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あくび

作者: 中條利昭

【あくびした者】






 ほのぼの、ぼのぼの、のほのほ。なんだかよく分からないが、そんなのんびりした時間だった。


「友達がさ、よく愚痴るんだよ。息子がなんかしでかす度に、『妖怪の仕業だもん』なんて言い訳する、ってさ」


 そういう時間の中、適当に街中をうろつくのが、俺は好きだった。休暇にじっと家で籠っているのは性に合わないし、かといって一人でどこかへ旅を、なんていうのも違う。まあ、いまは彼女とデート中なわけではあるが。


「妖怪の仕業で済むのなら、ある意味世の中平和だね」


 今日も空は青い! なんて、美鈴(みすず)はずっと遠くへ指を差す。ふんわり揺れるロングヘアから蜜の香りが広がった。


「平和か? 妖怪だぜ? 『妖』も『怪』も『あやしい』って読むんだぜ? 不可解なこと全部がその『あやしい』に塗れた奴の仕業って、気色悪くないか?」


「じゃあ、神様の仕業にしちゃえばいいのよ。それなら悪い気しないでしょ?」


 なるほど、と思い浮かべてみる。朝寝坊して学校に遅刻。先生が「どうして遅れたの」と訊くと、子供は「寝坊」と答える。だが、反省の色は見えない。それについて先生が「反省しなさい」と説くと、子供が「だって、寝坊は神様の仕業だもん」と反論。だって、神様が、今日早起きすると大いなる災いが降り注ぐ、って仰られたから。

 マイナー宗教の香りしかしないが、ネタとしてはありかもしれない。


 次の流行は神様ウォッチか、と呟く。

 神様クロックかも、と美鈴は苦笑する。


 そんな、くしゃっ、とした笑顔を見ていると、いい旅の道連れだな、と、なんだか朗らかに思えた。横顔越しに見える川も、どこか風情に見えるというものだ。


 いま俺たちは川沿いの防潮堤を歩いている。川面からは五メートルほど高さだ。川といっても、人の手によって無理やり作られたようなもので、岸には土や草はなく、代わりには日に照らされたコンクリートが埋められている。

 川幅だって十メートル弱だ。深さは分からないが、子供が溺れるほどのものではないだろう。

 その上、透明感もない。川といえば透明や水色がふさわしいと思うのだが、ここは緑に近い。ゴミはさほど浮いていないので、お世辞を使ってようやく「まあまあ、綺麗だね」と言えるくらいだろうか。


 しばらく歩いていると、その川の向こう岸に子供たちが集まっているのが見えた。


「おっ、何してるんだろ」


 中学生くらいだろうか。人数は八。全員上半身裸である。下半身は水着だろうか。八人八色、カラフルである。


「この辺に海がないからって、こんなところで遊ばなくても」


 美鈴はそう眉を細めるが、俺には子供の気持ちが分からないでもなかった。


「水を見たら入りたくなる年頃なんだよ」


「神様の仕業かしら」


「そういうことにしとこう」


 いまひとりが水の中に入り、息を大きく吸って潜った。みんなが「いち! にい!」と数え始める。よく見ると一人がストップウォッチを持っていた。


「誰が一番息が続くのか、って競い合ってるのかしら」


「青春だねえ」


 俺たちは防潮堤の柵に腕を乗せ、もたれかかった。どうせ行く当てもないぶらり旅。見学することにしたのだ。


 よんじゅうろく! とカウントされたところで、潜っていた子供は勢いよく「ぷはあ!」と水面から顔を出した。どうやらこの川の深さは一メートルほどあるらしい。


 その子は他の子に何かを訊いた。ここからではよく聞こえない。

 他の子が何かを言った。質問への返事だろうか。すると、さっきの子供が悔しそうに、くそーっ! と叫んだ。


「一位狙ってたのに!」


 どうやらタイムを聞いていたらしい。現状一位ではないそうだ。


「頑張ってるなあ」


「無意味にねえ」


 その光景はどこか懐かしく、昔話を一遍聞くほどには時間を潰してくれそうだった。あれを見ながらこうして美鈴と話しているのも悪くない。


「ふあぁ」


 ふと、あくびが出た。決して退屈だったわけではないのだが、突然やってきたのだ。


「眠たいの? わたしとのデート中なのに? あくびは眠気と退屈と無関心の象徴よ」


 なんだそれ、と思いつつも口は「ごめんごめん」と謝っていた。


「昨日残業で全く眠れてないんだよ」


 残業開けで今日はパラダイスさ、と俺は大袈裟に笑ってみせる。


「あくびなんてまだいいだろ。溜息と比べればさ」


 まあね、と美鈴はわざとらしい溜息を吐いた。それに対して俺は何もリアクションを取らなかったが、それがお互いおかしくて、一緒に失笑してしまう。

 何か話を変えようとしたのか、美鈴は「そういえば、」と手を鳴らした。


「あくびをする理由って、未だによく分かってないらしいね」


「神様の仕業だよ」


「あー、そうだったそうだった」


 そんな美鈴の棒読みの直後、向こう側で水に入ったのは、いかにも運動神経のよさそうな子だった。

 だが、彼は意外にも「にじゅう」で苦しそうに出てきた。

 (はえ)え! どうした! と、向こうでは焦りと笑いがごちゃごちゃに混同している。


「やべ、ミスった! 水の中でエロいこと考えてたら、興奮して息全部吐いちまった!」


 違うんだよ! おなかの中にいる赤ちゃんってこんな感じなのかな、とか思ってたら赤ちゃんができ上がる過程遡っちゃって!


 こちらまで悠々聞こえる声に、向こうだけでなく、こちらも大いに盛り上がった。


「青春だなあ! 愛すべきバカだ!」


 そうやって笑いながら、ふと気付いた。大観して見ると、あの子たちはいかにも活発な中学生といった風貌だが、ひとりだけ雰囲気の違う子がいるのだ。周りより一回り小柄で、色は白い。表情も一歩引いた、愛想笑いのようだった。水着も、柄が少ない藍色の大人しいデザイン。病人じみている、と形容してもいいかもしれない。


 そして、次はその子の番らしく、彼は周りに背中を押されていた。


 美鈴も俺と同じようなことを思ったのか、「いじめっ子集団といじめられっ子、って感じにも見えるわね」と声を低くした。


「……いや、どうだろう」


 か弱そうな男の子は、何かを言いながら水の中へ入っていった。その表情は、拒絶とか、空気を読まなければならない使命感というより、『なんだかんだ楽しんでいる』というふうに、俺の目には映った。


「ほら見ろよ。無理やり水に投げたりはしてないだろ?」


 周りの子たちはその子の背中を押してはいるが、その強さはあきらかに、こけさせようとしたり、水に落とそうとしたり、という強さではない。その子の体が弱いと考慮した上で、軽くいじっているような印象だ。

 そして、か弱そうな子は自ら水に足を付け、体を落とした。


「俺も中坊の頃、仲間内にああいう大人しい子がいたよ。バカばっかりが集まってると収拾がつかなくなるから、ああいうのも必要なんだよ。そいつも、すごく楽しそう、って感じじゃなかったけど、なんだかんだ楽しそうだったぜ? 構ってくれてるだけ嬉しいんだと思うよ。カツアゲとかそういうのは論外だけど」


 いつも教室で退屈そうに外の景色眺めてるんだよ。見てるこっちまで憂鬱になりそうなくらい退屈そうに。話しかけてやるとさ、笑ってくれるんだよ。嬉しそうに。それが、俺は嬉しいんだよ。


 そうやって雄弁すると、美鈴は、ふうん、と興味なさそうに頷いた。こういう女の態度を見る度、よく思う。男がいくら努力したところで女の気持ちなんて分からないのに対して、女はそもそも男の気持ちなんて分かろうともしないんだろうな、と。


「あの子、大丈夫かしら」


 水に潜ったところで死ぬわけじゃなかろうに。

 そう口の中で呟いてから、適当に笑ってみる。


「ああいうのが意外にダークホースなんだよ」


 その時、その子がこちらを向いた。目が合った。その表情はここからでは遠すぎてよく見えない。でも、まだあどけない丸っこい目を向けられると、応援したくなるというものだ。


 がんばれー、と俺はグーサインして声を張った。


「多少無理しても神様は助けてくれるからなー」


 何よその応援、と苦笑する美鈴。

 すると、向こうでは対照的に「かーみっさまっ! かーみっさまっ!」と謎の神様コールが始まった。


「これが宗教の始まりなんだろうな」


「違うんじゃない?」


 わたし思うんだけどさ、と美鈴は空を不満そうに見つめて続ける。


「神様って全知全能って言われてるけど、それなら大気汚染も戦争も、全部なくしてくれて、なんぼじゃない?」


「きっと、あれだよ。神様って、人にあくびさせるくらいの能力しかないんだよ」


 その冗談に、か弱そうな子を見つけてから、むすっ、としていた美鈴も「ぷっ」と笑いだした。


「神様ってしょぼいのね」


「神様が見てたら怒りそうな会話だな」


「本当にね」


 神様から逃げるように、というのでは決してないが、水に浸かっていた男の子もついに決心したようだ。じゃぷん、と水音を立てて潜った。


 いち、に、とカウントが始まる。俺たちも「さん、しぃ、」と共に数え始める。

 いままでの最低はおそらく、さっきの愛すべきバカ。二十秒だったはず。


 カウントが十五あたりになったところで、一気に緊張感が高まってきた。数える声が大きくなり、高くなり、前のめりになり。体の芯から熱いものが溢れ、拳を、空気を、震わせる。いつの間にか、鉄板に弾ける肉汁を見るように、口角が上がっていた。


「じゅうきゅう、にじゅう!」


 その線を超えた瞬間、思わず興奮の渦が川を挟んだ。

 だが、どこまでいけるか、と考える一瞬前に、水飛沫が豪快に上がった。


 彼が、内臓がひっくり返るような咳を繰り返し、陸へと這いつくばって上がっていくのだ。ここまで聞こえるような苦しい咳だった。


 苦しくも、勇敢な音色。


 だっせー! などの声も聞こえるが、みんながその努力を称えていたのは確かだろう。何人かは拍手している。

 それは、俺も同じだった。


「いいねえ!」


 ここ数か月で一番の熱狂が、胸の中で息吹していた。


「男の子ってああいう無意味なこと好きよね」


 美鈴の冷たい響きの中にも、微かに黄色い称賛の色があった。


「ああいうのを超えて、少年は男になるんだよ。男になる試練だな、あれは。まあ、あの子にはまだ、男は早かったみたいだけど」


「ほんと、男の子って、みんなバカよね」


「そんなバカを愛する女だって、ある意味バカかもな」


そう抵抗してみると、美鈴は妖艶に口元を(ほころ)ばせた。「その理屈だと、この世界、バカしかいないことになるわね」


「なに言ってんだよ。神様がいるじゃんか」


 今日は神様デーね、と笑う美鈴。


「中身はどうあれ、頑張ってる姿は素敵よね。あのひょろひょろの子だって、逃げなかったから十分に素敵だわ」


「おっと、あんなところに思わぬ恋のライバルが」


 だが、決してあの子を敵視したいとは思えなかった。むしろ応援したくなる。

 美鈴の横顔は温かい。気が自分以上に向こうに行ってしまっているような気配さえするが、悪い気分ではなかった。

 この気分は、一体なんだろう。


「じゃあ、前言撤回だな」


 逃げなかったお前の雄姿は忘れないぜー、と腕を振り、叫んだ。


「お前は真の男だー!」


 肝心の子は(うずくま)って咳を繰り返していたが、他の男の子たちは「イエーイ!」と盛り上がってくれた。


「いいもん見せてもらったぜー!」


 努力は苦しい。だが、それに立ち向かう姿こそ、それを見ている者たちを惹きつけ、苦しみへの一歩を踏み出させるんじゃないか。


 そんなことを思い、じんわりと、胸が熱くなる。

 行こうか、と美鈴の肩を取り、俺は歩き始めた。その一歩一歩は不思議と重たい。あの子たちとの距離は川一つ挟むほど大きいし、関わった時間もほんの一瞬だった。それでも、まだ、見守っていたいと思ってしまう。


「あの子にはこれからも頑張ってほしいな」


 ふと呟いた言葉だった。すると、美鈴が俺の顔を覗きこんだ。目をくりっと開き、桃色の唇を輝かせている。その表情は、欲しいものを見つけたような、でも、それを顔に極力出さないように我慢するような、そんな、一言では表せないものだった。

 そして、美鈴は言う。


「なに? その親心みたいなの」


 その言葉は、耳には聞こえない重低音のようだった。耳ではなく、体を響かせる。


「……親心、か」


 そうか、この気持ちは親心なのか。

 周りの同級生たちも次々と結婚し、子供を生んでいる。そんな中で俺は、きっと、子供が欲しいと思っていたのだろう。


 だから、友達の子供が『妖怪の仕業だもん』ばかり使うなんて話を始めたのだろう。

 だから、この子供たちに惹かれ、見入ってしまったのだろう。


 美鈴が、か弱そうな男の子を「素敵」と表現したとき、ジェラシーではなく『むしろ応援したくなる』と思ったのは、あの子を息子のように思っていたから。


「もういい歳だよな、俺たち」


 俺と美鈴が、またこうして肩を寄せ合いながら、子供の頑張りを、遠くも近くもない距離から、見届ける。時に、美鈴に内緒で、子供と語り合う。男だけの秘密の会議だ。

 そんな、湯気に包まれたような風景が、瞼の裏にあった。


「何が言いたいの?」


 ちらっと歯を見せた美鈴は、きっと俺の心情が分かっているのだろう。もしかすると、最初から分かっていたのかもしれない。その上で、言葉巧みに、俺に、自分の気持ちを気付かせようとしていたのかもしれない。


「お前はほんと、したたかだな」


「どういたしまして」


 努力は苦しい。だが、それに立ち向かう姿こそ、それを見ている者たちを惹きつけ、苦しみへの一歩を踏み出させるんじゃないか。


 心の中でもう一度噛みしめてみた。


「お金貯めないとな」


「なんで?」


「さあ?」


 とぼける自分がおかしくて、噴き出してしまう。美鈴も釣られて、明るく声を上げた。

 二人の体が大きく揺れる。それでも、決意を決めた腕は、彼女の肩を離さなかった。











【あくびさせられた者】






 アダムとイブが『善悪の知識の実』――リンゴを食べるのを、どうして神様は禁止していたのだろう、と、僕はよく考える。

 もしかすると、全知全能の神様は、人間にそれを与えてしまうことで、近代の戦争や核問題、大気汚染などに繋がる、とまで想定していたんじゃないか、と。そして、いじめのような問題までも。


 だとしたら、僕は快楽に負けたアダムとイブを恨まなければならない。


 そんなことを、彼らに囲まれる度に思ってしまう。この日もそうだった。


 今日は近所の川で水遊びをしていた。友達と、じゃない。僕をいじめているクラスメイトたちと、だ。

でも、彼らは僕をいじめている自覚なんてないと思う。だって、僕はずっと、へらへらと笑っているから。


 人見知りで友達もできない僕にとって、彼らのように、ある意味フランクに接してくれるのは、ほんの少しだけ、悪い気はしない。彼らに絡まれる時、僕はいつも笑ってしまう。


 へらへらと。


 だから彼らは、僕をいじめているという意識が低いのだろう。『いじっている』にすぎないのだ。

 行きたくない所に連れて行かれたり、放課後にちょっと遊びで叩かれたり。正直、嫌で嫌で、たまらない。今日だって、僕は家で本を読んでいたかった。夢が溢れるファンタジーの世界に逃げ込みたかった。


 いじめが原因の自殺、いじめの延長上の殺人。

 そんなニュースを聞く度、思ってしまう。


 僕なんてまだマシだ。殺されるようなことはされてない。

 僕程度をいじめなんて言ってしまったら、真にいじめられている人に申し訳ない。

 僕は、いじめられているんじゃなくて、いじられているんだ。

 バラエティー的に言えば、『おいしく』させてもらっているんだ。


 そう、信じたかった。


「よん! ごぉ! ろくぅ!」


 僕の周りで、みんなが声を上げている。川に潜って、何秒息を止められるかというゲームをしているのだ。

 住宅街に流れる緑色の川は、お世辞にも気分が上がらない。遠くから見ればまだマシだけど、近くから見たら、細かいごみや怪しげな泡だらけで、嗚咽が出そうになる。ゆったり流れる水はヘドロを感じさせ、入ったら、ねとっ、なんて音が鳴るんじゃないか……。


 なんでこんなところに入らなくちゃならないんだ!


 そう怒りを露わに叫び、ここから逃げられたら、どんな幸せなことか。どんなにすっきりすることか。

でも、イエスマンの僕に、『断る』という選択肢はない。もし、そんなことでもしようものなら、本当の意味での『いじめ』が始まるかもしれない。

 そんな不安で、喉仏が押し潰されそうだった。


「よんじゅうなな! よんじゅうはち!」


 そこで舟入(ふないり)くんが水から出てきた。ぷはあ! と爽やかな息を上げ、「よっしゃあ! 新記録!」と嬉しそうにガッツポーズした。

 うぉおお! と歓喜のどよめきが起こり、誰が始めたのか拍手が耳を打った。


「ありがとーう!」


 心からの笑顔で舟入くんは、水から僕らのいる地上へ上がり、熱されたコンクリートに水滴を惜しまなく弾き落とした。

 そんな彼の腹筋に、思わず目が行く。八つに割れたそれは、男の自分でも憧れをもってしまうほど芸術的だった。

 それと比べ、僕は。


 体育座りの、自分のおなかを見下ろす。日が当たっているのに、どこにも影がない。それどころか肋骨が浮き出てしまっている。

 他の子たちと比べても、あきらかに肌は白くて頼りない。事情があるとはいえ、心底、情けない。


 次に、押部(おしべ)くんが水に入り、潜った。彼の運動神経は、舟入くんと引けを取ることはない。


 いま僕たちがしている競争にはひとつ、褒美があった。それは、一番になった人がこの後の昼食を奢ってもらえるというもの。つまり、運動音痴で、体力もない僕は絶対に一位になれないから、多少奢ることは決まっている。


 こんな不平等なゲームはダメだ、って主張してみたらどうなるだろう。

 そう、脳裏によぎった。多分、ゲームをやるかやらないか、多数決になるだろう。そうしたらどうなるか。僕たちは全員で八人だから、七対一で僕は負けるだろう。

 要するに、そんな主張は意味がないわけだ。


「最下位が全員に奢る、ってルールじゃないだけ感謝しろよ」


 誰も異を唱えず、このルールが決まった時、そう、押部くんは僕に耳打ちした。


「うん。ありがとう」


 僕はまた、へらへらと笑っていた。

 これで、八対ゼロだ。

 ゼロが勝つことなんてあるのだろうか。

 あるわけ、ないね。




 押部くんが勝つと思っていた。理由はちっぽけ。この中で特に強いのは舟入くんと押部くん。この二人ではどちらかというと、押部くんの方が僕への当たりがマシだから。

 だから、押部くんがたった二十秒で水面に出てきた時は、本当に驚いた。


「やべ、ミスった! 水の中でエロいこと考えてたら、興奮して息全部吐いちまった!」


 この場が爆笑の渦に包まれた。こういう空気を作るのも、どちらかというと押部くんな気がする。

 僕もみんなにつられて、へらへらと笑う。豪快に、ガハハとは、笑えない。理由は分からない。

 もしかすると、その次の番が僕だったからなのかもしれない。


「次はお前の番だな、中条(なかじょう)


 舟入くんが僕の肩に手を掛けた。


「……ほんとに、やらないといけないの?」


 すると、彼は笑った。


「あったりまえだろ。さあ、行け行け」


「でも……」


 僕には事情があった。

 僕は生まれつき肺が弱い。過度な運動はできない。体育の授業で激しい運動をする時は、その輪に参加せず、木陰で見学している。


 もちろん、その事情はここにいる全員が知っている。それを知った上でこれをしているのだと思うと、少しだけ腹が立った。自分に降り注がない蚊帳の外の痛みなんて、軽視して当然だと思っているのかもしれない。どうせ死にはしない、ってやつだ。死ぬか否かをボーダーラインにすべきではないのに。


 ああ、なんだか腹が立ってきた。


 でも、みんなが僕の背中を押し、水に落ちる恐怖によって、その感情はあっという間に制圧されてしまった。

 しぶしぶ水に足を付ける。

 冷たい。なんとなくだけど、ほんのりと、ぬめりがあるような気がする。


「大丈夫だって。口さえ開けなければ陸で息止めてるのと一緒だからさ」


 いざとなれば助けてやるよ、と舟入くん。


「それに、あそこに大人だっているだろ?」


 彼が差す方向を見上げる。いつの間にいたのか、二十か三十くらいの男女が柵に体を預けてこちらを見ていた。


「大人ってさ、子供に危険なことがあって逃げるようなことはしねえだろ? 何かあったら助けてくれるよ。あの人たちは、そうだな、守護神だな、守護神」


 守護神……神様……、と舌の上で言葉を転がす。

 神といえば、大河小説などで登場人物全員の心理を同時に描く特殊な人称を『神視点』と呼ぶ、と聞いたことがあった。


 神様なら、僕の心理も見透かすことができるのかな。


 ――気づいて。


 僕の、苦しみに気付いて……!


 念じると、男の人が笑顔でグーサインを向けてきた。


「がんばれー! 多少無理しても神様は助けてくれるからなー!」


 なにそれ……。


 呆れ、か細く呟く僕とは対照的に、みんなは「かーみっさまっ! かーみっさまっ!」と盛り上がっている。その温度差が苦しかった。世界の温かい部分だけがみんなに昇華され、冷たい部分だけが僕の心の底に沈んでいくような。


 とん、と肩に手を乗せられた。重たい手。舟入くんだ。

 あのエールを台無しにする気か? と、彼は低い声を出した。声変わりを完了したその声には、ぎらぎらとした、有無を言わせない太さがある。


「う、うん……頑張るよ」


「よし、それでこそ俺の友だ!」


 ばしん、と背中を叩かれた。痛くて顔を歪める。でも、誰も僕の顔なんか見ていない。

 ゆっくりと足を水底に落としていく。右足がついた、と思ったら、足の裏に、ざらついた砂の感覚がぬめり付いた。左足も底につけると、苔なのか何なのか、少し、柔らかいものが当たった。見下ろしてみると、腰まで緑色の水が浸かっていた。膝より下は濁って見えない。

 ぶるっ、と頬が痙攣した。

 でも、ここまで来たら後戻りはできない。

 大きく息を吸い、口の中を一杯に膨らませた。


「中条! 押部を最下位にしてやれ!」


 その舟入くんのエールと、たくさんの笑いを最後に、僕は潜った。

 飛沫が上がった一瞬の後、全ての声が消え、泡立つ水音だけが耳に(まと)わりついた。微かに外の声は聞こえるけど、ぼーっと、ぬらりぬらり揺れて、聞きとることはできない。多分、カウントしているのだろう。

 その声に合わせて、僕も指折り数える。苦しくなり始めた「じゅう」と同時に口の中の息を吐きだし、泡を吹く。少しすっきりとした。意外に大丈夫なんじゃ、と思った矢先、一気に肺が縮み、悲鳴を上げた。


 いつもこうだ。できそうと思わせておいて、一気に突き落とす。

 こんなヤワな体に生まれてしまったことを、いままで何度も呪ってきた。恨んできた。もう、数え切れないくらいに。


 でも、水というのは不思議なもの。普段は息を吸いたい時に吸える。諦めたい時に諦められる。

 水の中では息を吸いたい時に吸えない。

 だから、諦めたい時に諦められない。

 いや、諦めたくないと思わせてくれる。


 どうせなら、押部くんを超えたい。


 十三、十四、十五。


 苦しい。もう、駄目だと、顔を出そうか。

 嫌だ。僕は、やるんだ。


 十六、十七、十八、


 頑張れ、頑張るんだ、ここが正念場だ!


 十九、


 急に口が開いた。

 急に、口が、開いた。


 まるで、あくびのように。


 ――え? なんで?


 濁流が攻め込んでくる。有無を言わせず、口へ、喉へ、鼻へ、肺へ。攻め込んできたそれは無数の槍となり、内側から僕を突き刺してくる。あっという間に、僕の体は、得体の知れない何かに侵略されてしまった――。


 気が付けば、僕の視界は水上にいた。顔を拭くことさえ忘れて、むせかえり、コンクリートの岸に手を掛け、登っていた。


「あれ、フラグ回収しちゃった? ウケる」「よく頑張った中条! 二十一秒だ! 押部に勝った!」「あー中条にさえ負けちまったぜ」「ハハハー!」


 それどころじゃない。いまにも胸が爆発して、肉片が散乱してしまいそうだった。

 まずい。駄目だ。苦しい。

 助けて!

 ちらりと、岸の向こうの二人に目を向ける。


「逃げなかったお前の雄姿は忘れないぜー! お前は真の男だー!」


 違う! そんな言葉いらないから助けて! 気付いてよ!

 心臓がのた打ち回る。肺が破裂する。

 全部、比喩じゃないんだよ……!


「お前、真の男だってよ!」


「よかったじゃん!」


 必死に声を振り絞る。

 誰か! 救急車!

 そう叫んだつもりだった。


「いやー、お前の頑張りに一位の俺様は感動しちまったよ! お前が真の一位だ! 奢ってやる」


 だから、気付いて……。


 欠け落ちていく意識の中で、アダムとイブがリンゴを食べている絵が、ふと思い浮かぶ。

 どうして神様は禁断の実を護れなかったんだ……。生き物への物理的な干渉はできないのか……。

 できないものは、できない……?

 それなら、仕方ない……かな。











【あくびさせた者】






「暇だ」


 平凡な日ほど、Aにとってはつまらない。


「まったくだ」


 それは、頷くBにとっても同じだ。そして、CもDも、おのおの退屈そうに頷く。

 彼らの仕事は、平和な日ほど量が少ない。仕事の量に関わらず給料が同じサラリーマンなら『退屈』は喜びの種かもしれない。だが、彼らではそういうわけにはいかない。それは決して、歩合制だから、というわけでもない。

 彼らには『給料』なるものがないから、である。


 このような時、彼らはよく神話などの話をする。今もBが「俺たちはなんで生まれてきたんだろうな」と嘆いた。


「この仕事をするため、じゃ」


 Dが雑に答える。


「やる意味もない仕事を、ね」


 Bは皮肉を露わに返事する。


「まあ、楽しいからいいけど」


 Bは自分たちの誕生した意味を知りたがるが、Cはあまり興味がなかった。「人間に知能とか感情ってやつを与えたリンゴ農家じゃない?」などと適当なことを言う。


「なにか面白そうなことでもないかしら」


 Cは、数え切れないほどのモニターを右往左往見渡しながら、面白そうなものを探す。具体的な人や物を探すならともかく、『面白そうなもの』を探すのは、それなりの苦労が必要となる。しかし、それもある種の楽しみであるが故、別に見つからないからといって、彼らはマイナスに思わない。プラスでない、というだけだ。


「おっ、見ろよ。あんなところにちょっと面白そうな光景があるぞ」


 そう前のめりに声を高くしたのはBだ。別に誰であってもいいことではあるが、Bだ。

 どれどれ、と他の三人はBが指差す方向に目を向けるが、その先にも大量の景色たちがモニターされている上、探すものが『面白そうなもの』と抽象的すぎ、うまく見つけられない。

 だがBが「川が映ってるやつ」とだけ言うと、全員が一斉に「あれか」「あれじゃな」「あれね」と、瞬時に視線を揃えた。具体的なものを見つけることに関してなら、彼らの能力は人間の比ではない。


「川遊びか。青春だな」


 Aが笑う。そもそも彼は『青春』なるものを経験したことなどないが、それが、大人の人間が若者に対して羨ましがる気持ちだということくらいは、分かる。

 Aはそのモニターを、ひょい、と、拡大させ、見えやすくした。そこに映るのは住宅地を流れる人工的な川だ。そこで子供たちが遊んでいる。彼らはまさに『青春』と呼ばれ始めるくらいの年代だろう。


「どれだけ潜っていられるか、か。ワシらなら圧勝じゃな」


 Dの言葉の傍観的な響きに、他三人は「当然だな」「そらそうだ」「勝負するには不公平すぎわね」などと楽観して笑う。こうして人間たちを見下しながら冗談を言い合ったりするのが、彼らの楽しみであった。


「なんてったって、神は息なんてしなくていいんだから」




 彼らは、神である。

 十字架に貼りつけられたり、一度生き帰ったり、リンゴを与えたり、なんてことはしていないが、神である。


「ああいう年頃の人間は、水に入るのが好きらしいな。水の感触は『気持ちいい』ってやつなのか」


「でも、あの汚れた川に入って気持ちいいの? 人間は汚れた物が嫌いな習性を持ってるけど」


「天秤に掛けて、ギリギリ『気持ちいい』に傾いたのじゃろう?」


 神は人間と感覚が違う。人と比べると様々なものが抜け落ち、いくつかが違う。抜け落ちている理由として、彼らは、その方がこの仕事には適している、と考えていた。ただ見るだけ、という仕事にはその方がいい、と。

 しかし、人間を理解する上で、人間の感覚や思考を知らないわけにはいかない。故に彼らは『気持ちいい』や『気持ち悪い』という感覚も知っている。だが、理解はしていない。


 人間の多くは、物事を知ることに快感を覚える。しかし、『勉強』と言われると、最低限のことしかしない。

 その性質は神も一緒だった。


「まあ、なんでもいいが」


 人間が何と思おうと、基本的に興味はない。


 Aは、この光景を見つけたBに、怪訝を露わにした。


「だが、あれの何が面白そうなのだ? ひとり、苦そうな顔をしている男の子がいるが」


 神は人の心や過去を覗くことができる。彼らはその能力で、苦しそうな男の子の中身を見た。

 殴られたり蹴られたり。でも彼は、触れると肌蹴(はだけ)てしまいそうな笑顔を続けている。


「痛いな」


「痛い? 『痛い』なら、笑わないのではないか? むしろ『気持ちいい』にも見えるが。そういう(へき)の人間もいると聞くぞ」


「そういう意味ではない。嫌なことをされても嫌と言えず、むしろ喜んでいるように見せてしまう。そのような、自らに素直になれないことも『痛い』の意味に含まれる、と前に観察していた人間が言っていたのだよ。あれは確か、もうすぐ死にそうな爺さんだった」


 たぶんその爺さんもう死んだな、知らねえけど、とB。


 また探してみるか、とA。「つまり、あの子は『痛い』と言える」


「よく分からぬものじゃ」


 彼らは『痛い』という感覚を理解していない。身につけていないのだ。


「あの子はいわゆる、いじめられっ子、だね。かわいそうに」


『かわいそう』ならば身についている。上辺だけだが。


「あのいじめられっ子がどうなるのか、って? あたしにはさほど面白そうには見えないけどね」


 甘いな、とBはCを嘲笑う。「『甘い』といっても砂糖とかの『甘い』じゃないぜ」


「言われなくても分かってるわよ。砂糖は知らないけど」


「人間を太らせる魔法の粉だ」


「それは知ってる。そもそも味という概念があたしたちにはない、って話よ」


「味わってみたいもんだな、太りたくないって思いながらさ、デブの道をダッシュする気持ちを」


「あたしは知りたくないわ」


 走るのに太るなんて笑えるな、とBは自分の言葉に苦笑する。


「そんなことよりもさ、よく見ろよ。大人のカップルが近寄って来てる」


 なるほど、とDは小さく口元を釣り上げた。「あの二人がいじめに気付けるか否か、助けるか否か、という賭けができるな」


「ああ、その通りだぜ」


 ヒッヒッヒッ、とBは愉快な声を出し、他の三人に向かって、ゆっくりと、粘っこく、演説するように、言った。


「久しぶりの賭けだ。お前らは、どっちに賭ける? あのカップルが、いじめられっ子を助けるか、助けないか」


 神の遊びのひとつ。それが、人間の行動で賭けを行うこと。

 別にお金を賭けるわけではない。そもそも、神には金銭の概念などない。ただシンプルに『賭ける』ということを楽しむのだ。

 神の頭脳は人間よりもずっと上等であるが、人間にあって神にないものもある。それを神自身分かっている。だからこそ、彼らの賭けは賭けとして成立する。人間がどう動くかは、ダイスを振るのと同じなのだ。


「俺は、助けないに賭ける」とB。


「助けないどころか、気付きもしないでしょうね」とC。


「儂もだ」とD。


「面白くない展開だが、俺も気付かないと思う」とA。


 満場一致かよ、とBは自嘲気味に笑った。


「まあ、俺たちはみんな人間をよく知っているから、当然っちゃあ当然か」


「久しぶりの賭けだけど、あまり面白くない賭けね」


 そう言いながら、退屈そうにCはカップルの会話にフォーカスを当てた。盗聴のようなものだ。




――「俺の友達がさ、よく愚痴るんだよ。息子がなんかしでかす度に、『妖怪の仕業だもん』なんて言い訳する、ってさ」

――「妖怪の仕業で済むのなら、ある意味世の中平和だね」

――「平和か? 妖怪だぜ? 『妖』も『怪』も『あやしい』って読むんだぜ? 不可解なこと全部がその『あやしい』に塗れた奴の仕業って気色悪くないか?」

――「じゃあ、神様の仕業にしちゃえばいいのよ。それなら悪い気しないでしょ?」




「神とは、損な役回りじゃ」


「神に責任をなすりつけるなんて縁起でもねえな。神は人間に干渉なんてしねえのに」


 人は、神を全知全能だと信じているが、実際は世の中を見下ろしているだけで、あまり干渉しようとはしない。人の姿になって下界に降りて何かをする、ということはできるが、世界平和なんてもってのほか、雨を降らせることもできない。

 そもそも神にとって、人間が数億人死のうが生きようが、人間が大気を汚そうが、コインの裏表ほどに、どうでもいいのだ。


「あら、カップルがとうとういじめ現場に遭遇したわね」


 カップルは柵に体重を乗せて川の光景を見始めた。


「まだ、ただの遊びとしか捉えていないようだ」


 カップルが子供たちに食いついたということは、神たちの賭けの勝敗が決まるのは、いじめられっ子が水に潜った時。順番はまだまだ回ってきそうにない。

 そう感じたCはひとつ、案を出した。


「最近、人にあくびさせてないのよね。あの男にさせちゃっていい?」


「どうぞ」


 答えたのはBだ。


「女が『わたしとのデート中なのにあくびなんて』って不貞腐れたりしそうだな」


 いま神たちがいる場所から下界にいる人間へ直接できることは、ただひとつしかない。

 それは、あくびをさせること。

 神は時折、人にあくびをさせて遊ぶのだ。


 例えば、授業中の子供にあくびをさせて教師を怒らせる。それを「あの子は何も悪くないのにな」などと傍観して楽しむ、など。あくび、というものは、工夫すればそれなりに楽しめるのだ。

 あくびなんて元を正せばただの呼吸。それを『眠気と退屈と無関心の象徴』としての認識を人間に定着されたのは、他でもない、彼ら神だ。まさにそのような場面であくびをさせ続けた、苦労と遊びの賜物である。


 ちなみに、ではあるが、同時に複数の人間にあくびさせることもできる。あまりにも不自然でシュールな光景になるため、ほとんどさせることはないが、彼らの最高記録は同時に三千人である。その時はわざわざ綿密な計画を立て、様々な場所で一気にさせたものだ。被験者はそんなこと知る由もないが、彼らはおかしくてひどく腹を抱えた。この能力を戦争の場で使えば世界平和になるかも、なんて話も出たことさえもあった。出ただけで、実行はされていないが。


 ひょい、とCは指を回す。同時に「あくび、ドン」と唱える。呪文のようなものだ。

 その途端、男はあくびをした。




――「眠たいの? わたしとのデート中なのに? あくびは眠気と退屈と無関心の象徴よ」




「やった! 予想的中!」


 喜ぶBとは対照的に、Dの表情は硬い。


「あまり面白くはないがな。あくびが『眠気と退屈と無関心の象徴』なのは、確かじゃが」


 神がそんな会話をしているなど露知らず、カップルは話を続けた。




――「あくびなんてまだいいだろ。溜息と比べればさ」

――「まあね」




「言えてるな」


「溜息をさせる能力なんて、さすがにくだらなさすぎるわね」




――「そういえば、あくびをする理由って、未だによく分かってないらしいね」

――「神様の仕業だよ」




「大正解じゃないか」


 Aは驚きを隠せず、大きく感嘆した。他の三人も、どよめきのような笑い声を上げた。Dも「これは面白い」と冗談めかして大喝采だ。


「彼らが初めてだな。真実に気付いたのは」


 神たちの賭けに動きがみられたのは、女の台詞からだった。




――「いじめっ子集団といじめられっ子、って感じにも見えるわね」




「おっ、鋭いね!」


「賭けが面白くなってきたわ」


 神たちが前のめりに、モニターに食いつく。

 だが。




――「俺も中坊の頃、仲間内にああいう大人しい子がいたよ。バカばっかりが集まってると収拾がつかなくなるから、ああいうのも必要なんだよ。そいつも、すごく楽しそう、って感じじゃなかったけど、なんだかんだ楽しそうだったぜ? 構ってくれてるだけ嬉しいんだと思うよ。カツアゲとかそういうのは論外だけど」




 その、男の無責任な台詞に、女は渋々納得したらしい。賭けのワクワクを楽しみたい神たちにとっては、「勝ちが見えた賭けはつまらない」と溜息するほど、興醒めだった。

 そんな空気の中、Aは呟く。


「いじめが無くならないのには様々な理由があるが、一番大きいのは、いじめる側に『自分がいじめている』という自覚がないから、だろうな」


 それからしばらく、神たちはその光景を見続けた。カップルのつまらない会話に耳を向けつつ、少年の心の声も聞いていた。




 ――気づいて。僕の、苦しみに気付いて……!




「残酷だね~。声に出さなきゃ意味がない。いじめっ子が、自分がそうだという自覚がないのは、いじめられっ子の責任なんだよね。君『が』とは言わないけど、君『も』悪い。ほら、」




――「がんばれー! 多少無理しても神様は助けてくれるからなー!」

――「かーみっさま! かーみっさま!」




 あはは、とBは笑う。


「神様は助けないけど、期待されるのはやっぱりいい気分だね」


 だな、とAは頷き、モニター越しの子供たちやカップルを指で叩いた。


「貰う物だけ貰い、何もフィードバックしない。それが、お前らの信じる神だ。せいぜい丁重に敬うのだな」


 次に彼らが耳を向けたのは、カップルの不謹慎な会話だった。




――「神様って全知全能って言われてるけど、それなら大気汚染も戦争も、全部なくしてくれて、なんぼじゃない?」

――「きっと、あれだよ。神様って、人にあくびさせるくらいの能力しかないんだよ」

――「神様ってしょぼいのね」

――「神様が見てたら怒りそうな会話だな」

――「本当にね」




「本当にね」


「おっ、それはあれだな、『その言葉、そっくりそのまま返してやる!』ってやつ」


「初めて生で見た」


「感動ものだ」


「『感動』ってどんなものだろう?」


「さあ」


 そして、いじめられっ子の少年は、じゃぽん、と水に潜った。

 賭けの結果が出る瞬間。ルーレットの球が放たれた瞬間。なのに、神たちの空気は白けていた。

 そんな中だった。


「名案がある」


 少年の運命を変える、我儘(わがまま)な提案をDが出したのは。


「あの子を、あくびで溺れさせよう」


 全員が、ハッ、とDに顔を向ける。

 Dは誰とも目を合わさず、モニターを見据えたまま、言った。


「このままでは、十中八九あのカップルは何も気付かないじゃろう。だから、少し、気付く確率を増やそうではないか」


 神は人を助けない。だが、殺すこともしない。水の中にいる少年に無理やりあくびをさせることは、死へと繋がる可能性が十分にあると言える。酩酊にも近いこの場に迷いが生まれたのは、そのためだ。神は、何事にも無関心である必要はあるが、決して悪人であってはならない。


 しかし、結局のところ、神は人間の死を「もったいない」と思うものではなかった。


「それは妙案だな。その方が、ハラハラする」


「本当にバカなカップルなら、溺れたとしても気付かない。そうでないなら、せめて近づいて心配するくらいは、するでしょうね」


「ナイス・アイデアだな。博打に生気が戻ってきたぜ!」


 では、とDはモニターに指を差した。


「あくび、ドン」


 途端、水の中で少年の筋肉が暴れた。本人の意思を超え、反射は生きることをがむしゃらに追い求める。

 開いては閉じ、閉じては開き、開いては閉じ。

 それを繰り返す掌は、何を掴もうとしているのだろう。何にせよ、一滴の水すらも掴めないでいる。その光景は、傍目には、陸に打ち上げられた川魚のように、滑稽だと言える。


 だからだろう。神にとって人間の死が、遊戯でしかないのは。


「いいねいいね~」と、B。


「このあくびは、眠気でも退屈でも無関心でもないわね」と、C。


「これは死ぬかもしれぬな。これで助けの手を差し伸べないなら、あのカップルは心底、馬鹿じゃということになるが」と、D。


「遊びのルールというのは、時々崩すからこそ面白い。それこそ、神の遊びとして君臨し続けられている、最大の要因だ」と、A。


 少年は、胃が、喉が、張り裂けるほどの嗚咽と共に、陸へ上がった。絶え間なく咳を繰り返す様子はまさしく、陸に打ち上げられた川魚そのものだった。




 ――助けて!




 少年の意思への男の返答は、これだ。




――「逃げなかったお前の雄姿は忘れないぜー! お前は真の男だー!」




「こんなに噛み合ってない会話は珍しいわね」


「ウケる」


 そのまま、少年の生気はボロボロと、地に零れていく。そして、動かなくなった。周囲の中学生たちは未だにはしゃいでおり、カップルはピンク色のムードを抱えて去っていた。


「俺たち全員の勝ちだな!」と、B。


「何故にこのような愚かな生物が生まれてしまったのじゃろうか」と、D。


「あくまで自然の摂理よ。こんな失敗作を生んだのはあたしたちじゃない」と、C。


「どこぞのリンゴ農家がリンゴを守りきれなかったせいかもしれない」と、A。


 誰も人間の死を弔わない。それが、ここでの日常だ。

 神にとって死は、一秒一秒、どこかで転がり続けている、ただの風景にすぎないのだ。原因が何であれ、死は死でしかない。


「今日はそれなりに楽しめたな~。いやあ、いい収穫だった!」


 そう言って背伸びするBだったが、Aの表情を見て、「ん?」とまばたきした。Aの顔は、自らの勝負に勝った顔というより、他人の戦いを眺めているような、遠い顔だったのだ。


「どうした?」


 Aは一瞬、その問いが自分に向けられているものだとすら気付かず、反応に遅れた。誰もAの問いに答えないのに気づき、「あ、ああ」と、姿勢を少しずらして微笑んだ。


「なんでもない」


 本当は、『なんでもない』なんてことはなかった。何故なら、Aは実のところ、強く、こう思っていたからだ。


 あの子を助けたかった、と。


 神にとって、人間が数億人死のうが生きようがどうでもいい。

 それは、Aたちが生まれてこの仕事を始めた時からの共通概念だ。しかし、Aはそれを快く思わなかった。救いたい命は救いたかった。その上、あの子を自分たちの手で殺したようなことをしたのだ。


 苦しかった。


 神は人の姿をして下界に降りることができる。Aはその力を使って、あの子を助けたかった。いじめっ子たちを叩きのめしたかった。傍観者の大人たちに、真実を突きつけたかった。

 でも、それはできない。

 何故なら、神たちの秩序が狂うから。

 神の世界も、人間と同じ。マジョリティーに従わなければならない。

 そこからはみ出してしまうと、奇異の目に曝される。そして、地位を剥奪され、地獄に落とされる。


 Aは、無念を、自らの心の中で嘆くことしかできなかった。


 だが、Aは知らない。Bも同じことを考えていた、ということを。




 Bは明るく振舞いつつも、内心は怒りに満ちていた。何故、自分だけが神らしい非情さを持っていないのだろう、と。

 神は下界に無関心だ。そのはずである。それこそが神としての心得。感情が乏しいのはその勤めのためのはず。


 しかし、Bは「自分だけは違う」と感じていた。自分が人間とほぼ同等の『感情』を持っていることにも、気付いていた。だが、気付いていないふりを続けていた。

 賭けをしよう、と言ったのはBだったが、本心ではカップルにいじめに気付いてほしかった。だが、Bは気付かない方に賭けた。何故なら、気付く方に賭け、「いじめられっ子を助けてほしい」なんて口を滑らせでもしたら、自分が神として相応しくないことが露呈してしまうかもしれないから。だから、彼は自分の感情を見て見ぬふりするしかなかった。


 だが、Bは知らない。Cも自分と同じ『感情』を持っていたことを。




 Cは無関心を装いつつも、「あの子を溺れさせよう」と提案したDのことが許せなかった。だが、自分だけが持っている『感情』をDに向けでもしたものなら――。

 Cはやるせなかった。この一件もそうだし、生まれてこの仕事を始めた時から、この空気に支配されてしまっている自分が、やるせなかった。情けなかった。


 だが、Cは知らない。Dこそが誰よりも反省し、悔いていたことを。




 Dは、本当は、あの子に助かってもらいたかった。生きて、幸せになって欲しかった。だからDは、せめてカップルにあの子を助けてほしかった。いじめに気付いてほしかった。そう、切より願っていたからこそ、溺れさせたのだ。溺れればさすがに気づくだろう、と思い。


 だが、カップルはあまりにも鈍感だった。いますぐにでも下界に降り、あの子を助け、カップルを叱責したかった。だが、そんなことは(まま)ならず、この、人間を遊び道具としか認識していない空気を殺さぬため、「何故にこのような愚かな生物が生まれてしまったのじゃろうか」と嗤うことしかできなかった――。




 だが、彼らは知らない。私が溜息したことを。






後書き・解答↓

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[良い点] ・多角視点。 久しぶりに見せてもらいました。人によってこんなに見えるものが違うんだなと改めて思わされました。ガラッと印象が変わっておもしろかったです! [気になる点] 若干、最初が冗長かな…
[一言] 様々な視点から見て取れる描写は、とても先の気になる展開でした。 本当は色々と感想を述べたいところですが、ネタバレも怖いので自重しておきます。
[良い点]  とにかく面白かったです! [一言]  最後の一文は色々と推測しがいのある文章ですね。『私』がいったい誰なのか。  中條先生の中に明確な答えが一つあるのでしょうけれど、読者がそれとは違う答…
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