体育祭後半戦
パンッという号令と共に、借り物競走が始まった。
俺は高嶺や他数人の男女と競うことになる。
まずは、俺たちは借り物のお題の紙を置いている机までダッシュし、そこでお題を見たら会場にいる人物からそのお題を借りてくることになる。
俺にとって、借りられる相手など数が知れているが…その中に条件を満たす相手がいなければ絶望的だ。
「っと、お題は…。」
俺は6人中2番目で机まで到達。
お題の紙をめくって、確認するとそこには…。
「ーーーー仕方ない、行くしかないか。」
俺は紙を持って走り出した。
あまり、俺にとって嬉しいお題ではなかったんだがやるしかない。
一目散に駆けて行き、到着したのは俺たち2年Aクラスの応援席。
「奏多?」
「新城。」
玲奈と春沢は俺が急にこちらに来たので驚いている。
クラスメイトたちもそれぞれ驚きの表情を浮かべているが、俺はそれらの視線には目もくれず…ある人物の下へ向かった。
「な、何よ。」
「頼む、一緒に来てくれ。」
俺は目の前の不機嫌そうにしている人物、本橋香織に声を掛けた。
「なんで、私なのよ。」
「理由は後で説明する、悪いけど引っ張るぞ。」
そうして、俺はなかば強引に本橋の手を掴み応援席から引っ張り出して
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。」
「悪い。」
俺は、謝罪をしつつも…足を止めずにゴールへ走っていった。
結果としては2番目でのゴール。
高嶺にはどうやら勝つことはできたらしい。
「で、お題はなんだったのよ。」
「ああ…それは」
俺はお題の紙を本橋に見せる。
「な、何よ。あんた私のことをそんな風に見てたの?」
「仕方ないだろう、俺の知り合いで条件に合いそうなのは本橋だけだったんだ。」
「だからって…。」
お題には『自分を嫌っている人』と書かれていた。
なんて恐ろしいお題を書くのだろう。
俺みたいに周りから嫌われていることを自覚して仕方ないと思っているようなやつじゃなきゃ、嫌われている相手に話しかけるなんて芸当できやしない。
「だって、お前は俺のこと嫌ってるんだろ?」
本橋は俺に対して明確な敵意を剥き出しにしていたはずだ。
それは俺が玲奈と交際していることに対して…なんだろうけど。
「それは…まあそうだったわよ。」
本橋は少し、言いづらそうにしながら視線を逸らして言う。
「でも…今は別に嫌ってはないわ。玲奈が幸せそうにしているのは私でもわかるし。」
「そうか…。」
「勘違いするんじゃないわよ。嫌ってないってだけで、あんたのことなんて玲奈にひっつく糞みたいなもんなんだから。」
そう言ってプイっと後ろを向いてしまった。
「それは…十分嫌っていると言うのでは…。」
と言う俺の心の叫びは本橋には届かなかった。
届いていたら、それはそれで面倒なことになっていたはずなので、そうならなくてよかったと心から思うことにした。
「お疲れ様。奏多後輩の走りを私も見させてもらったよ。」
雅先輩のいる生徒会のスペースに向かった俺は、出迎えを受けることになった。
「そんなとこ、見なくて良いんですよ。」
「まあ、そう言うな。私だって気に入っている後輩を見るくらい良いじゃないか。」
「本人に言わないでくださいってことですよ。」
雅先輩は俺を揶揄うのがどうやら楽しいらしいな。
満面の笑みで俺を見ないでくれ。
「君が、俺の代わりに走ってくれるって子か。ありがとう。」
「あ、いえ。」
隣から話しかけられたのでびっくりしたが、彼はどうやら生徒会の役員なのか。
腕につけられた腕章には『副会長』と記されている。
「副会長を務めている3年の阪下大吾だ。俺の不注意で君に迷惑をかけてすまない。」
「2年の新城奏多です。いや、迷惑とは…。」
迷惑じゃないとは言えず、固まってしまうと
「心配ないさ。阪下も足は遅い…君がどんなにゆっくり走ったとしても問題はないよ。」
雅先輩がフォローを入れてくれるが、それではフォローになっていないのでは。
「白崎…。まあ、そう言うことだ。俺としても気負わないでくれると助かる。」
「は、はあ。そうします。」
俺にとっては、気負わないでくれと言われてもって感じなんだが。
「では、他のメンバーも紹介しよう。君と話したくてうずうずしているだろうしな。」
そう言って、生徒会のテントの奥を見ると…他の生徒会役員たちもこちらを見ていた。
「私は2年会計の扇奈美子よ。よろしく頼むわね、新城くん。」
いかにも真面目そうな女生徒だ。
俺と同じ2年生だが見たことないってことは、今まで同じクラスにはなったことないみたいだ。
春沢と同じ清楚な感じはするが、あのわがまま娘とは違い本当にそうなんだろうな。
「俺は2年総務の西河太陽、俺も同じ学年だな、一緒に頑張ろうぜ!」
随分な快活そうなやつだ。
俺にまでその眩しさが移ってしまいそうだよ。
「おう、よろしく頼む。」
俺は2人に挨拶したが、違和感がある。
「後ここに、3年書記の北島を加えて全員だな。彼女は今日は体調不良で来ていない。」
「そうなんですか。」
だから少なく感じたのか。
「ああ、だから代わりに…」
「よろしくね〜、奏多っち。」
後ろからひょこっと顔を出したのは俺もよく知る人物である北島澪であった。
「澪?」
「私も助っ人〜。奏多っちも一緒だとは思わなかったな〜。」
「ああ、奇遇だな。」
そういや、さっき3年の先輩って
「彼女は生徒会に所属している北島の妹なんだ。だから頼ませてもらったんだが、快諾してくれて助かったよ。」
「まあ、お姉がお世話になってますからね〜。もちろんです!」
そうだったのか…そう言う繋がりで頼まれていたんだな。
「このメンバーで今日はリレーに参加するがよろしく頼む。」
「はい、よろしくお願いします。」
俺は頭を下げ、生徒会メンバーと共にリレーに臨ことになった。
リレーでは1~4走者までが半周でアンカーのみが1周すると言うルールだ。
俺は阪下先輩の代理で参加しているため、第四走者となっている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ、私もそこまで足は早くないもの。」
そうして声をかけてくれるのは、俺と同じゴールの反対側でバトンを受け取ることになる第二走者の扇だ。
「そうか…ありがとう。」
「随分真面目なのね。所詮はお遊びみたいなものよ。運動部は意地になって1位を目指すかも知れないけれど、私たちはあくまで毎年恒例だから生徒会として参加しているだけで、順位にはそこまでこだわりはないもの。」
「そうだったんだな…。」
俺は確かに順位にそこまで期待できる走力ではないのでその方が助かるのだが…足を引っ張りたくないと言うのは最低限思うことだ。
こんなのは優しさでもなんでもなく、ただ単に俺が恥をかきたくないってだけの話だけども。
「まあ、緊張するなって言われても難しいわよね。初対面の人だらけなのだし。これ以上は、言わないでおくわ。じゃあ、終わったらまた会いましょう。」
そう言って扇は自分のレーンに向かって歩いて行った。
スタート位置にはもう、西河が準備を始めていて…そろそろ始まるのだろう。
見る限りでも陸上部、サッカー部、バスケ部等…足の早そうな部活動が並んでいる。
「よう、奏多。」
「滝谷。」
俺はふと声を掛けられて、そこにいたのは滝谷遼。
「俺はサッカー部で参加するんだけど、まさか奏多もいるなんてな。」
「生徒会に誘われてな。」
「なるほど…友人だからって手は抜かないことにするよ。部員にも申し訳が立たないしな。」
「お前はアンカーだと思ってたけどな。」
「アンカーは3年生に任せたんだ。うちは冬まで部に残る人も多いから。」
「そうだったのか。」
ほとんどの部活は、夏で世代交代が行われているが…一部の部活では冬の大会まで参加する人たちがいるので、サッカー部はそれに含まれるのだろう。
「だから、今日は奏多と勝負だな。」
「勝負って…」
俺たちは同じ順番というだけで、一緒に走るわけではないだろうに。
「俺は一回奏多とまともに勝負してみたかったんだ。」
「滝谷…」
滝谷ほどの男が俺になんで拘る。
俺なんか勝負するまでもなく簡単に結果なんて見えているだろうに。
「だから、楽しみで仕方ないんだ。ーーー奏多も本気で来いよ。」
いつもの爽やかな滝谷の印象とはまるで違う、その真剣な眼差しに俺は気圧されてしまう。
「なんで、とは言わせないよ。俺が奏多のことを本当の意味でライバルと思っているんだから。」
「俺は…」
ライバル…そんなこと言われたことはない。
俺のことをそんな風に見ていたのは…確かに心当たりがないわけじゃない。
春沢と別れたのが、何かしらの理由があるとしたなら、その春沢と仲良くしている俺に対して微妙な気持ちになるのはわかる。
「俺はあの人に見てもらいたい…今でもそう思っている。」
滝谷が最後に何を言ったのか聞き取れはしなかったが、俺には滝谷のあの真剣な表情が心の中に残っていて…それどころではなくなった。
手を抜くつもりはなかったけど…本気でやらなきゃ行けない理由ができたのは確かだ。
意外にも俺の中に滝谷に負けたくないという感情があったことに自分自身でも驚きを隠せなかった。
リレーの展開は、俺の予想とは大きく異なっていた。
生徒会チームは西河が奮闘し、他の部活を蹴散らして1位でバトンを渡した。
そして第二走者の扇もそのリードを守りながら第三走者の澪へ。
後ろに続く、陸上部やサッカー部、野球部を引き離すような大活躍で俺の元へ走ってくる。
「良い勝負になりそうだな。」
隣にいる滝谷のサッカー部は野球部に抜かれて4位になっているが、彼の実力を持ってすれば十分に射程圏内だろう。
「そうなりそうで困るよ。」
まさか生徒会がここまで健闘するとは思わなかったので、俺はそのリードを守りたい。
そうして、考えている間に澪はバトンゾーンに入ってきて俺は助走をする。
「奏多っち!!お願い!!」
澪の手から俺の手にバトンが渡される。
俺は自分の持てる全力で走り出した。
前には誰もいない。
それは当たり前だ…みんなが頑張って1位をキープしてきたんだから。
俺は、後ろから迫ってくるであろう…他の走者に恐怖を抱きながらも、なんとか自分の全力を出し切る。
(行ける、みんなのリードのお陰ではあるけど、このまま…会長に渡したい。)
俺はコーナーで少し足を滑らせそうになったものの、踏みとどまってスピードを落とさず最後の直線へ。
行ける…それが手応えに変わり掛けたその時突然、俺の横を何かが駆け抜けた。
「あ…。」
滝谷遼…陸上部や他の部をものともせず俺を抜いて行った。
「でもまだ…。」
俺は何とか追いつこうと速度を上げる。
でも、走れば走るほど…無情にも差は広がっていく。
それは足の速さだけではなく…俺(凡人)と彼ら(才能を持つ者)との差のようで…。
気づけば、滝谷以外の走者も俺の視界に現れてきた。
「やっぱそうなのか…。」
足りない…何もかもが。
滝谷に負けたんじゃない…俺にはここに立つ資格がなかったんだ。
俺はそれでも足を止めず、何とか会長の元へ…
「よく頑張ったな…あとはお姉さんに任せろ。」
そう言ってバトンを受け取る時、頭をポンっと叩いた雅先輩の優しそうな顔が頭にこびりついた。
「お疲れ様、みんなよく頑張ってくれたな。」
生徒会のテントに戻った生徒会メンバーと俺と澪は、会長の言葉を受け取る。
「みんなの頑張りのお陰でまさか、1位を取ることができてしまった。感謝するよ。」
『おー!!』
みんな喜んでいる…俺も同じように喜べているだろうか…。
「奏多後輩も、よく頑張ってくれたな。ありがとう。」
「いえ…俺は。」
「いや、本当に君がいなければ私もひっくり返すことができなかったよ。」
「ありがとうございます。」
「君を驚かせることはできたかな?」
「ええ…そうですね。驚かせてもらいました。賭けは俺の負けですね。」
結果的に生徒会は1位でゴールすることができた。
雅先輩のごぼう抜きで、首位に立ったためだ。
俺が抜かれた分をあっさり抜き返して、1位になってしまうんだからすごいとしか言えない。
でも、俺は負けた…滝谷にじゃない。
もちろん滝谷にも完敗だけど…途中で心が折れたのは、俺の責任だ。
今まで勝負というものから逃げ続けた俺は負け癖がついてしまったんだろう。
みんなの喜びの声とは裏腹に、俺は素直に生徒会の勝利を喜ぶことができなかった。
「奏多、お疲れ様。」
「玲奈…。」
俺は生徒会のテントから応援席に帰る途中、玲奈に会った。
「これから、クラスリレーか?」
「うん。頑張ってくるね。」
「ああ、がんばれ。」
俺は玲奈の方を見て、いられない…。
別に悪いことをしたわけでもないのに。
「しっかり見てなきゃだめだよ?」
玲奈は俺の方を覗き込んできた。
「うわっ。」
俺は驚いて少し後ずさってしまう。
「もう。私の顔見て驚くなんて失礼じゃないかな?彼女なのに。」
「いや…いきなりだったから。」
びっくりさせないでくれよ…玲奈の顔は何度も見ているが、今だけは正面から見れないというのに。
「奏多は気にしすぎだよ。」
「え?」
頭をすくように撫でて、玲奈は俺をなだめるようにして話しかける。
「そんなに気になっちゃう?」
「何でもお見通しなんだな。」
「奏多のことだもん。悲しい顔は特にわかっちゃうよ。」
「そうか…。」
実際玲奈に隠し事をできた試しがないな。
これからもきっとできないだろう。
「生徒会の人たちは少しでも奏多に嫌な顔した?中学の頃の先輩たちとは違うんだよ。」
「わかってる、そんなことは。」
あの頃の俺は確かに信じるということができなかった…それは、あの人たちがしたことがもちろん許せるものではないのは俺の中でも変わっていないことだ。
しかし、それ以上に自分が期待に応えられないことに対してのプレッシャーは以前より遥かに重く感じるようになった。
「だったら、そんな顔しちゃダメ。ーーー奏多がこの学校に残るって決めたんでしょ?」
「…そう、だったな…。」
「私は奏多が今でも危険性があるならすぐにでも転校すべきだとは思う。」
玲奈は「でも」と続ける。
「奏多が今の生活を大切にしているってこともある程度は理解しているつもり。だから、私はそれを今は応援したいって思う。」
「玲奈…。俺は…」
「うん、大丈夫。私は何があっても奏多のこと見捨てたりしないから。ちょっとリレーで抜かれちゃったくらいで私は離れたりしないよ。もちろん、優やみんなもね。」
俺は、自分に自信が持てなかった。
それは…自分自身が誰よりも自分をやればできるのではないかって期待していたからだ。
実際には、そうはならなかったけど…でも無駄じゃなかった。
「わかった。ありがとう、玲奈。ーーーがんばれ、絶対1位を取ってこいよ。」
「うん、頑張る!」
俺は最後に玲奈の手を握って、気持ちを込めた。
勝ち負けがどうでも良いなんて言わない。
でも、本当に大切なことは誰よりも自分の結果を認めてあげることだったんだ。
「奏多は大丈夫だったかな。やり過ぎたとは思っているんだけど。」
「大丈夫。問題ないよ。あなたが何をしても意味はない。」
滝谷遼に話しかけられた私は、無機質な声でそう答える。
「冷たいな…やっぱり蘭堂さんも俺のことは嫌いかい?」
「嫌いか好きかで言われれば嫌いかな。」
「手厳しいな…。」
滝谷遼は頭を少し掻く。
「あなたが優や奏多にちょっかいを掛けているのは知っているけど…今までは何ともなかったから私も介入しなかっただけ。でも、今は返り討ちにしたい気分なの。」
私は目の前の彼に対して、笑いかける。
「そうか…やはり君も…。簡単にやられてやるわけにはいかないな。」
「心配いらないわよ。リレーが終わる頃には奏多を貶めた優越感は消し去ってあげるから。」
私は彼の方を見ずに、クラスメイトの元へ向かった。
滝谷遼が私と同種の人間ならそれだけで意味は伝わったはずだから。
「ごめん、遅くなって。」
入場門に着いた時には、もうリレーのメンバーは集合していた。
「大丈夫だけど、玲奈…何かあったの?」
香織が私のことを見て、不思議そうにしている。
「え?」
「だって、何かすごく楽しそうだから。」
「ああ、それは…嬉しいことがあったから。」
私は先ほどの出来事を思い出して、嬉しくなってしまう。
「みんな、提案があるんだけど…。」
私はメンバーにある要求をした。
誰もがそれに反対することはなかったし、彼らにとっても願ってもない話だったのだろう。
私の要求はあっさりと通ることになったのだ。
「新城!玲奈、何があったの?」
応援席にいた春沢に話しかけられる。
春沢は、とても焦っている様子だ。
「何がって…。」
俺には見当がつかないことだったため、俺も言葉を止めてしまうが
「だって、玲奈…アンカーの並びにいるわよ!?」
「嘘だろ…!?」
俺は遠くに見えた玲奈の位置を確認し、驚く。
玲奈は本来第三走者だったが、ここにきてアンカーになっていたのだ。
「まさか…。」
(滝谷と直接戦うつもりなのか…玲奈。)
第一走者の大谷くんたちがスタートするのを見て、私は先ほどまでより集中していく。
「まさか…そういう方法で来るとはね。男子の俺と足で勝負するっていうのかい。」
滝谷遼は、隣のクラスのために私に話しかけてくる。
「ええ。それが手っ取り早いから。」
「それは…何というか」
「無謀?」
「ああ、流石にね。」
滝谷遼も私がここまでするとは正直思っていなかっただろう。
本来ならアンカーは男子生徒が務める予定だった。
しかし、彼も決してやりたくてそうなったわけではない。
滝谷遼という学年で最も人気のある男子生徒と一緒に走ることはしたくない。
そんなことをすれば、勝ったとしても周囲の目が悲惨なことになるのはわかっているから。
「なら、教えてあげる。ーーー私とあなたがどちらの方が上なのか。」
「…面白いな。ーーー受けて立つよ。」
私と滝谷遼の視線が交差する。
彼とは何度か競ったことはある…定期試験では私と数点差で毎回2位にいるのはわかっていた。
どこか本気ではない印象…全力を出せば勝てると言っているような雰囲気を持っていたため、私からしたら煩わしかった。
かけっこで勝ったとしても、それがどちらが上なのか決めるのには不十分なのかもしれない。
でも、私たちが互いに全力を出して戦うという宣誓をした段階でたかがかけっこでも勝敗はつく。
私は夏前奏多に命を救われた…その代償として奏多は大きな怪我を負ってしまった。
機会を待っていた…私が奏多のように愛しい人を守ることができるタイミングを。
そうして、やってきた…全力を出すなんて機会もう暫くはないかも知れない。
だから、全力で目の前の敵を叩いてやろう。
そうすることが恩返しの第一歩なのだから。
「これは良い勝負になりそうだ。」
隣の青年が呟く。
私たちのクラスと彼のクラスはほぼ同時に第五走者にバトンが渡った。
次に私たちの手に渡った時勝負は始まる。
「奏多…すぐに終わらせるからね。」
私の集中力は限界まで高まっていた。
一斉に2人の手にバトンが渡る。
スタートはほぼ同時…僅かに滝谷が先に受けたか。
周囲の歓声は体育祭だというのに、先ほどまでと打って変わって静まり返っていた。
玲奈と滝谷の2人が放つ異様なオーラに気圧されてしまったのかもしれない。
俺も周りの人と同じように声は出なかった。
2人が走り始めて、速度はほぼ互角。
インコースにいる滝谷が僅かに優勢だが2人の実力差はまるで感じない。
2人だけまるで他の走者とは住む世界が違うのではないかと思わせるほどの力の差。
風のように駆け抜けていき、彼らが進む道がゴールに至るまで輝いているようにさえ感じた。
玲奈も滝谷もスピードを緩めないまま、最後のコーナーを曲がる。
それでも、2人に差はつかない。
このままじゃ…
「玲奈ーーーーーーーーっ!!!がんばれぇーーーーーー!!!!」
気づいたら腹の底から声が出ていた。
俺の心の奥の奥…玲奈に対する純粋な気持ち。
他の生徒は驚いていることだろう…静まり返った会場に響き渡る、1人のなんてことない普通の男子の声。
それで良い…彼女にさえ届いてくれたら。
「玲奈、すごい!」
春沢がそう呟いたのは、玲奈が滝谷を僅かに追い越したからだ。
玲奈の背中を何かが押したかのように僅かに滝谷のスピードを上回る。
そしてーーーーーー
「玲奈、お疲れ様。」
「ありがとう、奏多。」
買ってきたドリンクを玲奈に差し出す。
「凄かったよ、本当に。」
「うん、奏多の声聞こえたよ。」
「それは、何だか恥ずかしいな。」
玲奈は滝谷を抜いて1位になった。
俺だけでなくあの会場にいた誰もが驚いたことだろう。
「でも、勝ててよかった。」
玲奈も流石に疲れているようだ。
無理もないだろう…運動部のエース、しかもあの滝谷の全力と戦ったのだから。
本気の玲奈は俺も初めて見たかも知れない。
彼女が競い合える相手なんて、今まで現れなかったから。
そういう意味では滝谷には感謝しなきゃならないかも知れない。
「本当にありがとうな、玲奈。」
「私こそ、ありがとう。大好きだよ、奏多。」
俺らは、周りの目をその時だけ気にしないことにして少しだけお互いを抱きしめ合った。




