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水底の樹

作者: 綾瀬あきら

 風に湿った匂いが混じり始めていた。自転車で来たのは失敗だったかなと佐々木 晴太せいたはペダルを漕ぐ力を強めた。やや緩やかだった勾配は雑木林を進むうちに徐々に急になってきている。峠を越えるまでだと自分を励ましながら、晴太は勢い良く坂を登っていく。雑木林は密に生えているため、林道の脇は見通しが利かない。

 その林道も曲がりくねっているために、先はなかなか開けて来ない。黙々と自転車を漕いでいると、辺りは次第に暮れて来ている。水樹みずきはちゃんと電気点けてるかな。晴太は足の疲れを感じながらもぼんやりと考える。やがて、木々の切れ目が見えて来た。その先には夕暮れの曇り始めた空の下に海が広がる。


 登ってきた坂をちらと振り返る。今日もこの坂登りきったなと満足感でいっぱいになる。自転車を押さずにあがって来れた。水樹の家まではあとはくだりだけだった。


 「頭領ずりょう」と表札の出ている一軒家に着く頃には空はどんより曇って、夕日はその影に隠れたのか辺りは薄闇に包まれ始めていた。門柱の灯りが人の気配で点灯した。家を窺うと、中も灯りが付いているのが分かる。晴太は自転車を家の前に止めると、呼び鈴を押した。


 りりりりり・・・りりりりり・・・


 晴太は一度指を離して、じっと待った。


 気配が無い。もう一度呼び鈴を押す。


 りりりりり・・・りりりりり・・・


 カタリと物音がした気がした。晴太は玄関の扉を引くと、扉は難なく外側へ開いた。


「水樹ー。いないのかー?玄関開いてるぞー」

 晴太は言いながら、靴を脱いで勝手知ったる頭領の家にずかずかと入っていく。玄関口から廊下を進んで、居間へ繋がるドアへ手をかけようとしたところで、扉が内から開けられた。


「わわわぁ」

 晴太は中から出てきた水樹と鉢合わせする形で扉を避けて挨拶する。

「あ、晴太。来てくれたんだ」

「おぉ!変わりないか?」

「まぁ、ね。上がってく?」

「もう、上がってる」

 晴太の顔を見て安心したのか水樹の顔が綻んだ。昨日から1日しか経っていないが随分痩せた気がする。

「明日土曜日だから、母さんが泊まっていっても良いってさ。お前飯食ったのか?」

 とたんに水樹の整った顔が破願する。

「本当に?ご飯はまだなんだ。昨日のお寿司が沢山残ってるんだけど、晴太も食べる?」

「あぁ。その前に・・・・・・」

 晴太は客間の方を見る。水樹の家は大きくて古い家だから、客間なんてある。2LDKの社宅の晴太の家とは全然違う。晴太の家ではお客が来てもリビングのテーブルに案内するが、水樹の家ではお客は客間に通して、お茶なんか出したりする。初めて水樹の家に遊びに来た時には晴太もここに通された。しょっちゅう遊びに来るようになってからは直接離れの水樹の部屋へ上がりこむようになったけれど。


 晴太の視線に水樹は「うん」と頷く。晴太はそっと客間の扉を開く。そこは壁一面の本棚とオーディオセットなんかが置いてあって、お客は革張りの応接セットってやつに座る。でも、今は応接セットは端に寄せてあって、部屋の真ん中には簡単な祭壇が設えてある。


 昨日までは水樹の祖母がそこに横たわっていたんだけれど、今は白い布を掛けられた小さな箱とその横に写真が飾ってある。水樹のお祖母ちゃんは昨日のお昼に煙になって天国へ行ったんだった。

 晴太は不慣れな手つきで線香を供えて手を合わせる。

 水樹の事は俺がしっかり面倒見るから心配するな。水樹のお祖母ちゃん。

 もう、何度も繰り返した言葉を晴太は胸の中で繰り返す。それから思い出して、母ちゃんに頼まれた花を自転車まで取りに行って、祭壇に飾る。

 水樹はその間にダイニングに移動してて、晩御飯の用意をしているようだった。晴太はもう一度手を合わせると、客間を出てダイニングへ向かう。夏の終わりだと言うのに、今日は少し肌寒い。


「母ちゃんが味噌汁持たせてくれたけど、これ温めるか?」保温ポットを見せると水樹は首を横に振る。

「そのままでも大丈夫そうじゃない?食べようよ」

 TVを点けて、2人で冷蔵庫で芯まで冷やされて少しぱさぱさした寿司と温くなってる味噌汁を啜る。水樹、一人でこれ一昨日から食べてるのかなぁ?ふと、寿司桶からイカを取りながら晴太は思ったが、口では「やっぱいさり寿司は美味いな」とか言う。

「そうかなぁ?もういい加減飽きたよ。晴太これ全部食べてってね。僕はもう無理。お味噌汁に生き返るよ。晴太のお母さんにマジ感謝」

「ウチなんかいつも回転寿司だもんなぁ。しかも混むからって持ち帰りだぜ。あれ、絶対高いネタ食べさせない作戦だよ」

 たわいも無い話を続けながら、ダラダラと食べ続ける。途中煮物の残りだったり、揚げ物なんかも冷蔵庫から出てきた。どうやら手伝いの人が残り物を入れておいてくれたらしい。

 水樹の母親は2年前に病気で亡くなっていて、水樹はお祖母さんと2人暮らしだった。お父さんは水樹がもっと小さい頃からいないらしい。それがどういう事情なのかまでは晴太は知らなかった。そして先週末にお祖母さんが急に具合が悪くなって、救急車で病院に運ばれたけれどもそのまま家に戻る事無く亡くなったのだった。今は水樹の一人暮らしって事になるんだろうか?


 誰かから貰ったらしいお見舞いの苺を食べ終わると、する事も無くなり2人でつらつら話しをしていた。

「お葬式に来てた親戚って人たちに初めて会ったよ」

 面白くもなさそうに水樹が呟く。

「お祖母ちゃんの妹の孫って人が一番近い親戚になるみたい。何か皆でその人に世話しろとかって言ってたけど・・・」

「その人って、中年の男の人?スーツ着てて、お通夜には来てなくて、葬式に遅れて来てた人」

「多分そう」

 晴太はぼんやりとスーツの男を思い出す。お葬式の後にこの家に戻って来て、見知らぬ大人達がここで表面的には静かに、しかしはっきり言い争っているのを思い出した。

 そうか、あれが水樹の親戚達で水樹の今後の事で揉めてたのか・・・

「お前、どっかに行くの?」

 さり気なく晴太が切り出す。うーんと水樹は小さく唸っている。

「出来ればここにずっと居たいなぁ。他所の土地とか行きたく無いし」

「一人で暮らすって事か?」

 水樹はまたもうーんと唸っている。高校生が一軒家に一人暮らしかぁ・・・晴太には羨ましくもあり、一方で現実味が無く、色々大変な事もあるんだろうなぁとぼんやり想像していた。

 水樹も同じだったようで、無意識に手を伸ばした菓子鉢の上でお互いの手が触れて、慌てて二人共手を引っ込めた。そのまま乾いた笑いで場を濁す。


 俺、何しに来たんだよと、気持ちに活を入れてTVの話題に切り替える。ちょうどTVには素人に毛が生えた位のタレントが下手な物まねを披露しているところで、晴太はそれに突っ込みを入れた。

「俺の方が上手いと思わないか?」

 水樹は晴太の声真似に最初くすくす笑っていたが、次第に涙を流して笑い転げていた。


 いつの間にか降り出した雨の音が夜半になって、急に大きくなり始めた。

「水樹、雨戸閉めたか?」

 晴太に言われて、水樹が慌てて立ち上がる。

「晴太、客間見てきて。僕、奥の部屋見てくる」

「あぁ」

 晴太も立ち上がって、リビングから廊下へ出る。雨音はかなり強い。ゲリラ豪雨ってやつか?

 ふと、足元を見ると廊下に水溜りが出来ている。廊下には窓が無いはずだが、玄関から吹き込んだんだろうか?慌てて、玄関の扉を押し引きしてみるが、しっかり閉まっている上に鍵まで掛かっている。水樹、ちゃんと戸締りしてるじゃん。しかし、どこから吹き込んでいるんだろう?廊下には微かに潮の香りがしている。

 客間の中も異常は見当たらず、とにかく廊下の水溜りを拭こうと、晴太は水樹を呼んだ。

「おーい。水樹。雑巾どこだ?」

 その時、大きな雷の音が響いた。近くに落ちたらしく、轟音と共に家全体が僅かに揺れる。同時に停電したのか、灯りが消えた。聞こえなかったのか、水樹の返事は無い。

「おーい。大丈夫か?」

 突然、真っ暗闇に包まれて、晴太は壁伝いにリビングへ戻る。扉を開いても中は真っ暗闇だった。

「水樹。どこ行った?」

 手探りで、自分のバッグを探し、携帯を見つけると、携帯のライトを点ける。ざっと辺りを照らすが、人影は無い。確か水樹の家は冷蔵庫に懐中電灯をぶら下げてたはずだ。晴太は思い出すと、冷蔵庫を探した。晴太の記憶通りの場所に懐中電灯が見つかり、無事に懐中電灯を点ける。懐中電灯に俄然勇気を貰って再び、廊下へ出ると、今度は勝手口のブレーカーを目指す。

 不思議な事にブレーカーは落ちていなかった。では、何で部屋の灯りは点かないんだ?試しに勝手口のスイッチを動かしてみるが、灯りは点かなかった。

 何か電気系統の不具合でもあるのかと思いながら、今度は水樹を探しに奥の離れへ向かった。短い廊下の先には水樹の部屋がある。雨が激しく降っている。


 二間ある内の、八畳の和室で人の気配がした気がして、晴太は勢い良くふすまを開けた。

「晴太!来ちゃダメだ!」

 中から切羽詰った水樹の声がした。思わず、晴太は持っていた懐中電灯で室内を照らした。


 ふすまのすぐ脇に水樹がいた。晴太を認めるとその目にはしまったという色が浮かんで、すぐに視線を前に移す。その視線の先には得体の知れない水の塊の様な物がいた。その物は次第に人型を取り始め、やがて2、3度発声練習をすると、人語を話し始めた。強烈に潮の香りが漂ってくる。

「スイジュ……約束ノ期限ハトオニ過ギテイル」

「何言ってんだ?こいつ」

 懐中電灯で照らしたまま、晴太は水樹の隣へ移動する。その間に水の化け物みたいだったものは人の形に落ち着いた。しかし、色は水の色。周囲を映して模様になっている。

「3年前に帰ってくる約束だった」

 水樹は心底困ったようにそいつを見つめている。

「3年前って何?」

 晴太の問いに水樹が晴太の方を見た。少し考えてから答える。

「母さんが亡くなるまでの約束だった」

「え?おばさん?どういう事?」

 水樹の母親は3年前に病気で亡くなっている。それ以来父親の居なかった水樹はお祖母さんと2人暮らしだった。

「期限……約束……」

 その水から出来た人形は同じ言葉を繰り返している。何かするというよりかは水樹の様子を伺っているようだった。水樹の方はというと、顔を覆って考え込んでいるようだった。


 しばらくして、水樹は顔を上げると人形に言う。

「分かった。晴太と少し話をさせて」

 ふん。と同意ともため息ともつかない音を発して、人形はするすると形を変えて、近くの椅子にちょこんと座った。もう、水の色をしていない。その姿を見て晴太は息を飲むほど驚いた。そいつは小さな頃の水樹にそっくりだったのだ。


「ごめんね。晴太。びっくりさせて」

「何?どういう事?あいつ何?化け物かと思ったけど、お前そっくりじゃん」

 晴太が息もつけないほど質問攻めにするのを、いつものふんわりとした微笑で聞いている。やがて晴太が落ち着くのを待って水樹は話始めた。


「昔ね。港の桟橋で小さな男の子が遊んでいたの。満潮になると桟橋から手を伸ばしても海面に触れるのが面白くて、男の子は水に手を伸ばして遊んでいたんだ」

「あの桟橋面白いよな。俺もよくやった!危ないからって今は禁止されてるけどな」

 晴太も桟橋を思い出していた。

「僕ね。水の中から手を差し伸べて、一緒に遊びたかったんだ。水を弾いている姿が楽しくて手を伸ばしたんだ。その時はまだ水の中では息が出来ないって知らなかったんだ」

「そうそう。夢中になって海に落ちるからって禁止になったって聞いたな。え?水の中から……?」

 水樹の微笑みが凍りついていた。

「気がついた時には、息をしていなかったんだ。水の底で動かない姿を見て、初めて何が起こったのか知ったの」

「……」

「しばらくして、あの桟橋に毎日女の人が現れるようになったの。最初の内は何をしているか分からなかったんだけれど、しばらくしてあの子を探しているって気がついたんだ。僕その子を隠しちゃってたから」

「……」

「それに気づいてからは、あの人が現れている間はなるべく水面近くに寄って行っている内にあの人が僕に笑ってくれるようになったんだ」

「お前が子供の姿に似てきたからな。ただの海の泡だったのに」

 唐突に人形が口を開いた。水樹は一つ頷いた。

「それで僕は海の王のところへ行って、頼んだんだ。僕をあの子の代わりにあの人のところへ行かせてくださいって。僕は僕のした事があの人を悲しませてる事を知って、自分の罪を償いたかったんだ」

「海の王は願いが叶う条件として、彼女が生きている間までと決めたんだ。なのにお前はその後もずるずると居座っている」

「お祖母ちゃんを一人にしてはおけなかったんだ」

 ふんと人形は鼻を鳴らした。

「それもここで終わりだな」

 水樹は否定も肯定もしなかった。

「晴太。今日は来てくれてありがとう。最後に会えて良かった」

「お前……何言ってるんだよ!?お前はこの頭領の家の子供だろ?何がどうなってるんだよ!?」


 その時、雨の音が一際強くなった、と思ったその次の瞬間。部屋の壁が押し倒され、大量の土砂が流れ込んできた。晴太が必死に水樹へ手を伸ばす。水樹も晴太へ手を伸ばすが、どちらも届かないまま濁流へ吸い込まれて行った。


 晴太が目覚めたのは病院のベッドの上だった。付き添っていたらしい母ちゃんがすぐに気がついておんおん泣いていた。

 それから医者やら看護師やらが駆けつけて、いくつかの検査をされその合間に警察の人が来て当時の様子を聞かれ、そして晴太は翌日には家へ帰された。

 その間に分かった事は、あの日の大雨で土石流が発生し、水樹の家の離れ流されてそれに晴太と水樹は巻き込まれたという事と、晴太は家の柱に引っかかって浮いていた所を発見されたが水樹は今だ行方不明と言う事だった。そして、晴太が漂っていた近くの海底で海草に絡まるように3~4才位の小さな子供の遺体が見つかったとう。それはかなり古いものだったが、不思議な事にいくら記録を調べてもこの近くで該当する行方不明の子供が見つからないのだという。


 晴太は家に帰ると、落ち着く間も無く自転車で水樹の家へ向かった。峠から見下ろすと、水樹の家の庭と離れがごっそり土砂で流されて、辛うじて母屋が残っているだけだった。離れと母屋を繋ぐ渡り廊下側にはブルーシートが掛けられている。晴太が玄関へ向かうと、そこにはちょうど家へ入ろうとしている男がいた。水樹のお祖母さんのお葬式の時に遅れて来たスーツの中年男だった。男は晴太を見とめるとちょっと頭を下げた。 晴太は無言で一緒に家へ上がり、客間のお祖母ちゃんに手を合わせた。男は独り言の様に呟いた。

「かみさんに話して、何とか引き取る事で話をしてたんだけどなぁ。なんでこんな事になったんだろうなぁ」

 男は海底の捜索がまだ続いているのでしばらく滞在すると言っていた。


 晴太は水樹の家を出ると、そのまま桟橋へ向かった。満潮にはやや欠けるらしく、海面は大分下がっている。晴太は海底を透かし見ると、そこの方で海草がゆらゆら揺れているのが見える気がするが、午後の日は水底深いところまでは見せてくれない。海から風が吹いている。

「なぁ、お前はそこにいるのか?」

 晴太の問いには誰も答えない。

「帰って来いよ。馬鹿野郎」

 大きなため息を一つつくと晴太は桟橋を後にした。親友はどこに行ったのだろうか?


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