≪慈愛≫。

 そうこの女こそ人間たちから≪姦淫≫と呼ばれる邪霊、最も愛に満ちた邪霊。

 彼女は人が失意に堕ちるを嫌う。


「いやはや自分で創っておいて何だが≪堕落≫は有能すぎだね。まさかあんな女性すら堕としかけるとは」

「だったら消してください私は≪堕落≫は嫌いです」

「う~ん、面倒くさい」

「……お父様」

「いやほら俺、イフリートだよ。だとしたら気ままで、面倒くさがり屋に決まってるじゃないか」

「いつもはイフリートを嫌っているのにこういう時だけイフリート面しないで下さい」


 娘に叱られる邪霊王の傍らで女が笑う。


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