姉と妹
私にとって昔は玲奈さんと健人くんを含めて4人で兄弟みたいなものだった。
それくらい一緒に遊んでいたし、玲奈さんは私のことをすごく可愛がってくれたから私も本当のお姉さんのように思っていた。
関係が変わったのは私が高学年になった頃。
兄と一緒に遊んでいるなんておかしいと同級生にからかわれ、恥ずかしくなった私は兄から距離を取ることにした。
そんなことしたくはなかったけど、それが普通の人がすることなんだって思い聞かせた。
健人くんも玲奈さんにあまりべったりというわけでもなかったし、より一層こうすることが正しいのだと思った。
兄は最初こそ、「一緒に遊ばないの?」
と誘ってくれたけれど、断り続けていると段々と声を掛けてくることはなくなった。
それから数年経った中学生になったばかりのある日、偶然玲奈さんに会って
「愛理ちゃん、ちょっとお茶でもしない?」
と玲奈さんに誘われて近所の喫茶店に行くことになった。
「愛理ちゃんは奏多のことどう思ってるの?」
「兄のこと、、、ですか?」
「うん、ここ数年はあまり話していないって奏多が言っていたから。」
「はい…兄とはあまり。でも別に普通に兄としては尊敬しています。」
バスケットボール部に入って部活も頑張っているし、テストでもクラスで優秀な成績を取っているとお母さんに聞いていたので私は自分のことのように嬉しかった。
「そうなんだ。いいお兄ちゃんだもんね。」
玲奈さんは微笑んでそう言ってくれた。
きっと玲奈さんには私が本当は内心兄と仲良くしたいと思っていることなどお見通しだったのだろう。
頭脳でも身体能力でも容姿でも一度も敵うなんて思いもしない完璧な人。
それが私からみた玲奈さんの姿だった。
「それで、今日は何で誘ってくれたんですか?」
私はきっと玲奈さんの話はこれで終わりではないだろうと思っていたので、次の話に切り替えたかった。
何より玲奈さんのペースにハマって私がボロを出すのがわかっていたから。
「うん。愛理ちゃんに聞きたいことがあるんだ。ーーー奏多が最近変だなって思ったことない?」
「え?兄がですか。」
玲奈さんの方が兄のことについてはきっと詳しいと思っていたので、そんなことを聞いてくるとは思わなかった。
「何か最近思いつめているみたいで。愛理ちゃんなら何か知っているかなって。」
そんなこと私は気づきもしなかった。
それも当然なこと、兄とは家で数度顔を合わすだけで会話も最低限しかしていない。
些細な変化に気付けるほど身近で見ていたわけではないのだ。
「いえ、私には思い当たることは…。すみません、お役に立てなくて。」
「そっか。ううん、大丈夫。ありがとう、愛理ちゃん。」
玲奈さんは気にしないと言った表情をして、そこでその話は終わった。
あの時の玲奈さんの言葉をもっと注意深く聞いていればあんなことにはならなかったのに…と後悔することになるとは思いもせずに。
ある日、兄が全身ボロボロの状態で帰ってきた。
兄が喧嘩なんてするはずもないし、両親も一体何があったのか訊こうとしたものの兄は全く答えることなく自室に戻ってしまった。
その時の兄の表情は今でも頭に残っている。
絶望して、何もかも信じられなくなった人の目…あんなに冷たい目をしているところなんて今まで見たこともなかった。
私にとっての兄…にいにはいつも優しくて私のことも気遣ってくれる尊敬すべきお兄ちゃん。
けど、玲奈さんといる時には頑張り屋さんで…他の人の前だと意地っ張りなそんな性格だったからこそあんな兄の姿を見ることになるとは思いもしなかった。
数ヶ月間私は兄のことを陰ながら見守ることにした。
兄妹とは言っても今ではほとんど会話する仲でもないので、急に話しかけてしまったらそれこそ怪しまれるし…そんな私に悩みを打ち明けてくれるはずもない。
あの日ほどではないけど毎日怪我をして帰ってくる兄の姿はとても辛かった。
そんな兄に声すらもかけることのできない自分の弱さにも嫌気が差していた。
状況が好転したのはそれからしばらくしてのことだった。
どうやら玲奈さんとの間に何かがあったらしい。
玲奈さんがきっと兄のことを助けてくれたのだろう。
久しぶりに兄が嬉しそうな表情をしているのを見て私も嬉しかった。
けど、同時に私は自分の必要性を見失ってしまった。
それから1年兄が高校生になってから私は本格的に受験勉強を始めていた。
元々勉強は苦手ではなかったし、楽しいとすら思えた。
勉強をしている間は兄のことを考えずに済むから。
受験校は都会の学校を選んだ。
難関大への合格率の高い学校を受験できるほどの実力はついていたので私にとっては願ってもない話だった。
玲奈さんや兄のいる高校に行ってしまったら、またあの辛そうにしている兄の姿を見ることになるかもしれないと思ったから。
兄のこと以外にこの土地への未練は特になかった。
両親と離れることになるのは不安ではあったけど、元々内向的な性格であった私はそこまで仲の良い友人といえば健人くんくらいのものだったし勉強ばかりしている私に歩み寄ってくる人なんかいなかった。
受験の結果は合格。
試験でも手応えはあったし、合格判定を見た時私以上に両親が喜んでくれたのを今でも覚えている。
引越しをする前日、玲奈さんから電話があった。
「愛理ちゃん、合格おめでとう。」
「ありがとうございます。玲奈さんこそ全国模試で10位に入ったって聞きました。」
「ううん、それは大したことないよ。模試は練習みたいなものだから。でもありがとうね。」
玲奈さんが凄いのは知っていたけれど全国模試で10番と言うのは自己学習のみの中堅公立高校に通っている人とは思えないほどの実力だと私は思う。
「それで愛理ちゃんはやっぱり遠くに行っちゃうのかな?」
「はい、家から通える距離じゃありませんし、寮に入ることになると思います。」
「そっか、それは寂しいね。」
「そうですね。私も寂しいです。」
頭をよぎるのは兄のこと。
兄と離れてしまって良いのだろうかと自分で決めた結論なのに未だに迷いがあると言うほど決断力がない。
「うん。愛理ちゃんならきっとこっちに残ると思っていたから…意外だった。」
「どう言う意味ですか?」
玲奈さんが何を言っているのか私には理解が難しかった。
確かに玲奈さんも今の高校に通うために親を説得するのを苦労したと聞いている。
兄と同じ学校に入学するため志望校のランクを落としたのは間違いない。
「だって、愛理ちゃんって奏多のこと好きでしょ?」
「っ!」
私は声が詰まってしまった。
玲奈さんが何を言っているのか…それを自分で理解できてしまったから。
私に兄に対しての恋愛感情はない…と思う。
でも、少なからず兄とずっと一緒にいたいとか…他の人じゃなくて私のことを少しでも見てくれたらなとか考えたことがあるのは確かな事実。
玲奈さんがそこまで気づいているなんて思いもしなかったし、自分でもそう言う姿は外では隠し切れているつもりだった。
「愛理ちゃんは奏多の側にいても大丈夫な女の子だと思っていたから、私もすごく寂しいな。」
「は、はい。」
玲奈さんのことが恐ろしく感じる。
声のトーンは電話を始めた頃から何も変わりない。
なのに、今話している相手は本当に玲奈さんなのだろうか…。
そう思えるほどに玲奈さんは…そう異常なのだ。
「玲奈さん、あの…」
「ーーーねえ、愛理ちゃん?」
「…はい」
言葉を遮られてしまったが、自分でもあの時何を告げようとしていたのか…もし告げていたら超えてはいけないラインを超えてしまっていたのではないかと思ってしまう。
そう言う意味では言えなくて良かったし、だから玲奈さんも遮ったのかもしれない。
「心配しなくて大丈夫だよ。奏多のことは私がずっとちゃんと守って側にいるから。愛理ちゃんは、高校生活を楽しんでおいでね。」
「ーーー…ありがとうございます。兄のことよろしくお願いします。」
「うん、任せて。ーーーあ、もう夕食の時間みたい。またね、愛理ちゃん。」
「はい、さようなら。」
私は玲奈さんの望む言葉しか返すことができなかった。
玲奈さんが答えて欲しいであろう言葉は声だけでわかったし、それ以外に選択の余地もなかった。
玲奈さんは兄のことを誰よりも想っている。
私にもそれはわかるし、何よりあれだけ完璧で綺麗な人に好かれている兄を羨ましくも思う。
けれど、私はこの時から玲奈さんを本当の意味では信頼することができなかった。
なぜならその愛は病的だ…いつか兄のことを苦しめる楔になってもおかしくないとわかったから。
「玲奈さん…。」
「愛理ちゃんもお見舞いに来てくれたんだね。」
玲奈さんは手に持ったドリンクを私に差し出してくれる。
「ありがとうございます。後で両親も来ると思います。」
「そうなんだ、それなら奏多もすぐに目を覚ますかも。」
玲奈さんは目が少し腫れている。
きっと、たくさん泣いたのだろう。
私は実際にその現場を見ていないから、そして今始めて眠っている兄を見たため実感もなかったが、玲奈さんにとっては兄が倒れる姿を目撃してしまっている。
とてもショックな出来事ではあるし、何より玲奈さんだ…兄がこう言うことになれば泣くほど悲しむのなんて目に見えている。
「愛理ちゃんは、どうして来てくれたの?」
「それは…兄のことが心配だったので。」
「そうだよね。愛理ちゃんは昔から奏多にべったりだったし。」
「そ、そんなことありませんよ。」
玲奈さんが病室の椅子に座るのを見て、私もその隣に座る。
目の前には眠っている兄。
本当に穏やかに眠っていて、私たちの会話の音だけが病室を満たす。
「私のせいなんだ…。」
「玲奈さん。」
詳しいことはわからないけど、兄は玲奈さんを守るために犯人からナイフを刺されてしまい怪我を負ったと言うことは聞いていた。
「私は、自分のことを完璧だと想ったことは一度もない。奏多は中学の時も、今回も私のせいで傷ついた。」
「仕方ないこと…ですよ。兄が玲奈さんのことを好いているのは私にも分かりますし。」
そう言えばもう正式に交際しているんだっけ。
健人くんはそう言っていた気がする。
「うん、それは本当に嬉しい。私は奏多のこと誰よりも愛しているし…奏多がそう想ってくれているのもわかったから。」
続けて玲奈さんは話す。
「でも、私が奏多に無理をさせているのはわかるんだ。私のことを思っていつもより頑張ってくれてる。それは嬉しいけど、そうさせてしまっているのは悲しい。」
それは無理からぬことかもしれない。
兄と玲奈さんでは大きな隔たりがある。
玲奈さんは誰もが認める天才であり、彼女はその才能だけでなく人間性においてもほとんどの人に好意を持たれるほどの人物。
対して兄はそのどちらも持ち合わせているとは言えないし、頑張った故の失敗は中学の頃に痛いほど味わっているだろう。
「玲奈さんはどうしたいんですか?」
玲奈さんには2つの選択肢がある。
玲奈さんが兄から離れれば、兄は平穏な日常を手に入れることが可能だろう。
誰に疎まれもせず、苦悩することもなくなる。
しかし、2人は別れざるを得ないし…実際付き合うことになるまでにかなりの過程があったはずだ。
少なくとも私が進学する頃にはそんな兆しは全くなかった。
だからこそ、2人が交際していると言うこの状況には少しの驚きがある。
そしてもう1つはそれでも付き合い続けること。
兄は傷つくことになるかもしれない。
場合によっては玲奈さんも…
「それでも、私は奏多と一緒にいたい。…やっと、やっと想いが実ったんだもん。奏多が私のこと好きって言ってくれたの。」
玲奈さんの目からは涙が溢れている。
その気持ちには同情する他ない。
玲奈さんだって、兄のことが好きで…生まれてから今まで過ごしてきたのだから。
もしかしたら見方に寄っては兄よりも玲奈さんの方が辛い立場にいたのかもしれない。
「なら、そうすべきだと思います。」
私は口からそんな言葉が出ていた。
本心ではあるものの、そんなに躊躇わずポッと出てしまうとは思わなかったけど。
「愛理ちゃん?」
「玲奈さんだけは、何があっても兄の味方であってあげてください。そうすれば兄はきっとどんなに辛いことでも頑張ることができるから。」
「愛理ちゃん…。」
玲奈さんのことは正直今でも怖い。
あの時の電話で玲奈さんの兄に対する異常な執着や愛情を知ってしまってからは。
でも、玲奈さんが兄を最も幸せにできる人なんだと…同時に思うこともできた。
それは彼女のことをまた私も長く幼なじみのお姉ちゃんとして見てきたからなのだろう。
「少し外しますね、両親の方行ってきます。」
「うん。」
私はそう言って病室を出た。
あのまま話していたらきっと泣いてしまったと思うから。
にいにが本当に遠くに行ってしまうと感じて。
玲奈さんならにいにのことを絶対に幸せにできると信じてはいても、それが私ではないのは少し悲しい。
ううん、凄く悲しい。
でも、私は決めた…本当に好きだから、大切だからにいにのことを私は妹として愛そう。
玲奈さんのそれとは違うけど、私はにいにの妹…玲奈さんが付き合っていてもそれだけは関係ない。
泣きそうな涙は必死に堪えた。
だって、本当に泣く時はにいにが目覚めた時がいいから。
そうして、私の本当の気持ちを伝えよう。
「にいに、大好きだよ。」
って。




